「あ、足が……」
 正座していたために足が痺れた柚子が悶え苦しむ。
「あーい」
「あいー」
 子鬼はどうしていいのか、困ったように柚子の周りを走り回る。
 すると、ひょいっと柚子の体が抱きあげられた。
 もちろん、そんなことをするのは玲夜だけだ。
「玲夜……」
 玲夜は抱えた柚子を膝の上に乗せると、足に触れないように抱きしめた。
「あの、ごめんね。最初に玲夜に相談しなくて」
 先ほどの玲夜の寂しそうな顔が忘れられず、柚子は申し訳なさそうに謝る。
「いや、いい。ちゃんと誰かに相談して対処しているなら。ただ、どうしても柚子のことになると理性が働かなくなる。こればっかりは花嫁を持ったあやかしにしか理解できないだろうな」
「あ、あのね! 別に玲夜に話したくなかったわけじゃないよ? 玲夜を蔑ろにしたかったわけでもない。でも、玲夜は私を大事にしてくれてるのを分かってるから、必要以上に心配かけたくなかったの!」
 どこか沈んだ雰囲気の玲夜を慰めるように必死で言い募れば、今度は玲夜がくくくっと笑った。
「玲夜?」
「一番は辞めさせられるのを危惧したからだろう?」
 お見通しな玲夜に、柚子は顔を赤くした。
「そ、それもあるけど、それだけじゃないの!」
「本当か?」
「本当ですぅ」
 ふて腐れたように唇を突き出す柚子の両頬を包む。
「今度からはちゃんと俺に相談しろ。桜子より先にだ」
「辞めさせない?」
「……考慮する」
「それじゃ駄目なの! 絶対って言って」
 そうじゃなければ安心して玲夜に相談できないではないか。
 玲夜は苦い顔をしながら苦悩している様子で、かなりの葛藤があったのだろう。
 じとっとした眼差しを向ける柚子と視線を合わせないように彷徨わせながら、しばらく経ちしぶしぶ頷いた。
「……分かった」
「絶対?」
「絶対だ」
 今度こそ言質は取ったぞとガッツポーズをする。
「よし!」
「だから、学校であった問題をすべて教えてくれ」
「うん」
 柚子は入学してから生徒に遠巻きにされていた話や、鳴海の話、そして一番大事な手紙の話をひとつひとつ思い出しながら教えた。
「これまでの手紙はどうした?」
「調べるからって桜子さんに渡してあるよ」
「桜子か……」
 複雑な表情を浮かべる玲夜に、彼がなにを言いたいのかなんとなく柚子は察した。
「私も玲夜も桜子さんに一生頭があがらないかもね」
「ああ」
 今後も桜子にお世話になるような予感がした。

 翌日、玲夜は朝早くに本家へと向かった。
 桜子に渡していた手紙をもらいに行くようだ。
 これからは玲夜が主導で動くらしい。
 沙良に苦言を呈されそうだと困ったようにしながら出かけていった玲夜には、沙良からも少し叱ってもらいたい。
 大事にしすぎも駄目なのだと。
 玲夜を見送った柚子は学校へ。
 ロッカーで着替えて教室へと行く途中、澪と鉢合わせる。
「あっ、柚子」
 澪は柚子に駆け寄ってくるとおもむろに頭を下げた。
「澪?」
「ごめんね、柚子。彼氏さんに手紙の話した後、柚子の様子おかしかったからさ。もしかして余計なこと言っちゃったんじゃないかと思って」
「頭をあげてよ、澪ってば。なにも問題ないから」
「大丈夫だった?」
「うん。なんの問題もなかったよ」
 大嘘だ。問題ならかなりあったが、桜子のおかげで綺麗にまとまったので、わざわざ澪にそれを話す必要もない。
「よかった」
 澪がほっと表情を緩めたところへ、厳しい声がかけられる。
「なにをしているんですか?」
 大きくはなかったが、叱責するような強さのある声色に思わず柚子と澪はビクリと体を震わせた。
 振り向けば、そこにいたのは樹本で、険しい表情をしている。
「樹本先生」
