しばらくすると病室に看護師様が入っていらした。
そろそろご遺体を清める「湯灌」をしなくてはならないと言われて、それで私は体を引きずるように部屋を出た。
次に彼の姿を見たのは、棺の中だった。四角い箱の中で彼は、ぴくりとも動かずに横たわっていた。
葬儀は彼と私の家族の間だけで、ひっそりと取り行われた。全てまるで夢のようで、ぼぅっと目前で起こることを眺めていれば、あれよあれよと事は進んでいった。私は母様に支えられるように、棺の中の彼と別れの挨拶をした。それから間も無く葬儀師様が彼を、棺を炎の中へと運ぼうと彼の入った棺を持ち上げた。
彼がいなくなってしまう。そのことだけがわかって、私はいよいよ立っていられずにその場に崩れ落ちた。私達の目の前で、彼の身は業火に焼かれた。
彼が死んでしまった。葬儀は滞りなく執り行われた。その中のいつ、どの時を、どの瞬間を悲しめば良いのかわからなくて、気が狂ってしまいそうだった。
愛する人を、失った瞬間。
彼が最後に目を閉じた瞬間、彼の呼吸が止まった瞬間、お医者様が「ご臨終」だとおっしゃった時、看護師様が「ご遺体」を清めなくてはならないとおっしゃった時、彼が棺に入れられた時。
そのどの瞬間にもまだ、彼は確かに私の目の前にいた。数刻前までは彼であったはずのそれが、いつどの瞬間に彼でなくなってしまったのか、私にはわからなかった。
物も言わず横たわる彼も、私にとっては彼に変わりないように思えた。もう起き上がれなくても良い、話せなくても良い、微笑みかけてくれなくても良い。それでもいいから、その隣にいたかった。もう動くことのない彼も、私にとっては彼に違いなかったから。
愛する人を、失うということ。
棺の中に横たわっていたあの彼が、魂の抜け殻だったとして、私は確かにそれごと彼を愛していたはずなのに。それだって私が愛した彼の一部なのに。それはもう彼ではないと、死んでしまったのだと言われても、よく、わからなかった。
私は確かに彼の大きな手も、薄い唇も、黒々とした髪も全て、それごと愛していたのに。それなのに、私の目の前で、その「彼だった」ものは焼かれて消えてしまった。
その間私は、何度も何度も彼が殺されるかのような心地がした。気が、振れてしまいそうだった。その全てのいつどこを悲しめば良いのかわからなくて、だから私はその全てに涙を流した。心を締め付けられ、魂が流れ出すように、そんな風に泣いた。
葬儀の工程が全て終わった後、お義母様が彼が残したものだという一通の手紙を手渡してくださった。
茶色い封筒には、小さく「ハルへ」と書いてあった。
私はそれを携えて、気づけばふらふらと柳川へと向かっていた。何度も彼と花見をした、あの場所へ。病室へ通うばかりの毎日で、思えば河原へ向かうのは本当に久しぶりのことだった。
満開の桜の下はやはり、人で賑わっていた。思い思いに食べ笑い飲む人達の中で、喪服の私は一人、いつものあの場所へと腰を下ろした。
桜が綺麗に咲いていた。目には見えない風に合わせて、はらりはらりと淡い欠けらが落ちてくる。
「桜ばかりちやほやされてしまって、これでは草花が嫉妬してしまうね」
ふと聞こえた気がした彼の声に、足元へと視線が落ちる。私の周りには、黄色や白の小さな花達が咲いていた。お義母様にいただいた手紙に涙がぽつりと落ちる。皆が桜を見上げる中、私だけが、俯いて涙を流していた。一緒になって草花を愛でてくれる人は、もうどこにもいなかった。
気づけば握りしめた封筒はくしゃくしゃになってしまっていた。彼が書いた字が消えてしまってはいけない。それで私はようやっと震える手で、封筒から便箋を取り出すことができた。
そこには数枚にもわたって彼らしい美しい字が連なっていた。私へと残した言葉が、連なっていた。
