「シュンさん!」


あの弾むような声が僕を呼ぶ。
咲き乱れる桜の中から、彼女がこちらへと手を伸ばす。


本当は、わかっている。
これは夢だと、僕は知っている。


けれど気づいてしまわないように笑顔をつくって。
目が覚めてしまわないように、僕は彼女へと手を伸ばした。


刹那、西の地平線に日が沈む。


彼女が淡く光って消える。


空が暗転する。





目覚めるとそこは六畳一間だった。むくりと起き上がってベッドサイドのティッシュを掴む。涙を拭いて、鼻をかむ。
時計を見やれば、時刻はまだ朝の四時だった。
えらく早起きしてしまった。けれどこうして一度目が覚めてしまうと、もう寝付けないことを僕は知っていた。


のろのろと淹れたコーヒーを片手にベランダに出て、朝日がじんわりと登っていくのを見届けた。まだ少し肌寒い朝の空気が、僕の肺を満たしては熱を奪う。
今日もどこかで天使達が、誰かの願いを叶えようと奮闘しているんだろうか、なんて思いを馳せてみる。


このまま時が止まってしまえばいいと、どれだけ願ったところで、やっぱり日は登っては沈むことを繰り返した。時は刻一刻と過ぎていく。
だから僕は今日も、このコーヒーカップを洗って、身支度をして、仕事に向かう。





「おはようございます」

「おはよー」


あれから僕は大学を卒業して、広告代理店に就職した。なんとなく忙しそうなイメージがあって、それでこの業界を選んだのだ。
日々慌ただしいような、ひっきりなしに色々な人と関わっていなくてはいけないような、そんな環境に身を置く方が良いような気がして。


「斉藤くん。今度の打ち合わせなんだけど、先方にお渡しする資料の作成お願いしてもいいかな?」

「はい、もちろんです」


ほら、今日もまた。席に着くや否や仕事を振られる。これでも繁忙期は先週過ぎ去った所だった。


カラカラカラと音がして、僕の席までオフィスチェアに乗ったまま先輩が滑ってきた。その膝にはパソコンが乗せられている。


「あとさ、斉藤くん。めちゃくちゃ有給たまってるけど、申請しないの?こういうのは使っちゃわないと勿体無いよー?」

「あぁ...有給、ですか」

「うんうん、使わないでいると自動的に失効しちゃうんだから」


パソコンの画面を僕に見せながらそう言った清見さんは、僕より三つ上の先輩だ。入社してからこの一年間、一番近くでとても良く僕の面倒を見てくださった人だった。彼女が一から丁寧に教えてくれたおかげで僕は、この一年である程度は使える後輩になれたと思う。けれどいかんせん先輩はこんな風に...


「ほらほらこれ、今年?去年...だっけ?からさ、こうやってウェブで申請できるようになったのよ。ログインしてさ、もう今取っちゃったら?今逃したらまたしばらく忙しくなるよー?」


少しお節介なところがある。まぁ決して社交的とは言えない僕の上司としては、彼女くらい世話好きな人で有り難かったような気もするけれど。





「私のお節介はね、きっと前世からなの」


それが清見さんの口癖だった。


「特に斉藤くんはねー、何だかほっとけないっていうか。弟?...っていうより...妹の所に婿入りしてきた義理の弟!みたいな、そんな感じがするのよねー」

「先輩、妹さんいらっしゃるんですか?」

「へ?いないわよ?」

「え...」

「うーん、直属の後輩を任されたの、斉藤くんが初めてだったからかなー。なんかそんな感じがするの!...あ、鬱陶しいって思ったら言ってね!まぁ癖みたいなもんだから、やめられそーにないけど!」


そう言って彼女はガハハと笑いながら、僕の背中を豪快に叩くのだ。





「いでっ!」

「なーに!どうしちゃったの?パスワード忘れちゃった?」

「あぁ...」

「って、あ!別に私のパソコンでやるこたーないわよね!URL送っとくから、そこからちゃんと申請するんだよー?」


そう言い残すと、先輩はまたしゅーんと自分の席へと滑って戻って行った。さすが仕事の早い先輩だ、URLは一分と待たずに社用チャットを通して僕の手元に送られてきた。


先輩が言ってくれた手前、休みを取らないわけにはいかないような気がして。それで僕はこの会社に入って初めての有給を取ることになった。ちょうど次の会議が終わってしまえば、本格的に業務が落ち着くような頃合いだった。
僕の休みは、実に九連休にもなった。





