二章

 透子のお宅訪問から約一週間後。
 この日は花茶会のある日。
 柚子は朝食の後、すぐに準備に取りかかったのだが、その顔にはありありと不機嫌さが現れていた。
 それというのも……。
「そう膨れた顔をするな」
透子と相談して決めた淡い黄色の着物を着付けてもらっているそばで苦笑しているのは、普段ならとっくに仕事で屋敷を留守にしているはずの玲夜だ。
「だって、まさか今日に限って玲夜がお休みだなんて聞いてない」
「仕方ないだろう。予定していた会議が取引先の都合でなくなったんだ」
 今日一日はその取引先のためにあけていたため、予定していた仕事が延期されたのだ。
 手をつけなければならない仕事がなくなったわけではないが、ずっと仕事で休暇のなかった玲夜をおもんばかって高道が休みにしたのである。
 本来なら喜ぶべきことなのに、柚子は花茶会に出席しなければならない。
「こっちも延期したい……」
「構わないぞ。今から妖狐の当主に使いを出すか?」
 意地悪く口角をあげる玲夜は、柚子が今さら拒否できないと理解していて言っているのだ。
「そんなのできっこないって分かってるくせに」
 これが透子とのいつもの女子会ならば日にちを変更してもらうが、妖狐の当主を待たせている約束とあっては、今からやめますとも言い出せない。
「あ~、せめて一日ズレてたらよかったのに。そしたら玲夜と一緒に出かけたりできたのにぃ」
 頭を抱える柚子に、「動かないでくださいな」と、雪乃に叱られる。
「すみません……」
 着付けをしてくれる雪乃の邪魔をしないよう大人しくなった柚子。
 しかし、体は動かなくとも、このうちに渦巻く憤りはすぐには静まってくれない。
「ねぇ、玲夜。花茶会っていつもどれぐらい時間かかるんだろう」
 早く終われと言っているみたいで主催者に対して失礼この上ないが、実際に早く終わってくれないかと思っている。
 花茶会の開催時刻は正午ちょうど。
 それからどんな話をしてどれ位の時間を過ごすのかは、初参加の柚子には分からない。
 玲夜ならば知っているかと思ったが、玲夜も詳しくない様子で……。
「さあな。だがそこまで長時間拘束はされないだろう」
「そうかなぁ」
 だといいのだがと思っている自分に気付き、柚子はがっくりする。
「透子も行くからお茶会を楽しみにしてたのに、玲夜が気になって素直に楽しめないかもしれない」
 愚痴混じりの言葉がこぼれ落ちると、玲夜がくくくっと小さく声を出して笑う。
「玲夜」
 玲夜にじとっとした眼差しを向ける柚子は、自分がかなり我が儘を言っている自覚があるも、仕方ないではないかとも思う。
 披露宴以降、玲夜と一日ゆっくりとできた日はないのだから。
 貴重な機会がタイミングの悪さで潰えてしまった。
 だれが悪いというわけでもないので、余計に不満の持っていきどころに困ってしまう。
「柚子がそうやっていつまでも俺と一緒にいたがってくれればいいんだがな」
「えっ?」
 ようやく着付けが終わった柚子が振り返ると、玲夜はどこか寂しそうな目をしていた。
「私どもはこちらで失礼します」
 着付けを終えて部屋を出ていく雪乃たち使用人に、慌てて「ありがとうございます!」とお礼を言ってから玲夜に視線を戻す。
「どうしたの、玲夜?」
 いつもと少し様子の違う玲夜のそばに行くと、メイクを崩さないようにそっとふれてくる玲夜の大きな手に頬を寄せた。
 そうすれば玲夜の表情がいつものように甘さを含んで緩み、柚子はほっとする。
「母さんと妖狐の当主がどうして花嫁のための茶会を開くか分かるか?」
「人間はあやかしの世界をよく知らないからじゃないの?」
「それもある。だが、一番は花嫁を旦那から離すためだ」
「えっ?」
 玲夜の言葉をよく理解できなかった柚子は首をかしげる。
「あやかしにとって花嫁は大事な存在。真綿でくるむように大事に大事に囲うんだ。人間の間ではあやかしの花嫁に選ばれることは幸福だと考えるものが多くいる。確かにあやかしの多くは裕福で社会的地位も高いから、玉の輿に乗ったと思えば幸せなのだろう」
 不意に玲夜の目の奥がほの暗く光る。
「だが、それと引き換えに与えられるのは窮屈な生活だ。大事だからと外に出すことなくあやかしの作った箱庭の中で一生を終える。そんな生活に嫌気がさし、夫との生活に息苦しさを感じる花嫁は少なくない。そればかりか蛇蝎のごとく嫌う者もいる。逃げようとしても権力も持ち合わせたあやかしから逃れる術はない。そんな花嫁たちの息抜きの場として整えられたのが花茶会だ。花嫁以外の出席を許さない。つまり、花嫁の夫たちを一時的にでも引き離し、花嫁の心を休息させるための時間を作るのを目的としている」
