「柳川!柳川に行きたいんです!」
ある日の早朝。大学裏の丘、桜の木の下で。僕の目の前に現れるや否や、彼女は早口にそんなことを言った。
「なに、なに急に」
時刻は五時九分。アラームの音にどうにか身を起こし、寝癖を整える間も無くスリッパを突っ掛けただけの格好でここにいる僕。脳みそは、正直まだほとんど眠っていた。
「ハルって...起きたその瞬間、テンションがMAXに振れるタイプ、なんだね...」
「シュンさんは...ふふふ」
「んー?」
「なんだか、まだ寝てるみたいですね」
「...前世の僕も、そうだった?」
「え?」
「前世の、林春吾郎だった僕も、朝弱かったのかな、って」
「さぁ、どうでしょう?病院で痛み止めのお薬のせいでボーッとしてらしたのは見たことがありますが...それ以外、寝起きっていうのは見た事がないかもしれません」
「え、五年も付き合ってて?」
「はい、五年もお付き合いしていて」
「そーれは、清いお付き合い、だったんだねぇ」
「そうですね、清いお付き合...って!ちょっと、寝ちゃ駄目です!」
朝の心地よい日差しに、うっかり立ったまま微睡んでしまいそうなほどだった。そんな僕の肩を、彼女が思いっきり揺さぶった。
「柳川です!柳川!」
「わっ!へっ!?やながわ...?」
「そう、柳川!前世でシュンさんと私が住んでた辺り、そこに行ってみたいんです!」
一息にそう言った彼女。その目はまるでおもちゃをねだる子どものようにウルウルとしていた。
「えっと...それって、今で言うと、どの辺りになるのかな?」
「えっと、栃木...なんですけど」
「栃木?うーん...それなら、新幹線で行けばすぐじゃない?」
「えっと、栃木...新幹線、宇都宮駅...」
パッと僕の肩から手を離したかと思うと、宙を見つめながらぶつぶつと呟き始める彼女。
「...宇都宮駅、上野から...あぁ二時間もかからないんですね!!」
「ねぇ、もしかして今、僕の記憶覗いてた?」
「はい、シュンさんの記憶って本当、辞書みたいで便利ですね!」
彼女の頭の中にあるという僕の記憶。最近は彼女がそれを思い返している時の癖が、わかってきたような気がする。
ちょっと恥ずかしいような気もするけれど、まぁ、それが天使についてもらうということなのだから、仕方がないだろう。
そんなことを考えている間にも、彼女はそそくさとスマホを取り出していた。右手を画面にかざすと、えいっと何やら短く念じる。
「よしっ」
「なになに?」
「チケット取れました!」
「えぇぇ!?もしかして新幹線の?」
「はい」
「いつの!?」
「今日休みですよね?一緒に行きましょうよ!シュンさんの分もチケット取りましたよ?」
「けど、ちょっと待って。栃木っていっても広いよ?その中のどこかって、わかってるの?」
「あ...」
「あーあー」
「わー!いったんキャンセル!...って、どうやるんですかシュンさん!」
マイページ、メニュー、予約履歴...大慌てでスマホをポチポチと操作するハル。
「キャンセルは『えいっ』じゃできないの?」
「できないみたいですー...」
結局そのあと、スマホで栃木の柳川について調べてみたけれど、それらしい川は出てこなかった。ハルが生きていた世界はどうやら大正時代らしいから、地名や川の名前も変わってしまったのかもしれない。それでその日僕達は、二人で大学の図書館へ向かった。
古い時代の地図帳を探して引っ張り出して来ては、片っ端から机に広げる。栃木のページを開いては、柳川の文字を探した。二人コソコソと相談し合いながら、目を皿にして。
「柳川って名前以外に、何かヒントはないの?」
「えーっと...たしかお父様が、柳川はずうっと行くと鬼怒川に合流するんだっておっしゃってた気がするけれど」
「じゃあ鬼怒川に沿って見ていけばいいのかな?」
「うーん、多分。遠くには日光のお山が見えて...」
