三章

 花茶会より約一週間後、柚子は朝からとても機嫌がいい。
 朝も期待に胸が躍って目覚ましが鳴る前に起きてしまったぐらいだ。
 それと反対にご機嫌斜めなのを隠そうともしないが玲夜である。
 朝食を食べている間も不機嫌いっぱいの表情で箸を動かしている。
 ピリピリとしたオーラを発している玲夜に、使用人たちも触れないように怯えていた。
 これでは会社で誰かが八つ当たりされかねない。
 本当に参ったものだと、柚子も困り顔。
「玲夜」
「なんだ?」
 柚子が話しかければどんなに機嫌が悪くでも甘く柔らかな声で返すのに、今日ばかりは返事をする声からも厳しさが拭えない。
「別に浮気しに行こうってわけじゃないんだから、そんなに腹を立てなくてもいいでしょう?」
「当たり前だ。浮気が目的だったら許可してない。その場で監禁だ」
「さらっと怖いこと言わないでよ。玲夜も許してくれたんだし」
「許したが許してない」
 いったいどっちなんだ。
 柚子はあきれるしかなかった。
 玲夜がここまで不機嫌になっているのは、今日から料理学校が始まるからである。
 一度許可した手前行くなとも言えず、静かに怒りを溜め込んでいるというわけだ。
「一番気に食わない理由がなにか分かるか?」
「なに?」
「指輪はどうしてしていないんだ」
「ああ」
 柚子の左手の薬指には、玲夜から結婚を誓った際に贈られた指輪がはめられていなかった。
 結婚指輪はそもそもしていない。
 あやかしの世界では指輪を交換する決まりがあるわけではなかった上、玲夜のあまりの忙しさに買う暇がなかったのだ。
 時間がないから既製品でいいとパンフレットから選ぼうとしていたのに、玲夜がオーダーメイドにこだわったのがそもそもの理由である。
 なので、結婚指輪を作るまでは、玲夜から贈られた婚約指輪が結婚したことの証となってくれていた。
「ちゃんと持ってるよ」
 安心させるように柚子は首にしているネックレスを服から出す。
 金のチェーンには玲夜の瞳と同じ色の石が通されている。
「授業では実技もあるし、汚したくないから首にかけるようにしたの」
 食材を扱う以上、衛生面も考慮しての判断だ。
 玲夜は不満そうではあったが、それ以上なにも言わなかった。
「今日は入学式とオリエンテーションがあるだけだから早く帰ってくると思う」
「間違っても男と仲良くなるなよ」
「はいはい。分かってます」
 この会話を何度繰り返したことか。少々食傷気味だ。
 玲夜としては女性だけの学校に行かせたかったようだが、これから通う学校は共学。
 しかも人間ばかりであやかしはひとりもいない普通の学校である。
 花嫁に変なちょっかいを出すと、嫉妬深い相手のあやかしと大変な問題に発展するかもしれないので、花嫁には馴れ馴れしくしない。という暗黙のルールをかくりよ学園に通う人間の場合は知っているが、一般の学校でそんな知識を持っている者がいるとは思えない。
 それを玲夜はひどく案じている。
「玲夜、言っとくけど私って普通に考えてモテる人間じゃないからね。異性を警戒しろって玲夜は言うけど、とんだ自意識過剰女になっちゃうから」
「なにを言ってる。柚子は綺麗だ」
 真面目な顔で平然と褒めるのだから、嬉しさとともに気恥ずかしさが襲う。
「ありがとう……」
 好きな人に綺麗と言われて嫌な気がするはずはないが、それは柚子が玲夜の花嫁だからである。
 花嫁フィルターのかかっていないただの人間からしたら、柚子は可もなく不可もない普通の女という評価をされてしまうだろう。
 決して謙遜でも過小評価でもなく、それが現実である。
 桜子ならば入学した途端に求愛者で長い列ができるのだろうが。
