実習が始まってもそんなすぐに料理は教えてもらえない。
 今柚子が習っている最中なのは野菜の切り方だ。
 学校は早朝授業が始まる前に実習室を開放しており、食材を好きに使って練習していいことになっているが、朝食は一緒に取るという玲夜の決めたルールがあるので早く学校にいけない。
 その代わり、柚子は朝早くに起きて、キッチンで屋敷の料理人たちに混ざり、ひたすら野菜を切るのが最近の日課となっていた。
 屋敷で勤める使用人たちの朝食のためにも大量の食材を必要とするので、柚子が練習で使った食材たちは、料理人により使用人の食事へと作り替えられ一石二鳥。
 さらには自分で切った野菜を使いスープや味噌汁にして玲夜の朝食に持っていけば、玲夜も朝から機嫌がいいという二鳥どころか三鳥になる。
 ここのところ午前中は玲夜の機嫌がいいと高道にも褒められた。
 ちなみに午後からは早く帰りたがるので、機嫌は急降下するらしい。
 ぜひとも機嫌回復のために玲夜だけのためのお弁当を作ってほしいと高道に頼まれた柚子は、気合い十分に了承した。
 とはいえ、まだ本格的な料理を習っていない柚子の作るお弁当は素人止まり。
 完成したお弁当を見ては、ため息をついてしまう。
「うーん。やっぱりプロの料理人が作るお弁当の方がよくないかなぁ」
 柚子が作った玲夜のお弁当の横には、屋敷の料理人が作った柚子用のお弁当が並んでいた。
 隣に置くのが失礼なほど見た目の差があり、当然味だって比べものにならない。
 そんな下手くそなものを玲夜に食べさせるのかと気が引けた。
「いっそ、私が作ったことにして綺麗な方を渡しちゃおうか」
『それはバレたら後でショックが大きいと思うぞ。というか、蓋を開けた瞬間にひと目で分かるであろう』
「やっぱり?」
 龍のもっともな意見に、柚子は仕方なく自分の分を玲夜の弁当袋に入れた。
 渡す時が一番緊張するのは、こんな粗末なお弁当を渡していいのかという罪悪感があるからだ。
 前はなにも考えずに玲夜にお弁当を作って渡したりもしたが、よくよく考えれば彼は鬼龍院の次期当主。
 きっと子供の頃から最高の料理を食べてきて舌も肥えているに決まっているではないか。
 柚子の作ったものは口に合わないのではなかろうか。
「玲夜、本当に私の作ったのでいいの? こっちにプロの料理人が作った美味しいお弁当の方がよくない?」
 聞くまでもなく絶対プロのお弁当がいいに決まっているのに、玲夜は大事そうに柚子が作った方の弁当袋を受け取った。
「いや、俺はこれがなにより欲しい。どんな料理より柚子の作ったものが一番だ」
 お礼代わりに頬にキスをしてくる玲夜は、言葉の通り嬉しそうなのが伝わってくる表情をしていた。
 だが、絶対に選ぶ方を間違っている。
 なのに玲夜は、柚子の作るものがなによりだと言って、帰ってきたら必ず空になったお弁当箱を渡して美味しかったと褒めてくれるのだ。
 そんな玲夜に報いる方法はひとつしかない。
「私学校でちゃんと料理勉強してくるからね。それでちゃんと美味しい料理を玲夜に作るから!」
「ああ。楽しみにしてる。柚子の最初の客になるのは俺しか許さないからな」
「うん」
 玲夜すら唸るものを作ってみせると意気込む柚子に、玲夜はなにか思い出したよう。
「そういえば、例のお店のデザインの件だが、今度の週末はどうだ? その日なら俺も休める」
「本当! 玲夜がいてくれるならその日で大丈夫」
「分かった。高道にもそう伝えておく」
「楽しみ~」
 お弁当のことも忘れて一気にご機嫌になる柚子に、玲夜は再びキスをして会社へ向かった。
『柚子。そなたも急がねば遅刻するぞ』
「うわ、そうだ。子鬼ちゃん、行くよー」
「あーい」
「あいあーい」
 子鬼が元部長お手製の斜め掛け鞄を持って、慌てて走ってきた。
 中には実習中に使うコックコート一式が入っている。
 元部長ときたら、玲夜と正式に契約して給金が発生したことでリミッターを外してしまい、頻繁に子鬼用の服を送ってくるようになってしまった。
 創作意欲は留まることを知らず、先日などはデザイン画を送ってよこし、子鬼に選ばせていた。
 完全に子鬼専属のデザイナーである。
 本業は大丈夫なのかと心配する量に、そろそろ子鬼専用のクローゼットが必要かと玲夜と話しているところだ。
 
 そして、予定していた週末。