「山?どんな風に?この男体山とか、高原山とかかな?」
「うーん、ですかねぇ?」
「遠かった?」
「遠、かったと...思うん、ですけど」
「この地図でいう大体この辺りーとか、わかったりする?」
「わー、私地理全然ダメなんです!」
僕の質問責めに彼女は机に突っ伏して頭を抱えてしまった。かと思うとがばりと勢いよく顔を上げる。
「そうだ、シュンさん、前世の記憶!どうにか思い出してみてくださいよ」
「そ、そんな無茶な」
「できますできます!こう、うーんって念じてみたりしたら案外、できたりするかもしれないじゃないですか!」
正直いえばそんなの、もうとっくにやったことがあった。彼女が初めて目の前で消えてしまったあの日から、何度も前世の彼女との記憶を思い出せないかと試した。その上で、ちっとも思い出せやしないのだ。けれど目の前の彼女の期待するような視線に、そんなこととてもじゃないけれど言えなくて。
「うーん...わかった。やってみるよ」
だから僕は言われた通りに目を閉じた。こんな感じかなとそれらしく念じてみる。そして目を瞑ったまま、新しく開いた地図のページの適当な場所に当てずっぽうで人差し指を置いた。
「んー、ここ?」
指先に彼女の息遣いを感じた。彼女が息を呑んだのがわかった。固く瞑っていた目をゆっくりと開く。
「えぇぇっ!!!シュンさん!シュンさん、すごいですよ!!」
静かな図書館に彼女の大きな声が響いた。周囲の人達が怪訝な目でこちらを振り返る。
「しっ!」
「あっ、ごめんなさいっ!」
申し訳なさそうに首をすくめる彼女。周囲の人達に「すみません」「すみません」と謝ってから、一層小さな声で囁く。
「けどシュンさん、だってほら、すごいですよ」
そう。僕の指差す先には、見事に小さな川が流れていた。そしてその隣に、細い黒字で「柳川」と書かれているのだ。
いそいそと、隣で彼女がスマホを取り出す。朝と同じように、画面に右手をかざし唱える。
「えぃっ」
え...もしかして。
「チケット、取ったの?」
「はい、明日の」
「え、けど明日は授業だよ...?」
「うーん」
すると隣で宙を見つめ出す彼女。
「あ、また僕の記憶覗いてるでしょ」
「こりゃー別に、サボれてしまう授業だなぁ」
「サボれてしまうって...まぁ確かにそうなんだけどさぁ」
彼女がスマホの画面を見せてくる。そこには上野から宇都宮までのチケットが二枚予約されていた。その隣には、またあのウルウルとした、上目遣いの彼女。
「わかった。わかった行くよ」
「ほんとですか?やったー」
今度はしっかりと小さな声で、手まで小さく上げた彼女に僕は、完全に絆されてしまっているのだから仕方がない。
けれどそれも含めて全くもって悪い気がしないのだから、本当にどうしようもなかった。
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次の日の朝一番、僕達は始発電車に揺られ上野駅へ向かった。そこから宇都宮駅行きの新幹線へ乗り換える。出発時刻まではまだ少し余裕があった。
「駅弁なるものがあると聞きました!」
「聞いたっていうより、僕の記憶の中で見つけたんでしょう?」
「ふふふ、そうとも言います。これも経費でいけるでしょうか?」
「経費?」
「はい、天使の経費です」
「あぁ、新幹線のチケットを取ったみたいに?」
「そうそう、シュンさんのイーゼルを出したみたいに。ほら私達はらぺこで、食事は必要経費だと思いませんか?」
「うん、それはそうだけど...」
「シュンさんはどれが良いですか?私は鮭の親子弁当がいいかなぁ」
「うーん、じゃあ僕は、牛すき弁当かな」
「よーし、いきますよ?えいっ!」
彼女が念じると、きっかりお弁当二つ分のお金が彼女の手の中に出てきた。
「おー」
「おおぉ!」