思い出したかのように溢れて来ては視界を滲ませる涙を何度も何度も拭いながら、私は彼の手紙を読み始めた。
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ハル。
君に手紙を残すと決めたは良いものの、何を書けば良いだろうか。そんな風に頭を巡らせて、もう何日にもなる。
君に残したい言葉はあまりにたくさんで、こんな紙切れ一枚におさまりようもないのだから。
それでも、いつかの君の支えにほんの少しでもなることができれば。そう思うに至って僕は、今ようやっと筆を取っている。
あの日雨の中で佇んでいた君が、今でも鮮明に浮かぶ。あの時は格好をつけた僕だったけれど、内心は雷に打たれたような気分だったのだよ。この人だ、そう思ったんだ。
今だから言うのだけれど。君が初めて酒屋に来てくれたあの日、君が別にお使いで来たわけではないこと、本当はわかっていたんだ。
それなのに「お使いかい?」なんて意地悪なことを聞いたのはね、そのまま君を帰したくなかったから。少しでもいいから君と話がしたかった。ずるい僕を許しておくれね。
ハル。僕は生まれてからあの日まで、ずっと何か、自分の片割れのようなものを探しながら生きているような気がしていた。けれどもそれが何なのか、どうしてもわからずにいた。
あの時、あの瞬間、この子だと思った。僕はずっと君を探して生きていたのだと、君に出会ったあの瞬間悟ったんだ。
可笑しなことだね。それは一目惚れなどという言葉では片付けられないほどの感情だったんだ。
けれどそれを文字に起こすには、僕の言葉はあまりに足りない。君みたいにきちんと勉強をしておけば良かった、なんてこんな手紙を書く時になって思う。
けれど、こうして君を見つけられただけでも、愛し愛してもらえただけでも、僕はこの人生を生きた意味があった。それだけは確かなことだ。本当にありがとう。
ハル。可愛い君を残して逝くことを、申し訳なく思う。本当にすまない。君の泣く顔なんて見たくないのに、本当に不甲斐ない。
僕には君と見たい未来があった。僕が未来を想像すれば、そこには必ず君がいるんだよ。君は知っていたかな。僕は本当に幸せ者だったと思う。
君とまた桜の木の下で花見がしたかった。あの店を一緒に切り盛りして...けれど、贅沢は言わない。ただ平凡な毎日を君とおくることができればと思っていた。君と家族になりたかった。それさえ叶わなかったね。本当に、本当に申し訳ない。
ハル。君は本当に素敵な人だ。ゆっくりでいい、いつか僕のことを忘れても良いから。君との未来は僕が描いたまま持っていく。だから君は君の未来を生きて欲しい。今は無理だと思うかもしれないけれど、ゆっくり君らしく前を見て進んで。どうか幸せになって。
けれど本当にどうしようもなくなってしまった時、疲れ果てて一歩も進めなくなってしまうような時、誰かの言葉に傷ついてしまった時には、少しだけ、振り返ってみてほしい。
僕はいつまでも、必ず此処にいる。他の誰が何と言おうと、あのえんじ色を誰かが指差したように誰かが君を笑ったとしても、僕だけは変わらず此処にいて、ずっと君を愛している。それだけは確かなことだ。君は確かに誰かの特別だった、心の隅に留めておいて。
ハル。何度でも言おう、君はとても素敵な人だよ。
あぁ、随分と長い手紙になってしまった。君はきっとこの手紙を何度も読み返すのだろうから、あまり長くしてしまってはいけないね。
きっと君はひどく悲しむだろう。けれどね、これだけは約束しておくれ。僕のせいで君にもしものことがあったりしたらそれこそ、僕は耐えられないから。
だから約束だ、ハル。
僕の分まで生きて。
わかったね、絶対だよ。
ハル、心から愛してる。
林 春吾郎