「わぁ、すごいお屋敷」
「さすが妖狐のご当主が住んでるところね。絶景絶景」
鬼龍院本家の屋敷に負けぬ厳かな雰囲気の和風のお屋敷で、和風は和風でも、まるで平安時代にタイムスリップしたかのような気分に陥る景観だ。
あまりの広さに迷子にならないか心配になってくるところは本家と変わらない。
気のせいだろうか。門の中に足を踏み入れた途端に空気が澄んだように感じた。
清浄な風がどこからともなく吹いてくるよう。
その感覚は車から下りて、家人に案内されて屋敷の中を進むごとに強くなる。
「ねぇ、透子。なにか感じない?」
「なにが?」
なにと問い返されても困ってしまう。
だがなにか不思議な感覚がした。
「まさかまたなんかあるの?」
透子が心配そうに聞いてしまうのも仕方がない。
柚子は他の誰にも感じなかった龍や過去の怨念の存在にただひとり気がついたりと、その直感を無視できない経緯がある。
「また変な怨霊が出てくるんじゃないでしょうね」
「いや、そんな悪いものじゃなくて、もっと神聖な感じ? 私もうまく説明できないんだけど……」
どうやら透子には感じられていない様子。気のせいかと思っていたところ──。
『それならば、この敷地のどこかにある社のものだろう』
柚子の袖からにゅっと飛び出してきた龍に、柚子と透子はぎょっとする。
「うわっ!」
透子は思わず後ろにのけぞってしまい、柚子も思わず大きな声が出た。
「なんでいるの!?」
『にょほほほほ。柚子が車に乗り込んでいる隙にこっそり袖の中に隠れたのだ。気付かなかったであろう? 霊力を最小限まで抑えていたから、運転手も気付かなかったようだ。我とてやればできる!』
龍はご機嫌に笑いながらうにょうにょするが、柚子は困ったことになったと焦る。
「今日は花嫁以外の参加は駄目だって言ったでしょう!」
ぷいっと顔を逸らせる龍の態度に、柚子は半ギレる。
龍を鷲掴んで袖から引きずり出すと、グルグルと回した。
『ぬおぉぉぉ!』
「柚子、ヤバいんじゃないの?」
「透子、どうしよう!?」
龍を回してお仕置きしている場合ではないと離せば、龍はほっと息をついている。
「どうしようって言っても来ちゃったものは今さら帰せないし……」
「あああ~。ご当主になんて言えば……。先に桜子さんに相談できないかな」
柚子は頭を抱えた。
散々ついてきては駄目だと忠告したのに、この龍ときたら自由がすぎる。
仕方なく龍がどこかに行かないように捕まえたまま、家人の後についていくことに。
案内された二十畳ほどの和室の部屋には、撫子の花が飾られており、華美さはなくとも品のよさが伝わる和室の雰囲気に合うテーブルと畳用椅子が並んでいる。
椅子の数からいうと、呼ばれているのは十人ほどなのだろうか。
主催者である沙良と妖狐の当主。手伝いだという桜子を入れると、柚子の予想より少ない人数だった。
すでに沙良と桜子は部屋におり、他にも花嫁と思われる数名のご婦人が座っていた。
柚子の姿を見ると沙良が立ち上がって笑顔で近付いてくる。
「柚子ちゃん、よく来てくれたわね」
桜子も沙良より一瞬早く椅子から立ち上がって柚子に向けて一礼すれば、それを見た他のご婦人まで倣うように椅子を立つ。
すると、微かにご婦人たちの声が聞こえる。
「もしかしてあの方が?」
「そうみたい。鬼龍院の花嫁の……」
「まだお若いわね」
どうやら柚子の顔を知らないらしい。
これでも一応様々なパーティーや集まりに玲夜と出席しているのだが、柚子も彼女たちは知らなかった。
「柚子ちゃんの隣はお友達の透子ちゃんね。披露宴で挨拶したから覚えてるわよ」
「この度はお招きくださいましてありがとうございます」
かくりよ学園で身につけた礼儀作法を遺憾なく発揮して綺麗な礼をする透子を見て、柚子も慌ててお辞儀をする。
「そんなかしこまらなくていいのよ。今日はうるさい男たちはいない女だけのお茶会ですもの。無礼講よ」
あやかしのトップに立つ鬼龍院当主の妻でありながら、そう感じさせない気さくな人だと柚子はほっこりする。
透子も最初こそ緊張した顔をしつつも、少し表情が緩んでいる。
これはもう沙良の人柄ゆえだろう。
千夜も似た雰囲気だが、どうやらふたりの人当たりのよさは玲夜に微塵も受け継がれなかったようだ。
とはいえ、千夜の場合は見せかけだけで、玲夜の父親だと納得の黒さを時折垣間見せるので、密かに柚子の要注意人物に指定されていたりする。
空いた席を見るに、どうやら撫子はまだ来ていない様子。告げるなら今しかない。
「あの、お義母様。ちょっと不測の事態がありまして」
「あら、なぁに?」
柚子は鷲掴んだ龍を申し訳なさそうに見せた。
ぶらーんと、沙良の前に突き出された龍はに、沙良も目を丸くする。
『なんという雑な扱い。我って結構すごい霊獣なのに……』
龍がなにやら不満を口にしているが、誰ひとり聞いていない。
「ついてきちゃ駄目って念を押してたんですけど、いつの間にか潜り込んでたみたいで……」
「あらまあ」
近くに寄ってきた桜子も「どうしましょう」と困ったようにしている。
「大人しくさせときますので、一緒でもいいですか?」
そんな会話をしている間も続々と招待客が訪れ席が埋まっていき、未だ立ったままの柚子たちを不思議そうに見ている。
「一応花嫁だけのお茶会だから……」
沙良はうーんと唸りながら、頬に手を置いて部屋の中を見回す。
「霊獣さんだけ別室で待機してもらおうかしら」
後は撫子の訪れを待つばかりとなった状態で、早く対処せねばと気が焦る柚子は迷わず頷いた。
しかし……。
「いや、一緒でも問題なかろうて」
部屋の入り口から聞こえてきたしっとりとした声にはっとすると、集まっていた花嫁たち全員が立ちあがって深く頭を下げた。
柚子も慌てて礼をした相手は、妖狐の当主、狐雪撫子だ。
波打つ白銀の髪は美しく輝いており、妖艶な顔立ちと雰囲気に、女性ですらドキリとしてしまう。
彼女の存在感は強く、一気にその場の空気を支配してしまう。
立っているだけで周りに自分を注目させてしまうそのカリスマ性は、玲夜も持ち合わせているものだ。
シンプルな着物の上に色打ち掛けを羽織っており、撫子が歩くたびに衣擦れの音がする。
柚子が結婚式で着た色打ち掛けも華やかで綺麗だったが、撫子のものは華やかさだけでなく色気と品を感じさせる。
これは着ている者の違いがそう感じさせるのかもしれない。
「よいよい。皆面をあげよ」
言われるままに頭をあげて姿勢を正す。
撫子に対して頭を下げなかったのは沙良だけだ。
あやかしの頂点にいる千夜の妻なのだからそれもおかしくないが、それ以上に沙良は撫子に対して親しげに話しかけた。
「でも撫子ちゃん、花嫁のお茶会だしぃ」
「それを言うならば桜子とて花嫁ではないじゃろ。相手は誇り高き霊獣。なにか問題を起こすわけでもなし、そう厳しくせずともよかろう。皆はどうじゃ? 霊獣がともにしてもよいかえ?」
撫子にそう問われて嫌だなどと言える強者がいるはずもない。
「私はかまいませんわ」
「ええ。私も」
「私もです」
なんだか無理やり言わせてしまったような気がしないでもないが、怒られずに済んで柚子は心の底から安堵した。
「ありがとうございます」
柚子はまず撫子に頭を下げ、次に他の花嫁たちにも同じように礼を言った。
『むふふ、さすが妖狐の当主だけあって懐が大きいではないか』
偉そうな口をきく龍を、とりあえず締めあげて黙らせることにした。
『むぐうぅぅ、むがぁぁ』
普段は子鬼たちに龍の世話を任せていたが、かなり骨が折れる仕事のようだ。
今さらになって子鬼の苦労を理解する。
「お願いだから大人しくしてて! でないと、帰ったらボールに縛りつけて、まろとみるくの前に転がすからね」
『う、うむ。分かった! 我はいい子にしておる』
不安を残しながら始まった花茶会。
本来ならば沙良か撫子が上座に座るのが常なのだろうが、今回ばかりは新参の花嫁ということで、柚子と透子が主賓として上座に座らされる。
当然それとなく遠慮したが、花茶会に初めて参加する花嫁には恒例なのだそう。
沙良や撫子を差し置いて上座に座ると思うと冷や汗が止まらなくなるが、隣にいる透子はもっと顔色が悪い。
なにやらブツブツ「ヤバいヤバいヤバい」と言っているのを隣にいる柚子だけが聞こえたが、恐らく五感の発達したあやかしである沙良と撫子と桜子には聞こえているのだろう。
桜子が透子を見て不憫そうにしていた。
「では始めよう。今回はふたりの花嫁が新たに加わった」
撫子の開始の言葉とともに視線が柚子と透子に集まる。
撫子の後に続くように沙良がふたりを紹介する。
「龍を連れているのが私の新しい娘になった柚子ちゃんで、その隣が猫又の花嫁になった猫田透子ちゃん。ふたりとも新婚ほやほや、ラブラブ真っ只中よ~。はい、拍手~」
パチパチと柚子と透子に向けて拍手がされる。
披露宴を行うよりなんだか気恥ずかしい気がする。
皆、歓迎するように微笑んでくれていたが、中には憐れみを含んだ眼差しで見てくる者もいて気になった。
今度は新参者の柚子たちに対して、沙良がここのいる花嫁の紹介を端からしてくれる。
人数が少ないとはいえ、顔と名前を一致させるのはすぐには無理そうだ。
それでもできるだけ覚えるべく、真剣に耳を研ぎ澄ませる。
「花茶会では下の名前で呼ぶのが決まりだから、ふたりとも覚えておいてね」
「はい」
「承知しました」
全員の紹介が終わると、お昼時とあって、茶菓子ではなく料理が運ばれてきた。
目にも鮮やかな松花堂弁当が運ばれてくる。
使用人ではなく桜子が汁椀をそれぞれに運んでくれていたので、柚子は桜子だけにさせるわけにはいかないと手伝おうとしたが、やんわりと席に戻される。
「これは私のお役目ですから」
有無を言わせぬ力があり、柚子は大人しく座り直した。
すると、ふたりの様子を見ていた沙良がふふふと笑う。
「桜子ちゃんはもともと玲夜君の婚約者だったでしょう? だからね、いずれは私の代わりに花茶会の主催者の役目を引き継いでもらおうと、桜子ちゃんにお手伝いに来てもらっていたの」
「なるほど」
花嫁しか出席できないはずの花茶会に、花嫁でも主催者でもない桜子が参加している理由を知る。
「でも玲夜君には柚子ちゃんという伴侶ができたし、桜子ちゃんも高道君と結婚したでしょう? 今後どうしようかと悩んだんだけど、桜子ちゃんは人をまとめるのがとっても上手だから、柚子ちゃんの補佐としていてくれたら柚子ちゃんも心強いかなってね」
にっこりとした笑顔でとんでもないことを言い出し、柚子は焦る。
「えっ! 補佐ってそれはどういう意味ですか?」
「いずれはこの花茶会を柚子ちゃんに任せたいのよ。だって鬼龍院の次期当主である玲夜君の奥さんだもの。ねっ?」
「ねって急に言われても……」
今日始めて参加するお茶会を任せられても困る。
「大丈夫よ。花茶会のことは桜子ちゃんがよぉく知ってるし。私と撫子ちゃんが現役のうちはちゃんと私たちで主催するから。なにせ私たちが始めたことだし、急に全部柚子ちゃんに押しつけたりしないわよ」
先を促すように沙良が撫子の方を向けば、撫子もゆっくりと頷いたので、柚子もわずかに安心する。
「沙良にとってのそなたや桜子のように、妾には任せられそうな者がおらぬでな。妾たちが始めたものをふたりで続けていってくれると嬉しいよ。花嫁たちのためにも」
「花嫁の……」
ぐるりと見渡せば、花嫁たちの切望する眼差しが柚子を突き刺す。
無言の圧力を与えられて、柚子は気圧される。
こんな場面で嫌と言える勇気は柚子にはない。
「わ、分かりました」
「ほほほ。期待しておるぞえ。基本不定期に開催して、参加者も毎回変わる茶会じゃが、次からは勉強のためにも桜子と一緒に必ず参加しておくれ」
「はい……」
なんだかうまく丸め込まれたような気がしないでもないが、今さら嫌とも言えない。
隣から向けられる透子の気の毒そうな眼差しが痛い。
「話は変わるけど、ふたりとも新婚生活はどう?」
目をキラキラさせて柚子と透子に質問してくる沙良に、柚子は苦笑する。
「楽しいです。と言いたいところなんですが、玲夜は仕事が忙しいようでなかなか一緒にいられなくて」