「でも、絶対に玲夜の心配は杞憂で終わるし、たった一年だから我慢してね」
「ちゃんと子鬼を連れていくんだぞ」
「うん。龍も一緒だし、鬼龍院の名前で通うんだから、勘のいい人なら怖がって近付いてこないよ」
 結婚したことで鬼龍院柚子となった名前。
 まだ自分でも他人からも呼ばれ慣れていない名前だが、結婚したことを感じさせられる瞬間だ。
 人間である柚子が鬼龍院と名乗ってすぐに鬼の一族の鬼龍院と直結させる人は、よほどあやかしの世界に精通しているか、上流階級の生まれでなければ難しいだろう。
 けれど、子鬼と龍を連れていれば、鬼である鬼龍院となんらかの関係があると察する者は少なくないはずだ。
 ぼっちになる可能性が大である。
「せめてひとりぐらいは友達できるといいんだけどな……」
 すぐに卒業すると分かっていても、料理や授業内容について語り合える相手くらいは欲しいなと、柚子は期待を胸に抱きながら、念願の料理学校の入学式に参加した。
 この日のためにオーダーメイドした紺のスーツを着て、学校へと向かう。
 残念ながら徒歩で通学を許されないのは分かっていたので、ひとりだけ学校に高級車を横付けして下りる。
 多くが車登校してくるかくりよ学園と違い、なんとなく視線を感じたが、気にしたらきりがない。
 これから一年通い続けるのだから。
 一見すると学校というよりはビルのような建物の中に入ると、入り口近くに張り紙が出されていた。
 張り紙から自分の名前を見つけ出すと、入学式のために講堂へ向かう。
 空いた席に隙に座ると、子鬼が興味深そうに声をあげる。
「あーい」
「あい」
 肩に乗っていた子鬼がぴょんと肩から柚子の膝に移動するのを、周りの生徒がぎょっとして見ていた。
 なにやらヒソヒソされているのは気のせいではないだろう。
「子鬼ちゃん、静かにね」
「あーい」
 にぱっと笑いながら手をあげた直後、どこからともなく「かわいい」「なにあれ、人形じゃないよね?」「生きてるの?」などと子鬼に興味津々な声が聞こえてきたが、聞かれてもいないのに柚子の方から話すつもりはない。
 しばらくすると席も埋まり、教師らしき人が入ってきて入学式が始まった。
 思ったより簡単な校長の話や学内の説明が終わると、オリエンテーションのために各教室へ移動する。
 その間も肩にいる子鬼に周囲の目が集まっているのが分かったが、警戒されているのか誰にも声はかけられない。
 料理学校というだけあり、普通ならば教卓がある場所はキッチンのようになっていて、そこで調理ができるようになっていた。
 きっとそれらを使って授業をするのだろう。
 手元を移すカメラとモニターもあるようだ。
 そうこうしているうちに教師が入ってきて、全員に教科書やコックコートなどを渡される。
 身だしなみの大切さを聞いた後は、オリエンテーション後から始まる調理実習のため、コックコートの正しい着方を丁寧に教えられながら、シミひとつない真っ白な白衣に触れる。
 最後にチーフを結んでコック帽を被ったら完成だ。
 新品のコックコートのパリッとした感触が、明日から始まる授業への期待が高まらせていく。
 早く包丁を握りたいが、この日は包丁一式を渡されただけなのが残念だ。
 ひと通りの説明が終わると、今日のオリエンテーションは終わった。
 オリエンテーションは今日を合わせて三日間続き、その間に授業で必要な基礎知識を教えられるのである。
 一日目のオリエンテーションが終われば、すぐに帰る者と帰らずに歓談する者とで分かれている。
 特に急いで帰る必要のない柚子は、友人を作る機会だと残ることに。
