店を出る頃にはもう、夕刻にさしかかっていた。
日が落ちれば私の体は消えてしまう。その前にお別れを言わなくてはならない。彼の目の前で忽然と姿を消すわけにはいかないから。けれど、わかっていてもどうしても名残惜しくて、もっと話していたいと思ってしまう自分がいた。


「シュンさん、今日は、楽しかったですか?」

「うん、楽しかったよ」


あぁ、よかった。ほら、それが聞けただけで十分じゃないか。心の中で自分に言い聞かせる。私は今日、少しでも、一歩でも、彼の夢に近づけただろうか?


「シュンさんは...絵、好き、ですよね?」

「うん」

「じゃあ絵、描くのも好き!ですよね?」

「...好き、だけど」
 

最後にしっかりと顔を見たくて、彼の前に躍り出た。私を見つめ返す目がオレンジ色の光を宿して揺れている。その瞳に、なんだか吸い込まれてしまいそうだった。

 
「じゃあ今度、映画もいいけど。私見たい、シュンさんが絵を描くところ!」


どうしても、次の約束を取り付けてからさよならがしたかった。だってもう、あと二十三日しかないのだから。


「...うん、いつかね」


彼の声色が重たく沈んだ。やはりまだ彼にとって絵を描くということは、抉れたまま無理に覆い隠しただけの大きな傷口なのだ。わかっていた。わたしには彼の記憶があるのだから。
それでも私には彼の言ういつかを待つような時間はない。けれどそんなこと、彼の気持ちが痛いほどにわかってしまう私に言えるはずがなかった。


「...はい、いつか」


思わず震えてしまった声の端。彼が心配そうな顔でこちらを見ているのがわかった。
いけない、元気にお別れを言わないと。せっかく楽しい一日を過ごせたのだから。日が沈む前にさよならを言って、彼の前からいなくならないと。
私は急いで笑顔をつくると、最後に彼の表情をこの目に焼きつけた。


「じゃあ、今日はここで!ありがとうございました、すーっごく楽しかったです!」


一方的にそう捲し立てると、私は踵を返して駆け出した。大丈夫、ちゃんと笑えていたと思う。





三十日という期間は始まってしまえばあまりにあっという間で。今日のさよならを言うのにも泣いてしまいそうな私が、最後の日に笑顔で彼と別れられる自信がなかった。
そして何より、こんなに短い期間で私が彼のためにできることがあるのだろうか。願いを叶えてあげること、その手助けが本当にできるのだろうか。


薄手のワンピースでは肌寒くなってきた夕暮れの街を、私は消えるための場所を探して走った。