目覚めるとそこは小さな緑の丘だった。朝日眩い景色の中に私はいた。ひらひらと花びらが何枚も降ってきて、見上げて初めて、そこが桜の木の下なのだと気づく。
丘の下には私の前世にはなかったような建物や機械が彼の記憶と重なって溶け込む風景が広がっていた。等間隔にならぶ街路樹と、ガラス張りの建物と。
彼の記憶と重ね合わせるように周囲を散策する。私が目覚めた丘の裏側には、彼の大学があった。


「あぁ。これが今の彼が生きている時代なのね...」


そう呟いてから、ハッとする。そうだ。私はこれから何も知らない現世の彼と出会う。きっと私から話しかけ、どうにか仲良くなって、そして彼の願いを叶える手助けをしなければならない。怪しまれてしまわないように、話し方だって今の時代に合わせなくては。


「ここが、今の彼が、生きてる、時代なんだ...」
 
 
建物のガラスに映る私の姿は、前世とは違う見目の、彼と同じ年頃の女の子になっていた。私はもう、結川春野ではないのだ。



 
天使は願いを叶える対象人物の魂の色が、遠くからでも見えるようになっている。大学から通りひとつ向こうのアパート。その一室に、彼の魂が光っているのが見えた。

 
大学が始まる時間になると、彼の魂の色が動き出した。アパートから離れたそれは少しずつこちらへ近づいてきて、やがて講義棟へと吸い込まれていった。その光を追って、私も大学の敷地内へと足を踏み入れた。生徒でもない私が勝手に入ってしまって大丈夫なのだろうかと不安だったけれど、大学とは存外誰でも自由に出入りできる場所なようだ。

 
「自然に話しかけるには...きっと、ここの大学に通ってる学生ってことにするのが良いわよね...いい、よね?」


誰に止められることもなく、私は無事講義棟に侵入することに成功した。大学の101教室、その中に彼の魂の色が光るのが見えた。


「この中に、彼が」


トクトクと忙しく跳ねる心臓を抑えて、私はその重厚な扉を押し開けた。私一人が紛れても誰も気づかないだろうほどに広い教室。私が開いた扉はどうやら、教室後方のものだったらしい。そっと忍び込めば、はるか前方に黒板があって、十数列もの長机が階段状に連なっていた。そろりそろりと私はその一番後ろの席に腰掛けた。


彼の魂の色は、前から三列目の席に灯っていた。
カーキ色のジャンパー、黒髪のつむじ。
光の玉に見せてもらったままの姿。
間違いなく、彼だった。


実際に彼を前にすると、心臓が否応なしに早鐘を打った。数十年ぶりの彼が、確かにすぐそこにいるのだ。前世ではどんなに会いたくても会えなかった彼が、歩いてゆけば届く距離にいる。彼が、いる。それだけでもう、呼吸の仕方もわからなくなってしまいそうだった。
気づいた時にはもう、目から涙が溢れていた。抑えた口から漏れる嗚咽。隣の席に座っていた女の人が、怪訝そうにこちらを見たのがわかった。咄嗟に顔を隠すように俯いても涙はとめどなく溢れて、授業前の静まり返った教室に私のすすり泣く音が響いてしまいそうで...
いたたまれなくなって立ち上がると、私は音を立てた椅子にも構っていられずにそのまま教室を抜け出した。


その日は結局、私は彼に話しかけることができなかった。彼を遠目に見つめる、それだけで涙が溢れて仕方がなかった。
講義が全て終わると再びアパートへ吸い込まれていった彼の魂の色。夕暮れの中、わたしは桜の木の下で、輝くその色をじっと見つめていた。一か月しかない。焦るばかりの心をどうすることもできずに抱きしめたまま、その日、私は日没とともに眠りにつくように姿を消した。


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


次の日、彼は二コマ講義を受けると大学のカフェに入って行った。
心の準備も作戦会議も朝から何度もしたはずなのに、いざ彼を目の前にするとやはり心がすくむのだった。
けれど私には時間がない。もうこれ以上、二の足を踏んでいるわけにはいかなかった。


カフェの外のベンチからこっそり彼の方を覗き込みタイミングを測っていると、彼が鞄からノートと鉛筆を取り出すのが見えた。
やがてチラチラと桜並木を目に収めては、忙しく手を動かし始めた彼。その姿に彼がスケッチをとっているのだとすぐにわかった。