 だが、なかなかきっかけが見つけられない。
 子鬼に龍を腕に巻き付けているせいか、なにやら避けられている気がする。
 声をかけるのを躊躇っている間にどんどんグループができあがっていって柚子が焦っていると、柚子は肩を叩かれた。
「ねえ、一緒に話さない?」
 声をかけてくれたのは、若い女性だ。
「私、片桐澪っていうの。あなたは?」
 はつらつとした笑顔を浮かべる、栗色のボブカットの女性の問いかけに、柚子はほっとしたような表情で答えた。
「鬼龍院柚子です」
「よろしく~」
 鬼龍院と聞いてもなにも感じなかったようで、それに対しても柚子は安堵する。
 名前をツッコまれたら、せっかく話しかけてくれた彼女も逃げてしまうと思ったのだ。
「私のことは澪でいいわよ。あなたも柚子って呼んでいい?」
「はい。よろしくお願いします」
 散々体に覚えさせた綺麗な角度でお辞儀をすると、澪は目を見張った後、あはははと豪快に笑う。
 最近礼儀作法をしっかりしなければならない場に出ることが多かったので、丁寧すぎる挨拶になってしまった。
「やだ、固すぎよ。敬語じゃなくていいから。柚子って何歳?」
「二十二です……じゃなくて、二十二よ。大学卒業してすぐに入学したから」
「じゃあ、私より二歳上じゃない。私の方が敬語で話さなきゃ」
 どこか透子を思い出させる快活な澪に、柚子は好印象を抱いた。
「敬語じゃなくていいよ。その方が話しやすいし。じゃあ、短大卒業したとこ?」
「ううん。大学二年まで行ったんだけど、やりたいことができたら辞めてこっちに入学したの」
「へぇ、そうなんだ」
 高校を卒業してから通う者が多いかと思ったので、十代の中で浮かないかと心配があったが、いろんな世代の者がいるんだなと安心した。
 中には明らかに柚子よりずっと年上の人も見かけたので、皆様々な将来を見据えて通ってくるようだ。
「柚子もやっぱり料理人になりたくて?」
「うん。料理人ってほどたいそうな者じゃなくて、自分のお店で自分の作った料理を出せたら嬉しいなって」
「私もっ!」
 澪は嬉しそうに柚子の手を握った。
「私も将来自分のお店を持つのが夢なのよ! 憧れるわよねぇ」
「わぁ、本当に」
「そうよ。一緒に頑張ろうね」
「うん」
 柚子は同志を見つけたようで嬉しくなった。
 ところで気になる問題がひとつ。
「あの、私に気になるものとか聞きたいこととかない?」
「ん? 別に? あっ、お店ではどんな料理出したいのとか?」
「えっと、そうじゃなくて……」
 柚子は困ったように机の上にいた子鬼を手に乗せて澪の前に見せた。
「なにこれ、人形? かわいいわね」
 どうやら澪は周囲から注目を集めていた柚子を知らなかった様子だ。
「あーい」
 子鬼が手をあげて挨拶をすると、澪はぎょっとして後ずさった。
「はっ!? なにこれ!」
 教室内に響き渡る澪の叫びに、本当に気付いていなかったのだと分かる。
「あの、落ち着いて。まったく危ないものじゃないから」
「あーい」
「あいあい」
 ぴょこぴょこ飛び跳ねる子鬼には確かに一般人から見たら不思議が詰まっているが、むやみやたらに人を攻撃したりしない。
 愛想よくニコニコと笑う子鬼に、澪は次第に落ち着きを取り戻していった。
「それなんなの?」
 澪は未知の生物を見るかのような眼差しで子鬼を指さす。
「子鬼ちゃんって言って、なんていうか、私のボディガード?みたいな感じ」
「ボディガードにならなさそうなんだけど。むしろかわいすぎて誘拐されない?」
「見た目はかわいいけど、誘拐犯を逆に半殺しにするぐらいの攻撃力は持ってるから大丈夫」
「それ、全然危ないものじゃないじゃない!」
