病院への道すがら、あの団子屋に立ち寄った。店先には今年初めての桜餅が鮮やかに並んでいた。柳川の方から聞こえてくる花を愛でる人々の声が、今日は一段と賑やかだ。
「おじさん、桜餅を一つくださいな」
「おぉ!それ、今日の分最後の一つだよ!お嬢ちゃんついてるね」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、毎度あり!」
近頃のシュンさんはめっきり食が細くなってしまって、桜餅を買って行っても食べられないかもしれないと、そんな考えも頭をよぎった。
けれども春一番の知らせに、二人の思い出の桜色に、どうしても買わずにはいられなかったのだ。匂いだけだって、目で楽しむことだってできる。笹の葉に包まれた桜餅を胸に、私は病院へ向かう汽車に乗った。
けれど。
駅からすぐの病院、待合室を抜けて、病室棟へ続く廊下。
その先から聞こえてきた声に、ただならぬ雰囲気を感じた。
背中を冷や汗がつたった。
不安に手を震わせながら廊下を小走りに進んでいくと、その声は果たしてシュンさんの病室から聞こえていた。
桜餅が、それを包んだ笹の葉が...私の手の中から滑り落ちた。
私を押しのけ慌ただしく病室に入ってゆく看護師様達。
その中のどなたかの足が、桜餅をぐしゃりと踏みつけた。
彼の周りを取り囲むように看護師様達が集まっていた。
何事かと彼の元へと近づこうにも「下がっていてください」と押し戻されてしまう。治療の邪魔をしてはいけない。私は何が何やらわからぬまま、不安を持て余しその場に立ち尽くしていることしかできなかった。すると部屋の奥にいたお義母様が私を見つけて、すぐさま駆け寄って来てくださった。
「つい先程突然、呼吸が弱くなってしまって...手は尽くしてくださっているのだけれど」
そう教えてくださる声が、弱々しく震えていた。お医者様が何やら慌ただしく指示をされる、その声がやけに遠く聞こえた。
やがて、慌ただしく動き回っていた看護師様方の動きが止まった。
飛び交っていた声も止んだ。
そして。
すっと、彼へと道が開けた。
看護師様方は揃って申し訳なさそうに、目を伏せてらした。
お医者様はもうできることはないとでも言うように、お義父様に向かって深くお辞儀をされた。
世界から音が消えたかのようだった。
自分の心臓の音だけがうるさいほどに響いて体を揺さぶった。
お義父様とお義母様が彼へと駆け寄った。続いて私も震える脚で彼の枕元へと近づく。彼にはまだ意識があって、その胸はほんの微かに上下を繰り返していた。
うるさいほどのこの心臓。これがどうして彼のものではないのか、自分の身が憎くなるほどに、彼の呼吸は弱々しかった。もう彼には幾ばくも時が残されていないのだということは、医者でも看護師でもない私にも、なんとなくわかってしまった。
「春吾郎...」
「あぁ、春吾郎...」
ご両親が彼の名前を呼ぶ。私はと言えば、どうにも上手く声が出なくて、縋るように彼の手を握った。大きくて温かな手だった。いつまでも包まれていたいと欲を掻いてしまうような、そんなどこか懐かしい手。
「父さん...母さん...ありがとう。ハル...愛しているよ」
お義父様、お義母様、そして私。それぞれの顔をしっかりとその目に映して小さく呟いた彼は、やがて静かに目を閉じた。それから彼が再び言葉を発することはなかった。
「...ご臨終です」
やがて静かに響いたお医者様のその声に、彼のご両親が泣き崩れた。
看護師様もお医者様も、静かに部屋を出ていかれた。お二人の泣き声だけが、部屋に響いていた。
彼が、死んだのだそうだ。けれど私は何が何だかよくわからなかった。彼の手を握ったまま、私は眠っているだけに見える彼の顔をただ、見つめていた。
それから惚けたように彼のそばに座ったままでいた私に、ご両親が何か声を掛けて出て行かれた。おそらく気を遣ってくださったのだと思う。部屋には私と彼だけが残った。
これまでと同じように、私はぽつりぽつりと彼に色々な話をした。
「今朝の汽車は一段と混んでいました」
「素敵なご婦人が乗っていらしてね、とても可愛らしいスカートを履いてらしたんです。あのリボンのような、鮮やかなえんじ色のスカートでした。とっても綺麗だったんですよ?」
「あぁ、思えばシュンさんがいてくださらなければ、私はえんじ色を嫌いになっていたかもしれませんよね」
「そうそう。車窓から見える桜がとっても綺麗でした。柳川のほとりを通り過ぎる時には、皆がこぞって右側の窓に張り付きましてね...それはもう、汽車が傾くんじゃないかってハラハラするほどだったのですよ?」
「あぁ、そう。桜餅がもうあの店に並んでいて。今日一緒に食べられたらと思って...買って来たんです。最後の一つだったと店のおじ様がおっしゃっていました」
「けれど、あぁ。さっきつい取り落としてしまって...また、買ってきますから。また買ってきますから、一緒に食べましょうね」
目の前に横たわったままの彼は今にも起き出して、あの優しい声で相槌を打ってくれそうで。返事はなくとももしかしたら耳は聞こえているかもしれないと、私はたくさん話しかけた。
「シュンさん、寒くないですか?」
「シュンさん、鳥達の声が聞こえますね」
「シュンさん、春が来たそうですよ」
握った温かな手が、私の手を握り返すことはなかった。
それでも私は何度も彼に話しかけ、話すことがいよいよなくなると、今度は愛を伝えることにした。私の人生の中で、彼に出会えたことがどれだけ大きなことだったか、嬉しかったか、幸せだったか...言いたいことは全部言ってしまおうと思った。
けれど足りない、足りなかった。彼に愛を伝えるには、どれだけ言葉を尽くしても全く足りないのだ。どんなふうに言えば伝えられるのか、私にはもう、わからなかった。私にとってシュンさんが初恋で、初めての人で...
「シュンさん、愛していますよ」
「愛しています」
「愛してる...」
彼が死んだそうだ。
そうだろうか?本当に?よく、わからなかった。だってまだ握りしめたこの手は温かいから。大丈夫、きっと大丈夫。
気づけば窓枠の中、高く上がっていた太陽が傾き始めていた。夕焼けが部屋ごと彼を朱色に染める。すっかり痩せこけてしまった彼の顔が、血の気を取り戻したかのように見えた。それで私は吸い込まれるように彼へと手を伸ばしたのだった。
彼の、頬へと触れる。
彼は、氷のように冷たくなっていた。
それでやっと、気がついた。
握っていたこの手の中の温もりは、彼のものではなく...私自身のものだったのだと。
彼は、本当に死んでしまったのだ。
今更涙が溢れてきて、視界がぐらりと歪んだ。
「あぁ...ああぁ...」
部屋で一人。私は狂ったように泣き叫んだ。どれだけ彼の体を揺さぶっても、もう彼が目を覚ますことはなかった。
「シュンさん!...シュンさんっ」
彼が私にあの笑顔を見せてくれることも、大きな手で私の頬を包んでくれることも、私の話に優しく相槌を打ってくれることも、もうないのだ。
「シュンさんっ...そんな...シュンさん...」
発病から一年だった。窓枠の中、季節がちょうど一周するのを見届けて、シュンさんは逝ってしまった。まだ二十五歳だった。
窓の外、彼が愛した桜の花が美しく咲き乱れていた。