四季から梅雨を引っこ抜いて夏を春とくっ付けたら、湿度の低いロサンゼルスみたいな夏が来る。
そうだろうか、きっとそうに違いないな、なんてくだらないことに現を抜かしていたら、30ものベルトコンベアの上の備品をパーにした。
「困るなあ赤星ちゃん!! ちゃんと真面目に仕事してくんないと!!」
「さーせん」
「きみ、お金ないんだっけ! お金ないから昼間ここで働いて夜学校行ってんでしょ!? しーごーと!! ちゃんとまともに働かないとまずいんじゃないの!! 社会不適合者になりたいの!? 中卒なんて誰も相手にしてくんないよ!?」
「さーせん」
「もうこれ何度目!? やる気ないなら辞めるなりなんなり出るとこ出てもいいんだけどなあ!!」
べし、と胴体に一枚の紙切れを突き付けられてその紙切れを拾ったら、〝高時給高収入バイト〟と書かれたピンク色のチラシだった。10代大歓迎、待ってます。そんなポップな紙の隅っこに存在する ※18歳以下の方はお断りします という矛盾に満ちた注意書き。
「やあねえ、大丈夫? 寧々ちゃん」
「うす」
「工場長、いーっつも大声で騒ぐんだもん。気にしなくていいと思うわ。きっと寧々ちゃん可愛いからいじめたいのねえ。わざわざ工場の、作業場で騒がなくってもねえ。ほら今怖いじゃない、パワハラよ
パワハラ!」
「まっでも寧々ちゃん若いから何でも出来るわよ。も少し口の利き方と身だしなみちゃんとしたらね〜」
あたし達の今日の分お願いね。
ぽん、と肩に手を置かれて大声で笑いながら歩いていく三人の中年女性は、ここに初めて来た時、親身になって教えてくれた先輩の職員で。
〝工場長の捌け口〟の社員がノイローゼで辞めてから、何故かその矛先がこっちに向けられるようになった。よくわからない緑の基盤に、同じネジを刺していく軽作業。自分の持ち場で真剣に取り組んでてもあの肉付きのいい中年共にノルマを追加されて進まない、軽作業。
そんな自分を守るため、トリップして何が悪い。
自己防衛手当付けろよ、と思いながら、ノルマ以上の3ケースが自分の持ち場で山積みになっているのを尻目に、今日はもう定時なので作業着のチャックを下ろす。
治安の悪いこの場所で昔事故があったらしい。
それは小売店だかなんとかで、派手にアクセルとブレーキを間違えた老人のミステイクで店に車が突っ込んだ。今じゃ事故の名残の欠片もなく店は復活していて、だからこそ毎日このどこにも行けない感情を逃して息抜きできる私のオアシスと化したわけで。
「…18時」
今日は社会科からスタートだな、と夜間の時間割をスマホで確認していたら、後ろから首に手が回ってきた。
鼻を刺すムスクの香り。着替えていたせいで上はタンクトップ、下は作業着を半脱ぎにしたまるで鳶職のような格好で、着たくもないカッターシャツとスカートをベンチに置いたままげんなりする。
「ねーねちゃん」
「…今着替えてんすけど」
「鍵かけなきゃだめでしょ。オレみたいな悪い男にひっ掴まっちゃうぞ」
「はは。笑えね」
「親父に随分酷いこと言われてたみたいじゃん。マジあの腹出てるハゲ親父、家帰って来たらオレの奴隷のくせにさ。その裏返しがどうも寧々ちゃんに来てるみたい。なんかごめんね? でもあの糞虫の言ってること一理あると思うよ、だって寧々ちゃん女の子なのにあんな可愛げない工場で働いてさ。お金だったらあげるじゃん、けど交換条件。寧々ちゃんがオレに心開いてくんなきゃやだな。例えばほらこーんな風に」
手のひらで下腹部を回すように撫でられた瞬間、肘鉄をお見舞いしてそのまま踵落としをする。更衣室の壁に立てかけてあった金属バットを振りかぶってそのまま顔面スレスレに叩きつけた。
「親子揃ってクズかよ今度やったらそのくせー口塞いで顎叩き割っかんな」
「…の糞女!! テメ親父に言いつけてやっかんな!! さっさと辞めろゴミ!! 使えねえ糞が!! オイ!!」
「おつかれーぃ」
ばいばいきん、と金属バットを放り投げて制服を抱えて作業着のまま外に出る。18時。たったの10分。世界の、正しい時間、例えば有意義と、不穏の時間の流れは同じだという摂理に昔から納得がいかない。こんなに色濃い一瞬を過ごした。もう今日の終わり来いよ、と思うのに、見上げた空はまだオレンジで、全ては600秒の間にあった出来事だ。
父と母が、いる。父と母が、かつていた。
