彼がうちに挨拶に来る予定になっていた、その日の朝のことだった。待ち合わせ場所は柳川のほとり、いつもの桜の木の下。しかし約束の時間、その場に姿を見せたのは、彼ではなく彼のお母様だった。


「ハルちゃん!」

「お義母様!?」


慌てた様子でこちらへ駆けていらした義母様。私の元へとたどり着くと、しばらく肩で息をして、そして彼と似た眉を申し訳なさそうに下げた。
 

「ごめんねハルちゃん」

「どうなさったのですか!?」

「いやね春吾郎が、昨晩からどうも具合が悪くてね」

「シュンさんが?」

「ひどい熱が出てしまって。それでも行くのだと言って聞かなかったのだけれど、ハルちゃんのご両親に何か病を移してしまっては事でしょう?それでどうにか説得して、代わりに私が来たのだけれど...」

「シュンさんは大丈夫なのですか?」

「季節の変わり目だからね、きっと風邪でも引いたんだろうよ。まったくこんな大切な日に、本当にごめんねえ」


そう言ってお義母さまはより一層申し訳なさそうに眉を下げた。彼もきっと今床で同じような表情をしているのだろうと思うと居た堪れなかった。

 
「どうか謝らないでください。大丈夫です。父と母には私から話しておきますので」

「ありがとうね、ハルちゃん。これ、ご両親にお詫びの品だと言って渡してくれないかい?」
 

そう言ってお義母様は随分と重厚な紙袋を私に手渡してくださった。
顔合わせは取り敢えずは延期ということになった。それは別によかった。仕方のないことだ。また日を改めれば良いこと。そう思っていた。けれど彼の体調はそれから数日しても一向に良くならないようだった。
いよいよ心配になってきて見舞いの品を届けに行けば「流行り病だといけないから」とご両親に止められてしまって、シュンさんの部屋に入れてもらうことは叶わなかった。代わりに庭先でお義母様が教えてくださったことには、彼の熱は未だ下がらず首には大きなしこりができたのだそうだ。
ついに彼が町のお医者様に診てもらうことになったのが、それから数日後のこと。一度しっかりとした検査を受けに行った方が良いと診断され、彼が隣町の大病院へと運ばれていったのが、その次の日のことだった。


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私が再び彼と会うことができたのは、それから一週間が経ってからだった。駆けつけた大病院の待合室に、彼のお父様とお母様の姿があった。


「ハルちゃん、来てくれたんだね」

「ありがとうね」


お二人はあの陽気さが嘘のように、沈み切った表情をされていた。病院と家を行ったり来たりの数日で疲れていらっしゃるのかもしれないと思ったけれど、どうもそれだけではないような予感がした。


「お義父様、お義母様?彼は...」


私がそう尋ねると、お義父様が神妙な面持ちで切り出された。


「ハルちゃん...落ち着いて聞いておくれね」


その声の沈みように不安に駆られてお二人の顔を覗き込んでも、一向に目が合わないことが尚更私の不安を掻き立てた。やがて深く息をついたお義父様が静かに口を開いた。
 

「白血病...なのだそうだ」

「白血、病?」


医学に疎い私でも、その名を聞いたことくらいはあった。白血病。けれどそれが具体的にどのような病なのか、私は実の所よくわかっていなかった。それでも深刻な表情のお二人に、嫌でも事の重大さを悟ってしまう。いつもの和やかな表情は見る影も無くなってしまったお義母様が、声を振るわせながらおっしゃった。


「お医者様にはね、もって一年だと言われてしまった...もちろん今も治療をしてはいるのだけれどね。治すための治療というよりは、より苦しまずに済むような...病気の進行を少しでも抑えるような、そんな治療をすることしかできないそうでね...」


それきりお義母様は泣き崩れてしまわれた。あまりに突拍子もない話。けれどお二人の涙を前に、私が今しがた聞いたことは現実なのだと否が応でも実感する。
もって一年?そんなに突然?そんなことってあるのだろうか?それとも彼が隠していただけで、もしかして彼はずっと調子が悪かったのではないだろうか?それに一番近くにいた私が気づけなかったのだとしたら...
体から血の気が引いていくのを感じた。泣きじゃくる義母様の代わりに、義父様が苦しそうに言葉を続けた。


