その日僕は大学の授業をサボって、一日彼女と過ごすことにした。何がしたいかと聞くと、彼女は僕が絵を描くのを見たいと言った。


「じゃあ画材屋さんに寄ろう。今実家から母さんが送ってくれた道具しかなくてさ。昨日描いてて気づいたんだけど、足りないものがいくつもあって」

「あぁ、それなら私が出しますから。買わなくて大丈夫ですよ?」


彼女は悪戯に微笑みながらそんなことを言った。


「え?」

「何が足りないんですか?試しにひとつ、言ってみてください!」

「え...っと、例えば...ピンク系の絵の具、とか?」


すると彼女は小さな手のひらを僕の前に出して、ぎゅっと握りしめた。そしてゆっくりと開いたかと思うと、そこには桜色の絵の具が一つ。驚く僕に向かって彼女はニヒヒと得意げに笑った。


「すごい...ありがとう」

「いいえ」

「けど今僕が描いてるのはさ、油絵、なんだよね...」


手の中の水彩のピンクを見つめて、その目をぱちくりと瞬いた彼女。次の瞬間にはその色は、彼女の頬に移っていた。





家に着くと彼女は僕の描きかけの絵を見てやっぱり、その目をキラキラと輝かせた。昨日まではその視線が僕の絵に注がれると少し複雑な気持ちになったものだけれど、今は素直に嬉しいと思えた。


彼女はいつも僕が座っている椅子が気に入ったようで、そこにちょこんと収まり良さそうに座った。
僕は彼女に出してもらったイーゼルに絵を立てかけると、筆を手に取った。





「シュンさんはね、描きたいものを描いてる時が、一番楽しそうに見えるんですよ。知ってましたか?」


足をぶらぶらとさせながら、彼女がそう言った。


「描きたい、もの...?」

「はい。シュンさんの絵は、あれもこれもできるようにならなきゃって無理して描いたのより、これが描きたい!って心が動くままに描いたやつの方が、断然素敵に描けてる気がします」


ぱっと花咲くような笑顔がそこにあった。彼女の声色はまるで、僕の数多の挫折をそれごと包み込んでくれるみたいで。だから僕は、そんな彼女にまるごと見惚れてしまった僕は、これまでの「僕なんて」を全て許されたような、そんな気にさえなった。


それに実は、僕もちょっとそう思っていたのだ。昨日の晩から無我夢中に筆を動かしていて、あの頃を思い出した。コンテストのために描いては落選を繰り返した、死に物狂いで描いていたあの頃。


あの頃の僕は、他の受賞作品達や応募要項を見ては「こういうのを描かなきゃ選んでもらえない」と、らしくない絵ばかりを描いていた。苦手な風景画だってそうだ。できないじゃいけない、描けるようにならなきゃいけないんだ!と迫られるように描いた。そんな絵は、今考えれば背景に義務感が滲んでしまっていたように思う。


けれど昨日から描いているこの絵は違う。描きたいから筆を取って、夢中で描き進めたこの絵には、目の前の彼女が生き生きと、とても魅力的に描けていると自分でも思った。描きたいから描く、描きたいものを描く。こんなに当たり前のことを、僕はいつから忘れてしまっていたのだろう。


「ありがとう」


僕が呟くと彼女は照れたようにはにかんだ。僕の心臓を動かすその表情ごと、僕の目を通してより魅力的に映る彼女を、このキャンバスにそのまま閉じ込めることができたなら。今の僕ならそれができると、そう思えた。





「ねぇ、ハルノさんは前世と見た目は一緒なの?」


彼女をモデルに絵を描いているのだ。ふとそんなことが気になった。


「...ううん」


寂しそうに彼女が言う。


「どんなだったのか気になるな...ねぇ描いてみてよ」


スケッチブックを渡してみると、彼女はおずおずと鉛筆を握った。たどたどしい手つきで、白紙に線が描かれてゆく。








彼女が描いた絵はお世辞にも上手いとは言えなかった。丸!線!丸!曲線!と並んだそれはなんだか子どもの落書きのようで、むしろ可愛らしかった。


「これで美術学部って...ハルノさん、嘘つくにしても詰めが甘すぎるよ。もしかして天使になって見た目が変わっただけじゃなくて、絵も下手になった?」

「こ、これでも上手く描けた方です!」


そう言って彼女は拗ねたように口を尖らせた。そんな彼女が可愛らしくて、思わずその唇にキスをしたい、そんなことを思ってしまった。





「僕達はさ、前世でどういう関係だったの?」

「うーんと...結婚を...約束した、仲?」


それから彼女は前世の僕達について、たくさん聞かせてくれた。僕がそうであればいいと願った通り、僕達は恋人同士だったという。けれどあまり長くは一緒にいられなかったと。