 澪のツッコミはもっともだ。
「でも、本当になにもしなければ普通にいい子たちだから」
「そう」
 澪は疑いの眼差しを向けながらも、子鬼に人差し指を差し出した。
「えっと、よろしく?」
「あーい」
「あいあい!」
 子鬼が澪の人差し指を握り返すと、澪はなにかを耐えるように口を引き結ぶ。
「えっ、めっちゃかわいいんですけど! どこで手に入るの?」
「非売品だから手に入れるのは無理かな……」
 柚子は困ったように笑うしかない。
 すると、それまで大人しく柚子の腕に巻きついていた龍がにゅるんと澪の眼前に出てくる。
「うわっ!」
 これまたびっくりした澪はのけ反ると、まん丸な目をして龍を凝視する。
「それも、柚子のボディガード?」
『むふふ、いかにも。我らがいるので柚子に危害を加えようなどと考えるでないぞ。でないと命の保証はしな……へぶっ』
 得意げな顔で澪を脅す龍の後頭部を柚子がべしりと叩いた。
「馬鹿なこと言わないの。下手に騒ぐなら連れてこないからね」
『だが、こういうものは最初の印象が肝心ではないか?』
「せっかく友達ができそうなのに邪魔しないで!」
『む~』
 柚子の切迫した迫力に龍は再び大人しく柚子の腕に戻る。
 やっと仲良くできそうな友達がいるのに、脅して逃げられたら困るのだ。
「ごめんね。本当に危ない子たちじゃないから」
 変に澪を怖がらせたのではないかと心配になった柚子だったが、澪はおかしそうに声をあげて笑った。
「ふふふ、あはは! 柚子ってびっくり箱みたいでおもしろいわね。これから仲良くしてね」
「こちらこそ」
 お互いにニコリと笑い合う。
 車で迎えがあることを告げ、それなら学校の出入り口まで一緒に行こうと言ってくれた澪と向かうと、なにやら騒々しい。
「すっごいイケメン」
「めっちゃかっこいい!」
「写真撮っちゃおうか」
 なにやら激しく嫌な予感がした柚子は足早に人垣を抜けて外に出ると、外国人モデルも真っ青なスタイルのいい玲夜が、高級車にもたれながら待っていた。
 衆人環視の視線を一心に集めているのに、本人は慣れているのか興味がないのか、気にした様子はなく、柚子の姿を見つけると破顔一笑する。
 途端に女性たちの黄色い悲鳴が湧き起こった。
 柚子は失敗したと後悔する。
 玲夜に学校には来ないように伝えておくべきだったと。
 玲夜が来たらどこにいようと注目を集めるのは始めから分かっていたではないか。
 そして翌日に待っているのは質問の嵐。
 平穏な学校生活と、料理に集中するためにも、それだけは阻止しなければならない。
 幸い柚子はまだギリギリ学校の敷地内におり、周囲の人に紛れている。
 柚子はすかさずスマホを操作すると『この先のコンビニで待ってて』と、玲夜にメッセージを送る。
 スマホの通知に気付いた玲夜は、スマホの画面を見るとすぐに車の中に入り、玲夜を乗せた高級車は消えていった。
 そうすればまるで夢から覚めたように生徒たちも正気に戻る。
「あーあ。行っちゃった」
「なにしてたんだろ」
「学校にいる彼女を迎えに来たとか?」
「えー、さっきの人と釣り合うような人入学式ではいなかったよ。いたら絶対に噂になってるだろうし」
 そうだねと納得しながら帰っていく生徒たちに、柚子は心の中で『ここにいます』と思いながら場が収まってほっとした。
 深いため息が思わずでてしまったのは決して玲夜のせいではない。
 玲夜が来ることを想定していなかった柚子が悪いのだ。
「柚子、綺麗な人だったわね」
「う、うん。そうだねー」
 とっさに澪に隠してしまってしまい罪悪感を覚えたが、最寄り駅に向かう澪とは別の方向に急いで向かった。