 花茶会にそんな裏事情があったのかと驚く柚子に玲夜は苦しそうに告げる。
「花茶会に呼ばれることを楽しみにしている花嫁は少なくない。わずかな時間でも自分のためにあつらえられた綺麗な牢獄から逃れるためにな。いつか柚子もそんな花嫁たちのように俺を嫌悪の対象として見るようにならないかと不安になる。だが、そうなったとしても逃がしてはやれない。だからどうか、今のままの柚子でいてくれ」
 自嘲するような玲夜の笑み。
 それに対して柚子は満面の笑みを浮かべた。
「それなら私たちは大丈夫ね」
「どうしてそう思う?」
「だって、玲夜は私の意志をちゃんと尊重してくれるもの。まあ、料理学校の時はちょっと危うかったけど、本当は嫌なのに玲夜自身の気持ちじゃなくて最後は私の心を優先してくれたでしょう? 花嫁を囲うのが当たり前のはずなのに、玲夜はそうしなかった。いつだって私を一番に考えてくれるもの。そんな玲夜だから大好きよ」
 今の自分の心のうちを、感謝の念を含んで好意とともに告げる。
 玲夜に対するこの愛おしい想いが変わることはないと信じて。
 いや、時を経るごとに大きくなっていくのを感じながら。
「本当に強くなったな」
 もうそこに浮かんでいたのは危うさのある自嘲的な笑みではなく、眩しいものを見るような喜びを感じる微笑み。
 柚子が好きないつもの自信にあふれた優しい顔だ。
「だから、玲夜の用意する牢獄なら喜んで入るわ。暮らしやすく整えてくれそうだし。でも、牢獄の鍵は私に渡してね」
「鍵を渡したら意味はないだろう」
 玲夜はこらえきれない様子で珍しく爆笑している。
「出入り自由じゃないと学校に行けないし、お店もするんだもの」
「きっとこんなに活動的な花嫁は柚子ぐらいだろうな」
「そのせいでいつもにゃん吉君に怒られちゃうんだけどね。鬼龍院様が不憫だろう!って。でも、それを許してくれる玲夜の懐の広さを自慢するといいと思うよ」
「そうだな。なら、懐の広い俺は快く柚子を送り出すとしよう」
 結い上げられた髪を崩さないように後頭部に手を置いた玲夜に引き寄せられ、熱をもった甘すぎるキスを受けると、玲夜の唇には柚子の口紅の色がついてしまう。
「あっ」
 気付いた柚子が思わず手を伸ばすがその手は玲夜に握られ、玲夜は親指で自分の唇を拭うと、まるで柚子に見せつけるように口紅のついた指を舐めた。
 不敵な笑みを浮かべる玲夜から顔を逸らす柚子の顔は口紅のように赤い。
 柚子が時計を見て、そろそろ透子が来る時間だと逃げるように部屋を出た柚子を雪乃が声をかけて止める。
「柚子様、少しお待ちを」
「なんですか?」
「失礼いたします」
 雪乃の手には口紅と筆があり、ささっと口紅を塗り直してくれた。
 まるで口紅を塗り直す必要があることを予見していたかのような用意周到さだ。
 なにも言わない雪乃の気遣いが逆に恥ずかしい。
 別の使用人が鞄を持たせてくれたが、彼女たちの顔をまともに見られなかった。
 羞恥に震える柚子とは反対に玲夜はひょうひょうとした様子で、雪乃から渡されたちり紙でついてしまっていた口紅を拭っている。
 そんな玲夜と玄関の外で待つ。
 足元では不機嫌な様子を隠そうともしない龍と子鬼がうろうろしている。
『鞄に隠れていたらバレないのではないか? もしくは着物の袖の中とか』
「龍は霊力強い」
「すぐバレる」
『うーむ』
 などと、どうにかしてついていこうとしている龍を子鬼ふたりが止めていた。
 花茶会へは、透子と一緒に鬼龍院の車で行く予定である。
 スマホに届いた『もうすぐ着く』というメッセージの通り、何分もしないうちに猫田家の車が到着した。
 車から下りてきた透子は柚子と同じ淡い黄色の着物を着ている。
 柄はそれぞれ違うが、まるでおそろいコーデのようだ。
 着物の裾に気を遣いながら車から下りた透子は、はつらつとした笑顔で手を振ってくる。
「柚子~。よく似合ってるじゃない」
「透子も綺麗」
「ふふん。馬子にも衣裳でしょ」
 透子に続いて下りてきた東吉が玲夜に向かって頭を深く下げる。
「鬼龍院様、本日は透子もご一緒させていただくことになりましてありがとうございます」
「気にするな」
