目覚めると、そこはいつもの桜の木の下だった。昨日は結局、公園の公衆トイレで日没を迎えたのに、陽が登れば私はまたここで目覚める。朝日が少しずつ、街を照らし始めていた。
昨日は彼と親交を深めるという意味では、かなり上手くいったと思う。けれど結局、次の約束を取り付けることはできないまま、逃げるように彼の元を立ち去ってしまったのだった。そのことを思い出すと、心が憂鬱に沈んだ。ここから一体どうすれば良いのだろう。目を瞑り念じてスマートフォンを手に取れば、画面に通知が届いていた。そこに灯る彼の名前にハッと背筋が伸びる。
 

『明日十三時頃から、あのカフェのテラスで絵を描こうと思います』

「明日...これ昨日の夜に届いてる...ってことは、今日!?」
 

沈んでいた心も、こんなに短い文章一つでたちまち安直に高鳴った。彼に誘ってもらった、また彼に会える、ただそれだけで。

 
今日はどんな格好で会いに行こう。そう考えていて思い浮かんだのは、前世で彼の店に初めて行った時に着た菜の花色のスカートだった。あれは私が初めて彼と話すことができた日。そんな縁起のいい格好で身を包めば、今日の天使業務も上手くいくような気がして、私は目を閉じて念じた。スカートの上は白いブラウス。忘れないように最後に赤い紅を引くと、私は約束の時間を待った。登ってゆく日の光にアパートに灯る彼の魂が、明るくほのかに色を変えるのを眺めながら。





時間より少し前にカフェに着いたのに、彼はやっぱり先にそこにいた。変わってないな、とつい笑ってしまう。
遠い彼が私に気がつく前に、建物のガラスで最後の身だしなみ確認をする。現世は水溜りがなくても、どこででも姿身代わりになるものがあるのが良い。紅が少し落ちかけていたことに気がついて、もう一度引き直す。
彼に少しでも可愛いと思ってもらえていれば良いな、だなんて天使としては余計な欲がつい湧いてしまう。





「シュンさーん!」


大きく手を振りながら近づくと、彼がスケッチブックから顔を上げた。あぁ、スケッチブック。彼がノートではなくスケッチブックを使っている。それだけのことが嬉しかった。


「何描いてるんですか?」


彼の向かいの席に座ってテーブルに乗り出すように彼の手を覗き込むと、彼が悪戯っぽく笑った。それが前世のシュンさんの表情と重なって、心が音を立てる。


「今しがた君にびっくりして飛んでっちゃったスズメだよ」

「スズメ...?」


彼の視線を追ってみれば、その先、木の上にスズメがいた。
 

「え!ごめんなさい!私のせいでいなくなっちゃいましたか?」


あぁ。私は彼が絵を描く手助けしなくちゃいけないのに、邪魔をしてどうするんだ。本当に私は、失敗ばかりで...
 

「いいんだよ。鳥はよく描いてたから見なくても描ける。それにほら、もうほぼ完成」


そう言うと彼は描いていた絵を私に見せてくれた。そこには可愛らしいスズメが二羽並んで何かを啄んでいた。目がイキイキとしていて、まるでスケッチブックの中で本当に息をしているかのようだった。こんなにも上手なのにどうして彼が夢を諦めたのか、私には理解ができなかった。


「すごい!可愛い!やっぱシュンさん...絵上手ですね!」

「ありがとう」


照れたように俯く彼。こうやって彼の絵を見て感想を言う、私なんかにでもできるそんなことが、彼にとって少しでも自信になるのならば嬉しかった。今日も私が天使として彼のそばにいていい、その理由ができたように思えて。


「それで、何を描こうか」


スケッチブックを次のページへとめくりながら彼が言う。彼が私のリクエストに応えてくれるという。それなら、思い浮かぶのはただ一つだった。
 

「桜!桜を描いてるのを見てみたいです!」

「桜?...けれど、桜はもう昨日でほとんど散っちゃったよ?」


彼の言う通り、テラス席から見える桜並木のほとんどが葉桜になっていた。けれどそれがいいのだ。桜が散ってもいつまでも桜の木を愛でた、それが私達の一番の思い出だったのだから。