「あの子には、病気のことは言わないでおこうということになったんだ。春吾郎には、ただ少し風邪をこじらせてしまっただけだと、そう伝えてある」

「あぁ、そんな...」


もう涙が溢れて止まらなかった。呼吸の仕方がわからなくなってしまうほどだった。
出会ったその瞬間から、心が求めるようにその姿が心に刻まれた。また会いたいと思ってしまった。一度言葉を交わせばそれが初めてだなんて思えないほどに心地よくて、隣にいたいと本能で感じた。時を経て、何年も彼の隣にいても、居心地の良さは変わることがなかった。もうそこが私の居場所なのだと思っていた。お互いがいれば、ずっと幸せだった。もう彼は私の人生の一部だと思っていた。それなのに...そんな彼があと一年でいなくなってしまうかもしれないだなんて、そんなのどうしたって理解しようがなかった。


「親御さんにご挨拶も行けないままに本当に申し訳ない」

「そのようなことは...良いのです、そのようなことはっ」

「ハルちゃん」


お義父様のシュンさんに似た優しい瞳が私を包んだ。目を逸らせなくなってしまうような、深い色の目。


「ハルちゃん...本当であれば、良いお家柄のご子息と縁談を進めるはずだったと、春吾郎からは聞いていた。君のことを思えばこそ、今回のことでたとえ君が息子と縁を切ると言ったとしても私達は...」


お義父様はあの日の彼と同じ表情をされていた。私に縁談の話が来たのだと伝えたあの日の彼と。けれどたとえお義父様にそのように言われようと、私の気持ちが変わることはなかった。彼が酒屋の息子であろうと、病を患っていようと、彼と出会ってから私の中には答えは一つしかないのだ。


「私は彼と一緒になりたいのです!春吾郎さんと、最後まで添い遂げたいのです。彼以外...私には考えられないのです!」


つうと涙を流す義父様と、声をあげて泣く義母様とともに、私もわんわんと泣いた。「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返す二人の前で、私は訳もわからず涙を流し続けた。
やっと見舞いが許されて、彼の病室に入ることも叶うようになった、そんな日のことだった。自分の病名を知らない彼の前で、うっかり涙を零してしまうことのないように。涙を枯らしてしまえと言わんばかりに私達は三人、身を寄せ合い泣いた。





久しぶりの彼は、病室に一人ぽつんと座っていた。見たところ血色はさほど悪くなさそうで、自力で座ることもできていた。想像していたよりも元気そうなその姿に少しほっとする。
私が入って来たことに気づくと彼は、こちらへ振り向き微笑んだ。


「あぁ、ハル」

「シュンさん」

「すまないね、本当にすまない...色々と後回しにすることになってしまって」


想像していた通り、申し訳なさそうに眉を下げた彼。自分の体調のことなど知る由もなく、こちらのことを気にかけてくれるのが心苦しい。つい涙が浮かびそうになって、私は慌てて唇を引き上げた。


「そんな、こちらのことは気になさらないでください。首がひどく腫れたと伺いました...痛みますか?」

「あぁ、大丈夫だよ。お医者様に薬を煎じてもらったからね。痛みも随分とましになったんだ」

「よかった」

「そんなことより、お義父様とお義母様はお怒りだろうか?大切な約束を、当日に不意にしてしまうだなんて」

「お父様と母様には私からしっかり言ってありますから。まずはきっちり治して、それからまた日取りを決めましょう」

「うん...そうだね。本当に申し訳ない」


せっかく体は元気そうに見えるのに、背中を丸めて落ち込んだ表情を浮かべるシュンさん。彼に笑って欲しくて、元気を出して欲しくて、私は精一杯の笑顔を作った。


「そんなことより!お団子屋さんにわらび餅が出ていたんですよ?お見舞いにとお持ちしたのですが、食べられそうですか?」

「あぁ、本当かい?嬉しいなぁ。ありがとうハル。それじゃあお言葉に甘えて、一ついただこうかな」


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彼の部屋の窓の外にはちょうど庭があった。私が病室を訪れると、彼は決まって窓の外を見ていた。病院着を着てはいたけれど、彼はとても重病人のようには見えなかった。出していただいた薬のおかげか、はたまた奇跡的に病が快方に向かっているのか、首のしこりもすっかり治まって、食欲だってあるようだった。
大丈夫、きっと大丈夫なんだ。私は自分にそう言い聞かせて、あくまで気丈に振る舞った。窓の外では桜の木が青々と葉を茂らせ始めていた。もう何週間も外へ出られていない彼が、眩しそうに目を細めて庭を眺めていたかと思うと、ぽつりと言った。


「またハルと花見がしたいなぁ」

「えぇ、しましょう。きっとしましょう」


彼がそう言うなら、そうしよう。なんだってしよう。彼が外に出られないのならば、ここからだって花見はできる。桜が咲く頃になったら、また私があの店で桜餅を買って来ればいいのだ。きっと、そうしよう。桜の木の下に座って花を見上げることはできずとも、またここで二人並んで桜を眺めよう。きっとそうしようと、私は静かに心に誓った。