「あらあら。玲夜君たら、新妻を放って困ったものね。でもそういえば千夜君も今は忙しくしてるわね。一龍斎がどうとかで」
「ええ。玲夜もその件で休みが取れないようです」
「そう。それは仕方ないわね。一龍斎の件は珍しく千夜君がブチ切れてたから」
ブチ切れる……。
玲夜ならその光景がすぐに思い浮かんでくるのだが、千夜のブチ切れた姿はどうも想像できない。
「徹底的に追い込むらしいから、しばらく柚子ちゃんには我慢してもらわなきゃならないわね」
「みたいですね」
もっとふたりの時間を持ちたいのだが、一龍斎に対して怒っているのは柚子も同じだ。
長年龍を捕らえ、思いのままに操っていた彼らを柚子は許せない。
初代花嫁の悲しすぎる歴史を知っているからなおさらだ。
けれど、本音はまた別である。
「そう理解はしてるんですが、やっぱり一緒にいてほしいです。できるなら四六時中いてほしいぐらいなので」
思わず惚気てしまった柚子は恥ずかしそうにはにかむと、沙良は微笑ましげに笑った。
「そうね、そうよね。だって新婚さんだもの。できるならずっと一緒がいいわよね」
「はい」
「そんなの今だけですわ」
穏やかな空気を壊すような棘のある声。
それは花嫁のひとりで、四十代ぐらいの年頃のご婦人だった。
確か名前を穂香と言っただろうかと、紹介された時の記憶を思い起こす。
「一緒にいたいなんて、幻想よ。いずれ嫌になるのよ。執着も愛情の押しつけもうんざりだわ」
憎々しげに吐き捨てた穂香の言葉に、幾人かは気まずそうに視線を逸らす。
穂香は柚子と透子を強い眼差しで見つめる。
「きっとあなたたちも彼らの美しさと愛情の深さに酔いしれているのかもしれないけれど、そんなの今だけ。愛なんて生易しいものじゃありませんわ。彼らの花嫁に対する想いは異常よ! 皆様もそう思われるでしょう?」
柚子はそんなことないと否定しようと思うも、その場にいた誰ひとり否定しなかった。
それがきっと答えなのだろう。
隣にいた透子も、穂香の言葉が間違っていないというように反論はせず苦い顔をしていた。
出かける前の玲夜の言葉が脳裏をよぎる。
花嫁のために作られた箱庭に嫌気がさして、夫との生活に息苦しさを感じる花嫁のためのお茶会──。
分かった気になったようでいて、まったく分かっていなかったのかもしれない。
こんなにも嫌悪感をあらわにされてしまうと、柚子は言葉をなくしてしまう。
沙良に助けを求めるように見れば、困ったように眉を下げており、撫子もじっと穂香を見ていたかと思うと静かに話しかけた。
「気を落ち着けよ。なにもそなたを否定するわけではないが、この子らはまだ花嫁になったばかり。そなたの苦しみを理解するには早かろうて。今は幸せなこの子らを無為に傷つけたいわけではなかろう?」
怒鳴るでもなく叱るでもない、落ち着いた撫子の声色に穂香も興奮が冷めていく。
「申し訳ございません、撫子様。おっしゃる通りです。柚子様、透子様、申し訳ございません」
穂香は深く頭を下げて柚子と透子に謝罪した。
「とんでもございません」
「どうぞお気になさらず」
「ありがとうございます」
そこでこの話は終わりだというように沙良がパンと手を叩いた。
「透子ちゃんは今は子育ての真っ只中よね? うまくやれている?」
沙良の急な話題の変化に戸惑いながらも、透子は即座に反応する。
「はい。屋敷の者が一緒に手伝ってくれますので、なんとかやれています。鬼龍院の玲夜様にもお墨付きの霊力の高い子のようで、鬼のあやかしの方が抱っこしても泣かず、一族は大喜びしております」
子供の話になると場の空気は一気に柔らかくなり、いたるところで子供の話で盛りあがる。
「私のところも何人もの家人が交替で見てくれるので大助かりですわ」
「ええ。私のところもよ」
「鬼の方にも抱っこされて泣かないなんて将来有望ですわね」
「うちの子なら泣いてしまうかも」
ようやく笑い声があがりだし、穂香の表情も緩んだのを見て柚子はほっとする。
「いいわね~。私も早くおばあちゃんって呼んでほしいわ。って、こんなことを言ったらプレッシャーをかけたと玲夜君に怒られちゃうわね。まあ、どっちにしろ忙しい今の玲夜君の状況じゃあ無理そうだし、残念だけど気長に待つわ」
本当に残念そうな顔をする沙良に、柚子はクスクスと笑った。
「沙良様は素敵なおばあ様になってくれそうなので安心です」
「同感ですわ。子が健やかに育ちそうですもの。まあ、玲夜様は少々あれですが……」
「あはは……」
明言しない桜子の言葉がなんとなく読み取れた柚子は乾いた笑いが出る。
「あら、人のことばかりだけど、子育ては桜子ちゃんの方が大変よ。なにせ、荒鬼の子供を育てるのは並大抵の苦労じゃ済まないんだから。高道君のお母さんがどれだけ高道君に振り回されたか」
「それは高道様のお母様からお聞きして覚悟しておりますよ」
代々当主に仕えてきた荒鬼の男は、主人と認めた者には身命をなげうつほどに心酔してきたらしい。
高道の玲夜至上主義はいつものことだが、高道の父親もまた千夜至上主義で、その父もそのまた父も、皆主人命だったようだ。
決して裏切らない右腕を、代々当主が重用するのは仕方ないというもの。
玲夜も高道をかなり信頼しているのがよく分かる。
荒鬼の男はある程度成長するまで当主の子に会わせないよう厳命されていると、以前に桜子から聞いたことがあるが、そうしないと荒鬼の男は主人第一になり、子供らしく育ってくれなくなってしまうからだという。
どんだけなんだ、荒鬼の家系は。と、呪われているんじゃないかと感じてしまう。
「今後の教育のためにも柚子様より先に授かるといいんですが、こればかりは天からの贈りものですから」
「そうよね」
桜子の言葉をうんうんと頷きながら聞いている沙良には悪いが、しばらく我慢してもらいたい。
「授かりものというのもそうですが、しばらく子供は考えていないんです。私も来週から学校へ行くので忙しくなりますから、子育てしている余裕がなくなってしまうので」
「そうだったわね。料理学校だったかしら?」
「はい」
「玲夜君がある日、柚子ちゃんのお店を建てたいから本家の近くでよさそうな土地はないかって聞いてきた時は驚いたわ。いくら柚子ちゃんに甘い玲夜君といえど、外で働くのを許すとは思わなかったもの。玲夜君たら忙しい最中にいくつもの土地を実際に見て回って、柚子ちゃんがお店をするのに一番条件がいい場所はどこか悩みまくってたんだから」
柚子はそれを聞いて目を丸くした。
「玲夜が?」
「そうよ。玲夜君の屋敷近くの土地もあったんだけど、結局は本家近くの土地を選ぶ辺り、いつか本家に引っ越しても柚子ちゃんが働けるよう、将来的なことも考えた結果なんでしょうね。よかったわね、柚子ちゃん」
「はい……」
ひとつひとつ調べ回ってくれた玲夜の姿を思い浮かべると、自然と柚子の顔に笑顔がこぼれる。
なぜ本家近くの土地なのか不思議には思っていたのだ。
それが、柚子の未来を考えてだと知り愛おしさがあふれる。
柚子が料理学校に行くこともお店を持つことも未だに機会があれば辞めさせようとしているのに、まったく反対の行動をしているではないか。
一時の話ではなく、いつまでも働けるようにと玲夜が考えていてくれたことが嬉しい。
すると、戸惑いがちにひとりの花嫁が手をあげた。
「あの、お話しを聞いておりますと、柚子様は働かれるのですか?」
「ええ、すぐにというわけではありませんが、いずれは自分のお店で料理を出せたらと思っています」
柚子が肯定すると、にわかにざわめきが起きる。
「それを旦那様はお許しになっているのですか?」
「一応」
そう、一応だ。決して心から歓迎してはいない。
だが、許してくれているのは確かだ。
それに対して、花嫁たちはひどく驚いている。
「花嫁を働かせるあやかしなんて」
「本当かしら?」
「ありえないわ」
ヒソヒソと交わされる言葉に困惑する柚子を、隣にいた透子が周りに見えないように肘で突き声を潜める。
「ほら言ったでしょう。花嫁を働かせるあやかしなんて珍しいの。ていうか、いないわよ」
「うーん……」
ただ働くだけで、そこまで驚かれるほどのことではない。
危ないこともなにもないのに、彼女たちのこの反応。
正直、柚子の方が驚きであるが、花嫁の世界では柚子の考え方が間違っているのを肌で感じる。
「若は素直に許してくれたのかえ?」
撫子がどこか楽しげに聞いてくる質問に、柚子は素直に答えた。
「いえ。最初はまったく許してくれなくて、大喧嘩になりました」
花嫁たちは当然だという表情で納得している。
「けど、負けずにごねて、最後は私の意志を尊重してくれました」
「ほう。若はずいぶんとそなたの尻に敷かれておるようじゃ。愉快よの。その時の若の顔が見たかったのう」
ほほほほっと、それはもうおかしそうに笑う撫子はなかなか笑いが収まらないようだ。
そんな爆笑することを言ったつもりはないのだが、なにやらツボに入ったらしい。
「花嫁を働かせるあやかしなど前代未聞じゃのう」
「撫子ちゃん、笑いすぎよぉ。玲夜君がブチ切れるわよ?」
「ならばそれを柚子に止めてもらうとしよう。若がたじたじになっておる姿が拝めるしのう」
さらに玲夜が切れそうな気がするのだが……。
「……そんな、そんな自由が許される花嫁ばかりではありませんわ」
唇を噛みしめながら悔しそうに呟いたのは、先ほども声を荒げた穂香だ。
穂香は柚子を一瞥してから、撫子にすがるような眼差しで懇願する。
「撫子様、もう少し花茶会の回数を増やしてはいただけませんか!? 私が呼ばれるのは年に一度か二度。それではとても足りません。私にはこの花茶会だけが心のよりどころなんです! もしこの茶会がなかったらと思うと気がおかしくなってしまいそう。そう思われてる方は私だけではございませんでしょう?」
穂香が援護を求めるように見回せば、幾人かが声をあげた。
「私も穂香様のお気持ちがよく分かりますわ。私だって唯一この花茶会に出席する時だけが心の癒やしですもの」
「私もです。夫は私を外に出したがりませんけれど、花茶会だけは別です。なんの愁いもなく晴れやかな気持ちで家を出られるのはお茶会の時だけ。私からもお願いいたします!」
次々にあがる苦しげな声に柚子は顔を強張らせると、彼女たちから逃げるように顔をうつむかせた。
撫子がスッと手をあげると、それぞれの声がぴたりとやんだ。
「皆の言いたいことは分かる。しかし、妾も沙良も茶会ばかりしてもおられぬのじゃ。ほんにすまぬのう」
「ごめんなさいね、皆さん」
撫子と沙良は花嫁たちに深く頭を下げた。
それに慌てたのは先程まで不満を訴えていた花嫁たちの方だ。
「そんな! 私たちの我儘で頭を下げなんでくださいまし」
「申し訳ございません。撫子様と沙良様がいなければこうして外に出ることすら叶わぬのに、無理を言ってしまいました」
「おふたりが花嫁たちに心を砕いてくださっているのを皆さんよく分かっております」
「そうですとも!」
沙良と撫子が頭をあげると、皆どこかほっとした顔をした。
なんだかんだと微妙な空気は戻らず、その日はお開きとなってしまった。
他の花嫁たちが帰っていった後で、柚子はテーブルに突っ伏している。
「なにやってるのよ、柚子は」
「自己嫌悪に陥ってる……」
「なんで?」
透子には言葉にしなければ柚子の気持ちは伝わらないようだ。
「なんか自分は幸せですって自慢したみたいな形になっちゃって、他の人たちの気持ちを逆なでしたんじゃないかと……」
「あー」
否定しないあたり、透子も若干思っているのかもしれない。
「玲夜に花茶会を始めた経緯は聞いてたんだけど、まさかあそこまで他の花嫁の人たちが不満を持ってるなんて思わなかったから、たぶんヘラヘラしてすごく傷つけちゃったかも」
かもではなく、きっとそうだ。
「まあ、初めてのことなんだし知らなかったんだから仕方ないじゃない。私もあそこまで深刻とは思わなかったんだけど」
いつもなら真っ先に慰めてくれる子鬼に代わり、透子がポンポンと柚子の肩を叩いて慰めてくれる。