今更ながらにそんなにも若い彼女を置いて先にいってしまったことを申し訳なく思う。ごめんねと言いたかったけれど、何も覚えていない僕が軽々しくそんなことを言ってはいけないような気もした。それでもどうしても、一人取り残された彼女の寂しさや心細さを思うと我慢ができなかった。


「ごめん」


僕がそう言うと、彼女は困ったように、


「なんでシュンさんが謝るんですか」


そう言って笑った。





「けれどシュンさんがこんな時代に生まれ変わってくれててよかったです。いつでもスマホで連絡がとれるなんて便利!」

「けど、天使もスマホ契約できるなんて不思議だよなぁ」

「天使を舐めないでください」

「そのくせ日が出てる間しか活動できないんだね」

「天使を買い被らないでください」


彼女の小気味のいい返しが心地よくて二人でふふふと笑った。





「じゃあもし、夜にしか叶えられないような願いだったらどうするんだろうね?」

「夜にしか叶えられないような願い?」

「うん。だってほら、天使は日没とともに体が消えちゃうんでしょう?」

「それもそうですね、確かに考えたこともありませんでした」


そう言って彼女はしばらく「夜にしか叶えられない夢...」なんて呟きながら、僕の周りをぐるぐると歩いた。


「僕をNo.1ホストにしてください...とかは?」


僕がそう言うと、彼女がスキップするように飛び上がった。


「確かに!それは、夜にしか叶えられませんね!」

「ねー、夜の街の天使達は大変だろうな」

「本当ですねぇ...」


楽しそうにそう呟くと、彼女は僕の画材入れの前で立ち止まる。


「油絵ってこんなの使って描くんですねー」


なんて言いながら、今度は僕の画材を物色し始める。


「あ、この色!」


彼女は突然そう叫ぶと、絵の具のチューブを一つ手に取った。カドミウムグリーンのペール、いわば若草色のような色だ。


「何?どうしたの?」


僕がそう尋ねると、彼女はとてつもない秘密を孕んだような顔で怪しげに笑った。


「何!なんだよその顔」

「...知りたいですか?」

「うん」

「シュンさんの魂はね、こんな感じの色なんですよ?」


彼女が僕の方に絵の具をかざして、片目を瞑って僕と見比べる。


「魂?色とかあるの」

「ありますよー、この色を追いかけて私、シュンさんを見つけたんですから」


そう言うと彼女はまたガサゴソと僕の画材箱を漁る。


「あとこれ!」


そう言って今度はプライムレッドの絵の具を取り上げた。


「この緑の中に、ちらほらこの赤が混ざった感じ。シュンさんの魂の色」


緑と赤...それって。


「嘘...僕そんなクリスマスみたいな色で毎日出歩いてたの?年中浮かれてるみたいで恥ずかしいじゃん」


すると彼女はくははと笑って、絵の具をしまいながら歌うように言った。


「天使は何でも知ってるんですからー」

「...何でもって、例えば?」

「例えば?...例えば、私がシュンさんの初恋なこととか!」


その台詞に、一気に顔に血が集まるのを感じる。頬が熱くなるのが鏡なんて見ずともわかった。


「ちょっと!それはずるいよ!」


自分で言っておいて、彼女もちょっと顔が赤くなってしまっている。


「そう言うハルノさんはどうなのさ」

「え?」

「前世の僕が死んでから、少しくらいは誰かいいなと思った人がいたりして」

「ふふふ、さてどうでしょう」


形のいい唇が意地悪に引き上げられる。そんな顔をした彼女にさえ胸が高鳴るのだから、本当にどうしようもない。





「僕はさ、前世でハルノさんのことをなんて呼んでたの?」


できればその呼び方で彼女を呼んでみたいと思ったのだ。


「...ハル」


春。僕も春で彼女も春。そう思うとなんだか少し運命のようなものを感じてしまう。僕達はお互いに、同じ漢字で呼び合っている、そういうことになるのだ。


「ハル」


そう僕が呟くとぽっと顔を赤らめる彼女がいじらしい。


「ねぇ、ハル」


そうやって呼べば呼ぶほど、彼女の顔は真っ赤に俯いてゆく。


「ねぇ、こっち向いて、ハル」


そう言うとやっと、彼女が僕の目を見てくれた。





火照ったようなその眼差しに吸い寄せられるまま、僕はそっと、彼女に唇を寄せた。


音のない世界が僕達を包んだ。まるで僕ら以外、この世界には何もないみたいだった。


その日、茜色に染まった夕暮れの部屋で、僕達は初めてのキスをした。


あの狭い部屋の中、僕達はどこまでも二人ぼっちだった。