「あ、でもどうせだったらおやつも食べたいですね!」
「そんなに欲張って大丈夫?」
「うーん、物は試しです!...えいっ!みたらし団子の分!」
意気揚々と唱えたは良いものの、彼女の手の上にはさっきと変わらず千円札が二枚と二百八十円が乗っているだけだった。
「...神様のケチ」
「そんなこと言ったらバチが当たるよ」
「おやつだって、天使の士気を高めるのに必要なアイテムだと思うんですが」
「ふふふ...じゃあ天使さんに頑張ってもらうために、団子は僕が買ってくるからさ。ハルはお弁当お願いね」
「え!いいんですか!?」
「みたらしで良いんだね?」
「はい!ありがとうございます!!」
天使の経費で落ちたお弁当と、僕が買ったみたらし団子を頬張りながら、僕らは新幹線で宇都宮駅へと向かった。彼女の柳川の思い出話を聞いたり、そして連日の早起きに少しだけうとうとしたりしながら。
そしてたどり着いた宇都宮駅。そこから電車を二回乗り継いで、やっと到着した。地図の中、昨日僕の人差し指がさした場所の最寄へ。
駅を出て少し進むとすぐ、小さな川が見えてきた。電車の中で彼女が教えてくれた通り、柳川のほとりにはどこまでも桜の木が植えられていた。
まだ朝の八時。気持ちの良い日差しが、水面にキラキラと反射していた。
「ここが柳川か...どう?あの頃から何か変わってる?」
「うーん、そうですねぇ。周りの建物は全然違うけれど。桜が全部残ってるのは、本当に嬉しいです」
眩しそうに目を細めた彼女が、切なげに笑った。きっと彼女は今、僕にはない前世の記憶の中を歩いているのだろう。僕も一緒にその中を歩きたくて、だから僕はそっと彼女の手を取った。
「でもどうせなら、もう少し前に来れば桜が咲いてたかもしれないのにね」
「ふふふ、そうですねー」
少し前まで葉桜だったであろう青々とした木を、彼女が眩しそうに見上げた。
「けれど、これもこれで素敵だと、思いませんか?」
そう言って彼女が立ち止まる。その頭上に茂る緑の隙間に覗く爽やかな青。木漏れ日が彼女を包んで楽しげに揺れていた。彼女の言う通り、確かにとても綺麗だった。
僕達は柳川を下流へと、ゆっくりと歩いて辿った。彼女の記憶と重なる場所はないかと、時々立ち止まっては辺りを見回しながら。
「あ!」
駅から歩いて十分ほど経った頃、彼女が短く声を上げた。その視線の先には、小さな橋があった。
「これ、この橋!...星川橋!?」
僕の手を引いて橋の方へと走り出した彼女。袂の橋名板には本当に「ほしかわばし」と書いてあった。
「なに?知ってる場所なの!?」
「あぁ...」
僕の質問なんて耳に入っていないみたいに、彼女は僕の手を引いてそのまま橋を渡った。その目はただ一点を見つめていた。僕には特になんてことのないように見える、川のほとりの一点を。
「ここ...ここです」
小さく囁いた彼女が、僕を見上げた。
「ここで、よく二人でお花見をしたの」
彼女の潤んだ目がぐるりと周囲を見渡した。あの頃の景色と今を重ね合わせるように、何度も瞬きをしながら。
彼女にそんな風に言われても、僕はやっぱり何も感じることはできなかった。ここに来たことがあるような気もしなければ、前世の記憶なんていうものが蘇る予感もなかった。
けれどそれでも、美しいと感じることはできた。目の前に広がる景色を。彼女が目を輝かせ佇む、その姿それごと。
「せっかくだから、座ろうよ」
僕がそう言うと、彼女がある木の下を指さした。
「あそこが私達の定位置でした。いつもあそこに並んで座ってたんです」
だから僕達は、きっと百年ぶりくらいにその場所に並んで腰を下ろした。彼女はずっと感動に浸るように、まるで眼前にとんでもない絶景が広がっているみたいに、忙しなくその目を動かしていた。
そんな彼女を、僕はしばらくただ隣で見ていた。感動からなのか、はたまた懐かしさからなのか、悲しい思い出が蘇ったのか...彼女の目には涙が浮かんでいた。
