俺はあの日、授業が終わってサークルに顔を出して、いつものたまり場でいつもの友人とくだらない話をしていた。
大学に入り、授業にも友人関係にも新しいバイトにもやっと慣れてきた頃で、このサークルもどんどん心地いい場所になりつつあった。

「優史、お前ん家、西区の方だよな」
「そうだけど。いきなり何?」
「なんか大きい火事起きてるみたい」
他人事であると顔に書いたような表情でスマホの画面を見せてきた友人につられて、俺も半ば他人事だと思いながら画面を覗いた。しかしそれは、
「これ、俺ん家……」
よく見知った、あまりにも知りすぎているはずのマンションを映したそのニュース映像は、自分の家を全く見たことの無い姿へと変えていた。

大学を飛び出しマンションに戻るまでの道中で、家族全員の無事はとりあえず確認できた。父は仕事中、母とくるみはちょうどスーパーに買い忘れを買いに戻っていたようで、幸い誰も家にはおらず、俺の連絡で火事が起きたことを知ったみたいだった。だが、
「夏花……」
何度電話を鳴らしても繋がらない。嫌な予感が脳内でどんどんと膨らんでいく。
そして、その嫌な予感はぴったりと、当たってしまった。



必死の思いで夏花を外に出すことはできたが、部屋の近くで見つけた時には既に、意識は無かった。おじいさんは汗だくでマンションから出てきた俺にお礼を言ってくれたが、夏花の意識が戻るまでは、お礼も意味が無い。もう少し早かったら、安心できていたかもしれないのに……。
そう考えているうちに両親もマンションに到着し、俺は大した怪我も無かったが、念のため病院に向かうことになった。

そんな軽いノリで病院に向かったはずだったのに、その日から、随分と日常が変わってしまった。



余命、という言葉を自分に向けられたのは初めてで、頭は混乱していた。詳しいことは分からないけれど、煙をたくさん吸ってしまったことで身体に大きな影響が出たという。それにしても跡に残ってしまう火傷がなくてよかったですねと、あと1年持つかどうかという身体に、医者はそう言った。

あと1年、いったい何ができるのだろうか。何かをする気なんか、起きるのだろうか。
しばらく、ぼうっと過ごしていた。何かを考えようとしているのに何も考えられないような、何も考えられないのに、頭の中は何かでいっぱいになっているような、そんな状態がしばらく続いた。大学には向かうものの部室に向かうことは憚られ、足は遠ざかっていった。
新しくできた友人には明かしていないとはいえ、もうすぐ死ぬことが分かっていて、どんな接し方をしたらいいのか分からず、友人とも意識的に距離を取ってしまった。

そんな自分を見て察するものがあったのか、それとも大学1年の友人関係なんてそんなものなのだろうか、サークルに来いよと言ってくる人はいなかった。



そんなある日、授業が終わって家に帰るとくるみが声をかけてきた。
「お兄ちゃん!なっちゃんのところにお見舞いに行こうよ!お兄ちゃんが火事の時に行ったあの病院で、入院してるみたいだよ!」
そんなことは、知っていた。
おじいさんに聞き何度も何度も病室に行った。まだ意識が戻らず、包帯でほとんど見えない夏花に話しかけるだけだったが、それでも行くのを止められなかった。でもこれも、意識が戻るまでにしようと決めていた。意識が戻れば俺は安心できる。大怪我をした夏花に、もうすぐいなくなってしまう自分の心配をかけるわけにはいかない。余命のことは、おじいさんにも夏花にも言うつもりは無かった。
だから、意識が戻るまで。



そしてその日はやってきた。
「なっちゃん、意識が戻ったみたいよ。さっき吉田さんから電話があって」
そう教えてくれた母の目には、涙が浮かんでいた。俺もつられて泣きそうになる。良かった、本当に良かった。
でもこれでもう、夏花には会いに行けない。嬉しいはずなのに、この日を待っていたはずなのに、もう涙を我慢できていなかった。



それなのに。
「あの、吉田夏花さんに会いに来ました!」
元気に看護師に話しかけるくるみに付いて、病院に着いていた。お見舞いに行くと言って聞かないくるみと、本当は会いたくて仕方ないという思いは、もう会わないと決めていた俺の心をぐらぐらと揺らした。そして、母からの「行ってきなさいよ」という言葉にあっさりと俺のこれまでの心は負け、くるみが言って聞かないからという口実を過剰に振り回し、その次の日に家を出た。

しかし病室の近くまで来たところで、迷った時間は呆気なく無駄になった。夏花のおじいさんに面会を断られたのだ。しかし一度断られただけじゃ諦められないのが松原家の悪いところであり、いいところでもあるのだろうか。くるみと俺はどっちからも、もう辞めようということなく病院に通った。

