四章

 三日間のオリエンテーションが終わって実習が始まった。
 最初は手の洗い方や包丁の握り方からという基礎の基礎からだ。
 授業は実習だけでなく座学もあり、覚えることはたくさんある。
 大変でありつつも充実した学校生活が日々過ぎていく。
 相変わらず玲夜は忙しいようだが、柚子の休みの日には時間を作ってくれ、柚子の参考になるようなお店を一緒に回ってくれる。
 まだまだゆっくりとはいかないが、ふたりでいられる時間が確保されただけでも嬉しくて仕方ない。
 仕事を肩代わりしてくれている千夜には感謝であるが、玲夜によるとグダグダと文句がだだ漏れているらしい。
 申し訳なく思いつつも頑張ってくれと心の中で応援するしかない柚子は、午前中の授業が終わると教室でお弁当を食べるようにしていた。
 この学校にはかくりよ学園のように食堂もカフェもないので、皆食べ物を持参するか、周辺にある飲食店に食べに行くのだ。
 外に食べに行くのは護衛の面でもよろしくないので、玲夜の屋敷のお抱え料理人が毎日美味しいお弁当を作ってくれている。
 正直言うと、友人を伴ってゾロゾロと食べに行く人たちが羨ましくあるのだが、柚子はどうも周りから避けられている気がしてならない。
 いや、きっと気のせいではないのだろう。
 実習でグループを組む時も声をかけようとするのだが、気配を察した相手に逃げられる。
 誰もかれも、実は忍者なのではないかと錯覚するぐらいに素早く逃げていくのだ。
 誰ともグループになれず落ち込んでいるところを、澪に声をかけられ救われるというのが毎度のことだった。
 澪は普通に他の人ともグループを作り楽しそうにしていたのに、そのグループを離れてわざわざ柚子と組んでくれるのだ。
 澪がいなれば間違いなくぼっち決定だった。
 柚子には澪が天使に見える。
 今もそうだ。
 仲のよい別の女の子たちに外食しないかと誘われていたのに、それを断って近くのコンビニで昼食を買って一緒に食べてくれている。
「ごめんね、澪」
「なにが?」
 澪は柚子が謝罪する理由をよく分かっていないようだ。
「お昼ごはん誘われてたでしょ? それなのに断ったのって、私に気を遣ってくれてるよね?」
「あー、いいのいいの。私が柚子と一緒に食べたかっただけなんだから」
「ありがとね」
 まったく恩着せがましくしない澪に何度感謝の念を抱いたか。
「というか、どうして私こんなに避けられてるの? 澪は知ってる?」
 柚子は残念ながら避けられているので理由が分からない。
 すると、予想外のことを聞かれたというように澪が目をぱちくりさせる。
「え、マジで気付いてないの?」
「やっぱりなにかあるの!?」
 おかしな問題は起こしていないはずなのだが。
 まさか知らないところで龍がなにかやらかしたのか。
 思わず龍に視線を向けると、『我はなにもしておらぬぞ!』と首を横に振る。
 次に子鬼を見れば、ふたりも慌てたようにブンブン首を振った。
「違うよー」
「なにもしてない」
『我だって!』
「えー、じゃあなに?」
 柚子には他に思い当たるものがない。
 悩む柚子に、澪が苦笑を浮かべながら教えてくれる。
「柚子ってさ、毎日すんごい高級車で送り迎えしてもらってるでしょ」
「ああ、うん」
 目立つ真似はしたくない柚子だが、電車を使った通学など玲夜が許すはずがない。
 澪と一緒に帰って寄り道したりしたいが、こればかりは仕方ない。
 もとより花嫁として利用価値のあった柚子は、正式に籍を入れて鬼龍院家の嫁となったことで、本人が思う以上に周りからの価値があがったのである。
 それにより邪なことを考える愚か者も出てこないとも限らない。
 要は、金銭を目的に誘拐される可能性もあるという。
 もしくは、怨恨。
 鬼龍院ともなると逆恨みされる覚えは腐るほどある。
 そんな中で、嫁が無用心にひとりで歩いていたら狙われても文句は言えない。
 自分だけならいいが、周囲を巻き込む可能性だってあるのだ。
 たとえ窮屈でも車通学は必要な措置だった。
「やっぱり目立ってる?」
「目立ってるなんてもんじゃないわよ。毎日身につけてる服も靴も鞄も全部高級ブランド品だし」
 学校には着いてすぐにコックコートに着替えて授業を受けるので、私服でいるのは登下校の時だけなのだが、見る人は見ているようだ。
「しかもそれ!」
