気づけば私は、真っ白な空間にいた。
辺り一面眩しいほどに白い世界、そこに私は立っていた。目が眩むようなまばゆさがどこまでも続くかのように思える空間の中、私は瞬きを繰り返した。目が慣れてくると、数間先に美しく輝く玉があることに気がついた。それはそれは美しい光の玉だった。
ふらふらと吸い寄せられるように歩みを進め、手を伸ばしたその時だった。どこからともなく、機械的な声が聞こえてくる。
――ようこそ、天界へ。
驚き周囲を見回しても、そこには私以外には誰もいない。ただどこまでも、白い空間が広がっているだけ。
――貴方は今、人としての生を終えました。
どうやらその声は、目の前の光の玉から聞こえているようだった。あまりに現実離れした出来事。けれど確かに声が言うように、私は死んだのだろう。私が静かに耳を傾けていると、声は淡々と話を続けた。
――魂は輪廻転生を繰り返します。
――人から天使へ、天使から人へと魂は巡るのです。
――貴方にはこれから天使になるための研修を受けていただきます。
――天使としての職務、それは人の願いを叶える手助けをすることです。
――そうすることで積んだ徳が、貴方の人としての来世を決めます。
――またこれは、貴方の魂が正常に別の体に宿ることを確認するための試験期間でもあります。
――説明は以上です。
――健闘を祈ります。
それだけ言い残すと光の玉は一層光を増して、そしてふっと消えた。あまりの眩しさに目を瞑って開いた次の瞬間には、周りにたくさんの人がいた。
「え...」
きょろきょろと辺りを見回す私に、周囲の視線が集まる。皆が皆、白い服を着て、思い思いに談笑をしていたらしかった。その最中に私が突然現れたのだろう。近くにいた感じの良さそうな女の人が一人、私に声をかけてくれた。
「あら、こんにちは」
さっきの光の玉が言ったように、もしもここが天国だとかいう場所だというのなら、彼女はここに来るにはまだ随分と若すぎるように思えた。
「えぇと、なんだかよく...わからないのですけれど」
「大丈夫、安心して。私がここのこと説明してあげる。時間だけはいくらでもあるからね」
彼女がそう言うと、周りにいた数人が穏やかに笑った。その様子に、どうやら彼らが歓迎してくれているのだということだけはわかった。
「私の名前は豊川キヨ。あなたは?」
「結川春野といいます」
聞けばここにいる人達は皆私と同じように、死を実感した直後気づけばといった風にこの場所にいたのだそうだ。
ここにはこうして私のように、定期的に新しい人がどこからともなく現れるらしい。その度に近くにいた人がこの場所について教えてあげる、なんとなくそんな暗黙の了解があるのだそうだ。
私はどうやら本当に結川春野としての生涯を終えたらしい。そして次は、来世への徳を積むため、誰かの願いを叶える天使として生まれ変わるのだそうだ。
「それで私...どうすれば良いのかしら」
「そうね。研修というのがあるのよ。そこでいろいろ教えてもらえるから安心して」
「研修?」
「そう。そこで天使としてやってはいけないこと、できること。その他諸々、全部教えてもらえるわ」
「それが終わったら、天使になるの?」
「そうね。見ていた感じ、ある日突然『呼び出し』がかかるのよ。そこでまたあの光の玉から、誰のどんな願い事を叶えれば良いか、そういったことを聞かされるそうよ。それからしばらくするとみんな身の回りの準備をして、やがて下に降りていく」
研修は人間界で言う学校に通っているような感覚だった。学校と違うところといえば、若い見た目の天使もいればお年寄りに見える天使もいるということ。
この姿は生前自分が一番幸せだった時の姿なのだという。見れば私の手はシュンさんと過ごした頃の、若い手をしていた。キヨさんも今の見た目はとても若かったけれど、亡くなったのは私と同じ歳の頃のことだったそうだ。
研修の期間は人それぞれだそうで、すぐに人間界に降りていく天使もいれば、私より随分と前から天界にいる天使もいた。
それならばどこかに彼がいたりするんじゃないかと思って探したけれど、誰に聞いても彼のことを知る者はいなかった。四十年も前に死んでしまったのだ。もうとっくに天使になって、人として生まれ変わってしまったのかもしれない。
「ここに来てまで探すだなんて、その人のことを本当に愛していたのね」
「死んで仕舞えば、また会うことができると思っていたのに」
「そうね。けれどそうやって人探しをして、実際に会えた天使もいるそうだから...諦めずにもう少し、頑張ってみましょう」
キヨさんは本当によくしてくださった。彼女がいてくれたおかげで、右も左もわからなかった私もすぐに天界に慣れることができた。けれどやっぱりいつまで経っても、シュンさんを見つけることはできなかった。
「ねぇねぇ、キヨさん」
「どうしたのハルちゃん」
「なんだかね...気のせいなのかもしれないけれど」
「えぇ、なぁに?」
「なんだか最近、記憶が...生きていた頃の記憶がね、遠ざかっていっているように感じるの。まるで他人事みたいに」
「あぁ、ハルちゃんもなのね」
「え?」
「それはね...そういうもの、なのよ」
「そういう、もの?」
「ほら、私達天使は、願いを叶える相手の記憶も抱えなくてはならないでしょう?」
「えぇ」
「それっていうのはね?願いを叶える相手の記憶を、まるで自分のもののように脳に刻まれるようだと『呼び出し』された天使から聞いたわ」