彼の夢、絵の道に進むこと、それが彼の諦めた夢、私が叶えたい願い。彼が絵を描いているのだ。彼の天使として、ここで行かないわけにはいかなかった。何度も深呼吸をして、今度こそはと心を引き締めると、私は意を決してカフェへと足を踏み入れた。







「お好きな席にどうぞ」


そんな声かけに私は彼の視界に入るであろう位置に座った。平常心、平常心。心の中でどれだけそう繰り返しても、心臓は姦しくて仕方がなかった。


「えっと...何か頼まないと、いけないわよね」


メニュー表には、私が生きていた時代には無かったような飲み物がずらりと並んでいた。思わず背筋が伸びてしまう。五百円、四百五十円、五百五十円...この円というのがお金の単位だということは、彼の記憶で知っていた。大丈夫。お金でも物でも必要経費であれば願うだけで手元に現れるようになっている。神様が天使に与えてくれる特別な力のひとつとして研修で教わっていた。


「四百五十円」


試しに小さく口の中でそう念じれば、本当に百円玉が四枚と五十円玉が一枚、手の中にちゃりんと現れた。よかった、本当に出てきた。これで無銭飲食はせずに済みそうだ。私が顔を上げると、目があった店員さんがすかさず近づいてきてくれた。
 

「ご注文はいかがなさいますか?」

「あ、こ、紅茶をお願いします」

「アイスとホットがございますが」

「えっと、ホットで、お願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」

「はい」


感じよく会釈して店員さんが去っていく。現世での初めての会話が上手くいったことに胸を撫で下ろす目の端にも、彼が映って気が気ではない。けれどかといって、まっすぐに彼を見つめるだけの度胸なんてなかった。遊歩道を眺めるように身を固めながら、私は視線だけをチラチラと彼の方に泳がせた。どうやら彼はこちらにある何かを描いているようだった。手を止めては顔を上げる。そんな彼の視界の中に今、私も映っているのだ。


桜を眺めるふりをしながら、急いで考えを巡らせた。何と話しかけよう、どうやって。早く話しかけないと。今日を逃してしまったら、また機会が減ってしまう。やっとここまで彼に近づけたのだから。





再びちらりと彼を見やると、今度は手元のノートに覆いかぶさるように絵に集中していた。一心不乱にノートに向かう彼が顔を上げる様子はなかった。今だ、今しかない、近づいていって、そして話しかけるんだ。そう決心し私はついに立ち上がった。


ゆっくりと近づいて行っても、彼は余程集中しているらしく私に気づく様子は全くなかった。
そっと、後ろへ回り込み、私は彼の手元を覗き込んだ。





そこに描かれていたのは...私だった。

彼は私を描いていたのだ。

建物のガラスに映って、こちらを見つめ返していたあの少女...確かに私に違いなかった。


 


溢れ出してしまいそうになる感情。揺れる黒い髪、ゴツゴツとした手がシュンさんそのままだった。気を抜けばまた涙がほろりとこぼれ落ちてしまいそうだけれど堪えなくては。今度こそ、今生でこそ、私は彼の願いを叶えたい。私は強く唇を噛み締め大きく息を吸い込むと、ついに、彼に声をかけた。





「...それ、私ですか?」


肩を震わせ顔を上げる彼と、バチリと目が合った。


「私、ですよね?」


今生の彼が目の前にいた。優しそうな瞳。せっかく堪えた涙が再び込み上げてこようとする。


「すごい、上手ですね!」


ノートを覗き込んで誤魔化したけれど、勘付かれてやしないだろうか。目を強く瞬いて、どうにか涙を堪える。


「...ぁ、ありがとうございます」


その声の端の震えに、彼が驚いているのがわかった。それはそうだ、どこの誰とも知らぬ女が突然話しかけてきたのだから。前髪の隙間から覗き見た彼の顔は、ほんのり赤らんでいた。

 
「でも、どうして私を?」

「えっ...?」

「どうして私を、描いてくれたんですか?」

「えっ、と」


もしかして、私を見て何か感じてくれたりしたんじゃないだろうか。ひょっとして、前世のことを思い出したりだとか。そんな淡い期待を抱いてしまった。
しばらく言葉を探すように視線を巡らせていた彼が、ハッと何かを思いついたように口を開いた。
  