「喧嘩ですか? なにか問題でも?」
 一瞬柚子と澪は顔を見合わせ、ブンブン首を振った。
「なんでもないです!」
「しかし揉めているように見えましたが」
「いえいえ、昨日ちょっとした誤解があったので彼女が私に謝ってくれていただけです。もう解決しましたから」
 柚子が必死で訴えれば、樹本も目を見張り、いつもの爽やか好青年な笑顔を浮かべる。
「ああ、そうでしたか。早とちりしてしまったようです。てっきり鬼龍院さんが虐められてるのかと」
「ち、違います!」
 まさかそんな誤解を与えていたとは。
 頭を下げていたのは澪なので、むしろ虐めているように見えたのは逆ではないのか。
 そこにはやはり鬼龍院であることの贔屓目があるのかもしれない。
 切り出すきっかけとしては今が一番いいのではないかと思った。
「あの、樹本先生」
「なんですか?」
 柚子へ向ける優しい笑顔がこれから口にする言葉を言いづらくさせるが、今しかない。
「あの、授業内でのことなんですが、きっと先生は私が鬼龍院だから気を遣ってくれてると思うんですけど、私は他の人と同じ扱いで大丈夫です。そうしたからって先生になにかしたりはしないので気にしないでください」
「えっ?」
「先生としても、生徒の扱いに差をつけるのは心苦しいでしょうから。今後手伝いを指名する時も私ではなく他の方を選んであげてください。先生に指名されたがっている子はたくさんいるので」
 樹本は困惑した様子で「ちょっと待ってください」と手をあげるが、それ以上話すのを許さぬように澪の援護射撃が入る。
「そうそう、柚子にはイケメンの彼氏がいるんだし、あんまり先生が柚子を独占してたら彼氏に嫉妬されちゃいますよ~」
「え、彼氏……?」
「あっ、それ違う」
 呆然とする樹本を無視して柚子は澪の勘違いを正す。
「違うって?」
「彼氏じゃなくて、お、夫なの」
 玲夜を『夫』と口にするのが気恥ずかしく、うっすらと頬が紅潮してしまう。
「はあ!?」
 ぎょっとする澪は柚子の肩を掴んで前後に揺する。
「なに、どういうこと! 彼氏じゃないの? 結婚してたの、あんた!」
「う、うん」
「いつ!?」
「大学卒業後。この学校に入学する前に」
 揺さぶりながら必死で説明すると、澪は「うえぇぇぇ!」と見事に驚いてみせた。
「うっそ。柚子がすでに人妻だなんて」
 まだ信じられない様子の澪に、首から下げていたネックレスを引き出す。
「ほら、指輪」
 まじまじと見る澪は指輪の存在で「ほんとだわ」と、ようやく納得してくれた。
「だったらなおさら扱いには気をつけないと。ねえ、樹本先生。……先生?」
 柚子と澪が周囲を見回すと、いつの間にか樹本の姿は消えていた。
「あれ?」
「たぶん教室に向かったんだよ。時間ヤバいよ」
 そう言っている間にチャイムが鳴り始め、柚子と澪は慌てて教室へと走った。
 その日の樹本の授業では、初めて柚子以外の生徒が指名されたのである。
「柚子の話で安心したのかもね」
「そうだね」
 柚子と澪はヒソヒソと話ながら、これからはいい方に向かうと感じられた。
 しかし、一難去ってまた一難。
 授業が終わり着替えるためにロッカー室へと来た柚子は、なにやら機嫌がよさそうにしている。
「なんか今日柚子ご機嫌ね。なにかいいことあった?」
「今日も玲夜が迎えに来てくれるの」
「ああ、イケメン彼氏……じゃなくて、旦那か。いいわねぇ、新婚は」
「ふふっ」
 鼻歌交じりでロッカーを開けると、柚子は表情を一変させ、顔色が青ざめていく。
「ひっ!」
 息をのむような柚子の悲鳴に、澪が近付いてくる。
「どうしたの、柚子? またあの気持ち悪い手紙?」
 呑気に柚子のロッカーを覗いた澪は、顔を引きつらせた。