「自分の、もののように...」
「きっと全く違った時代に降りることになっても困らないように、そういう風になっているのね」
「あぁ」
「だからね、そのために天使は脳みその中に隙間を空けなくちゃならないのよ、きっと。噂ではそうやって前世の記憶が遠ざかることも、天使になって人間界に降りるための指標の一つだと言われているわ」
「そうなのね...じゃあ、キヨさんも感じる?記憶が薄れていっているの」
「そうね。忘れるように欠けるように記憶を失っている...というよりは、本当にハルちゃんの言うように、遠ざかってる感じがするわよね。記憶ごとまるでまんべんなく薄まっていくような」
「そう。そうなのよ。それがなんだか恐ろしくて」
「大丈夫、大丈夫よ。おかしなことではないから。きっとそれが、生まれ変わるということなのだから」
それならば。他の記憶はどうでも良い。けれどシュンさんとの記憶だけは絶対に忘れることのないように、自分のものであるように、大切にしっかり繋ぎ止めていようと思った。
どうせ天使になって人間界に降りれば、それから一か月でこの記憶は消されてしまうのだ。それならいっそ、最後の最期まで彼を愛していたかった。
天界での時の流れは曖昧で、もうどれだけそこにいたのかなんてわからなくなってしまっていた。
そんなある日、私にもついに『呼び出し』がかかった。
指定された部屋に入ると、そこには初めてここに来た時に見たのと同じ光の玉があった。ゆっくりと近づいてゆくと、あの声が聞こえて来る。
――研修期間、お疲れ様でした。
――貴方はこれで立派な天使です。
相変わらずの機械的な声が白いだけの部屋に響いた。
――貴方の担当は斉藤拓、齢十八歳、男性です。
こちらの感情なんて関係なしに、あれよあれよと話が進んでゆくこの感じ。初めてこの玉を見たあの日のことを思い出す。まだ右も左もわからなかったあの日。あれから私は研修を経てこれから天使になる。
担当というと、これから私が天使としての一生をかけて、願いを叶える手助けをする対象のことだ。どんな人だろう?一体どんな願い事を叶えることになるのだろう?けれど緊張に浸る間も無く、光の玉はぽうっと宙に映像を投影した。徐々に形作られてゆく影に、私は目を凝らした。
そこに映ったのは、一人の若い青年だった。
瞬間、体中に走った衝撃と感情はこれまでの人生を持ってしても、到底言語化できそうにないようなものだった。
シュンさん、彼だった。顔も姿も変わっている。けれど今の私には魂が見える。彼がまとう魂に、前世の彼の面影が覗いた。
彼だ、彼だ、彼だ...
涙が溢れる、手の震えが止まらない、息が苦しい。
そんな私にはお構いなしに、光の玉は林春吾郎、もとい斉藤拓のこれまでの人生についての情報を見せてきた。それはまるで直接頭の中に流れ込んでくるかのように、鮮明に私の脳に焼きついた。
こちらを覗き込んでくる、彼の母親の笑顔。
近い地面を一生懸命によちよちと歩く赤い靴。
クレヨンをむんずと掴む手、白い紙に青が広がれば「すごいぞー」と嬉しそうに笑った彼の父親の声。
ランドセルから取り出した真新しい筆箱。授業前、彼の机の周りに群がる同級生達。
ゴツゴツと男らしさを帯びてくる手、授業中のシャーペンでの落書き。教科書の偉人の模写。
初めて向き合ったキャンバス、買ってもらったパレットに絵の具を搾る指がわくわくと震えた。
何枚も何枚も描いてはコンテストに応募した。最初はドキドキと結果を待っていた心も、段々と希望を失っていく。
進路希望調査票を前に、握る拳がふるふると震えた。
筆を、折った。
なんとなく選んだ法学部を受験して合格した。
ちっとも、嬉しくなんて、なかった。
そこで斉藤拓の記憶は止まった。呆然とする私に光の玉が語りかけてきた。
――貴方は彼を知っていますね?
――前世で貴方はあまりに一途に彼を想い続けました。
――私はそれを、全て見ていました。
――けれど彼はもう貴方のことを覚えていないでしょう。
――貴方が生まれ落ちる姿も、生前の貴方のものではありません。
――だからこれは優しさに見せかけた、ただのエゴなのかもしれません。
――愛しい我が子よ、どうか貴方が天使としての職務を全うせんことを。
それまで機械的だったその声に、微かに感情がこもったように思えた。次の瞬間には光の玉は消え、気づけば私は部屋の外にいた。
「ハルちゃん!...ハルちゃん!?」
彼を失った時と同じような痛みが襲う胸を押さえながら、私は力なくその場に座り込んだ。
「キヨさん...キヨさん、私...」
「何があったの!ハルちゃん」
人間界に降りるまでには、少しの準備期間を与えられていた。私はその間に、何度も心の整理をした。キヨさんに何度も励まされ、私はどうにか正気でいることができた。
一か月。数十年越しに訪れた彼との再会の期限はたったの一か月なのだ。
私は彼の願いを叶えたい。
そう思ったのはもしかすると、直接脳に流し込まれた彼の記憶や感情のせいなのかもしれない。けれど私は、天使としても結川春野としても、心から彼の願いを叶えたいと思っていた。体の中心から沸き立つように、強くそう思っていた。
「ハルちゃん。また、どこかで」
「キヨさん。きっと、どこかで」
キヨさんと別れの挨拶を交わし、私は目の前に現れた階段を一歩また一歩と下っていった。