「あ、いや、あの...ウチの犬にすごく似てて、それで...」

「犬?」


もう一度彼の目を見れば、吸い寄せられるように目が離せない。深い色をした目が、本当に変わっていなかった。


「いや、君が犬みたいってことじゃなくて!なんかその服が、ふわふわしてて、うちの犬に色も似てて、それで...」


私は、シュンさんに初めて出会った、あの日のことを思い出していた。
雨の中、酒屋の店先で震えていた仔犬に、及び腰になりながら手ぬぐいをそっと投げた彼。缶詰を地面に置くと、すぐにおおげさに後ずさった大きな体。雨のカーテン越し、目が合って、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。
今生も変わっていない優しい目が嬉しくて。あんなにも怖がっていたくせに、輪廻を超えた彼は犬を飼っている。幼い頃両親にせがんでやっと買ってもらった犬を彼が溺愛していることを私は知っていた。そんな彼がなんだか可笑しくて。


「ぷっ、くはははは!」


やはり、彼は私のことをちっとも覚えていないのだ。けれどそれでもよかった。今日ここで話せたことがこんなにも嬉しかった。本当に嬉しかった。
色々な感情とともに目元に滲んでしまった涙を慌てて拭うと、戸惑った様子の彼へ私は精一杯の笑顔を向けた。


「それ、ください!」

「へ?」

「ください!出演料!」

「えっ、あっ...はいっ」


差し出した手は彼まで三寸の距離。本当にまた彼と会えた。その記念に何か欲しかった。それが彼の描いた絵だったなら、どんなにか素敵なことだろうと思った。


彼はおぼつかない手つきでノートのページを一枚破ると、私に手渡してくれた。


そこには眩しそうに目を細める少女が描かれていた。それは確かに私だったけれど、私の知らない少女の姿をしていた。もう彼の目に映る私は、あの頃の私ではないのだ。けれど夢を諦めたはずの彼の絵が、こんなにも美しく心動かすものであることが、私は嬉しかった。


「本当に、素敵...ありがとうございます」


絵を大切に抱え顔を上げれば、彼が真っ直ぐな目でこちらを見ていた。数十年の時を経て、私たちは今やっと、見つめ合った。
あぁいけない、このままだといよいよ泣いてしまう。私は慌てて顔を伏せると、後ろ手に急いでスマートフォンを念じた。それを今まさにポケットから取り出したような素振りで構えると、私は彼の記憶を頼りにトークアプリを起動した。


「今日はこの後用事があるんで時間ないんですけど、今度お礼させてください」


これさえあれば、そばにいなくても文字でやりとりができるのだと、彼の記憶から知っていた。


「え?いや、お礼なんて。僕が勝手に描いただけですし」

 
彼が恐縮するように体の前で小さく手を振った。けれどここで諦めるわけにはいかない。こんなこと、初めてだった。前世では私から声をかけることさえできなかった。彼が話しかけてくれても、逃げるように酒屋から駆け出してしまったことを思い出す。まっすぐ彼へ突き出した手はどうしようもなく震えてしまっていた。変な子だと思われてしまったら、避けられてしまったらどうしよう。

 
「それって、連絡先交換してくれないってことですか?」

 
これで断られてしまったら、私はそれ以上どうして良いかわからない。唇を噛み締め祈っていると、彼は戸惑いながらも自分のスマートフォンを取り出してくれた。彼がQRコードを読み取ってくれている間も、押し寄せてくる感情で心が忙しかった。それらが全て今にも涙に変わってしまいそうで、私は必死で唇を噛み締めた。



「あ、これですかね?...A.Hさん?」


優しく尋ねてくれた声にどうにかコクコクと頷いた時には、もういよいよ限界だった。
 

「じゃあ!」


どうにかそれだけ言い残すと、私はやっぱり逃げるように彼に背を向けた。


急いでお会計を済ませる時にはきっと、私の顔は涙でぐちゃぐちゃだったと思う。店員さんに心配されたけど、上手く返事もできないまま、私は店を駆け出した。


桜が降る木漏れ日の中を私は走り抜けた。喜び悲しみ恋しさ愛おしさ...色々な感情が一気に押し寄せる私の心臓は、ドクンドクンと音を立てて痛いほどに脈打っていた。