「なによこれ!」
 柚子のロッカーの中は、めちゃくちゃに荒らされ、服はなにかしらの刃物で引き裂かれていたのだ。
 ざわざわと周囲にいた女子たちも集まってきて、柚子のロッカーを見ては悲鳴をあげている。
「ヤバいんじゃない?」
「誰か先生呼びに行った方がいいよ」
「なになに? 怖っ」
 呆然と立ち尽くす柚子に澪が大きな声をかけて正気に戻す。
「柚子! 柚子っ!」
「あ……澪……。今他の子に先生呼びに行ってもらってるから。大丈夫?」
「う、うん。なんとか……」
 近くにあった椅子に座った柚子の膝に、子鬼が飛び乗る。
「あーいあーい?」
 心配そうに柚子をうかがう子鬼の頭をゆっくりと撫でた。
 そうすることで冷静さを取り戻すように。
 しばらくすると教師が数人やって来て、柚子のロッカーを見て顔を強張らせている。
「鬼龍院、心当たりはあるか?」
 男性教師の質問に答えられるのはひとつしかない。
「先生にもお話ししていた手紙の件ぐらいです」
 男性教師は分かりやすく頭を抱えていた。
 これまで実害がないとロッカーを変えるだけで目立った対策をしなかったのは学校側だ。
 まあ、楽観視していたのは柚子も同じなので一概に学校側だけを責められない。
 昨日までは普通の手紙だったのに、犯人は急にどんな心境の変化があったのだろうか。
 服を引き裂かれた光景を見たショックがひどくて頭がうまく回らない。
 すると、目の前に樹本がしゃがみ込み、柚子の手を握る。
「ここにいるのはショックがひどいでしょう。先生方、彼女を静かなところで落ち着かせたいと思いますが、かまいませんか?」
「ええ、お願いします」
 先生たちが警察に言うべきかと話し合っている横を、樹本に手を引かれた柚子が通る。
 
 連れてこられたのは、普段樹本が授業をする実習室だ。
 樹本はキッチンでお湯を沸かし、コップに淹れたココアを渡してくれる。
「さあ、これで落ち着いてください」
「ありがとうございます……」
 まだ柚子の顔色は優れず、ココアの甘い匂いがわずかに動揺した心をリラックスさせてくれる。
「いただきます」
 コップを口に近付けようとしたその時、柚子の腕に巻きついていた龍が尾でコップを叩き落とした。
 驚く柚子はとっさに反応できず、床に広がったココアを見つめる。
『飲むでないぞ、柚子。なんのつもりだ!』
 龍は樹本に向け鋭い眼差しを向けるが、柚子はなぜ龍がそんな行動をしたのか分からずにいる。
「なにをするんですか?」
 困ったように眉を下げる樹本は、龍の告げた『飲み物になにを入れおったのだ!』という言葉で表情が抜け落ちる。
 そして、憎々しげににらみつけてきたのだ。ポケットに手を入れ取り出したのはフルーツ用のナイフ。
「こうするしかない。……こうするしかないんだ。悪女には罰を与えなければ」
 ブツブツとなにやらひとり言を話す樹本の目はとても正気とは思えない。
 爽やかな笑顔を浮かべているいつもとまったく違う樹本の豹変ぶりに、柚子は恐怖よりも困惑が先に浮かぶ。
「先生?」
「お前が悪いんだ。僕を馬鹿にしやがって」
「いったいなんのことを……」
「うあぁぁ!」
 樹本は柚子にナイフを向けて一直線に向かってくる。
 逃げなければと頭は働くのに、体は硬直して思うように動いてくれない。
 刺される!と、覚悟した時、柚子の周りに青い炎が燃えあがる。
 熱さを感じない炎は樹本に燃え移ると、まるで生きているように樹本に絡みついた。
「あ、熱い! うわぁ! 助けてくれ!」
 周りにある調理器具をぶちまけながら暴れる樹本の手からナイフが落ち、子鬼がすかさずナイフを回収した。
「あーい!」
「あい!」
 ピースする子鬼の視線の先には、怒りに目を燃やす玲夜の姿があった。