 澪は子鬼と龍を次々に指さした。
「そんな奇妙な生き物連れてて目立たないはずないでしょうよ」
「だよねー。でも一応私のボディガードだから連れて歩かないわけにもいかなくて……」
「それに加えて柚子の名前も問題よ。鬼龍院ってさ、あの大企業の鬼龍院よね?」
「気付いちゃった?」
 あまりにも澪が変わらぬ態度でいたために気付かれていないと思っていたが、違ったようだ。
「そんな人外のマスコット連れてたら、嫌でもあやかしと繋げるって。その小さい子なんて角生えてるし。あやかしに関係があって鬼龍院ときたら、もう、ねぇ。直接は聞いてなくても関係者だって言ってるようなものでしょ」
「それってだいたいの人が察してる?」
「そうじゃない? 私にもそれとなく柚子には関わらない方がいいよって助言してくる子もいるし」
「えっ、そんなに嫌われてるの?」
 関わるなとまで言われているなんて、誰も近付いてこないはずだ。
 激しくショックを受ける柚子。
「嫌われてるっていうかさぁ、なんていうの? 怯えられてる感じかな。あの鬼龍院の関係者に下手なことして鬼龍院を敵に回したりしたら、今後の就職に不利になるじゃない。鬼龍院の影響力は広いって誰だって知ってるもの」
「それで避けられてるのか……」
「それにさ、鬼龍院って鬼のあやかしのはずなのに、柚子って見た感じ人間でしょう? それなのに鬼龍院を名乗ってるのが余計によく分からない存在と化しちゃって、取扱注意のレッテル貼られてるのよ」
「やっと、理由が分かった。ありがとう……」
 かくりよ学園では鬼龍院だからと媚びを売る人間にたかられたが、まさか逆のパターンになるのは予想外だった。
 しかも、柚子が人間と分かっていながら鬼龍院と名乗っていても花嫁と思わない辺り、柚子が思う以上にあやかしの世界に詳しくない人たちが多いようだ。
 柚子の場合は早いうちから妹の花梨が妖狐の花嫁となったので、嫌でもある程度の知識がついたが、世間はそうではないのだと理解させられた。
 だからといって、今さら花嫁ですでに人妻ですと言うつもりもないし、その必要性も感じない。
「でも、澪は他の人みたいに避けないの?」
 それが一番不思議だった。
「えー、だってそんなしょうもない理由で仲間はずれみたいな幼稚な行動するのは私の主義に反するのよね。それに柚子って話しやすいし、しゃべってて楽しいんだもん」
 率直な気持ちをぶつけてくれる澪の言葉が嬉しくて、柚子ははにかむ。
「それに、鬼龍院の関係者っていうなら、あわよくば職を斡旋してくれるかもだし」
 あはははっ!と机をバンバン叩いて大笑いする澪からは、先ほどの発言が冗談だというのが伝わってくるが、明け透けすぎる。
「せめてオブラートに包んでもらいたいんだけど」
「嘘嘘、冗談よ~。だって私は自分の店を持つのが夢なんだし。鬼龍院なんて関係ないもの。柚子だってそうでしょう?」
「うん。私も自分のお店が完成するのが待ち遠しくて」
「えっ! それってもしかしてすでにお店持ってるの?」
 澪が驚いたように目を丸くする。
「ううん、お店はまだ。今は更地だから、これから建てていくの。できれば卒業までに完成したらいいなって」
「場所どこ? できたら絶対食べに行くから」
「えっと──」
 柚子はスマホで地図アプリを起動させて、お店の場所を澪に見せる。
「うわっ! ここってめっちゃ高級住宅地じゃない。土地高かったんじゃないの?」
「それが、鬼龍院の持ってる土地だから名義変更しただけみたいで……」
 あり金全部渡すと言ったのだが、いずれ玲夜が相続する土地だから問題ないと一銭も受け取ってくれなかった。
「俺のものはすべて柚子のものだ」
 蕩けるような笑顔で言われた殺し文句に、柚子は撃沈した。
 名義を換えたなら必要になる相続税も、柚子の知らないうちに高道が対処してしまった後だったので、口を出す暇がなかった。
 高道ときたら弁護士資格だけでなく税理士の資格まで持っていたのである。
 万能秘書のおかけで手続きもスムーズだったとか。
 どうやったら高道のようななんでもできる秘書ができあがるのだろうか。
 ひとえに玲夜への一途すぎる想いが成し遂げた努力の結果としか言いようがない。
 桜子が腐ったのは、高道にも原因があったのではないかと柚子は思っている。
「あ~あ、お金持ちはいいわよねぇ」