「透子様のおっしゃるように、気になさらないで大丈夫ですよ」
優しく声をかけてくれる桜子に癒やされる。
「そもそも今回は特に花嫁であることに不満を抱いている方を優先的に集めましたから、ひとりが不満を爆発させると決壊するのは目に見えていました。他の花嫁すべてがあの方たちのように夫である方に嫌悪を剥き出しなわけではないのですよ」
「どうして、今回はそういうメンバーだったんですか?」
「撫子様のご要望──というか、新しい花嫁おふたりへの最初の洗礼でしょうか?」
柚子と透子は首をかしげる。
「穂香様がおっしゃっていましたが、柚子様のように自由を許してくれる旦那様ばかりとは限らないのですよ。透子様は多少窮屈な思いをされていても、外出を制限されたりはなさっていないでしょう? パーティーなどにも普通に参加されているのを拝見しますし」
「はい。そうですね」
「ですが、今日呼ばれた花嫁の旦那様は特に執着心の強い方たちなのです。パーティーはもちろん、普段の外出すら許さず、この花茶が唯一外に出られる機会という方もいらっしゃいます。新婚のおふたりには、そういう花嫁もいらっしゃるのだということを知っておいていただきたかったのです」
「花嫁に憧れる人間は多いが、その実情は決して恵まれたものとは限らぬのじゃ」
花嫁たちを見送りにいっていた撫子が戻ってきてそうそうに話に加わる。
「以前、若に告げたことがある。花嫁とはまるで呪いのようじゃと」
「呪い……」
「若は呪いなら呪いと受け入れるが理性は捨てていないとはっきりと申しておった。だが、中には理性を捨てたあやかしもおるのだよ。瑶太がそうであろう?」
まさかここで瑶太の名前が出てくると思わなかった柚子は目を見張る。
「花嫁のために鬼との争いも辞さぬ行動をしたあやつは間違いなく理性より感情を優先させた。先ほどの花嫁の夫たちもそうじゃ。花嫁は大事と言いながら、花嫁の心を無視して花嫁に執着しておる。まるで捕まえていないと逃げてしまうと怖れるように。妾はそんな女たちが不憫での、まるで羽根を切られた鳥のようではないか?」
撫子が静かに語るそばで、沙良は悲しげに聞いていた。
「そんな花嫁たちからしたら柚子は恵まれておる。比較的自由な者でも外に働くのを許されるのは稀じゃろうて。そんな話を聞いて彼女らは自分と比べ落ち込んだはずじゃ」
「やっぱり……」
柚子は頭を抱えたくなるが、撫子の話はそこで終わらない。
「だがもっと話してやっておくれ。自慢してやっておくれ」
「えっ、いいんですか? 私の話は彼女たちを傷付けるのに」
「彼女たちはな、あきらめてしまっておるのじゃ。花嫁だから仕方ない、花嫁だから家の中で大人しくしておらねばならないとな。そなたのように戦うことをやめてしまったのだよ。だから、彼女たちになにがあっても曲げぬそなたの強さを教えてやっておくれ」
「教えるもなにも、私が自由にできているのは玲夜の優しさです」
柚子自身はただ我儘を言っていただけだ。
「そうかのう? 若と喧嘩して見事に学校に行く許可を得たのであろう? 若のあの圧力にも負けずに」
「まあ、はい。迫力だけは無駄にありました。でも花嫁だからか基本私に甘いので、最終的には玲夜が折れてくれて」
柚子に優しい玲夜だが、学校に関するお願いをした時は思わず怖じ気付きそうなほどの威圧感があった。
最終的には柚子の粘り勝ちである。
「それでよいのじゃ。そんな若に対しても対等に渡り合って、勝利を得た自慢を存分にしておくれ。花嫁の強みを生かして若を手のひらの上で転がす秘訣でもよいぞ」
茶目っ気たっぷりに笑う撫子に、透子と桜子が横を向いて噴き出すのを我慢している。
「そんな話が役に立ちますか? 余計に他の花嫁たちの気持ちを逆なでしたりしたら……」
「かまわぬかまわぬ。彼女らはうちに溜め込みすぎなのじゃ。ほどよくガス抜きしてやらねばな」
「そういうものですか? それでいいなら私と透子でネタは尽きないです」
「えっ!」
名指しさせた透子が、自分を巻きこむなと言わんばかりの表情でにらんでくるが、柚子はおかまいなしだ。
「ほほほほ。それでよい。どんな話を聞かせてくれるか、次の花茶会を楽しみにしておるよ」
「ご期待に添えるか分かりませんが、頑張ります」
撫子がこくりと頷き、これ以上話すこともなくなったのでそろそろお暇しようとして思い出した。
「そういえば、龍は?」
大人しくしていろと言ったら本当に今まで静かだったので、その存在を忘れていた。
部屋の中を見回すと、どこにもその姿を見つけられない。
「ふむ。ちと待つがよい」
撫子は口を閉ざして宙を見つめる。
玲夜の屋敷などは玲夜が霊力で結界を張っており、その中の状況が手に取るように分かるのだ。
どこに誰がいるかも。
恐らくこの屋敷も撫子の力の管理下にあるのだろうと察する。
少し待つと「見つけた」という呟きが撫子から発せられる。
「なんとまあ、予想外のところにおるようじゃ。いや、あれは確か霊獣ゆえ、おかしくもないか」
ひとり納得する撫子に遠慮がちに話しかける柚子。
「あの、龍は見つかりましたか?」
撫子はじっと柚子の顔を見つめたかと思うと、柚子の後ろにいる桜子に視線を移す。
「桜子。そちらの透子を先に送ってくれぬかえ? 柚子は少々遅れて帰すでな」
「承知いたしました」
頭を下げる桜子に背を向けて撫子が歩き出したので、柚子はどうしたらいいのかと撫子の背と透子とを交互に見ながら戸惑う。
すると、沙良が行く先を示してくれた。
「ほら、柚子ちゃん。撫子ちゃんが行っちゃうわよ。早く追いかけて」
「は、はい! 今日はありがとうございました! またね、透子」
沙良と桜子にお辞儀をしてから透子に別れを告げると、急いで撫子を追った。
長い廊下をゆっくりと歩く撫子の後ろについていく。
どんどん奥に進んでいくので、柚子はもうさっぱり帰り道が分からなくなっていた。
帰りはどうしようかと悩みつつ、龍はどこまで行ったのかと心配していると、この屋敷に足を踏み入れた瞬間にも感じた、言葉では思うように表現できない清浄な気配が次第に強くなっていく。
不意に撫子が立ち止まった。
そこには庭にぽつんと小さな社があった。
どこか懐かしさを覚える空気に、なぜか胸がキュッと苦しくなった。
決して嫌な気分というわけではない。
けれど、泣きたくなるような、切なさと喜びがない交ぜになったかのような気持ち。
「ほれ、あそこにおる」
撫子が指をさした先は社の方向であり、社の前に龍は佇んでいた。
胸に渦巻く激しい感情を抑えつけて、柚子は龍を呼ぶ。
「こら、そこでなにしてるの!?」
柚子が怒鳴れば、龍はびくりと体を震わせてから慌てて柚子の元に飛んできた。
『柚子、お茶会とやらはやっと終わったのか?』
「終わったのかじゃないでしょう? 大人しくしててって言ってたのに。勝手についてくるし、帰ったらお説教だからね」
『すまぬすまぬ。しかし、我はどうしてもここに来たかったのだ』
龍は社を振り返る。
「あのお社がなにかあるの?」
『のう、柚子を社へ連れていってもかまわぬか? 柚子にここを見せたかったのだ』
「なんじゃと?」
龍は撫子の前に飛ぶと、突拍子もない願いを伝える。撫子も困惑している様子だ。
『柚子は神子の力を持っているゆえ、きっとあの方も喜ぶであろう』
「ふむ」
撫子は柚子に視線を移してから、わずかな間考え込んだ。
「まあ、よかろう。そなたはあの社がなんなのか知っておるようじゃの?」
『知っておるよ。本当は柚子を一龍斎の屋敷にある本社に連れていってやりたいが、まだ買い取れておらんようだし、今は分霊された社で我慢しよう』
「なんじゃと!? 本社は一龍斎の屋敷にあるのかえ?」
撫子はひどく狼狽していた。そんな姿は始めてだ。
『あの方を分霊した社を持つくせに、そこまで詳しいことは知らぬようだのう』
「恥ずかしながらその通りじゃ。妾に詳しく教えてくれぬかえ?」
『うむ。よかろうとも。ただし、鬼龍院が一龍斎の屋敷を手に入れるように協力してくれたらだ』
撫子は迷わず頷いた。
「かまわぬが、若は知っておるのかえ?」
『話をした時の様子では知らぬようだったなぁ。当主はどうか知らんが、積極的に屋敷を手に入れようと動いてないのを見る限りでは伝わっていない可能性が高いな』
「なるほど。まあ、先に参るといい」
撫子と龍の視線が柚子に向けられる。
「えっと、お社にお参りしたらいいの?」
『うむ、そうだ。きっとあのお方が大喜びするだろう』
「あのお方って?」
『参れば分かるよ』
あの方とは誰なのか、首をひねりながら社への道を歩き、社の前で立ち止まると手をパンパンと叩き一礼する。
作法は合っていたっけ?と曖昧な知識でお参りすると、急に目の前が暗くなった。
「あ、れ……」
ぐらりと崩れ落ちる体を意識しながらも、体はいうことを聞かずそのまま倒れた。
遠くなる意識の向こうで、誰かに呼ばれた気がした。
『私の神子』
***
目を覚ますと、そこは見慣れた自分の寝室だった。
「あれ?」
身を起こして自分の姿を確認すれば、着ていたはずの着物もパジャマに変わっており、先ほどまでのことが夢なのではないかと錯覚する。
「なんで……」
撫子の屋敷にいたはずなのだが、いつの間に帰ってきたのか。
戸惑う柚子のところに、扉を開けて玲夜が入ってきた。
肩には子鬼を乗せている。
「起きたようだな」
「あーい」
「やー」
「玲夜。……私どうしたのかな?」
思い出そうとしてもどうにも思い出せない。
「妖狐の当主の屋敷で倒れたらしい。具合でも悪かったのか?」
「全然。直前まで普通だったもの。確かお社にお参りしてて……それからの記憶がないかも」
「今も大丈夫なのか?」
「うん」
倒れたというが、体に違和感はどこにもない。
「だが、なにもなく急に倒れるわけがないだろう。病院で精密検査をした方がいいかもしれないな」
「そんな大げさな。どこもなんともないから大丈夫」
「それならいいが、なにかあったらすぐに言うんだぞ」
「うん」
そっと労るように抱きしめてくれる玲夜に腕を回す。
ふと思い出した花嫁たちとのお茶会。
「なんかいろいろすごかったな……」
「茶会の話か?」
「うん。花嫁になって結婚して、物語だとそれでハッピーエンドだけど、実際は始まりにすぎないんだなって。いろいろ考えさせられた」
終わりではなく始まり。物語は続いていくのだ。
「嫌なら今度から行かなくていいぞ」
「ううん。次も行く。玲夜の惚気を話しに行かないとだから」
柚子はニコリと玲夜に笑いかける。
「どういうことだ?」
「玲夜の花嫁でよかったなって話」
柚子はご機嫌な様子で玲夜に身を寄せた。
三章
花茶会より約一週間後、柚子は朝からとても機嫌がいい。
朝も期待に胸が躍って目覚ましが鳴る前に起きてしまったぐらいだ。
それと反対にご機嫌斜めなのを隠そうともしないが玲夜である。
朝食を食べている間も不機嫌いっぱいの表情で箸を動かしている。
ピリピリとしたオーラを発している玲夜に、使用人たちも触れないように怯えていた。
これでは会社で誰かが八つ当たりされかねない。
本当に参ったものだと、柚子も困り顔。
「玲夜」
「なんだ?」
柚子が話しかければどんなに機嫌が悪くでも甘く柔らかな声で返すのに、今日ばかりは返事をする声からも厳しさが拭えない。
「別に浮気しに行こうってわけじゃないんだから、そんなに腹を立てなくてもいいでしょう?」
「当たり前だ。浮気が目的だったら許可してない。その場で監禁だ」
「さらっと怖いこと言わないでよ。玲夜も許してくれたんだし」
「許したが許してない」
いったいどっちなんだ。
柚子はあきれるしかなかった。
玲夜がここまで不機嫌になっているのは、今日から料理学校が始まるからである。
一度許可した手前行くなとも言えず、静かに怒りを溜め込んでいるというわけだ。
「一番気に食わない理由がなにか分かるか?」
「なに?」
「指輪はどうしてしていないんだ」
「ああ」
柚子の左手の薬指には、玲夜から結婚を誓った際に贈られた指輪がはめられていなかった。
結婚指輪はそもそもしていない。
