あれは、まだくるみちゃんが生まれる前のいつかの夏。ヒマワリ畑を見たいと言った私のために、二家族で遠出をする計画の当日だった。



生憎その日は朝から雨が降り、行くのをやめようかと、祖父たちは話していた。そのときの私は一度もヒマワリを見たことがなくて、この日を本当に楽しみにしていた。けれど運転するのは優史のお父さんだし、私が我儘を言っていい立場ではない。そう思って、今回はやめておこうかと言う祖父の優しい声に笑顔を作って返事をした。

そんなとき、向こうからやたらと大きな声が聞こえた。
「いやだいやだ、絶対見に行くんだ。今逃したら来年まで見られないんだ」
あまり聞くことのない、優史の怒った声だった。
「ユウちゃん、いいよ別に。来年また行こうよ」
本当は見に行きたかったくせに、私は優史の肩を持たず、優史のお母さんたちと一緒に宥めに入った。しかし、
「俺が晴れにするから。何とかするから」
無理のある説得で何十分も駄々をこね続け、そんな優史に全員が根負けして私たちは雨が降る中、車に乗り込んだ。



「晴れにするって、どうするつもり」
まるで家族が増えることを予測していたかのような、3人家族にしては大きすぎるワンボックスカー。その最後列が私と優史の定位置だ。
移動中、さっきのはてきとうに口から出た言葉だと分かった上で、私は優史に聞いてみた。
「おまじないの歌。歌うんだって」
「ん?」
まさかの返答だったことを覚えている。優史はお構い無しに続けた。
「図書館にあった本にさ、書いてたんだよ。雨を上がらせるおまじないの曲。それを歌えば雨も上がるんだってさ。夏花、サムウェアオーバーザレインボウって歌知ってる?」
「何それ、知らない」
言うと、優史は英語の歌を歌い出した。

それに1番に反応したのは、優史のお母さんだった。
「ユウ、そんな曲知ってたの。それ、オズの魔法使いの曲よね」
「オズの魔法使いかあ。なんだか懐かしいな」
続けて運転中のお父さんが会話に入ってきた。それに優史は返事をする。
「んー、そんな題名だったかは覚えてないけど、図書館に置いてる本に書いてあったんだ。オーバーザレインボウは雨を上がらせる魔法の曲なんだ、って」
「え?オズの魔法使いって、そんな話だったかしら」
「いいや、確か違ったと思うけど……。ユウ、やっぱり適当なこと言って、ヒマワリ見に来たかっただけだろ」
運転席に並ぶ2人が笑うと、優史は隣でむすっとしたようだった。
「本当に書いてあったんだってば。なあ夏花、本当だからな。俺が青空の下の満開のヒマワリ、見せてやるから」
やけに真剣に言ってくる優史に、私は少々驚きながらも頷いた。

後で分かったことだが、優史が図書館で見たというのはオズの魔法使いの本ではなくて、演劇部の昔の演目だった。うちの図書館には演劇部のこれまでの脚本が所蔵されている。そのほとんどは演劇部顧問が考えたオリジナル作品で、優史はその中の1つを見たらしかった。

つまり優史が信じたおまじないは、ただの一教師が考えたものに過ぎなかったのだが、私たちは暫くこのおまじないを本気で信じていた。それはその日に、奇跡が起きたからだ。



駐車場に着いてもまだ雨は降っていて、私たちは濡れて泥になった地面を歩いた。そのあいだ中もずっと、優史はオーバーザレインボウを口ずさんでいた。あまりに何回も歌うから私も覚えてしまい、一緒に歌いながらヒマワリ畑を目指した。そうして、ちょうどヒマワリ畑に辿り着いたときだった。
「あ……」
声が漏れたのは私だけだったが、皆が同じ方向を向いていた。そして、傘を閉じた。雨が止み、目の前の景色はみるみる変化していった。

晴れ間が差して虹が映り、ヒマワリについた雫に輝きを与えていく。数え切れないほど咲いたヒマワリは私よりもずいぶん背が高く、畑はどこまでも無限に続いているように見えた。
息を飲む、ということを生まれて初めて経験した私は、暫く黙ってヒマワリを見ていた。
「ユウのおまじない、効いたみたいじゃないか」
お父さんは微笑んで優史を見た。私もつられて優史を見たそのとき、パッと目が合った。不意のことで照れてしまいそうになり、慌てて目を逸らした。
「夏花、めっちゃいい笑顔」
思ってもなかった褒め言葉に、恥ずかしくて目を逸らしたまま優史の話を聞いた。
「夏の花で夏花ちゃんなのに、ヒマワリ見たことないの?」
「え?」
数週間前にクラスメイトの女の子に言われた言葉を、隣で言われた。



ある日教室で花の話になり、私がヒマワリを写真でしか見たことがないとそう言うと、「ウチは毎年家族で見に行ってる」とか「家でお母さんが育ててる」とかを言われた。誰も本当に悪気が無くて、私だって普段だったら、家族の話が日常会話で出てきても何も感じないことがほとんどだった。だから特に気にしていないつもりだったが、私は確かにその言葉がきっかけで、ヒマワリを見たいと思うようになっていた。

同じ教室だからこの会話を優史も聞いていたのだろう。もしかすると私よりも強く、クラスメイトに対して何かを思ってくれたのだろう。そして、両親に駄々をこねてまで私に見せてくれようとしたのだろう。

「夏花にぴったりの花だから、どうしても見て欲しかったんだ。夏花の笑顔は、まるでヒマワリみたいだから」
「オーバーザレインボウのおかげだね」
心がざわついたことを紛らわすように私が返した言葉は、噛み合っているのか噛み合っていないのか、よく分からないものだった。