僕達は毎日のように一緒に過ごした。授業も大教室のものは一緒に受けたし、バイト先にだって一緒に行った。
駅前のパン屋で働く僕の姿を、彼女はガラス窓の向こうのベンチからずっとニコニコと見ていた。そして時々悪戯な笑みを浮かべながら店に入ってくる。
「お兄さんのオススメはなんですか?」
なんてわざわざ聞きにくるのだ。だから僕が彼女の好きそうなパンを選んで答えると、彼女は手のひらをぎゅっと握って、ちょうどの小銭を出してお会計をする。そして僕が渡した袋を受け取ると、スキップするように定位置に戻って、幸せそうにパンを頬張るのだ。
そしてバイトが終わると、僕達は手を繋いで家に帰った。
「みたらし団子はダメだけど、パンはいけるんですね」
「まぁ海外では、パンが主食な国もあるからね」
「けど、一日三個以上はダメみたいです!」
「神様の中で、パンは一日三個まで、なんだね」
そんな他愛もないことを話しながら、日が沈むまで二人きりで過ごすのが、僕達の日常になっていた。
一日一日と彼女といられる時間が減っていくのを、僕は否応なしに数えてしまった。彼女との日々はどれだけ繋ぎ止めようとしても、指の間からすり抜けこぼれ落ちていく砂のように、どんどん消えていった。
僕はその事実を認めたくないのに、それに反して彼女は運命を受け入れている様子だった。シュンさんにもう一度会えただけで十分だと、出会ってくれてありがとうと彼女は繰り返し言った。
「日が落ちる瞬間って、どんな感じなの?」
「私が消える瞬間ってことですか?」
「そう」
「うんと、なんだか...眠りに落ちるのと似てるかもしれません」
「眠りに、落ちる」
「なんかこう、うとうとって体の境目がわからなくなるような、そんな感じです」
「それって...怖い?」
「シュンさんがいてくれたら、怖くないですよ」
そう言って、彼女は消えてしまいそうに笑うのだ。だから日が暮れる瞬間には二人でベットで抱きしめ合っているのが、僕達の習慣になっていた。少しでも安心して彼女が眠れればと思った。
薄茶色。彼女の目は薄茶色をしている。初めて会った日のあのポン色のセーターを思い出す。彼女は消える瞬間、微かにぽうっと光る。すると薄茶色の彼女の目は琥珀のように輝くのだ。そこに映っていたい、僕はこれまで何度だってそう願った。どうか、どうか、いつまでも...
それなのに、無情にも。
最後の日はやってきた。
彼女は最後の日もやっぱり、僕が絵を描くのを見たいと言った。
だから僕達は二人、手を繋いであの丘へ向かった。あれから毎日描き続けた絵は、もう何枚にもなっていた。
イーゼルの上に絵を立てかける。僕は今、あの絵を描いていた。柳川の桜の木の下で、彼女が花冠を頭に乗せて笑った、あの日の情景。
「ごめんね、完成させて見せてあげたかったのに...」
「ううん。せっかくだから、時間をかけても、うんと素敵に描いてくれた方が嬉しいもの」
「うん...」
「本当に、ありがとう。描いてくれて、ありがとう。突然話しかけてきて、その場で連絡先を聞いてきて、その日のうちにデートに誘ったような私と、仲良くなってくれて」
「本当。こんな子、初めてだった」
「ふふふ」
夕方には僕達はいつものように手を繋いで家に帰った。着替える間も惜しくて、僕は外に出た格好のままベッドに入って彼女を抱きしめた。
ここ数日、時間が止まりやしないかと何度も祈った。けれどやっぱり日は登り沈むことを繰り返し、時は進み続けた。
薄茶色の目が僕を映す。きっと僕の目にも彼女が映っていて。合わせ鏡のように永遠に、それが続けばいいと願う。どうか、どうか、ずっとここに映って、映していたいと。
「今日が終わったら、ハルはどうなるの?」
「うーん、私にもわかりません。すぐに生まれ変わるのかな。それともまた研修みたいなのがあるのかな」
「僕のこと、忘れる?」
「...そうですね。今度は私が忘れる番です」
「ねぇ、僕めちゃくちゃ長生きするからさ、僕が生きてるうちに生まれ変わってきてよ」
そんなことを言いながらも思わず声が震えてしまう。すると彼女は僕の頭を優しく撫でて、まじないをかけるみたいに言うんだ。
「大丈夫ですよ。巡り巡っていつかまた会えるから。大丈夫、大丈夫...」
時間というものは、果てしなく有り余るように存在するものだと思っていた。絵の道を諦めてからは特にそうだった。無限に続くように感じられる長い人生を、持て余しながら食いつぶすように生きていくのだと思っていた。
それなのに彼女に出会って、絵を描き始めて、時間の足りなさに僕は愕然とした。
だって僕にはまだ、知らないことがたくさんある。
僕の絵がいつか有名になったら彼女は一体どんな顔で喜んでくれるのか、僕はまだ知らない。
結婚しようとプロポーズしたら彼女がどんな反応をするのか、僕はまだ知らない。
彼女と僕の間に子どもが産まれたらどんな子になるのか、僕はまだ知らない。
おばあさんになった彼女がどんなに可愛らしいのか、僕は...僕は...
時計の針がチクチクと進む音が痛い。気づけばもう、部屋は薄暗くなり始めていた。
「あのね...」
彼女の声があの日と同じように響く。耳元で静かに弾む。
「ん?」
もうきっと涙でぐちゃぐちゃの情けない顔をしているであろう僕は、そう返事をするのがやっとだった。
「今まで秘密にしてたこと、教えてあげる」
「ん...」
「私にとってね、シュンさんが最初で最後でした...嬉しい?」
「ん...」
「シュンさん以外好きになれませんでした。天使になってからも、その前も。ずっとシュンさんしか見えなかった」
「ん...」
「これからシュンさんはきっとたくさん悲しむ。私もそうだったからわかるんです。だから先に謝っておきますね?本当にごめんなさい」
「ん...」
「シュンさんの絵は素晴らしいです。人を幸せにする力があります。これは贔屓目じゃなくて、本当。だからこれからもたっくさん、描きたいものを描いてくださいね?」
「ん...」
涙で視界が滲む。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
最後まで彼女を見つめていたい。
「あのね...」
ぽうっと彼女の体が光る。
その瞳が琥珀色に輝く。
そこにもう...僕は映っていなかった。
「シュンさん、愛してる」
あぁ。
僕の手は必死で彼女の体を手繰り寄せるのに、どんどんその感覚が消えていく。
彼女の存在が消えていく。
まるでスローモーションのように、これまでにないほどにゆっくりと。
「ハル...」
彼女が微笑む。
眩しいくらいに、消えてしまいそうに。
「僕も...僕もっ、好きだ、愛してる!」
彼女が弾けるように笑う。
何度だって言おう。
僕は何度だって。
彼女が笑うなら、叫んだっていい。
それなのに、無情にも。
手の中にあった温もりは、あっけなく消えた。
気づけば僕は空を抱きしめていた。
チクチクと時計の針の音がする広い部屋で、僕はひとり。
ひとりぼっちだった。