あやかしの世界では指輪を交換する決まりがあるわけではなかった上、玲夜のあまりの忙しさに買う暇がなかったのだ。
時間がないから既製品でいいとパンフレットから選ぼうとしていたのに、玲夜がオーダーメイドにこだわったのがそもそもの理由である。
なので、結婚指輪を作るまでは、玲夜から贈られた婚約指輪が結婚したことの証となってくれていた。
「ちゃんと持ってるよ」
安心させるように柚子は首にしているネックレスを服から出す。
金のチェーンには玲夜の瞳と同じ色の石が通されている。
「授業では実技もあるし、汚したくないから首にかけるようにしたの」
食材を扱う以上、衛生面も考慮しての判断だ。
玲夜は不満そうではあったが、それ以上なにも言わなかった。
「今日は入学式とオリエンテーションがあるだけだから早く帰ってくると思う」
「間違っても男と仲良くなるなよ」
「はいはい。分かってます」
この会話を何度繰り返したことか。少々食傷気味だ。
玲夜としては女性だけの学校に行かせたかったようだが、これから通う学校は共学。
しかも人間ばかりであやかしはひとりもいない普通の学校である。
花嫁に変なちょっかいを出すと、嫉妬深い相手のあやかしと大変な問題に発展するかもしれないので、花嫁には馴れ馴れしくしない。という暗黙のルールをかくりよ学園に通う人間の場合は知っているが、一般の学校でそんな知識を持っている者がいるとは思えない。
それを玲夜はひどく案じている。
「玲夜、言っとくけど私って普通に考えてモテる人間じゃないからね。異性を警戒しろって玲夜は言うけど、とんだ自意識過剰女になっちゃうから」
「なにを言ってる。柚子は綺麗だ」
真面目な顔で平然と褒めるのだから、嬉しさとともに気恥ずかしさが襲う。
「ありがとう……」
好きな人に綺麗と言われて嫌な気がするはずはないが、それは柚子が玲夜の花嫁だからである。
花嫁フィルターのかかっていないただの人間からしたら、柚子は可もなく不可もない普通の女という評価をされてしまうだろう。
決して謙遜でも過小評価でもなく、それが現実である。
桜子ならば入学した途端に求愛者で長い列ができるのだろうが。
「でも、絶対に玲夜の心配は杞憂で終わるし、たった一年だから我慢してね」
「ちゃんと子鬼を連れていくんだぞ」
「うん。龍も一緒だし、鬼龍院の名前で通うんだから、勘のいい人なら怖がって近付いてこないよ」
結婚したことで鬼龍院柚子となった名前。
まだ自分でも他人からも呼ばれ慣れていない名前だが、結婚したことを感じさせられる瞬間だ。
人間である柚子が鬼龍院と名乗ってすぐに鬼の一族の鬼龍院と直結させる人は、よほどあやかしの世界に精通しているか、上流階級の生まれでなければ難しいだろう。
けれど、子鬼と龍を連れていれば、鬼である鬼龍院となんらかの関係があると察する者は少なくないはずだ。
ぼっちになる可能性が大である。
「せめてひとりぐらいは友達できるといいんだけどな……」
すぐに卒業すると分かっていても、料理や授業内容について語り合える相手くらいは欲しいなと、柚子は期待を胸に抱きながら、念願の料理学校の入学式に参加した。
この日のためにオーダーメイドした紺のスーツを着て、学校へと向かう。
残念ながら徒歩で通学を許されないのは分かっていたので、ひとりだけ学校に高級車を横付けして下りる。
多くが車登校してくるかくりよ学園と違い、なんとなく視線を感じたが、気にしたらきりがない。
これから一年通い続けるのだから。
一見すると学校というよりはビルのような建物の中に入ると、入り口近くに張り紙が出されていた。
張り紙から自分の名前を見つけ出すと、入学式のために講堂へ向かう。
空いた席に隙に座ると、子鬼が興味深そうに声をあげる。
「あーい」
「あい」
肩に乗っていた子鬼がぴょんと肩から柚子の膝に移動するのを、周りの生徒がぎょっとして見ていた。
なにやらヒソヒソされているのは気のせいではないだろう。
「子鬼ちゃん、静かにね」
「あーい」
にぱっと笑いながら手をあげた直後、どこからともなく「かわいい」「なにあれ、人形じゃないよね?」「生きてるの?」などと子鬼に興味津々な声が聞こえてきたが、聞かれてもいないのに柚子の方から話すつもりはない。
しばらくすると席も埋まり、教師らしき人が入ってきて入学式が始まった。
思ったより簡単な校長の話や学内の説明が終わると、オリエンテーションのために各教室へ移動する。
その間も肩にいる子鬼に周囲の目が集まっているのが分かったが、警戒されているのか誰にも声はかけられない。
料理学校というだけあり、普通ならば教卓がある場所はキッチンのようになっていて、そこで調理ができるようになっていた。
きっとそれらを使って授業をするのだろう。
手元を移すカメラとモニターもあるようだ。
そうこうしているうちに教師が入ってきて、全員に教科書やコックコートなどを渡される。
身だしなみの大切さを聞いた後は、オリエンテーション後から始まる調理実習のため、コックコートの正しい着方を丁寧に教えられながら、シミひとつない真っ白な白衣に触れる。
最後にチーフを結んでコック帽を被ったら完成だ。
新品のコックコートのパリッとした感触が、明日から始まる授業への期待が高まらせていく。
早く包丁を握りたいが、この日は包丁一式を渡されただけなのが残念だ。
ひと通りの説明が終わると、今日のオリエンテーションは終わった。
オリエンテーションは今日を合わせて三日間続き、その間に授業で必要な基礎知識を教えられるのである。
一日目のオリエンテーションが終われば、すぐに帰る者と帰らずに歓談する者とで分かれている。
特に急いで帰る必要のない柚子は、友人を作る機会だと残ることに。
だが、なかなかきっかけが見つけられない。
子鬼に龍を腕に巻き付けているせいか、なにやら避けられている気がする。
声をかけるのを躊躇っている間にどんどんグループができあがっていって柚子が焦っていると、柚子は肩を叩かれた。
「ねえ、一緒に話さない?」
声をかけてくれたのは、若い女性だ。
「私、片桐澪っていうの。あなたは?」
はつらつとした笑顔を浮かべる、栗色のボブカットの女性の問いかけに、柚子はほっとしたような表情で答えた。
「鬼龍院柚子です」
「よろしく~」
鬼龍院と聞いてもなにも感じなかったようで、それに対しても柚子は安堵する。
名前をツッコまれたら、せっかく話しかけてくれた彼女も逃げてしまうと思ったのだ。
「私のことは澪でいいわよ。あなたも柚子って呼んでいい?」
「はい。よろしくお願いします」
散々体に覚えさせた綺麗な角度でお辞儀をすると、澪は目を見張った後、あはははと豪快に笑う。
最近礼儀作法をしっかりしなければならない場に出ることが多かったので、丁寧すぎる挨拶になってしまった。
「やだ、固すぎよ。敬語じゃなくていいから。柚子って何歳?」
「二十二です……じゃなくて、二十二よ。大学卒業してすぐに入学したから」
「じゃあ、私より二歳上じゃない。私の方が敬語で話さなきゃ」
どこか透子を思い出させる快活な澪に、柚子は好印象を抱いた。
「敬語じゃなくていいよ。その方が話しやすいし。じゃあ、短大卒業したとこ?」
「ううん。大学二年まで行ったんだけど、やりたいことができたら辞めてこっちに入学したの」
「へぇ、そうなんだ」
高校を卒業してから通う者が多いかと思ったので、十代の中で浮かないかと心配があったが、いろんな世代の者がいるんだなと安心した。
中には明らかに柚子よりずっと年上の人も見かけたので、皆様々な将来を見据えて通ってくるようだ。
「柚子もやっぱり料理人になりたくて?」
「うん。料理人ってほどたいそうな者じゃなくて、自分のお店で自分の作った料理を出せたら嬉しいなって」
「私もっ!」
澪は嬉しそうに柚子の手を握った。
「私も将来自分のお店を持つのが夢なのよ! 憧れるわよねぇ」
「わぁ、本当に」
「そうよ。一緒に頑張ろうね」
「うん」
柚子は同志を見つけたようで嬉しくなった。
ところで気になる問題がひとつ。
「あの、私に気になるものとか聞きたいこととかない?」
「ん? 別に? あっ、お店ではどんな料理出したいのとか?」
「えっと、そうじゃなくて……」
柚子は困ったように机の上にいた子鬼を手に乗せて澪の前に見せた。
「なにこれ、人形? かわいいわね」
どうやら澪は周囲から注目を集めていた柚子を知らなかった様子だ。
「あーい」
子鬼が手をあげて挨拶をすると、澪はぎょっとして後ずさった。
「はっ!? なにこれ!」
教室内に響き渡る澪の叫びに、本当に気付いていなかったのだと分かる。
「あの、落ち着いて。まったく危ないものじゃないから」
「あーい」
「あいあい」
ぴょこぴょこ飛び跳ねる子鬼には確かに一般人から見たら不思議が詰まっているが、むやみやたらに人を攻撃したりしない。
愛想よくニコニコと笑う子鬼に、澪は次第に落ち着きを取り戻していった。
「それなんなの?」
澪は未知の生物を見るかのような眼差しで子鬼を指さす。
「子鬼ちゃんって言って、なんていうか、私のボディガード?みたいな感じ」
「ボディガードにならなさそうなんだけど。むしろかわいすぎて誘拐されない?」
「見た目はかわいいけど、誘拐犯を逆に半殺しにするぐらいの攻撃力は持ってるから大丈夫」
「それ、全然危ないものじゃないじゃない!」
澪のツッコミはもっともだ。
「でも、本当になにもしなければ普通にいい子たちだから」
「そう」
澪は疑いの眼差しを向けながらも、子鬼に人差し指を差し出した。
「えっと、よろしく?」
「あーい」
「あいあい!」
子鬼が澪の人差し指を握り返すと、澪はなにかを耐えるように口を引き結ぶ。
「えっ、めっちゃかわいいんですけど! どこで手に入るの?」
「非売品だから手に入れるのは無理かな……」
柚子は困ったように笑うしかない。
すると、それまで大人しく柚子の腕に巻きついていた龍がにゅるんと澪の眼前に出てくる。
「うわっ!」
これまたびっくりした澪はのけ反ると、まん丸な目をして龍を凝視する。
「それも、柚子のボディガード?」
『むふふ、いかにも。我らがいるので柚子に危害を加えようなどと考えるでないぞ。でないと命の保証はしな……へぶっ』
得意げな顔で澪を脅す龍の後頭部を柚子がべしりと叩いた。
「馬鹿なこと言わないの。下手に騒ぐなら連れてこないからね」
『だが、こういうものは最初の印象が肝心ではないか?』
「せっかく友達ができそうなのに邪魔しないで!」
『む~』
柚子の切迫した迫力に龍は再び大人しく柚子の腕に戻る。
やっと仲良くできそうな友達がいるのに、脅して逃げられたら困るのだ。
「ごめんね。本当に危ない子たちじゃないから」
変に澪を怖がらせたのではないかと心配になった柚子だったが、澪はおかしそうに声をあげて笑った。
「ふふふ、あはは! 柚子ってびっくり箱みたいでおもしろいわね。これから仲良くしてね」
「こちらこそ」
お互いにニコリと笑い合う。
車で迎えがあることを告げ、それなら学校の出入り口まで一緒に行こうと言ってくれた澪と向かうと、なにやら騒々しい。
「すっごいイケメン」
「めっちゃかっこいい!」
「写真撮っちゃおうか」
なにやら激しく嫌な予感がした柚子は足早に人垣を抜けて外に出ると、外国人モデルも真っ青なスタイルのいい玲夜が、高級車にもたれながら待っていた。
衆人環視の視線を一心に集めているのに、本人は慣れているのか興味がないのか、気にした様子はなく、柚子の姿を見つけると破顔一笑する。
途端に女性たちの黄色い悲鳴が湧き起こった。
柚子は失敗したと後悔する。
玲夜に学校には来ないように伝えておくべきだったと。
玲夜が来たらどこにいようと注目を集めるのは始めから分かっていたではないか。
そして翌日に待っているのは質問の嵐。
平穏な学校生活と、料理に集中するためにも、それだけは阻止しなければならない。
幸い柚子はまだギリギリ学校の敷地内におり、周囲の人に紛れている。
柚子はすかさずスマホを操作すると『この先のコンビニで待ってて』と、玲夜にメッセージを送る。