 相変わらず玲夜を相手には緊張した様子の東吉。
 猫又からすれば鬼は気を遣わねばならない相手なのだろうが、東吉の気遣いは透子には伝わっていない。
「にゃん吉ったら固いわね。もう長い付き合いなんだから気楽にしなさいよ」
「お前はもっと気にしろー!」
 くわっと目を剥く東吉は、いつか透子が玲夜の逆鱗に触れないか心配なようだが、玲夜は案外透子のその気安さを気に入っている節があるので、多少の無礼は目を瞑ってくれると思う。
「うっさいわよ、にゃん吉。それより柚子と一緒に写真撮ってよ」
 了承する前に透子は東吉にスマホを渡し、柚子の腕を組んでポーズをする。
 東吉は透子への説教をあきらめて、やや疲れた表情でスマホをかまえた。
「ほら撮るぞー」
「いいわよ」
 透子とふたり並んで撮られた写真はその場で柚子にも共有される。
「ふたりして着物でお出かけなんて滅多にないから記念になったわね。あっ、若様のところにももちろん送っといたんで」
「ああ。礼を言う」
 こういうさりげなく、なおかつ嫌みも下心もない玲夜への媚びが透子が気に入られているところなのだろう。
「じゃあ、そろそろ時間だし行きましょっか。猫又の花嫁ごときが妖狐のご当主を待たせたらえらいことだわ」
「そだね。玲夜、いってきます」
「ああ。なにかあれば母さんか桜子を頼るといい」
 さすがに透子たちのいる前でいつも出かける前にしている挨拶代わりのキスをするのは恥ずかしく、玲夜も柚子シャイな性格をよく理解しているので無理強いすることもない。
 代わりに優しく頭をポンポンと撫でた。
 我先にと鬼龍院家の車に乗り込んだ透子が窓から東吉に手を振る。
「行ってくるわね」
「頼むから主宰者に失礼な態度だけはしないでくれ。頼むから」
 念を押す東吉からは、必死の願いが伝わってくるようだ。
「あいあーい」
「あーい」
 玲夜の肩に乗った子鬼たちが、ついていけないことに落胆した顔で見送っていた。
「ごめんね、子鬼ちゃん。すぐ帰ってくるから」
 そうして走り出した車内で、柚子は深いため息をついた。
「なによ。どうしたの、柚子は。そんなに花茶会が憂鬱なの?」
「そっちも気になるけど、今は別問題。玲夜がお休みだったの」
「あー、そう言われたみれば若様いたわね」
 今気がついたというような透子に、柚子はここぞとばかりに愚痴る。
「高道さんも私が今日出かけることは知ってたはずなのに、先方の都合とは言え今日に休みをぶつけてくるなんて裏を感じる……」
「気のせいじゃない?」
「高道さんは玲夜至上主義だからなぁ。まだ玲夜の奥さんとして認められてない気がする」
 一応表面上では柚子を立ててくれるし、披露宴でも柚子の要望を叶えてくれたりと、ある程度は認めてくれているとは思うが、完全にではないと感じる。
「まあ、前の婚約者が絶世の美女の鬼山桜子さんじゃあねぇ。柚子には太刀打ちできないわ」
 親友ながら容赦のない言葉に、ぐうの音も出ない。
 柚子の価値と言えば花嫁であることぐらい。
 それ以外の品性も知性も容姿も桜子にすべて劣っているのは間違いない。
「透子はにゃん吉君と一緒にいて劣等感を覚えたことないの? にゃん吉君にも透子が花嫁に選ばれるまでは婚約者がいたんでしょう? 玲夜と一緒で家が選んだ政略らしいけど一応いたわけだし」
 同じあやかしとなると、婚約相手は人間の透子よりずっと美人であることは間違いない。
 だというのに、透子ときたら……。
「ないわね。さらに言うと婚約者の存在を気にした記憶もないわ。ミジンコほども」
 ほとんど考える間もなく否定した。
 さっぱりした性格の透子らしいといえば透子らしいのだが、もう少し悩んでもよさそうだ。東吉のためにも。
 政略とはいえ好きな人に婚約者がいたのだから。
「そもそも、にゃん吉が私を選んだんじゃなくて、私がにゃん吉を選んであげたんだもん。劣等感なんかあるはずないわよ。おほほほほ!」
 劣等感?なにそれ美味しいの?と言わんばかりである。
 透子のように強気な態度に出られたらどれだけ楽だろうか。
 羨ましさを通り越して尊敬する。
 柚子なんかは、玲夜に婚約者がいると聞いて悩みすぎるほど悩んだというのに、このあっさりさは見習いたい。
「なんかちょっとにゃん吉君が不憫に思えてきた」
 まあ、透子の態度は今に始まったことではないのだが。
「私と結婚できて不憫なわけないでしょうよ」
「透子には玲夜が心配してたような問題は起こらなさそうね」