そして、もう何日目かも数えていなかったある日、変化が起きた。
「え?くるみだけ?」
俺だけが断られ、くるみは不思議そうに、それでも夏花にやっと会えるのを嬉しそうに、病室の方へ向かっていった。
「くるみ」
「なに?」
呼び止めて、小さく耳打ちをした。
「お兄ちゃんの身体のこと、なっちゃんに絶対内緒な」
「うん」
小学生に口止めは無意味かもしれないと思いながらも、俺は願うように告げた。
「行ってくるね」
そう言ってくるみは病室へと入っていった。それと同時に、おじいさんがこちらを向いて、俺を呼んだ。

「会いたくない?俺に?」
「実は、あの日の火傷が思っていたよりも酷くて。正直、見た目にも随分残ってしまってな。
体自体は元気になってきているんだけどなあ。自分が大切に想っている相手にほど見せたくないみたいで……。だから、来てくれてもきっとまた断ってしまう。ごめんな、ユウちゃん」
跡に残ってしまう火傷がなくてよかったですねと、そう医者が自分に言った言葉の意味を、今になって知った。
どうして、夏花なんだろう。どうせ死ぬんだから、怪我をするのは俺で良かったのに。
やっぱりもう少し早く着いていたら。もう少し早く助けられていたら。

「何も悪くない。むしろユウちゃんがいなかったら、夏花はここにいないんだから」
俺の考えていることに勘付いてそう繰り返してくれるおじいさんの温かさにいてもたってもいられず、病室の方へ近づくと、中からの声が耳に入った。

「なっちゃんはどうして、もう一回お家に戻ったの?」
くるみの声だ。
どうして家に戻ったのか。そこでくるみが聞こうとしていたのは、あの後ずっと考えていたが、分からなかったこと。
いや、答えは知っていたが、分からないふりをしていたこと。そしてその答えはきっと、あの日以来心臓にこびりついて消えない、この強い罪悪感の理由。

「大切な宝物を取りに戻っちゃったの」
「宝物……」
「結局、真っ黒焦げになっちゃったんだけどね」
聞きたくなかった、認めたくなかった答え。それと決して美しいとは言えない、病室から漏れるメロディは、現実を見なければならない時だと俺に向かって鳴っているように聞こえる。



あの日、火の中で夏花を見つけた時、夏花はオルゴールを抱きしめていた。その時から薄々気付いていた。俺があげたオルゴールを取りに戻ったせいで、こんなことになってしまったのではないか。あれが無ければ、そのままちゃんと逃げていれば、こんなことにはならなかったのだ。だったらそんな物、初めから無かった方が良かった。俺のせいで、夏花がこうなったんだ。
「オルゴールが元に戻ったら、なっちゃんは嬉しい?」
「え、うん。元に戻るなんて、嬉しいに決まってる。このオルゴールがこうなる前に戻れたら」
立ち尽くす俺の肩におじいさんは優しく手を置き、ハッとした時には既におじいさんが病室へと入っていた。その数分後にくるみが出てきたので、そのまま家へ帰った。



暫くして、夏花の退院を耳にした。前のような元気が無いということは、おじいさんから何度か聞いていた。1つ、決めていたことがあった。既に残り幾ばくもない俺の人生を賭けて、彼女の笑顔を取り戻すということだ。

そうして、それは成功した。なんとか間に合った。
ヒマワリが満開になるまで生きていられるか、もし満開になっても夏花は外に出て見てくれるだろうか、そして見てくれたとして、夏花の目にはどう映るのだろうか。色んな思いを持ちながらではあったけど、夏花の顔を見て、声を聞いて、それらの不安は帳消しになった。

太陽とヒマワリの光に照らされる夏花の笑顔は、おじいさんやくるみから聞いていた見た目の変化なんて太刀打ち出来ないほど、言葉にまとめてしまうのが勿体無いとさえ思えるほど、美しく優しく、綺麗だった。

あの日のヒマワリ畑を思い起こさせる大切な人のこの笑顔を、自分の中に思い出として持っていけるのなら、これでもう、思い残すことはない。後はここから早く立ち去って、何事も無かったことにするんだ。これから夏花がちゃんと幸せになれるように。笑ったその顔で、また新しい誰かと幸せになれるように。
そう自分に言い聞かせて歩き出していた足を再び止めたのは、夏花の声だった。
「優史!私ずっと、これからも優史のこと、大好きだよ!だからこれからも一緒に」
その声に、ずっと我慢していた涙が溢れ出た。泣きすぎてなのか何なのか、耳鳴りがして上手く聞こえない。
そんなの、俺もに決まってる。ずっと一緒にいたいに決まってる。

俺は最後に夏花の顔を見ようとした。