「いいねいいね!思いっきり楽しんでくるんだぞー、青年!」


そうやって賑やかに送り出されて、僕の九連休は幕を開けた。定時で上がった帰り道が少し、特別に見えないこともなかった。それでも僕はいつも通り、近所のスーパーで割引の惣菜を買ってビールで流し込む、変わり映えのなあ夜をこなした。


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


「九連休、かぁ...」


それだけ休みがあっても、特段したいことというのはなかった。そのくせ僕はまたあの夢に、日が昇るより随分前に揺り起こされてしまうのだ。


朝焼けの眩しいベランダで、僕はコーヒーの湯気をくゆらせながら忙しく起き出す街を眺めていた。学生の頃はからっきし飲まなかったコーヒーも、もう癖になってしまっていた。


「流石に何か...しないとな」


就職してから今日まで、ほとんど休みなく働いてきた。かといって絵の道を諦めたわけではなかった。日々に隙間を見つけては、キャンバスに向き合うことだけはやめていなかった。
けれど、なんだか今はそんな気分じゃなかった。六畳一間をインクの匂いで満たすような、そんな気分にはなれなかった。


僕は就職して一年が経った今でも変わらず、大学近くのこの部屋に住んでいる。広告代理の営業といえば一年目にしては稼ぎはそれなりによくて、だからもっといい部屋に引っ越したっていいのだけれど。それでもやっぱり僕は、彼女との一か月が詰まったこの場所から抜け出せずにいた。


「何か...か」


ため息をひとつ。ベランダの柵に背を預けると、窓枠の中に僕の部屋が映った。朝焼けが差し込みオレンジに染まったその部屋は、まるで一枚の絵のようで。


あの日のことを、思い出した。僕が初めて彼女にキスをした、茜色の夕暮れのこと。僕が初めて「ハル」と呼べば、いじらしく俯いた。あの日のこの部屋には確かに、二人だけの世界が閉じ込められていた。
六畳一間に絵の具の匂いが満ちれば、彼女は嬉しそうに笑った。前世の話をぽつりぽつりと話して聞かせてくれながら、僕が絵を描くのをあの椅子から見つめて笑った。
バイト先から手を繋いで帰った。着替える時間も惜しくて、僕は日が沈むまで寝支度は後回しに、ギリギリまで彼女との時間を過ごした。
部屋の隅のベット、二人で抱き合った。僕が「愛してる」と言うと、彼女は幸せそうに笑った。その目は琥珀色に輝いて、そして、消えてしまった。
これまで目を逸らし続けていたその情景が、逃れようのないほどの美しさで迫ってきて。


「あぁ...」


それで僕は震える心を抱えたまま、カラカラと窓を開け部屋に戻った。今しかない、そんな気持ちに突き動かされて、僕はスマホを手に取った。彼女が座ったあの椅子に腰掛けて、いつもの小説サイトに飛ぶ。

「続きを書く」をタップする。





ずっとずっと、彼女を忘れないように、繋ぎ止めておきたくて、だからあれからも絵を続けていた。もう今となっては、夢を叶えたいという気持ちより、彼女を忘れたくないという気持ちの方が、絵を描く動機として勝っているように思う。


そしてこれも、その一環だった。彼女との思い出、忘れたくない全て。それを小説として絵とは違った形で残すのも良いんじゃないかと、ある日ふと思い立ったのだ。それでこの小説サイトに流れ着いて、ぽつりぽつりと時間を見つけては書き進めていた。


「春の精」それが今僕が書いている物語のタイトルだ。


章 : 琥珀

本文 : それから僕たちは毎日一緒に...





