それから彼女は本当に消えた。日が沈むのと同時にすっと、僕の手の中から忽然と。彼女の言ったことは本当だった。あまりのことに呆然としたまま、僕は彼女が言ったことを何度も反芻していた。
彼女は前世で僕と知った仲だったと言った。けれどそれ以上のことは聞けなかった。思い出せやしないだろうか、何か、どうにか。そう思って目を瞑り念じてみる。けれど何一つとして思い浮かびそうになかった。
いつの間にか強く握りしめていた手。ほんの十数分前まで、確かに彼女の手を握っていたはずなのに。
彼女の存在自体が幻想だったのでは?彼女が存在したという事実自体が、ぱっと消えてなくなってしまったのでは?そう思うと途端に不安に駆られた。スマホを取り出し彼女とのトークルームを開けば、そこには確かに彼女との履歴が残っていた。ほっとして、全身の力が抜ける。
空を仰ぐとそこには月がくっきりと、それでいて儚げに佇んでいた。
『月が綺麗ですね』
ふと浮かんだそんな台詞を打ち込んで送信してみる。けれどやっぱり返信はかえって来ない。
思えばこれまで、彼女は夕方になると何かと理由をつけて『おやすみなさい』と話を切り上げた。
昨日の夜に送ったメッセージには、朝まで既読もつかなかった。その理由がやっとわかった。
『月が綺麗ですね』こんなあまりにも有名な口説き文句さえ彼女とは共有できないのだ。
大量の情報と感情でめちゃくちゃの頭の中に、ふと一つの単語が浮かんだ。
「一か月」
彼女は確かにそう言った、天使の寿命は一か月だと。
瞬間、ぐっと肺が押し潰されたかのように息が詰まった。一体何日経っただろう、彼女が僕の前に現れてから。あと何日あるのだろう、僕が彼女と過ごせる時間は。
「諦めてほしくない」
彼女が消える寸前に聞こえてきた言葉が、今更僕の頭に響いた。混乱してぐちゃぐちゃだった思考が、一気に澄み渡るかのようだった。
彼女のこれまでの言動。やたらと僕と絵の話をしたがったこと、あんなにも嬉しそうに僕の絵を見つめてくれた目。「天使は願いを叶えるために」...彼女は、僕の夢を叶えるために、僕の前に現れてくれたのだ。一か月という短い期間で、どうにかして僕の夢を叶えようと。それであんなにも。
気づけば僕は立ち上がっていた。
リュックを引っ掴んで一目散に家へと走る。
信号が赤なのも無視して僕は一度も立ち止まらずに走った。
大学のすぐ近くにある古いアパート。
鍵はポケットの中。
こんな時に限って手が震えてキーケースを取り落としてしまう。
カシャンという音がアパートの廊下に響く。
鍵穴に鍵を差すのに手惑いながらも、やっとのことでドアを開ける。
六畳一間の部屋の奥。
押し入れの襖を乱暴に開ける。
その一番奥、段ボールを引きずり出す。
描きたいと思った、彼女を。
彼女と過ごす全てを、季節それごと。
母が見繕ってくれたのであろう画材が入ったダンボール。絵の具やパレット、キャンバスはあるのにそれを立てかけるイーゼルが見当たらなかった。
仕方がない。埃を被ったキャンバスに覆い被さるように、僕は鉛筆で下書きを始めた。明日には足りない画材を買いに行こう。僕には描きたいものが、描かなければならないものがある。
その晩、僕は駆り立てられるように描いた。
月夜の空に目を輝かせる、美しい少女を。