誰もいない場所へと思いながら走っていたら、いつの間にかあの丘に辿り着いていた。毎朝私が目覚める、桜の木の下。
「はぁっ、はぁ...」
息が苦しい。私は崩れ落ちるように木の根本に座り込んだ。
ついに彼に話しかけることができた。連絡先も交換できたのは本当に上出来だと思う。けれどまだまだこれからだ。
彼からすれば私は今日初めて会ったばかりでいきなり連絡先を聞いてきた赤の他人なのだ。そんな私がたったの一か月で、彼と夢の話ができるほどの距離に近づくなんてきっと容易なことではないだろう。しかもその夢を叶えるだなんて。
少しずつ木の影が長くなっていくのを眺めながら、私は時が経つのを待った。そしてそろそろ架空の「用事」も終わる頃合いに、私は彼とのトークルームを開いた。また直接会ってもらえるにはどうすれば良いだろう。そう考えて、彼と絵の話ができる可能性が少しでもある場所に誘おうと思い至った。
『今度、美術館おごらせてください!』
さすがにいきなりすぎるかとも思ったけれど、私には時間がないのだ。返信を待っている間にもほら、空はみるみる橙色を帯びてゆく。
『どこの美術館が好きですか?』
やっと返ってきた返事。私は彼の記憶の中から一番素敵な美術館を選び出して答えた。
『私、桜野美術館が好きです!』
『僕も好きです、桜野美術館』
その返信に思わず頬が緩む。なんだか少しズルをしている気分だった。
『じゃあそこにしましょう!いつ空いてますか?』
『今度の日曜とか都合どうですか?』
今日が火曜日だから...日曜日といえば五日後ということになる。三十日しかないうちの五日は大きい。
けれど彼がバイトに授業に課題にと日々忙しいことも、私は知っていたから。
『丸一日空いてます!』
『じゃあ日曜に』
『集合は、どこにしましょう?』
『桜野駅とかでどうですか?』
『いいですね!そうしましょう』
今日会ったばかりの彼とまた会う約束をできた。それだけでも十分よくやったと言えるだろう。私は何度も自分にそう言い聞かせた。
それでもまだ、陽が沈んでしまうまでまだ少し彼と話していたかった。それから私達は好きな本や音楽、食べ物の話をした。彼が何度も驚いたように『僕もです!』と返事をくれたけれど、そんなの当たり前だ。
だって最近の本や音楽、テレビも、私は彼の知っているものしかわからないのだから。私が本当に好きなものを言ってしまえば、完全に時代錯誤、不審がられてしまいそうで。だから私は全てを彼の記憶の中から探し出してきては打ち込み送信した。深い話になっても答えられるように、彼がよく知っているものを。
『あ、そういえばお名前を聞いてもいいですか?』
数十分やりとりした末の彼のメッセージに、今更と少し笑ってしまう。天使に名前なんてないから...
『あ!そっか、まだ名乗ってなかったなんて、すみません。ハルノです』
私は前世の名を名乗った。
『僕は拓っていいます』
知ってる。斉藤拓さん。
『拓さん!よろしくお願いします!』
あぁ、もう日が沈んでしまう。
『そろそろバイトの時間!今日はおやすみなさい』
そう送信して、私はスマートフォンをさっき出した鞄にしまった。そこには彼が描いてくれた私の絵がある。そっと取り出して、それを夕暮れの空に掲げる。
これが私。あの頃彼が見つめてくれた私はもういないのだ。願わくばせめて、あの時の姿で彼の前に現れたかった。けれどそれは望みすぎなのだろうから。また会えただけで感謝しなくてはならないのだから。
彼が描いてくれた絵を胸に抱き締めながら、私はそっと目を閉じた。涙が一筋流れたその瞬間、ふっと自分の体が消えるのを感じた。