スマホの通知に気付いた玲夜は、スマホの画面を見るとすぐに車の中に入り、玲夜を乗せた高級車は消えていった。
そうすればまるで夢から覚めたように生徒たちも正気に戻る。
「あーあ。行っちゃった」
「なにしてたんだろ」
「学校にいる彼女を迎えに来たとか?」
「えー、さっきの人と釣り合うような人入学式ではいなかったよ。いたら絶対に噂になってるだろうし」
そうだねと納得しながら帰っていく生徒たちに、柚子は心の中で『ここにいます』と思いながら場が収まってほっとした。
深いため息が思わずでてしまったのは決して玲夜のせいではない。
玲夜が来ることを想定していなかった柚子が悪いのだ。
「柚子、綺麗な人だったわね」
「う、うん。そうだねー」
とっさに澪に隠してしまってしまい罪悪感を覚えたが、最寄り駅に向かう澪とは別の方向に急いで向かった。
柚子の指定通りコンビニの駐車場で待っていた高級車に素早く乗り込む。
信じられないといった表情の柚子の肩から、子鬼が嬉しそうに玲夜に飛び移った。
「あーい!」
「やー」
コアラのように玲夜の腕にしがみつく子鬼たちは微笑ましいが、なぜ玲夜がいるのか柚子は疑問でならない。
「どうして玲夜がいるの? 会社は?」
今の玲夜は休みも取れないほど忙しいはず。
「どうやら母さんが新婚時の貴重な期間に働かせすぎだとお節介を焼いてくれたらしい。それで会長である父さんが仕事の一部を肩代わりしてくれることになったんだ。父さんは半泣きだったが、普段俺に任せきりなんだから問題ないだろ。母さんに今度なにかで礼をしておかなければな」
「そうなんだ、お義母様が……」
きっと花茶会で遠回しに愚痴ったのを聞いて動いてくれたのだろう。
後でお礼のメッセージを送っておいた方がよさそうだ。
半泣きという千夜には申し訳ないが、玲夜が来てくれたことが嬉しくてならなかった。
「それにしてもどうして移動しろと言ったんだ?」
「だって玲夜と関係があると知られたら明日質問攻めにされちゃうもの。あやかしの花嫁に慣れたかくりよ学園とは違うんだから」
高校の時に柚子は玲夜の花嫁になったが、すでに透子という前例があったためにそれほど大きな騒ぎにはならなかった。
皆、柚子も花嫁になったのか。ぐらいの感情で、どちらかというと玲夜の容姿と子鬼の存在の方に興味が偏った。
それも東吉というあやかしがすでにクラスメイトとしていたので、比較的すんなりと受け入れられたのだ。
だが、通い始めた学校は違う。
「あやかしに慣れていない人間の学校だから、きっと大騒ぎになっちゃう。私は授業に集中したいからできれば避けたいの」
「だったら最初から俺が言う学校にしておけばよかっただろう」
玲夜にはいくつか、あやかしも通う料理学校を提示されていたが、それをはねのけて今の学校を選んだのは柚子である。
「それはそうだけど、どうしても樹本仁先生の授業を受けたかったんだもの」
「樹本仁?」
玲夜の眉間に一気にしわが寄る。
あっ、ヤバいと思ったがすでに時遅し。
「男の名前だな。どういうことだ、柚子? 男に会うためだとは聞いてないが?」
車の中では、不機嫌MAXな顔で詰め寄ってくる玲夜から逃げる術はない。
「あ、会うためじゃなくて授業を受けたいの」
そこははっきりと伝えておかないと後が怖い。
「同じだろ」
「全然違うから! 樹本先生はね、和とフレンチの創作料理で有名なシェフなの。彼のお店がテレビで紹介されてるのを見てすごく美味しそうで、そんな人に料理を教えてもらえたらいいなって。決して玲夜が思ってるような不純な動機じゃないのっ」
語尾をきつめに言い切ると、玲夜はその場でスマホを操作し始めた。
「なにしてるの?」
「そいつを調べる」
「玲夜……」
柚子には玲夜に対するあきれが全面に顔に出ている。
深くため息をつくと、玲夜の手が止まる。
「こいつか?」
玲夜が見せてくれたのは、樹本仁のお店のホームページだ。
そこにはにこりと笑う樹本仁の写真も載っていた。
「若い。それにずいぶんイケメンだな」
「いやいや、それを玲夜が言ったら嫌みにしか聞こえないから」
確かにホームページの樹本仁は結構なイケメンだ。
目鼻立ちがはっきりした爽やかな好青年風で、女性からの支持も高い。
テレビでもイケメンシェフと紹介されていたし、柚子も異論はないが、あやかしでもトップクラスの美しさを持つ玲夜と比べたらかわいそうなほどの差がある。
「本当に料理を教わりたいだけだから」
そんな疑いの眼差しを向けられても困る。
樹本仁は二十代後半ぐらいの年齢なので柚子とも年が近く、玲夜が心配するのは仕方ないのかもしれないが、週一回授業の時にしか会わない人と仲良くなるのは難しいだろう。
他にも生徒はたくさんいるのだから。
「……こいつとなにかあったら即辞めさせるぞ」
「はいはい」
おざなりに返事をしてやり過ごすと、車は屋敷ではなくどこかのパーキングに停まった。
「玲夜、家に帰るんじゃないの?」
「行けば分かる」
柚子の手を取り車から下りると、そこから数分歩いた場所で玲夜が足を止めた。
「カフェ?」
しかも雑誌などでも紹介される柚子も知る人気のお店だ。
「ああ。柚子は自分の店の内装デザインで困っていただろう。なにかの参考になるはずだ」
「でも、閉店ってなってるけど」
店の扉にある閉店の文字。
しかし、店の中には誰かいるのか灯りがついている。
「貸し切りにした」
「そんなことできたの?」
「ああ」
行列もできる人気店を貸し切りにするために、どれだけのお金が動いたのかと考えると頭が痛くなりそうだ。
「玲夜の気持ちはすごく嬉しいんだけど、私に無駄なお金はかけないでね?」
「なに言ってる。必要経費だ」
表情も変えずに言ってのける天下の鬼龍院の次期当主は、我が物顔で扉を開けて入っていく。
すると、奥から店員らしき人が何人も慌てて出てきた。
「鬼龍院様ですね。ようこそおいでくださいました!」
見事な九十度の角度で頭を下げるのは店長らしい。
玲夜を前に笑顔が強張っている。
「適当に中を見させてもらうぞ。その後で食事を頼みたい」
「かしこまりました!!」
なんだかかわいそうになるほど怯えているのはなぜなのか。
聞きたいが聞いてはいけない気がする。
「ほら、柚子。好きに見て回れ」
「本当にいいの?」
「もちろんだ。なあ?」
玲夜に問われた店長に視線を向ければ、首振り人形のように激しく首を上下させる。
なんとも言えない気持ちになりながら、ありがたく中を見せてもらうことに。
座席や椅子やテーブルといった家具に始まり、壁紙や照明。
さらには厨房やスタッフルームまで見せてもらえた。
「なるほど」
気になったものをスマホで好きなだけ写真を撮って満足すると、客席に着いて飲み物を頼む。
メニューも確認しなければならない大事なアイテムだ。
それも写真をカシャリと撮る。
「うーん。こうしてみると決めなきゃいけないものがたくさんあるなぁ」
悩む柚子を、玲夜は足を組み、注文したホットコーヒーを飲みながら優しげな眼差しで見ていた。
「好きなだけ悩むといい。以前に俺が渡した完成予想図も、あくまで仮のものだ。柚子の好みにいじるといい」
「玲夜が考えてくれたものが十分私好みだから、基本はあのままで、細かいところだけ変えようかな」
「そもそもどんな店にしたいんだ?」
「玲夜の妥協案が、平日週三日の昼間までだっけ?」
結構厳しいルールだが、玲夜はそれ以上譲る気はないという強い眼差しで「ああ」と頷く。
どうやら交渉の余地はなさそうだ。
「ちなみに朝は? お店で朝食メニューを出すのはオッケー?」
「朝の食事は俺と一緒に取るのが決まりだ」
そんなものいつ決まったのか分からないが、朝食を一緒に取るのは日課となっているので玲夜は譲らなさそうだ。
「そうなると、ランチ時だけの営業になっちゃうかな」
玲夜が用意してくれた土地は、駐車スペースを考えるとさほど大きな店は建てられない。
料理は柚子ひとりで回していく予定なので、そもそも大きな店は必要ないだろうからかまわないが、本家近くの土地とあって周辺は高級住宅地となっている。
客層は恐らく上流階級の人間やあやかし。
そうなると、大衆向けというよりは高級志向なお店にした方がいいかもしれない。
高級住宅地が近いならお金持ちのマダムに狙いを定めた予約制のランチコースなんていいのではないだろうか。
あらかじめメニューが決まったコースなら柚子でもあたふたせずにやりくりできる。
「むむむ」
しかし、上流階級の人を相手にするなら接客もそれなりの作法を身につけた者でなくてはならない。
柚子の眉間にしわが寄るのを玲夜は楽しげに見ていた。
「なにか問題か?」
「うん。立地を考えると安さを求めてくる人より、静かで高級感のあるお店と料理にした方がいいのかなって」
「まあ、そうだろうな」
「なら、私ひとりでも回せるように飛び入り不可の予約制にして、メニューもコース料理オンリー。食材にこだわって、高級感はあるけどあまり敷居が高すぎず何度でも足を運んでくれるような、カジュアルな創作料理のお店がいいな」
玲夜が実際のお店を見せてくれたおかげで、柚子の中でお店の予想図がはっきりと組み立てられていく。
「だけど、接客を任せられるような、しっかりとした作法を身につけた人をどう雇えばいいか分からなくて。お給料の相場とかも分からないから調べないと」
「それなら問題ない」
「どうして?」
「屋敷の使用人を接客に駆り出せばいい。というか、柚子の店の手伝いをしたいと雪乃や他数名が名乗り出ている」
柚子は驚きのあまり目を丸くした。
「えー、雪乃さんたちが?」
「ああ。屋敷の使用人を使うなら給料も必要ない。その分は俺がちゃんと払っているからな」
「それだと屋敷の方が困らない?」
「週三日の数時間だけだろう? 店の大きさからも、接客がふたりもいれば回せる。給料の代わりに賄いを食べさせてやったらいい」
柚子としても雪乃たちならば安心だ。
接客の仕方も柚子が教えるまでもなく、すでにプロフェッショナルだ。
「でもいいのかなぁ、そんなに甘えちゃって」
「むしろ甘えてくれた方が俺も助かる。護衛の面でも心配がなくなるからな」
「なるほど」
玲夜の屋敷で雇われている使用人は全員鬼だ。
最強のあやかしである鬼の一族が一緒に働いてくれれば、花嫁を外で働かせる不安も少しはマシということか。
「それじゃあ、帰ったら雪乃さんたちと話してみようかな」
「ああ。そうするといい」
そのカフェでの食事はさすが人気店というだけあって女性が好きそうな鮮やかな彩りで見た目も味も美味しかったが、柚子が求めるジャンルとは少し違った。
「うーん。今度はカジュアルな洋食のコースが食べられるところに行きたいな」
「なら、しばらくは柚子の求める店を探して食べ歩きの旅だな」
「一緒に行ってくれる? もちろん無理そうなら透子を誘うけど……」
遠慮がちな言葉を発しながらも、玲夜と行きたいという本音が表情に出てしまっている。
玲夜はそんな分かりやすい柚子の頭をポンポンと優しく撫で、穏やかな笑みを浮かべた。
「一緒に行こう。仕事は父さんに押しつけるから問題ない」
「それは、いいの?」
玲夜には問題なくとも、千夜にとったら大問題ではないだろうか。
もともとその他の仕事が忙しく、普段は会社を玲夜に任せているという話なのだから。
「大丈夫だろ。いつもはなんだかんだと理由をつけてサボろうとしてるだけで、父さんが本気を出せばもっと早く仕事は片付くんだ。今まで俺に任せていた分を取り返してもらおう」
「そうなの? ……お義父様ってほんとに謎だ」
のほほんとしていて、中学生にらまれただけで泣き出しそうなほど見た目は弱そうだし、ドジっ子新入社員のように仕事もできなさそうなのに、あやかしのトップで仕事もできるとは。
人は見た目じゃないとは千夜のためにある言葉のようだ。
屋敷に帰ると、久しぶりにゆっくりとした時間を玲夜とふたり過ごすことができた。
帰ってすぐにしたのは、支給されたばかりのコックコートを着て、一番に玲夜に見せたことだ。
「玲夜、見てみて~」