 そして、その後ろから澪が走ってくる。
「柚子! って、ぎゃあ! 柚子が燃えてる!」
 慌ててボールに水を流し入れようとしている澪を止める。
「澪、澪。私は大丈夫だから」
「でも、燃えてるじゃない!」
 困ったように玲夜を見れば指を横に振る。
 途端に柚子を守るように覆っていた炎は一瞬で消える。
「あ、消えた」
「玲夜の──あやかしの能力なの。私には害はないから。あっちは違うけど」
 柚子の視線の先にはほどよくこんがり焼けて、髪がチリチリになった樹本がうずくまっていた。
 ちゃんと手加減されていたようで大きな怪我はない。
 小さな火傷はたくさんありそうだが、自業自得だ。
 玲夜の護衛がふたり入ってきて樹本を羽交いじめにして無理やり立たせる。
「どうして玲夜が?」
「私が呼びに行ったのよ。柚子が今日も迎えに来るって言ってたから、コンビニまで走ったの」
 なんという機転のよさか。
 澪は最善の選択をしたことに気がついていないだろう。
 そんな彼女に、柚子は心からの感謝を伝える。
「ありがとう。本当にありがとう」
「感謝はいいから旦那のところに行っといで」
「うん」
 玲夜に向かって一目散に走れば、玲夜は腕を広げて抱き止めてくれる。
 玲夜の温もり。玲夜の匂いが、柚子の心を安心させてくれる。
 この腕の中にいれば大丈夫だと感じられる。
「玲夜、ありがとう」
「無事でよかった」
 ふたり抱きしめ合っていると、静けさを切り裂くような樹本の叫びが響いた。
「この浮気者! 離れろ、柚子は僕のものだ!」
 ジタバタ暴れる樹本だが、鬼である護衛に適うはずがなく、床に押さえつけられた。
 玲夜が一歩樹本に近付いたが、彼の先を柚子が行く。
「浮気者ってどういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。君は僕のものだろう? 僕の彼女なのに、どうして他の男に抱きしめられているんだ?」
「は?」
 目が点になるというのはこのことだろうか?
「私が先生の彼女になったことなど一秒もありませんけど?」
「そんな嘘はいらない。初めて君を見た時に感じたよ。君の熱い眼差し、熱い想いを。僕が好きだと言っていたから、僕もだよと心の中で伝えたじゃないか」
 言葉をなくす柚子。
「えっ、キモ!」
 柚子の心の声を澪が代わりに発してくれた。
 はっきり言ってドン引きである。
「その時から君は僕の彼女なのに、ひどいじゃないか。僕というものがありながら他の男と結婚するなんて! でも、許してあげるよ。あの世まではそいつも追ってこない。ふたりだけの世界へ行こう!」
 恍惚とした表情でひとりだけの世界へ行ってしまっている樹本に、柚子は遠い目をした。
「こういうのを電波っていうのね」
 しみじみと澪が呟いた。
 樹本を押さえつけている護衛ふたりも気持ち悪そうに顔を歪めている。
 こいつヤバい!というのは全員の心が一致しているようだ。
 玲夜をうかがい見れば、般若が降臨していた。
 いや、魔王かもしれない。
「とりあえずその人連れてっちゃってください! 玲夜が手を下す前に」
「はい!」
「承知しました!」
 ふたりの護衛はさすが勝手知ったるもので、玲夜がボッコボコにしてしまう前に樹本を連れていってくれた。
 樹本がいなくなると、玲夜にぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
「やはり護衛は分かりやすく配置した方がよさそうだな。どうしてこう柚子のにはおかしなのが寄ってくるんだ」
 チッと舌打ちしながら玲夜は中々離してくれず、澪がやれやれと出ていってしまった。