昔。交通事故で二人を亡くし、同乗していた自分だけが生き残った。当時私は4歳で、後部座席のチャイルドシートが一枚を取り留める起因となったらしい。それはもうド派手な事故で、記憶が曖昧なのは、ショックな出来事を脳が記憶から抹消しようと目論んでいるからだった。ただ、断片的にふと、映画なんかで血だらけの主人公なんかを見たりすると、あの日の情景、夢や妄想とも似た母の顔を思い出す気がする。
即死の父に対し何とか自分を救おうとした。死に抗う血だらけの様が、ひょっとすると映画終盤の傷だらけの主人公に酷似しているのかも知れなかった。
どういった原因で、何が理由で、そこを掘り下げることはなく、母の姉夫婦に預けられ中学まで世話になった。良くしてもらった。貰いすぎたほどに、だ。そんな二人の愛娘、史ちゃんは一つ年下の可愛らしい女の子で、ピアノやバイオリンに興ずる多才な芸術家だった。
音。笑顔。声。その幸せな、まるで絵に描いたような家族に自分がいることがなんだか場違いな気がずっとしていた。史ちゃんの言葉遣い、髪、白、所作。そのどれも、伯母さん夫婦に比べられたくなく、気がついたらざんばらの髪色を何度も抜いて、ジャージみたいな服を着て、言葉遣いが悪くなる。
優しさは時に痛く。ここにいて、いなさい。大丈夫。そう言われることが、自分のなかで酷く重荷になっていた。だから、義務教育を経て人知れず家を出た。ありがとう、ごめんなさい。
そう書いた紙切れのそばに置いたのは、初めて伯母さん夫婦の家に来てから貰ってきて、一度も使ったことのないお小遣いの入った封筒だった。
何にもなれない、と思う。何かになりたい、と思う。
どこにも行けない、と思う。どこかに行きたい、と思う。
自分が何を思い。何を乞うているのか。何を大切にし、何を重んじているのか。
年だけ重ねて、一年稼いで自力で入った高校の今でやっと三年目。やっと三年だ。周りの生徒より一年年を取っていても、定時制高校の人間は他者をそう重んじない。朝に間違えた。昼間に寄りかかれない。そんな不自然の吹き溜まりで、今日も静かに使えるかわからない勉強に身を焦がす。
そしていやでも朝が来る。
「………どーしよ」
工場長の息子殴った。解雇。断る。息子襲ってくる。やだ。解雇。無理。息子求愛。急所蹴って通報。無職。
「あああああ」
急所蹴って無職はやだあ、と頭を抱えてコンクリートに転がる午前7時20分。始業時刻は8時で、工場長の息子、金髪をした見た目の気持ち悪い成金男は何をしてるかわからないけれど多分、実業家だと思う。あの息子が工場長に話すだろうか。話さないか。話してたらどうしよう。前歯折る。いや暴力は、え、今更?
ぐるぐるぐる、と考えても負のループなので心を鎮めるためにいつもの煙草屋へと出向く。570円。漫画の単行本一冊よりも遙かに高い値段は、世界が喫煙者にどんどん優しくなくなっている証拠。こんな日は爺じに癒してもらわなきゃ、やりきれない。
「あれいない」
そう思ったのに。その日、爺じはいなかった。始業前。早めに赴いてする煙草屋・爺じとの世間話が一服を味わい深くして、一日で最も有意義な時間だった。老人で認知症を患っているからか、どんな此方の愚痴もいつも初めて聞いたことのように反応し、20だと伝えれば惜しみなく煙草を売ってくれる。
一見すると人の弱みに付け込む狡いやり方かもしれない。痴呆を利用してその懐に潜り込んだ。でも、ほんの少しの嘘を織り交ぜて構築した関係は嘘偽りのない時間だったのに。
コインを弾いて、掴む。そのまま背中を照りつける太陽に透かして、その光に身を焦がす。自前の日暈。人間が出来る唯一の。
「…光」
直射日光に目が焼かれ、眩んだ瞬間にコインが逃げた。指のなかを弾け、キン、と高い音を立ててコンクリートを跳ねた500円玉に振り向いて、目で追うと彼は彼のあるまじき寝床に帰っていく。
自販機の下と言う故郷に。
「あああああ!!」
うそだ。意味不明。最悪だ。お前のあるべき場所は絶対にそこじゃない。髪がつこうがお構いなしでコンクリートにへばりつき、即座に自販機の奥に手を伸ばす。届かない。それと思しきコインの姿はあるのにままならない。500円だ。時給980円のほぼ半分。死んだ目で行う単純作業の1/2、こんなことで無駄にして堪るかと木の枝を突っ込んでみたりする。届かない!