「なにそれ。どういうこと?」
「花茶会を始めた理由があるらしいんだけどね……」
 柚子は玲夜から教えてもらった花茶会を開催にいたった経緯を透子にも伝える。
 すると納得の様子で頷いた。
「はー、花茶会にそんな裏があるなんてね。でも花嫁達の気持ちも分からないでもないわね」
「透子に分かるの?」
 散々東吉を振り回しておいて、囲われる花嫁の気持ちを理解できるのかと、柚子はちょっと失礼なことを思った。
「柚子、あんた私をなんだと思ってるわけ?」
 透子は心外だと言わんばかりの表情。
「私だって、にゃん吉の束縛にうんざりする時けっこうあるもの」
「そうなの?」
「そりゃそうよ。あれは駄目これも駄目っていろいろと行動を制限してくるしさ。普段は私の我儘にもすぐ折れてくれるくせに、私の行動については絶対におれてくれないんだから」
 とてもそうは見えないのだが、透子は不満そうな顔をすると、柚子をびしっと指さした。
「というか、柚子は若様が相手でめちゃくちゃ恵まれてるんだからね! 花嫁を得たあやかしで柚子みたいに自由にさせてくれる人ってほんとに珍しいんだってば。若様の寛大さをもっと自覚した方がいいわよ」
「分かってるよ」
「分かってない! これまでにバイトして料理教室に通って、学校にも行かせてもらうことになって、果てには自分の店を持ちたいって。あんたどんだけ我儘なのよ!」
 まるで東吉に対する鬱憤を晴らすように、柚子への非難が止まらない。
「えー」
「私なんか高校に行ったらバイトするのが楽しみだったのに、少しの時間ですら許してもらえなかったのよ。なのに、いくら若様が決めた場所とはいえ働くのを許してもらうなんて普通あり得ないんだから」
「私はごく普通のお願いをしただけで……」
「そのごく普通が花嫁には許されないから、心を病んじゃう人とかいるってことなんじゃないの? 私だって外で働けるものならしてみたいけど、にゃん吉が絶対に許さないもの」
 力関係で言うと透子が完全に東吉を尻に敷いているのだが、確かに高校に入って同じカフェでバイトしようと透子とふたりで面接に行こうとして東吉に止められた当時を柚子は思い出した。 
 あの時は、透子と東吉が大喧嘩した上で、結局柚子ひとりで面接に行くことになったのだ。
 普段泣かない透子が大泣きしたいたのを覚えている。
 だが、柚子ももの申したい。
「でも私だってそれまでバイトしてたお店を玲夜に勝手に辞めさせられたのよ。けっこうひどくない?」
「その後、ちゃんと若様の会社でバイトしてたじゃない」
「まあ、確かに」
 一瞬で透子に言い負かされてしまう。
 結局そのバイトもなあなあのうちに辞めされてしまったが、働かせてくれたのは間違いない。
「若様は多少折れて代替案を出してくれてるでしょ? にゃん吉にはそれがないのよね。花嫁だから駄目の一旦張りよ。ほんと、若様の爪の垢を煎じて飲ませたやりたいわ。でも、花嫁の世界じゃにゃん吉が普通で、若様の方が異端なのよね。きっと今日花茶会に来る他の花嫁も私と似たような扱いじゃないかしら」
 これまで幾度となく東吉に花嫁たるものはと苦言を呈されたきたが、最終的には玲夜が許してくれるからと右から左に流していた。
 しかし、柚子が思っている以上に玲夜は柚子に甘い対応をしているようだ。
「……ねぇ、透子。もしかして私かなり我儘女?」
「今さら気付いたの? 馬鹿柚子。若様をもっと労りなさい」
「はい……」
 がっくりと柚子はうなだれた。
 透子は小さくため息をつくと、達観したような表情で窓の外を眺める。
「大切にしてくれるのはありがたいんだけど、花嫁を持ったあやかしは度が過ぎるのよ。でもそれがあやかしの本能らしいから仕方ないってあきらめるしかないわけ。逃げようものなら地獄の果てまで追ってくるわよ。その愛情の深さを重いと感じてしまったらきっともう終わりなんでしょうね。それまで許せていたすべてが憎しみと嫌悪に変わっちゃう」
「透子はまだ大丈夫よね?」
 あまりにも感情の乗ったその言葉に、柚子は心配になってしまった。
「私は大丈夫よ。その気になったら柚子に助けてもらうから。なんせ、子鬼ちゃんに霊獣が三匹。さらには恐怖の大王が背後に立ってるんですもの」
 ケラケラと軽快に笑う透子に、柚子はほっとした。
 やはり透子は元気いっぱいでなくては、調子が狂う。
 そうこうしていると、妖狐当主の屋敷に着いた。