「それが、いいんです」

「へ?」

「それがいいんです!散っちゃった桜を、シュンさんに描いて欲しいんです」

 
不思議そうに首を傾げながらも、彼は桜を描くことを快諾してくれた。軽くお昼を済ませると「桜を描くならいい場所がある」と言う彼に連れられ私はカフェを出た。





図書館と研究講義塔の間に設けられた広々とした空間。その真ん中に一本、とても立派な桜の木が植わっていた。それを取り囲むように、ぽつりぽつりと学生達が好き好きに座ったり芝生に寝転んだりしている。あいていたベンチに二人座って、桜の木を見上げると、なんだかとても懐かしい心地がした。
彼がリュックからスケッチブックと筆箱を取り出す。彼の描く一挙手一投足を見つめていたかったけれど、それじゃあさすがに居心地が悪いだろう。それで私は彼が描いている間、久々に花冠を編んでみることにした。足元にはタンポポやら白詰草やら、可愛らしい花がたくさん咲いていた。


「桜ってあっという間に散っちゃうんですね」


お互いそれぞれに作業をしながら、私達はぽつりぽつりと他愛もない話をした。シュンさんと並んで桜を見上げた、あの日々が思い出される。


「うーん、今年はまだ雨が降らなかっただけ長持ちしたんじゃないかな」


桜が咲くのはあまりに一瞬で、その儚さに二人並んで「名残惜しい」といつまでも眺めていたものだった。


「けど、一週間くらいしかもたないんですね」


満開の時には皆一様に立ち止まって桜を愛でるのに、季節が過ぎれば誰も気に留めなくなる。


「そうだねー」


だからあの桜の木の下は、私達だけの空間だった。
今日またあの場所に戻って来られたような、そんな気持ちになれた。


「何を描くのが一番好きですか?」

「一番は人かな?次に動物」
 

そうだ。彼は風景画が苦手なのだった。それでも隣で描き上がっていく桜は、私の目からすればとても素敵に見えるのに。

 
「確かに!さっきのスズメもすごく上手でした」

「動物描くのが好きなのは多分、小さい頃にポンを描きまくったところから来てるんだよね。あぁ、ポンっていうのは...」

「ふふ、私に似てるあのワンちゃんですよね」


脳裏に浮かんだ愛らしく落ち着きのないプードルに、思わず笑ってしまった。
けれど。


「え?...名前まで教えてなかったよね?どうしてわかったの?」


彼のその台詞に今更ビクッと肩が跳ね上がった。しまった。そうだ、ポンちゃんの話を私は知らないはずなのだ。


「え?...あ!えっと、なんか...なんとなく、そうかなって思ったんです!」


どうにか言い訳を口にしてみたけれども、彼は訝しむような目でこちらを見ていた。どうしよう、話題を変えないと。焦る私の目に、日の光が眩しく照りつけた。


「い、いやぁけど、今日は晴れて本当に良かったですよね!すごいスケッチ日和!」


そう言って伸びをしてみても、二人の間に流れる空気はぎこちないままだった。何かないかと、足元に視線を走らせる。何でも良い、何か話題は...


「あ!あれ、四葉かしら?」


本当のことを言えば四葉なんて、どこにも見えなかった。それでも私は勢いよく立ち上がって、適当な場所にしゃがみ込んだ。


「あぁ、違いました!三つ葉でした!」


なんだか彼の顔を見れなくて、私は静かにベンチに座り直した。思えばシュンさんに会ってから、私は嘘ばかりついていた。嘘をつきたいわけじゃないのに、嘘をつかなければ彼のそばにいられないのが天使だった。


――経済学部三年の高田秀史くん、至急教務課までお越しください。経済学部三年の...