「あーくっそもうちょいで届きそうなのに」
「あんた何やってんの」
「尻丸出しだよ」
真横、煙草屋からだった。
さっきまではいなかった。それが、今はそこにいた。番台、普段爺じが座っておはようって笑いかけてくれるその場所で、見知らぬ青二才が両肘をついて怠そうに。
腕を抜く。立ち上がる。既に薄汚れている作業着の膝を払って、その男に顔を上げた。
「…作業着だから丸出しにはならない」
「猫みたいに突き出してましたけど」
「お前誰」
「煙草屋」
上看板の[たばこ]の廃れた古めかしい文字を指差して「わかんだろ」、と釘を刺す。
「その場所は爺じの特等席だ」
「倒れたんだよ。番台代行。無茶すんなっつってたのに重いもん持ってこう腰をぎくっとさ、そんで今入院中」
「大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないから入院じゃん」
気怠げに座り直すのは、黒髪の青二才。朝の光。それを受け。眩しそうに目を細める姿に、もうちょいこっち、と立ち位置を調整されて男に影を作ってやる。私を日除けにしたらしい。涼しい顔をした男は、もう初夏だというのにゆったりしたプルオーバーを着て優雅に頬杖をついた。
「何か用事があったのでは?」
「………マルボロ赤」
「身分証見せて」
「二十歳だよ」
「4歳に見えるけど」
胸ぐらを掴む。なんだこの男癇に障る。ワンチャングーパンしてマルボロ奪うか、と片手を軽く振ったところで「暴力反対、」と微笑まれた。
「傷つけるから傷で返ってくんだよばーか。愛されたいなら愛を提供しろ。そして自己愛の徹底」
「どこの宗教団体だ。通報する」
「お好きに。あんたの精神心配されて終わりだよ」
服伸びるから離してくんない? と手首を掴まれて、その手の冷たさに一歩退く。それでも諦めきれずに視線を見本のマルボロ赤に向けた瞬間、何かを投げて寄越された。
飴だ。
「プレゼント。お近づきの印に」
「近付きたくねーよ」
「ないよりマシだろ」
確かに、何もないよりはマシなのかもしれない。今日の仕事効率はいつもの5割り増しで落ち、工場長には叱られ、パートにもこき使われて社会的に死ぬんだな。そう、未来の自分を瞼の裏で慰めて一歩前に出たら、身体が日陰に潜り込む。
「あんた、名前なんてーの」
「言いたくない」
「飴にまじないをかけられない」
「気持ち悪いんだけどおまわりさーん」
「大切なことなんだよ」
ほら名前。そう、諭すように首を傾げられて、男の黒髪がさらり、と目にかかる。それに渋々口を開いて、結んだら、「ああ、俺が言ってなかったな」と男が矛盾を覆した。
「アオだよ」
「………あお」
「あお。空の青。海の青。命の青だ。あんたは」
「……あかほし」
「うん?」
「赤星寧々」
そう、唇で言葉を紡いだら、男が少しだけ微笑んだ。
「ふーん、レッドスターだ。期待の超新星」
ころり、手のひらで転がった。その飴がよりによって甘ったるいいちごミルクだったから、益々気に入らない、と思った。
私の予想に反してその日、工場長はご機嫌で、パートの中年連中も謎にあくせく働いていた。なんでも最近韓国ドラマにハマってしまったとか何とかで、真面目にノルマを片付けて定時に直帰し、録画しているドラマに加えて、その俳優が出ている番組を全て網羅しなければならないそうだ。暇を持て余すと人は怠惰をし、無粋な悪行を目論み、手出しをし、楽さに流れる。人間の天秤はいつも怠惰と一蓮托生で、いとも容易く堕ちていくと聞いた。
一度消費者金融に手を出してみた例がわかりやすい。もう少し。もうちょっと。どうせ返す。きっと、まだ。自分への甘さ。そういった綻びが、人の背骨、真ん中に通っている核、髄みたいなものを壊していく。
そして均衡が崩れた時、人の矛先は、人だ。
「煙草屋」
その日。アオと出逢い、いちごミルクの飴をもらった日。
物事の滑り出しは恐ろしいほど順調で、自分のノルマすら簡単に片付いた。どういう風の吹き回しか工場長は社員へ差し入れにと温泉饅頭をお裾分けしたし、餡子が嫌いな私が渋ったら代わりに羊羹をくれた。ただ羊羹も苦手だっただけに、翌日の朝、煙草屋に着くなり番台に放り投げると、どこからともなく現れた手だけが羊羹をキャッチした。