スーツからゆったりとくつろいだ浴衣に着替えた玲夜の前でくるりと回ってみせる。
「似合う?」
「ああ。よく似合ってる」
玲夜に褒めてもらえるのがなにより嬉しい。
けれど、透子にもこの姿を見せたくなった柚子は、玲夜に全身写真をスマホで撮ってもらい、それを透子に送信する。
すぐに既読がつき、『柚子かわいい!』というメッセージが帰ってきた。
『ありがとう』と返信していると、コンコンと小さくノックの音がする。
柚子が扉を開けると、足下から元気のいい声が聞こえてくる。
「あーい!」
「あいあい!」
どうやらノックの主は子鬼だったよう。
子鬼はいつもの甚平ではなく、柚子と同じコックコートとコック帽を着ていた。
「かわいい!」
「似合う?」
「どう?」
『なかなか似合っておるだろう?』
子鬼の後ろから龍とまろとみるくまで部屋に入って来た。
子鬼は駆け足で玲夜の元へ行ってコックコートを自慢げに見せている。
玲夜も満足そうに口角をあげている子鬼たちの衣装は、玲夜から元手芸部部長への正式依頼第一弾になったものだ。
コックコートと聞いて、元部長は鼻血を噴き出しそうになりながら、親指をグッと立てたとか。
写真は必ず送るように頼まれているので子鬼を呼ぶ。
「子鬼ちゃん。写真撮るからテーブルの上に立ってくれる?」
「あーい」
「やー」
ぴょんと飛び乗った子鬼を写真に収め、柚子はしばし逡巡。
せっかくだからと透子や高校時代の友人たちにも共有したところ、続々とメッセージが送られてきた。
『いやぁぁん、かわいい!』
『かわゆす』
『子鬼ちゃん、ラブ』
『次の作品に期待大! 続報を待つ』
などなど、高校を卒業しても子鬼の人気は健在のようだ。
このように気安くやり取りできる友人が料理学校でもできたらいいのだが。
今日声をかけてくれた澪はとても話しやすくてぜひとも友人になれたらいいのにと柚子は思った。
一度着替えてから戻れば、子鬼も甚平に着替えており、コックコートと帽子を正座をしながら丁寧に畳んでいた。
その姿がなんとも愛らしいので、その場面も思わず写真に収めてしまう。
「アオーン」
足下を擦りつけるようにまとわりついてくるまろを撫でてから、柚子は玲夜の足の間に座った。
柚子が微笑みかければ、表情を緩めた玲夜が優しい触れるだけのキスを何度も繰り返す。
「ねぇ、玲夜。今度お店をどうするか業者の人と話したいんだけど、いつがいいかな?」
「そうだな。一年で卒業なら早い方がいいだろう。業者に屋敷へ来るように連絡しておく。後で都合のいい日にちを高道に言っておいてくれ。俺は一緒にいられないかもしれないから桜子に頼むか」
「桜子さんに迷惑かけるのも申し訳ないからひとりでも大丈夫。屋敷の中だし、いざとなったら雪乃さんに相談できるもの」
「ちゃんと護衛はつけるぞ?」
「うん。玲夜に任せる」
たとえ屋敷の中といえど、他人を入れるならば護衛は必須だとあきらめているので反対意見はない。
花嫁以上に、鬼龍院玲夜の妻という価値が分からないほど柚子も鈍くはないのだ。
「できれば制服も準備したいんだけど、ネットで探せばいいのかな? それに店を開くなら食材の仕入れ業者も考えておかないとだよね」
やらなければならないことが山ほどあって、どこから手をつけたらいいのか分からない。
「それも高道に伝えておけば、準備してくれる。店を建てるのも服を作るのも仕入れ業者も、鬼龍院のグループ内の会社ですべてまかなえるからな」
「今さらながら鬼龍院の会社の大きさに驚いてる。それと高道さんの万能さに」
「本当に今さらだな」
玲夜は微笑むだけだが、鬼龍院がそこまで手広く事業を行っているとは、勉強不足を実感させられてしまう。
「……あれ? 私、料理の勉強するより鬼龍院のこと勉強するのが先かも?」
「本当に今さらすぎるな」
玲夜は今度こそ、くっくっくっと声をあげて笑ってしまった。
「柚子はそのままでいい。好きなことを好きなようにしている生き生きした柚子が一番だ」
「玲夜……」
玲夜の思いやりに感動して抱きつく。
「だが、樹本仁とは必要以上に接触するなよ」
「それ忘れてなかったのね」
さっきの感動を返してほしいと、柚子はがっくりした。
四章
三日間のオリエンテーションが終わって実習が始まった。
最初は手の洗い方や包丁の握り方からという基礎の基礎からだ。
授業は実習だけでなく座学もあり、覚えることはたくさんある。
大変でありつつも充実した学校生活が日々過ぎていく。
相変わらず玲夜は忙しいようだが、柚子の休みの日には時間を作ってくれ、柚子の参考になるようなお店を一緒に回ってくれる。
まだまだゆっくりとはいかないが、ふたりでいられる時間が確保されただけでも嬉しくて仕方ない。
仕事を肩代わりしてくれている千夜には感謝であるが、玲夜によるとグダグダと文句がだだ漏れているらしい。
申し訳なく思いつつも頑張ってくれと心の中で応援するしかない柚子は、午前中の授業が終わると教室でお弁当を食べるようにしていた。
この学校にはかくりよ学園のように食堂もカフェもないので、皆食べ物を持参するか、周辺にある飲食店に食べに行くのだ。
外に食べに行くのは護衛の面でもよろしくないので、玲夜の屋敷のお抱え料理人が毎日美味しいお弁当を作ってくれている。
正直言うと、友人を伴ってゾロゾロと食べに行く人たちが羨ましくあるのだが、柚子はどうも周りから避けられている気がしてならない。
いや、きっと気のせいではないのだろう。
実習でグループを組む時も声をかけようとするのだが、気配を察した相手に逃げられる。
誰もかれも、実は忍者なのではないかと錯覚するぐらいに素早く逃げていくのだ。
誰ともグループになれず落ち込んでいるところを、澪に声をかけられ救われるというのが毎度のことだった。
澪は普通に他の人ともグループを作り楽しそうにしていたのに、そのグループを離れてわざわざ柚子と組んでくれるのだ。
澪がいなれば間違いなくぼっち決定だった。
柚子には澪が天使に見える。
今もそうだ。
仲のよい別の女の子たちに外食しないかと誘われていたのに、それを断って近くのコンビニで昼食を買って一緒に食べてくれている。
「ごめんね、澪」
「なにが?」
澪は柚子が謝罪する理由をよく分かっていないようだ。
「お昼ごはん誘われてたでしょ? それなのに断ったのって、私に気を遣ってくれてるよね?」
「あー、いいのいいの。私が柚子と一緒に食べたかっただけなんだから」
「ありがとね」
まったく恩着せがましくしない澪に何度感謝の念を抱いたか。
「というか、どうして私こんなに避けられてるの? 澪は知ってる?」
柚子は残念ながら避けられているので理由が分からない。
すると、予想外のことを聞かれたというように澪が目をぱちくりさせる。
「え、マジで気付いてないの?」
「やっぱりなにかあるの!?」
おかしな問題は起こしていないはずなのだが。
まさか知らないところで龍がなにかやらかしたのか。
思わず龍に視線を向けると、『我はなにもしておらぬぞ!』と首を横に振る。
次に子鬼を見れば、ふたりも慌てたようにブンブン首を振った。
「違うよー」
「なにもしてない」
『我だって!』
「えー、じゃあなに?」
柚子には他に思い当たるものがない。
悩む柚子に、澪が苦笑を浮かべながら教えてくれる。
「柚子ってさ、毎日すんごい高級車で送り迎えしてもらってるでしょ」
「ああ、うん」
目立つ真似はしたくない柚子だが、電車を使った通学など玲夜が許すはずがない。
澪と一緒に帰って寄り道したりしたいが、こればかりは仕方ない。
もとより花嫁として利用価値のあった柚子は、正式に籍を入れて鬼龍院家の嫁となったことで、本人が思う以上に周りからの価値があがったのである。
それにより邪なことを考える愚か者も出てこないとも限らない。
要は、金銭を目的に誘拐される可能性もあるという。
もしくは、怨恨。
鬼龍院ともなると逆恨みされる覚えは腐るほどある。
そんな中で、嫁が無用心にひとりで歩いていたら狙われても文句は言えない。
自分だけならいいが、周囲を巻き込む可能性だってあるのだ。
たとえ窮屈でも車通学は必要な措置だった。
「やっぱり目立ってる?」
「目立ってるなんてもんじゃないわよ。毎日身につけてる服も靴も鞄も全部高級ブランド品だし」
学校には着いてすぐにコックコートに着替えて授業を受けるので、私服でいるのは登下校の時だけなのだが、見る人は見ているようだ。
「しかもそれ!」
澪は子鬼と龍を次々に指さした。
「そんな奇妙な生き物連れてて目立たないはずないでしょうよ」
「だよねー。でも一応私のボディガードだから連れて歩かないわけにもいかなくて……」
「それに加えて柚子の名前も問題よ。鬼龍院ってさ、あの大企業の鬼龍院よね?」
「気付いちゃった?」
あまりにも澪が変わらぬ態度でいたために気付かれていないと思っていたが、違ったようだ。
「そんな人外のマスコット連れてたら、嫌でもあやかしと繋げるって。その小さい子なんて角生えてるし。あやかしに関係があって鬼龍院ときたら、もう、ねぇ。直接は聞いてなくても関係者だって言ってるようなものでしょ」
「それってだいたいの人が察してる?」
「そうじゃない? 私にもそれとなく柚子には関わらない方がいいよって助言してくる子もいるし」
「えっ、そんなに嫌われてるの?」
関わるなとまで言われているなんて、誰も近付いてこないはずだ。
激しくショックを受ける柚子。
「嫌われてるっていうかさぁ、なんていうの? 怯えられてる感じかな。あの鬼龍院の関係者に下手なことして鬼龍院を敵に回したりしたら、今後の就職に不利になるじゃない。鬼龍院の影響力は広いって誰だって知ってるもの」
「それで避けられてるのか……」
「それにさ、鬼龍院って鬼のあやかしのはずなのに、柚子って見た感じ人間でしょう? それなのに鬼龍院を名乗ってるのが余計によく分からない存在と化しちゃって、取扱注意のレッテル貼られてるのよ」
「やっと、理由が分かった。ありがとう……」
かくりよ学園では鬼龍院だからと媚びを売る人間にたかられたが、まさか逆のパターンになるのは予想外だった。
しかも、柚子が人間と分かっていながら鬼龍院と名乗っていても花嫁と思わない辺り、柚子が思う以上にあやかしの世界に詳しくない人たちが多いようだ。
柚子の場合は早いうちから妹の花梨が妖狐の花嫁となったので、嫌でもある程度の知識がついたが、世間はそうではないのだと理解させられた。
だからといって、今さら花嫁ですでに人妻ですと言うつもりもないし、その必要性も感じない。
「でも、澪は他の人みたいに避けないの?」
それが一番不思議だった。
「えー、だってそんなしょうもない理由で仲間はずれみたいな幼稚な行動するのは私の主義に反するのよね。それに柚子って話しやすいし、しゃべってて楽しいんだもん」
率直な気持ちをぶつけてくれる澪の言葉が嬉しくて、柚子ははにかむ。
「それに、鬼龍院の関係者っていうなら、あわよくば職を斡旋してくれるかもだし」
あはははっ!と机をバンバン叩いて大笑いする澪からは、先ほどの発言が冗談だというのが伝わってくるが、明け透けすぎる。
「せめてオブラートに包んでもらいたいんだけど」
「嘘嘘、冗談よ~。だって私は自分の店を持つのが夢なんだし。鬼龍院なんて関係ないもの。柚子だってそうでしょう?」
「うん。私も自分のお店が完成するのが待ち遠しくて」
「えっ! それってもしかしてすでにお店持ってるの?」
澪が驚いたように目を丸くする。
「ううん、お店はまだ。今は更地だから、これから建てていくの。できれば卒業までに完成したらいいなって」
「場所どこ? できたら絶対食べに行くから」
「えっと──」
柚子はスマホで地図アプリを起動させて、お店の場所を澪に見せる。
「うわっ! ここってめっちゃ高級住宅地じゃない。土地高かったんじゃないの?」
「それが、鬼龍院の持ってる土地だから名義変更しただけみたいで……」
あり金全部渡すと言ったのだが、いずれ玲夜が相続する土地だから問題ないと一銭も受け取ってくれなかった。
「俺のものはすべて柚子のものだ」