「そ、そういえば!シュンさんって何学部なんですか?」


タイミングよく流れた校内放送に助け舟を出してもらって、私はどうにか話題を変えた。彼はまだ少し怪訝な表情をしていたけれど、それでも私の質問に答えてくれた。


「あぁ、法学部だよ」


そうだ。彼が夢を諦めたのは高校生の頃だった。あの頃の彼の記憶が、自分のことのように脳裏に蘇る。迫られた進路選択で法学部を選んだのは、父親が法学部出身だったから。つまり、ただ、なんとなくだった。


「じゃあ将来は...弁護士さん、とか?」

「うーん、いや。普通に就活して、普通に就職するんじゃないかな」

「そっか...」


そう呟いた横顔がどうにも苦しげで、気づけば私の唇は勝手に言葉を吐いていた。こんなことを言っては彼を傷つけてしまう。それに気づいたのは台詞がすっかり口の外に出てしまってからだった。


「...本当は絵の道に進みたかった?」


彼の手がはたと止まった。恐る恐る彼の表情を覗き込む。けれど彼の口から返ってきたのは、思いの外軽い返事だった。


「あぁ、うん。よくわかったね」


けれどその表情に、彼が無理をしていることは容易にわかってしまった。どうしようもないほどに、彼の気持ちがわかってしまった。


「シュンさん、絵描いてる時すごく楽しそうですもん。わかりますよ」

「そう、かな」

「私はシュンさんの絵、好きですよ?」


私が彼の絵を好いていようがいまいが、そんなことは何の足しにもならない。本当はわかっていた。けれど私はそのことを伝えずにはいられなかった。
 

「ありがとう」

「私シュンさんならなれると思うんです、素敵な絵描きさんに」


私の言葉に、彼の瞳の奥が一瞬揺れたのが見えた。けれどすぐに俯いた彼の横顔には、諦めの影がさしているのだ。


「...この世界にはさ、僕の手の届かないような天才がたくさんいるんだよ」

「そう、なんでしょうか...」


私には彼の記憶がある、感情がある。彼がどんな思いで絵の道を諦めたかを知っている。だからこそ、私は他に何と言っていいのかわからなかった。どうにかしてあげたい。そう思うのに、無力な私にはどうすることもできないのだろうか。


思わず俯いて両手を握りしめた。そんな私の耳に、彼の優しい声が降ってきた。


「例えば僕さ、風景画が苦手なんだ。昔よく河原で練習したんだけど、いまだに苦手」


そう言って彼は小さく笑った。私が落ち込めば、優しい声で慰めてくれる。たとえそれが、自分が苦しい時であっても。昔からそんな人だった、シュンさんは。そんな所も私は大好きだった。


「そうなんですか?」

「うん、ほんと、青春投げ捨てて河原に通ってたんだよ?学校終わりに毎日のように。放課後デートなんて無縁の中高時代だった」

「ふふふ...女の子に誘われたことないって言ってましたもんね」

「うんうん。本当なんだよ」


シュンさんと彼は、本当に同じような笑い方をする。はにかむような、節目がちな照れ笑い。
彼が口にする昔話が私の記憶の中にもあって、なんだか二人で思い出を共有しているような、そんな気持ちになった。
無性に嬉しくなってしまって、それが、いけなかった。