 少し離れたところから聞こえてきた声に、柚子と澪はそちらに視線を向ける。
 声を発したのは同じクラスメイトの鳴海芽衣だ。
 鎖骨ほどの長さの黒髪を黒いゴムで後ろにひとつでくくり、黒縁の眼鏡をした飾り気のない素朴な女の子。
 しかしどこか気が強そうな雰囲気を持っていた。
 これまで話をしたことはなかったのだが、なぜか頻繁ににらまれるのだ。
 気のせいかと思ったが、明らかな敵意を感じる。
 それは柚子へ害意を持つ者には敏感な龍や子鬼も同じ意見なので、勘違いなどではないだろう。
 幸いなにもされていないので玲夜には報告していない。
 まあ、子鬼や龍が告げ口していそうだが、これまで玲夜から鳴海の話題が出たことはなかった。
 鳴海ににらまれる理由も分からず、かといって本人に聞いて逆上させても困るので、柚子はとりあえず知らぬふりをし続けている。
 そんな鳴海から初めて声をかけられた。
 その言葉には明確な毒が含まれているのを肌で感じる。
 柚子のなにが気に入らないのだろうか。彼女とは同じ教室にいるだけで、それ以上の接触はないというのに。
 柚子が困惑した表情でいると、鳴海は憎々しげに柚子を見ながら口が止まらない。
「それってさあ、自慢なの? 庶民にはこんな土地買えないだろうって」
 嫌みっぽく言われた柚子は、困ったようにしつつ謝罪することを選ぶ。
「……そんなつもりはないです。気を悪くしたならごめんなさい」
 確かに他人からしたら、恵まれた柚子の発言は金持ち自慢に聞こえても不思議ではない。
「はっ、なに? 殊勝に謝っちゃって、悲劇のヒロインぶってるの? 私が悪者みたいじゃない。どうせその土地だって男に貢がせたんでしょう? そんな汚い土地を自慢なんかしても誰も羨ましがらないわよ」
 さすがに言いすぎだと柚子はカチンときた。
 確かに男に貢がせたといえばそうなのかもしれない。
 けれど、あの土地は玲夜からのサプライズのプレゼントだ。
 柚子にとっては玲夜の心が詰まった大切なもの。
 それを、これまで話したことすらない赤の他人に蔑まれたりしたくなかった。
 まるで込められた想いを否定されたようで怒りが湧く。
 子鬼と龍はすでに臨戦態勢に入っており、柚子も言い返そうと口を開こうとしたところで、澪に先を越された。
「なによ、あんた。羨ましいなら羨ましいって言いなさいよ。僻んでんの?」
「はあ!? 関係ないでしょ!」
「どう考えても関係ないのはあんたの方でしょうが! こっちの話に聞き耳立ててたわけ? 下品だとは思わないの? 盗み聞きしといて勝手にキレんじゃないわよ、迷惑だわ!」
「盗み聞きなんてしてないわよ! あんたたちが大きな声で話してるから勝手にきこえてくるんでしょう! 聞かれたくないなら外に行きなさいよ!」
 自分以上に怒りを爆発させて怒鳴り合う澪の姿に、柚子はあっけにとられた。
「どこでなにを話そうとこっちの勝手でしょう! くっちゃべってる人は他にもいるじゃない。なのになんで私たちだけに文句言うのよ。それとも話に加わりたかった? それは気がつかずにごめんあそばせ。そっちがどうしてもって言うなら会話に入れてあげなくもないわよ」
 ふふんとどこか小馬鹿にするように鼻を鳴らす澪に、鳴海は怒りで顔を真っ赤にしている。
「そんなのいらないわよ!」
 そこでようやく言い合いは終わり、鳴海はきびすを返して自分の席へ戻っていった。
「えっと、ありがとう……」
 あまりのふたりの迫力に柚子の怒りもどこかに吹っ飛んだ。
「いいのよ~。あの子、前からなんか柚子が気に食わないって顔してて、いつか突っかかってくるんじゃないかと思ってたのよね」
「あっ、澪も気付いてた?」
「そりゃあ、あんなに分かりやすく親の敵かってぐらいにらみつけてたら気付くでしょ。私は実習中も柚子と組んで一緒にいることが多いし、余計にね。最初私がにらまれてるのかと勘違いしてたぐらいだし。ちなみに、あの子になんかしたの? 知り合い?」
「まったく。話しかけられたのもこれが初めてだし」
 話しかけられたというよりは、喧嘩を売られたという言葉の方が正しい気がする。
「ふーん。まあ、なんで嫌われてるのか知らないけど、またなにかあっても私が撃退してあげる」
「頼もしいね。お礼におかず好きなのあげる」
「やった。その肉団子で!」
 柚子はクスクスと笑い肉団子を差し出した。