その日僕は、ずっと書けていなかった最後の章をついに書き上げた。
彼女が僕の前からいなくなってしまった日の話。彼女がこの手の中で消えてしまった日の話。これで僕と彼女の物語は終わりだ。


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それでもまだ、休みはあと六日もあった。溜まりに溜まっていた家事をのろのろとこなして、カレーをこの家で一番大きな鍋いっぱいに作り置いて。思いつく限りのことをやり尽くしてもなお、時間はまだたっぷりと余っていた。


見そびれていたドラマの最終話のエンディングが、日の出前の暗い部屋に光を灯した。うんと伸びをした拍子に、冷たく照らされた部屋の隅のイーゼルに目が止まる。


「あぁ...」


立ち上がり白い布に手をかける。長らくかけたままにしてあったそれは、すっかり埃をかぶってしまっていた。





あの日彼女が消えてしまった日まで描いていたあの絵。それを完成させることもまた、僕にはできていなかった。描こうとするとどうしても心がすくんでしまって。けれど。やるなら今だという気がした。ぽっかりと空いた残りの時間、その空白はそれで埋めるべきだと思った。それしかないような気さえした。
それで僕はキャンバスをトートに入れて、朝焼けの中、あの丘へと向かうことにしたのだ。





彼女がいつも日の出と共に現れたあの木の下へ。イーゼルを立て、そこにキャンバスを立てかけた。パレットに油壺を置いて、ペインティングオイルを注ぎ入れる。


「油絵ってこんなの使って描くんですねー」


あの日の彼女の声がふと蘇って手が止まった。思い浮かんだ彼女はそのまま自由に、僕の頭の中を動き出す。そんな彼女を止めることなんてできずに、僕はキャンバスの中の彼女を指でなぞった。


絵の中の彼女が、動き出すような気がした。

桜の葉は春の光を宿して生き生きと、

彼女は眩しそうに笑う。


彼女がこちらを振り向いて、

嬉しそうに、何か言う。

僕は何故だろう、

「そうだね」

と返す。


僕の声が震えてしまったことにも気づかずに、

彼女は一層、弾けるように笑う。

春をそれごとまとうように、

彼女は目映く躍る。





気がついた時にはもう、太陽は傾きかけていた。この五年間、思えばずっとこうだった。「これからシュンさんはきっとたくさん悲しむ。私もそうだったからわかるんです」彼女が消える間際に言った通りだった。


彼女がいなくなってしまってから、僕の心はそれごと悲しみに浸されたみたいに、隙間さえあればそこは全て悲しみに侵食された。忙しくしていない時はいつだって、気づけば彼女のことを考えていた。


そしていつの間にか、時が経っているのだ。気づけば五年もの時が、経ってしまったのだ。


描かねば。なんだか今描かないともう一生描けないような、そんな気がした。それで僕は、やっと筆を取った。





あの日彼女が触れた、カドミウムグリーンのペールとプライムレッド。僕の魂の色。それとパーマネントホワイトをパレットに絞り出す。若草色と赤を薄める、僕の魂を薄める。


そして...


僕は震える手で彼女の絵に最後の魂を吹き込んだ。木漏れ日が彼女を優しく包むように、僕は光を描いた。
描き上がった一枚の絵。そこにはあの日の彼女が、こちらへと手を伸ばしていた。とても生き生きと、今にも動き出しそうに笑いながら。





ぶるっと振動したスマホに僕は我に返った。画面を確認してみると、それはあの小説サイトからの通知だった。


たくさんの人達が評価を押したり、感想を書いたりしてくれている。その一つ一つに目を通す。


きっと読者の誰もがこの話をフィクションだと思っているだろう。けれどそれもいい。この話が実話なのは、僕と彼女の間だけの秘密なのだから。


コメントに返事を書こうと、画面をスクロールしていたその時だった。表示されたメールの通知に、僕の指が止まった。
普段は使わない方の、サイトに登録する必要がある時なんかに適当に使っているアドレスにメールが届いたようだった。
いつもなら迷惑メールか何かだろうと開きもしないであろうそれを、その時の僕はなんとなくタップした。


その内容に、僕は思わず目を見開いた。久々に自分の心臓の音を聞いたような気がした。