 玲夜は久しぶりに仕事が休みで、朝からのんびりとふたりで過ごしていた。
 おそらく結婚して初めて新婚らしい過ごし方をしているかもしれない。
 いっそ今日は誰にも邪魔させず、ふたりで部屋に閉じこもっていようかとすら思うが、今日は別の意味でも柚子が楽しみにしていた日なのだ。
「お客様がお見えです」
 雪乃が部屋の外から声をかけてくると、柚子は喜びを隠せない表情で跳びあがった。
「玲夜、早く早く!」
 急かすように玲夜の手を引いて客間へ行くと、高道の他に女性がふたりほど来ていた。
「玲夜様のご要望通り、女性のデザイナーを用意しました」
「玲夜……」
 なんとも言えない表情で柚子は玲夜を見あげる。
「余計なことを言うな」
「失礼いたしました。しかし、このように仕事相手にすら嫉妬するほど玲夜様は花嫁様を大事にしておりますので、くれぐれも粗相のないようにお願いしますよ。もちろん、仕事の不備があろうなどもってのほかです」
「ひっ!」
「はいぃ!」
 連れてこられた彼女たちは見たところあやかしではなく人間のようで、高道の笑顔の圧力に身を震わせ怯えているではないか。
 かわいそうに。
「高道さん、そんなにプレッシャーかけなくても大丈夫ですよ」
「いえ、玲夜様から任された大事な柚子様のお店ですから、手抜かりがあってはなりません。もちろん私も確認しますので柚子様はご安心を」
「あ、ありがとうございます……」
 大事な柚子の店だからではなく、玲夜に頼まれたというところが重要だ。
 玲夜至上主義の高道が選んだ人選なので優秀な人たちなのだろうが、今回ばかりは高道に目をつけられて不憫でならない。
 きっと明日には胃薬が必要になるだろう。
 柚子は心の中で静かに合掌した。
 全員が座り、女性ふたりがノートパソコンを広げる。
「で、ででででは、奥様のご要望を伺えればと思います」
 言葉に動揺が見られるが、柚子は気付かないふりをしてあらかじめ考えていた店の雰囲気を伝える。
 玲夜があらかじめ考えてくれていたイメージ図に、柚子の希望をどんどん加えていく。
 仕事の話になると女性たちの顔つきも代わり、次々に柚子から希望を引き出す会話の上手さは、さすが高道に目をつけられただけあると感心してしまった。
 あまり想像できていない部分は彼女たちが持ってきた大量のパンフレットを見せてもらいながら、イメージを膨らませていった。
 話は何時間にも及んでしまったが、あまり疲れたとは思わなかった。
 むしろ満足感いっぱいで高揚している。
 けれど、聞く方はきっと疲れただろう。
「すみません。いろいろと」
「いえいえ、大切な自分のお店ですもの。こちらとしてもイメージの齟齬がないようにしていきたいので、どんどん聞かせてください」
「ありがとうございます」
「店内に置く備品のパンフレットもお渡ししておきますね。けれど実際に見てさわれるショールームに行かれるのをオススメします。その方が使いやすさも分かりやすいですし」
 確かにキッチン台を始め家具といった物も、実物を見て大きさや使いやすさを確認した方がよさそうだ。
 パンフレットだけでは伝わりきらないところもあるだろう。
 柚子はおずおずと玲夜をうかがい見る。
「次の休みにな」
 その言葉に柚子はぱっと表情を明るくした。
 高道がなにか言いたそうな顔をしていたが、玲夜がそれ以上のことを口にしないので大丈夫だろう。……たぶん。
「では、今日お話しさせていただいた内容を元に完成予想図を作りますね。あくまで仮ですので、気になったカ所は修正していきますので、気軽におっしゃってください」
「よろしくお願いします」

 それから一週間後、柚子の元に完成予想図が届けられた。
 玲夜が作った最初の案から、さらに柚子の好みを足したものに新しくなっている。
「わぁ、すごい」
「よく見て気になるところをまとめておいてくれ」
「はーい」
 もうこれで十分すぎるぐらいの内容だったが、よくよく見ていくと気になるところはたくさんあった。
 これからずっと使っていくお店なのだから妥協するべきではないなと、休み時間の間に気になった場所を忘れぬうちにメモしていると、澪が興味津々に柚子の手元を覗き込んだ。
「なに、それ?」
「前に言ってた、私のお店のイメージ画なの」
「えー、すごい。見せてもらってもいい? 私も参考にしたいから」