蕩けるような笑顔で言われた殺し文句に、柚子は撃沈した。
名義を換えたなら必要になる相続税も、柚子の知らないうちに高道が対処してしまった後だったので、口を出す暇がなかった。
高道ときたら弁護士資格だけでなく税理士の資格まで持っていたのである。
万能秘書のおかけで手続きもスムーズだったとか。
どうやったら高道のようななんでもできる秘書ができあがるのだろうか。
ひとえに玲夜への一途すぎる想いが成し遂げた努力の結果としか言いようがない。
桜子が腐ったのは、高道にも原因があったのではないかと柚子は思っている。
「あ~あ、お金持ちはいいわよねぇ」
少し離れたところから聞こえてきた声に、柚子と澪はそちらに視線を向ける。
声を発したのは同じクラスメイトの鳴海芽衣だ。
鎖骨ほどの長さの黒髪を黒いゴムで後ろにひとつでくくり、黒縁の眼鏡をした飾り気のない素朴な女の子。
しかしどこか気が強そうな雰囲気を持っていた。
これまで話をしたことはなかったのだが、なぜか頻繁ににらまれるのだ。
気のせいかと思ったが、明らかな敵意を感じる。
それは柚子へ害意を持つ者には敏感な龍や子鬼も同じ意見なので、勘違いなどではないだろう。
幸いなにもされていないので玲夜には報告していない。
まあ、子鬼や龍が告げ口していそうだが、これまで玲夜から鳴海の話題が出たことはなかった。
鳴海ににらまれる理由も分からず、かといって本人に聞いて逆上させても困るので、柚子はとりあえず知らぬふりをし続けている。
そんな鳴海から初めて声をかけられた。
その言葉には明確な毒が含まれているのを肌で感じる。
柚子のなにが気に入らないのだろうか。彼女とは同じ教室にいるだけで、それ以上の接触はないというのに。
柚子が困惑した表情でいると、鳴海は憎々しげに柚子を見ながら口が止まらない。
「それってさあ、自慢なの? 庶民にはこんな土地買えないだろうって」
嫌みっぽく言われた柚子は、困ったようにしつつ謝罪することを選ぶ。
「……そんなつもりはないです。気を悪くしたならごめんなさい」
確かに他人からしたら、恵まれた柚子の発言は金持ち自慢に聞こえても不思議ではない。
「はっ、なに? 殊勝に謝っちゃって、悲劇のヒロインぶってるの? 私が悪者みたいじゃない。どうせその土地だって男に貢がせたんでしょう? そんな汚い土地を自慢なんかしても誰も羨ましがらないわよ」
さすがに言いすぎだと柚子はカチンときた。
確かに男に貢がせたといえばそうなのかもしれない。
けれど、あの土地は玲夜からのサプライズのプレゼントだ。
柚子にとっては玲夜の心が詰まった大切なもの。
それを、これまで話したことすらない赤の他人に蔑まれたりしたくなかった。
まるで込められた想いを否定されたようで怒りが湧く。
子鬼と龍はすでに臨戦態勢に入っており、柚子も言い返そうと口を開こうとしたところで、澪に先を越された。
「なによ、あんた。羨ましいなら羨ましいって言いなさいよ。僻んでんの?」
「はあ!? 関係ないでしょ!」
「どう考えても関係ないのはあんたの方でしょうが! こっちの話に聞き耳立ててたわけ? 下品だとは思わないの? 盗み聞きしといて勝手にキレんじゃないわよ、迷惑だわ!」
「盗み聞きなんてしてないわよ! あんたたちが大きな声で話してるから勝手にきこえてくるんでしょう! 聞かれたくないなら外に行きなさいよ!」
自分以上に怒りを爆発させて怒鳴り合う澪の姿に、柚子はあっけにとられた。
「どこでなにを話そうとこっちの勝手でしょう! くっちゃべってる人は他にもいるじゃない。なのになんで私たちだけに文句言うのよ。それとも話に加わりたかった? それは気がつかずにごめんあそばせ。そっちがどうしてもって言うなら会話に入れてあげなくもないわよ」
ふふんとどこか小馬鹿にするように鼻を鳴らす澪に、鳴海は怒りで顔を真っ赤にしている。
「そんなのいらないわよ!」
そこでようやく言い合いは終わり、鳴海はきびすを返して自分の席へ戻っていった。
「えっと、ありがとう……」
あまりのふたりの迫力に柚子の怒りもどこかに吹っ飛んだ。
「いいのよ~。あの子、前からなんか柚子が気に食わないって顔してて、いつか突っかかってくるんじゃないかと思ってたのよね」
「あっ、澪も気付いてた?」
「そりゃあ、あんなに分かりやすく親の敵かってぐらいにらみつけてたら気付くでしょ。私は実習中も柚子と組んで一緒にいることが多いし、余計にね。最初私がにらまれてるのかと勘違いしてたぐらいだし。ちなみに、あの子になんかしたの? 知り合い?」
「まったく。話しかけられたのもこれが初めてだし」
話しかけられたというよりは、喧嘩を売られたという言葉の方が正しい気がする。
「ふーん。まあ、なんで嫌われてるのか知らないけど、またなにかあっても私が撃退してあげる」
「頼もしいね。お礼におかず好きなのあげる」
「やった。その肉団子で!」
柚子はクスクスと笑い肉団子を差し出した。
実習が始まってもそんなすぐに料理は教えてもらえない。
今柚子が習っている最中なのは野菜の切り方だ。
学校は早朝授業が始まる前に実習室を開放しており、食材を好きに使って練習していいことになっているが、朝食は一緒に取るという玲夜の決めたルールがあるので早く学校にいけない。
その代わり、柚子は朝早くに起きて、キッチンで屋敷の料理人たちに混ざり、ひたすら野菜を切るのが最近の日課となっていた。
屋敷で勤める使用人たちの朝食のためにも大量の食材を必要とするので、柚子が練習で使った食材たちは、料理人により使用人の食事へと作り替えられ一石二鳥。
さらには自分で切った野菜を使いスープや味噌汁にして玲夜の朝食に持っていけば、玲夜も朝から機嫌がいいという二鳥どころか三鳥になる。
ここのところ午前中は玲夜の機嫌がいいと高道にも褒められた。
ちなみに午後からは早く帰りたがるので、機嫌は急降下するらしい。
ぜひとも機嫌回復のために玲夜だけのためのお弁当を作ってほしいと高道に頼まれた柚子は、気合い十分に了承した。
とはいえ、まだ本格的な料理を習っていない柚子の作るお弁当は素人止まり。
完成したお弁当を見ては、ため息をついてしまう。
「うーん。やっぱりプロの料理人が作るお弁当の方がよくないかなぁ」
柚子が作った玲夜のお弁当の横には、屋敷の料理人が作った柚子用のお弁当が並んでいた。
隣に置くのが失礼なほど見た目の差があり、当然味だって比べものにならない。
そんな下手くそなものを玲夜に食べさせるのかと気が引けた。
「いっそ、私が作ったことにして綺麗な方を渡しちゃおうか」
『それはバレたら後でショックが大きいと思うぞ。というか、蓋を開けた瞬間にひと目で分かるであろう』
「やっぱり?」
龍のもっともな意見に、柚子は仕方なく自分の分を玲夜の弁当袋に入れた。
渡す時が一番緊張するのは、こんな粗末なお弁当を渡していいのかという罪悪感があるからだ。
前はなにも考えずに玲夜にお弁当を作って渡したりもしたが、よくよく考えれば彼は鬼龍院の次期当主。
きっと子供の頃から最高の料理を食べてきて舌も肥えているに決まっているではないか。
柚子の作ったものは口に合わないのではなかろうか。
「玲夜、本当に私の作ったのでいいの? こっちにプロの料理人が作った美味しいお弁当の方がよくない?」
聞くまでもなく絶対プロのお弁当がいいに決まっているのに、玲夜は大事そうに柚子が作った方の弁当袋を受け取った。
「いや、俺はこれがなにより欲しい。どんな料理より柚子の作ったものが一番だ」
お礼代わりに頬にキスをしてくる玲夜は、言葉の通り嬉しそうなのが伝わってくる表情をしていた。
だが、絶対に選ぶ方を間違っている。
なのに玲夜は、柚子の作るものがなによりだと言って、帰ってきたら必ず空になったお弁当箱を渡して美味しかったと褒めてくれるのだ。
そんな玲夜に報いる方法はひとつしかない。
「私学校でちゃんと料理勉強してくるからね。それでちゃんと美味しい料理を玲夜に作るから!」
「ああ。楽しみにしてる。柚子の最初の客になるのは俺しか許さないからな」
「うん」
玲夜すら唸るものを作ってみせると意気込む柚子に、玲夜はなにか思い出したよう。
「そういえば、例のお店のデザインの件だが、今度の週末はどうだ? その日なら俺も休める」
「本当! 玲夜がいてくれるならその日で大丈夫」
「分かった。高道にもそう伝えておく」
「楽しみ~」
お弁当のことも忘れて一気にご機嫌になる柚子に、玲夜は再びキスをして会社へ向かった。
『柚子。そなたも急がねば遅刻するぞ』
「うわ、そうだ。子鬼ちゃん、行くよー」
「あーい」
「あいあーい」
子鬼が元部長お手製の斜め掛け鞄を持って、慌てて走ってきた。
中には実習中に使うコックコート一式が入っている。
元部長ときたら、玲夜と正式に契約して給金が発生したことでリミッターを外してしまい、頻繁に子鬼用の服を送ってくるようになってしまった。
創作意欲は留まることを知らず、先日などはデザイン画を送ってよこし、子鬼に選ばせていた。
完全に子鬼専属のデザイナーである。
本業は大丈夫なのかと心配する量に、そろそろ子鬼専用のクローゼットが必要かと玲夜と話しているところだ。
そして、予定していた週末。
玲夜は久しぶりに仕事が休みで、朝からのんびりとふたりで過ごしていた。
おそらく結婚して初めて新婚らしい過ごし方をしているかもしれない。
いっそ今日は誰にも邪魔させず、ふたりで部屋に閉じこもっていようかとすら思うが、今日は別の意味でも柚子が楽しみにしていた日なのだ。
「お客様がお見えです」
雪乃が部屋の外から声をかけてくると、柚子は喜びを隠せない表情で跳びあがった。
「玲夜、早く早く!」
急かすように玲夜の手を引いて客間へ行くと、高道の他に女性がふたりほど来ていた。
「玲夜様のご要望通り、女性のデザイナーを用意しました」
「玲夜……」
なんとも言えない表情で柚子は玲夜を見あげる。
「余計なことを言うな」
「失礼いたしました。しかし、このように仕事相手にすら嫉妬するほど玲夜様は花嫁様を大事にしておりますので、くれぐれも粗相のないようにお願いしますよ。もちろん、仕事の不備があろうなどもってのほかです」
「ひっ!」
「はいぃ!」
連れてこられた彼女たちは見たところあやかしではなく人間のようで、高道の笑顔の圧力に身を震わせ怯えているではないか。
かわいそうに。
「高道さん、そんなにプレッシャーかけなくても大丈夫ですよ」
「いえ、玲夜様から任された大事な柚子様のお店ですから、手抜かりがあってはなりません。もちろん私も確認しますので柚子様はご安心を」
「あ、ありがとうございます……」
大事な柚子の店だからではなく、玲夜に頼まれたというところが重要だ。
玲夜至上主義の高道が選んだ人選なので優秀な人たちなのだろうが、今回ばかりは高道に目をつけられて不憫でならない。
きっと明日には胃薬が必要になるだろう。
柚子は心の中で静かに合掌した。
全員が座り、女性ふたりがノートパソコンを広げる。
「で、ででででは、奥様のご要望を伺えればと思います」
言葉に動揺が見られるが、柚子は気付かないふりをしてあらかじめ考えていた店の雰囲気を伝える。
玲夜があらかじめ考えてくれていたイメージ図に、柚子の希望をどんどん加えていく。
仕事の話になると女性たちの顔つきも代わり、次々に柚子から希望を引き出す会話の上手さは、さすが高道に目をつけられただけあると感心してしまった。
あまり想像できていない部分は彼女たちが持ってきた大量のパンフレットを見せてもらいながら、イメージを膨らませていった。
話は何時間にも及んでしまったが、あまり疲れたとは思わなかった。
むしろ満足感いっぱいで高揚している。
けれど、聞く方はきっと疲れただろう。
「すみません。いろいろと」
「いえいえ、大切な自分のお店ですもの。こちらとしてもイメージの齟齬がないようにしていきたいので、どんどん聞かせてください」
「ありがとうございます」
「店内に置く備品のパンフレットもお渡ししておきますね。けれど実際に見てさわれるショールームに行かれるのをオススメします。その方が使いやすさも分かりやすいですし」