「ハル...大丈夫?」
「はい。ただなんだかとっても、懐かしくって...」
前世の記憶のない僕には、今の彼女の気持ちなんてきっと理解しようもないだろう。だから僕は、せめていつでも彼女の涙を拭えるようにと、ポケットからハンカチを取り出した。
そうして、彼女の瞳に涙が溜まっていくのを、その大粒の美しさを、そこに映る景色を、ただ隣で見ていた。彼女が思い出を辿るのを邪魔してしまわないように。彼女の涙が溢れたその時には、このハンカチで受け止めてあげられるように。
ほろり。ついにその瞳から涙が転がり落ちた。青々とした景色を映して、その雫は彼女の頬をつたった。
「せっかく桜が散ってさ、今度は僕らが主役かと思ったのに」
彼女があまりに景色に夢中で、自分の頬をつたう涙にも気づいていないみたいだから。だから僕はおどけた調子で、そんなことを言ってみた。やっとこっちを見てくれた彼女が、僕の差し出したハンカチに気がつく。
「え?」
「...って、この子達が言ってるよ」
すぐ足元に可愛らしい野の花があちらこちらにと咲いていた。僕がほらと指差すのに、彼女は何故か呆然としたように目を見開いてただ僕を見ていた。仕方がないからその涙を僕が拭いてあげる。それでもされるがままの彼女の瞳は、じっと僕を映し続けた。
あまりにじっと真っ直ぐに見つめられるものだから、さすがに気恥ずかしくなってしまって、僕はハンカチをポケットに仕舞うと、再び足元に視線を落とした。
白詰草やたんぽぽが咲いていた。名前もわからない花も。
ふとあの日、彼女が隣で花冠を編んでいたことを思い出して、僕も白詰草をいくつか摘んでみた。彼女の手元を思い出しながら、こんな感じかなと手を動かす。花冠なんて編むのは初めてだったけれど、案外できてしまうものだ。
編み上がったそれは、我ながら良くできたと思う。いまだこちらを見つめたまま固まってしまっている彼女の頭に、それを乗せた。
「はい」
とてもよく、似合っていた。
少しレトロな白いワンピース、透き通るような肌に、白い花冠が。
あぁ、彼女はまるで...
「ハル...」
「待って!言わないで、ください」
彼女の瞳からは、再びはらはらと涙が溢れていた。だから僕は今度は指でそれを拭う。すると彼女は気丈に笑顔を見せて、悪戯っぽく囁いた。
「なんて言おうとしたのか、当ててしんぜましょう」
「そんなこと、できるの?」
勿体つけるように「んー」と視線を巡らせてから、彼女は眩しいくらいに笑った。
「天使みたいだ...違いますか?」
「え!!!」
その、通りだった、それはまさに、僕が言おうとしていた台詞そのままだ。
「ハル!もしかしてさ、現在進行形で僕の頭の中覗けたりするの!?」
「ふふふ、さて、それはどうでしょう?」
それだけ言うと、ぐいと涙を拭った彼女は勢いよく立ち上がった。
僕の編んだ花冠に手を乗せて、こちらを振り返る。背景の青空と緑、目に眩しいほどの白。まるでそれごと一枚の絵のようだった。今の僕の視界の全てを一枚のキャンバスに描けたなら、どんなに素敵だろうか、なんて思う。
彼女といると僕の心の中は、どうしようもないほどに描きたいが沸き上がって止まらないのだ。
「さぁ、もうちょっと行ってみましょう?私が通ってた学校とか、住んでた家とか、酒屋さんの跡とか...」
「えっ、あ...」
慌てて立ち上がろうとする僕に向かって、彼女が手を差し伸べてくれる。瞬いた視界の中。僕の記憶のファインダーに、その情景はしっかりと焼き付いた。
その日僕達はあの頃の二人が生きた軌跡を何度も辿って、それから日が沈むまで柳川のほとりにいた。
僕の願いを叶えるためだけに産まれ落ちたという、天使のような彼女。そんな彼女の願い事を一つ叶えてあげられたことが、ちょっとでも恩返しができたみたいで、僕は本当に嬉しかった。