「うん」
 柚子と同じく自分の店を持ちたいと言っている澪にならいいだろうと紙を渡し、柚子は黙々と改善点をまとまとめる。
 ひとつが気になると、別のところも気になってくるから不思議だ。
 けれど考えることが嬉しくて仕方ないのは、やはりある程度のイメージが柚子の中でできあがっているからだろう。
 その店で働く自分の姿が浮かび心が躍る。
 ショールームへ行くのは少し先になりそうだというから、柚子は大人しく待つしかないが、気が急いてならない。
「いいじゃない。すっごくかわいいし、どこか品があるわね」
「女性が来やすいお店にしたいの」
「え~、羨ましいな。私もこんなお店持てたらいいけど、いつになるやら。宝くじでも当たらないかなぁ」
「ふふふっ。ちなみにお店の制服のデザインもあるんだけど、見て感想教えてくれる?」
 すかさず「見せて見せて~」とテンションをあげる澪に見せるのは、従業員用の制服にしようと予定しているものだ。
 これは鬼龍院の会社を頼らずに元部長にお願いすることにした。
 最初は断られてしまったのだが、子鬼ににも着せたいと言えば、まさに鶴のひと声。
 休日返上で描き上げたデザイン画を何枚も送ってきたのである。
 子鬼の威力はすさまじいなと、なんとも言えない気持ちになりながら確認したデザイン画は、子鬼に着せることを抜きにしてもとても素晴らしかった。
 女性が好きそうな高級感のある制服とお願いしていたので、どれも品のある仕上がりになっており、甲乙付けがたい。
 そこで澪に意見を聞こうと思ったが、澪も結論はでない。
「うーん。こっちはかわいい系で、もうひとつはかっこいい系。どっちもよくて迷うわね」
「でしょう? 私も選べなくって」
 さすが普段子鬼の服をたくさんデザインしている元部長だ。
 女性の好きそうなツボというのをよく心得ている。
 彼女に頼んだのは間違いではなかった。
 いっそ二案とも作るかと考えていると、目の前に空いた机にバンっと鞄を叩きつける鳴海がおり、柚子と澪は体をびくつかせる。
「金持ちは苦労知らずでいいわね」
 最初の言い合い以降、さらに柚子を敵視するようになった澪は、ことあるごとに金持ちを揶揄して嫌みを言ってくるようになってしまった。
 鳴海がそんな態度をするのは柚子にだけなのだ。
 しかし、あまりクラスメイトと交流しない鳴海は、柚子と同じくどこか教室内で浮いていた。
 まるで手負いの猫のように、近付くなオーラを発しているので、周りも話しかけずらい様子だった。
 同じくクラスから浮いてる存在でも、仲良くしたいのに避けられている柚子とは少し状況が違う。
 鳴海から誰かに話しかけているのを見たことがない。
 ただ、例外となるのが柚子である。
 まあ、話しかけるといっても口にする内容は毒ばかりなのだが……。
 さすがに何度も繰り返されると慣れてきて、今は怒りも浮かんでこない。
 そんな柚子とは反対に必ず噛みつき返すのが澪だ。
「あ~ら、盗み聞きさん、またいたの?」
 ぎろりと鳴海ににらまれても平然としている澪は、かなり気が強いようだ。
 それは鳴海もだろう。
「まあまあ、澪も落ち着いて」
 なぜか嫌みを言われている柚子がなだめるという事態に。
 その間、子鬼と龍は今にも噛みつきそうな眼差しで鳴海をじとーっと見ているので、そっちも目が離せない。
「柚子はもっと文句言った方がいいわよ!」
「ふんっ! そっちのお嬢様はお金持ちだから庶民とは関わりたくないんでしょうよ。鼻にかけちゃって性格悪いわね」
「柚子はそんな子じゃないわよ」
「わざわざ学校にまでそんなもの持ってきて見せびらかしてるじゃない。自慢してるんでしょう?」
 鳴海の言っている『そんなもの』とは、柚子が持ってきた店の完成予想図のことだ。
 これは確かに自分が悪いかもしれないと柚子は反省する。
 店を持ちたくても金銭的理由で持てない者もいるだろうに、嬉しさのあまりよく考えずに持ってきてしまった。
 それを羨ましがると同時に妬む者もいるかもしれないのに。
「ごめんなさい。もう持ってこないわ」
 決してその場を収める口だけの謝罪ではなかったが、鳴海は気に入らないようだ。
「口だけならなんとでも言えるわよ」
 ふんっと鼻を鳴らして席に着いてからは、その日一日柚子を無視したように一瞥すらしなかった。