確かにキッチン台を始め家具といった物も、実物を見て大きさや使いやすさを確認した方がよさそうだ。
パンフレットだけでは伝わりきらないところもあるだろう。
柚子はおずおずと玲夜をうかがい見る。
「次の休みにな」
その言葉に柚子はぱっと表情を明るくした。
高道がなにか言いたそうな顔をしていたが、玲夜がそれ以上のことを口にしないので大丈夫だろう。……たぶん。
「では、今日お話しさせていただいた内容を元に完成予想図を作りますね。あくまで仮ですので、気になったカ所は修正していきますので、気軽におっしゃってください」
「よろしくお願いします」
それから一週間後、柚子の元に完成予想図が届けられた。
玲夜が作った最初の案から、さらに柚子の好みを足したものに新しくなっている。
「わぁ、すごい」
「よく見て気になるところをまとめておいてくれ」
「はーい」
もうこれで十分すぎるぐらいの内容だったが、よくよく見ていくと気になるところはたくさんあった。
これからずっと使っていくお店なのだから妥協するべきではないなと、休み時間の間に気になった場所を忘れぬうちにメモしていると、澪が興味津々に柚子の手元を覗き込んだ。
「なに、それ?」
「前に言ってた、私のお店のイメージ画なの」
「えー、すごい。見せてもらってもいい? 私も参考にしたいから」
「うん」
柚子と同じく自分の店を持ちたいと言っている澪にならいいだろうと紙を渡し、柚子は黙々と改善点をまとまとめる。
ひとつが気になると、別のところも気になってくるから不思議だ。
けれど考えることが嬉しくて仕方ないのは、やはりある程度のイメージが柚子の中でできあがっているからだろう。
その店で働く自分の姿が浮かび心が躍る。
ショールームへ行くのは少し先になりそうだというから、柚子は大人しく待つしかないが、気が急いてならない。
「いいじゃない。すっごくかわいいし、どこか品があるわね」
「女性が来やすいお店にしたいの」
「え~、羨ましいな。私もこんなお店持てたらいいけど、いつになるやら。宝くじでも当たらないかなぁ」
「ふふふっ。ちなみにお店の制服のデザインもあるんだけど、見て感想教えてくれる?」
すかさず「見せて見せて~」とテンションをあげる澪に見せるのは、従業員用の制服にしようと予定しているものだ。
これは鬼龍院の会社を頼らずに元部長にお願いすることにした。
最初は断られてしまったのだが、子鬼ににも着せたいと言えば、まさに鶴のひと声。
休日返上で描き上げたデザイン画を何枚も送ってきたのである。
子鬼の威力はすさまじいなと、なんとも言えない気持ちになりながら確認したデザイン画は、子鬼に着せることを抜きにしてもとても素晴らしかった。
女性が好きそうな高級感のある制服とお願いしていたので、どれも品のある仕上がりになっており、甲乙付けがたい。
そこで澪に意見を聞こうと思ったが、澪も結論はでない。
「うーん。こっちはかわいい系で、もうひとつはかっこいい系。どっちもよくて迷うわね」
「でしょう? 私も選べなくって」
さすが普段子鬼の服をたくさんデザインしている元部長だ。
女性の好きそうなツボというのをよく心得ている。
彼女に頼んだのは間違いではなかった。
いっそ二案とも作るかと考えていると、目の前に空いた机にバンっと鞄を叩きつける鳴海がおり、柚子と澪は体をびくつかせる。
「金持ちは苦労知らずでいいわね」
最初の言い合い以降、さらに柚子を敵視するようになった澪は、ことあるごとに金持ちを揶揄して嫌みを言ってくるようになってしまった。
鳴海がそんな態度をするのは柚子にだけなのだ。
しかし、あまりクラスメイトと交流しない鳴海は、柚子と同じくどこか教室内で浮いていた。
まるで手負いの猫のように、近付くなオーラを発しているので、周りも話しかけずらい様子だった。
同じくクラスから浮いてる存在でも、仲良くしたいのに避けられている柚子とは少し状況が違う。
鳴海から誰かに話しかけているのを見たことがない。
ただ、例外となるのが柚子である。
まあ、話しかけるといっても口にする内容は毒ばかりなのだが……。
さすがに何度も繰り返されると慣れてきて、今は怒りも浮かんでこない。
そんな柚子とは反対に必ず噛みつき返すのが澪だ。
「あ~ら、盗み聞きさん、またいたの?」
ぎろりと鳴海ににらまれても平然としている澪は、かなり気が強いようだ。
それは鳴海もだろう。
「まあまあ、澪も落ち着いて」
なぜか嫌みを言われている柚子がなだめるという事態に。
その間、子鬼と龍は今にも噛みつきそうな眼差しで鳴海をじとーっと見ているので、そっちも目が離せない。
「柚子はもっと文句言った方がいいわよ!」
「ふんっ! そっちのお嬢様はお金持ちだから庶民とは関わりたくないんでしょうよ。鼻にかけちゃって性格悪いわね」
「柚子はそんな子じゃないわよ」
「わざわざ学校にまでそんなもの持ってきて見せびらかしてるじゃない。自慢してるんでしょう?」
鳴海の言っている『そんなもの』とは、柚子が持ってきた店の完成予想図のことだ。
これは確かに自分が悪いかもしれないと柚子は反省する。
店を持ちたくても金銭的理由で持てない者もいるだろうに、嬉しさのあまりよく考えずに持ってきてしまった。
それを羨ましがると同時に妬む者もいるかもしれないのに。
「ごめんなさい。もう持ってこないわ」
決してその場を収める口だけの謝罪ではなかったが、鳴海は気に入らないようだ。
「口だけならなんとでも言えるわよ」
ふんっと鼻を鳴らして席に着いてからは、その日一日柚子を無視したように一瞥すらしなかった。
なんとなく鳴海と気まずい空気が流れる。
柚子だけがそう思っているだけなのかもしれないが、なぜあそこまで嫌われているのか未だに分かっていない。
まだ入学して一カ月ほどしか経っていないのだ。
その間に鳴海と話したのは数回だけ。
むしろ澪との方が喧嘩腰だが会話をしていると思う。
知らないうちになにかしてしまったのだろうか。
柚子が悪いなら理由を教えてくれればいいのだが、聞く耳を持ってくれそうにない。
「どうしたものかなぁ」
ロッカーで私服に着替えながら柚子は頭を悩ませた。
着替え終わったのを察した龍と子鬼が姿を見せる。
『放っておけばよい。我が排除してもよいぞ?』
「玲夜みたいなこと言わないでよ。……念のため聞くけど玲夜に話した?」
龍はそっと視線を逸らした。
子鬼ふたりもである。
「言っちゃったんだ。でも、玲夜からなにも聞かれてないけど、どういうつもりなんだろ? 知らないうちに対処されたら怖いから止めておかないと」
言って聞いてくれるかは柚子のお願いの仕方次第なところがあるが、放置するわけにもいかないだろう。
『別に止めずともよくないか? あのような者どうなろうが関係なかろう』
「嫌み言われただけじゃない。それに彼女が怒ってた理由にも完全に反論できないし。……見せびらかしたつもりはないんだけど、結果的にはそう見えてもおかしくない状況だったからなぁ。金持ちの自慢と取られても仕方ないのかも」
少し浮かれすぎていたのかもしれない。
『あの者、柚子が鬼龍院の新妻だと知らぬのではないか? 教えたら嫌みも言えなくなるであろうに』
「そんな権力で物を言わせるのも嫌だもの。ただでさえ普段から虎の威を借る狐状態なんだし。学校内の問題ぐらい玲夜の力を借りないで自分でなんとかしないと。さすがに実害が出てきたら相談しないといけないけど」
相談したが最後、確実に学校を辞めさせられそうである。
『柚子になにかあったら即辞めさせそうではあるな』
今まさに柚子が心の中で危惧したことと同じ内容を龍が口にする。
「だからこそ玲夜に相談しづらいのよ。玲夜の気持ち無視して通わせてもらってるわけだし……。あれ?」
鞄に荷物を詰めていた柚子はロッカーの中に置かれていた封筒に気がついた。
『どうしたのだ?』
「あーい?」
「あい?」
柚子の異変に龍と子鬼が柚子の手元を覗く。
封筒の中には一枚の便箋が入っており、紙にはボールペンで、『今日の君も綺麗だよ。僕の柚子』と書かれていた。
「えっ、なにこれ。気持ち悪い」
内容を理解すると一気に総毛立った。
しかもいつの間に入れたのか。
ロッカーはひとりひとりに用意されており、それぞれに鍵がかかっている。
鍵は授業中ずっと柚子が持っていたのだ。
柚子は慌てて鞄の中を確認するが、なにか取られた形跡はない。
ほっとしたが、素直に安心できない問題が発生してしまった。
『柚子、実害が出ておるではないか。これはさすがに報告案件であろう』
「えっ、いや、ちょっと待って。まだ手紙が入ってただけだし」
『しかし、鍵がかかっておったのだぞ? なにも取られていないか?』
「それは大丈夫みたい。ちょっとした嫌がらせかもだし、少し様子を見てからにしよう。別のロッカーに変えてもらえば解決するはずだから」
龍と子鬼は不服そうな顔をしていたが、玲夜には告げ口せずにいてくれた。
次の日、変えてもらったロッカーからまたもや手紙が出てきた。
内容は『今日のワンピースよく似合っているよ。僕の柚子』と書いてあった。
頭を抱える柚子。
気味の悪い手紙に、柚子は怯えた。
手紙に対してではない。手紙の存在を知った玲夜がぶち切れるのを想像してだ。
「ヤバいヤバいヤバい」
いつぞやの透子のようにヤバいを繰り返す。
『うーむ。これを知られたら絶対に辞めさせられるな』
「あい」
「やー」
龍の冷静なコメントに子鬼たちがうんうんと頷いている。
「ま、まだ二回目だし、実害があるわけじゃないから、大丈夫大丈夫」
『現実逃避しておるな』
「玲夜怖い」
「玲夜キレる」
ただの嫌がらせだと言い聞かせて日々を過ごしていた柚子だったが、日を追うごとに手紙の内容は過激さをましていく。
一応教師には報告した。
その度にロッカーを変えてもらったが、どうやっているのかしっかりと鍵をかけたはずのロッカーの中に手紙が入れられているのだ。
これを重く見た学校側は鍵の管理を徹底するようにしておくとし、柚子にはひとりで行動しないようにと注意を促された。
さすがにここまでくると玲夜に相談せねばと思うのだが、なにか問題が起きたら辞めさせると言われていたのを思いだし躊躇してしまう。
「あー、どうしよう」
言いたくない。けれど、報告せずに放置していたら余計に後が怖いことになる。
そんな時に頭に浮かんできたのは桜子だった。
柚子はすぐさま桜子に電話をした。
「もしもし、桜子さん。今いいですか?」
『ええ、かまいませんよ。どうされましたか?』
柚子は順を追って最近学校で起こっている問題を話した。
『それはまた困ったことになりましたね』
「玲夜に話す前に桜子さんに相談したくて」
『ええ、ええ。玲夜様に知らせたが最後、確実に辞めさせられますでしょうね』
「やっぱり桜子さんもそう思いますか」
なんとか逃げ道はないものか。
『子鬼と霊獣様は一緒ですか?』
「はい。手紙の件があってからは常に一緒にいてもらうようにしてくれてます」
『それがよいでしょうね。霊獣様がいらっしゃれば大抵のことは解決してしまいますから』
「それでも心配性なのが玲夜なんですよ」
それは言わずともあやかしである桜子の方がよく分かっているだろう。
「どうしたらいいですか、桜子さん? まだ全然勉強できてないのに辞めたくないんです」
『……承知しました。玲夜様より先に私を頼ってくださった柚子様のために、ひと肌脱ぎましょう!』
「ありがとうございます!」
やはり桜子に相談してよかったと思った瞬間だった。
『沙良様にはご相談してもよろしいですか? そうすれば密かに護衛を学校内に配備できますから。それにバレた時の対策にもなりますわ』
「桜子さんにお任せします」
沙良ならば、現状を知っても玲夜に告げ口したりせずに柚子の味方になってくれるだろう。
『柚子様は今まで通りに学校へ通ってくださいまし。その間に私の方で調べておきますので』
「よろしくお願いします!」
こうして柚子は強力な味方を得たのだった。