「ふふふ...けどシュンさん、結局犬を散歩してるお姉さんとか、囲碁してるお爺さんとか、人ばっかり描いてたじゃないですか」

「...え?」

「え?...あ!」


またやってしまった。本当に私は。彼といられることに舞い上がって、すぐにボロを出してしまう。とことん馬鹿だ。


「どういうこと?どうして知ってるの?」

「いや、あの...そう!私も昔よく河原通ってたので!えっと、石投げて水切りの練習してたんです!」

「...ねぇ」


真剣な声の彼と目を合わせられない。もう駄目だ。これ以上言い訳が思いつかなかった。


「ハルノさん、僕達前にどこかで会ったことある?」

「...ない、ですよ」

「じゃあどうして?ポンのことも、河原の絵のことも、どうして知ってるの?」

「それは...」


心臓はバクバクと音を立てて苦しいほど。


「ねぇハルノさん。君一体、何者なの?」


何を言えばいいのかわからなかった。
学生達で賑わうキャンパスで、私達の間にだけ重い空気が漂っていた。


これ以上言い逃れはできない、話さないわけにはいかなかった。嘘をつくのも逃げるのも、もう嫌だった。


「ごめんなさい。騙そうとしたわけじゃないんです」


本当だ。嘘をつかなきゃいけない状況だった、けれど騙したかったわけじゃない。


「...やっぱ私、嘘下手だなぁ...ごめんなさい」


彼の願いを叶えるどころか、たったの一か月自分の正体を隠し通すことさえできなかった自分が、本当に不甲斐なくて情けない。
手元には不恰好にも編み上がった花冠。昔シュンさんが編んだそれを私の頭に乗せて、言ってくれた言葉を思い出す。


「天使みたいだ」


そうだったらどれだけ良かっただろうと、彼がいなくなってから何度だって思った。本当にそうだったら死んでしまった彼にも会いに行けただろうかと。けれど今、私は本当に天使になって、こうして彼の目の前にいる。彼の記憶は無くなってしまったけれど、こうして言葉を交わすことができている。花冠を頭に乗せて、私は彼に告白した。


「私...天使なんです」


それ以外、何と言いようがあっただろうか。彼の瞳が戸惑うように揺れた。


「...天使?なにそれ」

「本当なんです...本当。ちゃんと説明するので、今日このまま日が沈むまで一緒にいてくれませんか?そしたら証明できるので」





それから私は日が沈むまで、天使についての色々なことを話した。突拍子もない話だろうに、彼は時々質問を挟みながらも真剣に話を聞いてくれた。

 
人は何度も生まれ変わること。

その度に魂は人、天使、人、天使と輪廻を繰り返すのだということ。

天使の生は誰かの願いを叶える手助けをすることで、来世への徳を積む期間なのだということ。

天使から人に生まれ変わる時には、記憶をリセットされること。

逆に人から天使になる時には前世の記憶はそのまま、それに加えて、願いを叶える対象人物の記憶を与えられること。

天使の寿命が一か月であること。

そして、彼の覚えていない前世で私と彼は知った仲であったということ。
 
 
こうして天使としてシュンさんと再び出会って、初めて本当の私として話せている気がした。何も後ろめたい気持ちを抱かずに、ありのままの私で。たとえそんな私の存在を彼が信じてくれなくても、理解してくれなくても、覚悟はできていた。
辺りを見渡せばいつの間にか、もう日没まで数分の頃になっていた。


「あの、ひとつお願いがあるんです」

「何?」


彼が優しい声で返事をしてくれるのが好きだった。声こそ変われど、その声色はあの頃と同じだ。


「私の手を握っていてほしいんです。私が消える瞬間まで...駄目、でしょうか?」


体が消える瞬間は、何度経験しても怖かった。
せっかく再会できた彼のいる世界に、もう二度と戻れなくなるような気がして。だからギリギリまで、彼といることを実感していたかった。彼に触れていたかった。


シュンさんは黙って私の手を握りしめてくれた。その温かな手にどれだけ恋焦がれたことか。


「消えても明日にはちゃんと、日が登るのと一緒に戻ってきますから!安心してくださいね?」

「わかった」


彼があまりに真剣に頷くものだから、少し笑ってしまった。


「あのね、私シュンさんに絵を描く夢...」


その瞬間、西の地平線に日が沈む。あぁ、きっとこの声は彼に届かない。けれど明日言えばいい、また明日。


彼の手の温もりに身を委ね、私は眠るように目を閉じた。