四月のキャンパスは華やいだ空気で満ちている。桜の木はちらちらと花びらを降らせ、新入生達を歓迎する。
僕だって、その新入生の中の一人のはずなのだ。それなのに、カフェテリアでパラソルの影にぽつんと座った僕は、なんだか取り残されたような気分でいた。まるで真っ暗な部屋で一人、テレビ画面にうつる煌びやかな世界を虚しく見つめているような、そんな心地だった。





 
それで僕は、リュックからノートと筆箱を取り出した。夢に踏ん切りをつけるために。今度こそキッパリと夢と決別して、前を向いて新生活を歩むために。




 

軽くアタリをつけながら構図を取って、そこに少しずつ春を描き足していく。木漏れ日の遊歩道、淡く連なる桜並木。こんもりと実った色が優しく揺れて、はらはらと散る花びらに日の光が躍っている。情景それごと閉じ込めるように、僕は手を動かす。けれど書き進める手はだんだんと重くなっていく。自分に嫌気がさしてくる。目の前の春はこんなにもきらめいて魅力的なのに、ノートに閉じ込められた春にはそれがない。僕の絵には魅力がない。けれど自分の絵のどこがいけないのか、僕はついぞわからないままなのだ。「ほら見ろ。お前には才能がないんだよ。そんな夢、諦めちまえ」心の奥で、僕が僕のことを嘲笑う。あと一息だった。絵描きになる夢なんて諦めて、まともな大学生に擬態するんだ。そう決心しかけたその矢先、顔を上げた先に見えた情景に、そんな考えは一瞬で吹き飛んでしまった。

僕から少し離れた席に、女の子が一人座っていた。肩口で緩くカーブを描く柔らかそうな髪、桜のような淡い唇。日の光にどこまでも透き通るような肌、カラメル色の瞳。その子はいつの間にか音もなく現れて座っていた。きらきらとした春の中にいてもなお、彼女は眩いほどだった。このまま春に溶けて消えてしまっても不思議じゃないような儚さをまとって。彼女はテラスの外の桜並木を、眩しそうに眺めていた。
 
『春の精』
 
今僕が見ているこの情景を絵に描いたのだとしたらきっと、タイトルはこうだ。
 

あぁ...何故だろう、どうしようもなく。
描きたいが、頭を、もたげてしまった。


それで僕はバレないように彼女を盗み見ながら、再びノートに鉛筆を走らせ始めた。背景なんてそっちのけ、画角の中心に彼女を。遠慮がちに座る姿、なめらかな首のライン。風に軽やかなその髪、きゅっと上がった口元。彼女の瞳に映る世界、そこに広がる春。いつしか僕は、ノートに覆い被さるように絵の中の彼女と睨めっこをしていた。
だから気づかなかったんだ、あまりに夢中で。突然、僕の耳元で弾むような声がして、僕は飛び上がった。


「それ、私ですか?」


弾かれたように顔を上げると、そこには絵に描いていた彼女が、いた。心臓がまるで締め付けられるみたいにきゅっと鳴った。


「私、ですよね?」


僕が突然のことに声も出せずにいると、彼女は小さな両手を胸の前で合わせて更に僕のノートを覗き込んだ。


「すごい、上手ですね!」


長い髪の影になってなお、その瞳はキラキラと輝いて見えた。僕の絵が誰かの目にそんな風に映してもらえるのなんて、久しぶりのことだった。


「...ぁ、ありがとうございます」


どうにか絞り出した声は、変にうわずってしまった。みるみる顔が赤くなっていくのを感じる。それなのに、僕が挙動不審なことなんて一切気にしていない様子の彼女は、やたら可愛らしい笑顔を傾けて今度は僕の顔を覗き込んできた。


「でも、どうして私を?」

「えっ...?」

「どうして私を、描いてくれたんですか?」

「えっ、と」


絵の中の何倍もイキイキと、何十倍も可愛らしい笑顔が眩しいほど。なんだか目が眩んでしまって、彼女の顔を直視できなかった。彼女が着ているセーターが目に入って、それで僕はついちょっとおかしなことを口走ってしまった。


「あ、いや、あの...ウチの犬にすごく似てて、それで...」

「犬?」

「いや、君が犬みたいってことじゃなくて!なんかその服が、ふわふわしてて、うちの犬に色も似てて、それで...」

「ぷっ、くはははは!」


弾けた。
そう、思った。弾けるように笑うのだ、彼女は。


どうして良いかわからずオロオロするばかりの僕を置き去りに、彼女はひとしきり笑った。彼女が「ふふふ」と音を立てるたび、少し苦しそうに息継ぎをするたび、まるで透明な花が彼女の周りを彩るかのようだった。やがて目元に浮かんだ涙を拭うと、彼女は僕に向き直ってこう言った。


「それ、ください!」

「へ?」


目の前に差し出された小さな手。
我ながらマヌケな顔をしていたと思う。


「ください!出演料!」

「えっ、あっ...はいっ」


言われるがまま、僕は急いでノートからページを切り離し差し出した。すると彼女は嬉しそうにそれを受け取り、そしてそのキラキラとした目を忙しく僕の絵に這わせるのだ。「わぁ」と静かに漏れた吐息が、心にくすぐったかった。
暖かな木漏れ日がスポットライトのように、彼女を照らしていた。それだけでなんだか一枚の絵画のようで、僕は彼女から目が離せなかった。


「本当に、素敵...ありがとうございます」


感動したようにそう囁くと、彼女は僕が描いた絵を心底大切そうに胸に抱えた。そして、やっぱり弾けるように笑うのだ。





本当に、久々だった。コンテストに出すために、賞に選ばれるために描いたわけじゃない絵。ただ描きたいと思ったから描いた絵。そんな絵に誰かがこんなにも喜んでくれたこと。
そうだった。最初はただこんな風に僕の絵で、誰かを笑顔にできればと夢見ていたんだった。だから僕は絵描きになりたいと、そう思うようになったんだ。


けれど現実は厳しくて、何度も心折れるうちに大切なものはどんどん見えなくなっていって。突きつけられた現実、自分の才能のなさにどうしようもなく苦しくなってしまって。だから僕は逃げるようにこの夢を諦めることにした。
それなのに。そんな顔をされちゃまた踏ん切りがつかなくなるじゃないか。


「お礼に、これ!」


そんな僕にはお構いなしに、彼女は何かを差し出してきた。その手の中にはスマホ。画面には彼女の連絡先のQRコードが表示されていた。


「今日はこの後用事があるんで時間ないんですけど、今度お礼させてください」
 

女の子に連絡先を聞かれる。人生で初めてのそんな経験に僕はすっかり気が動転してしまった。
 

「え?いや、お礼なんて。僕が勝手に描いただけですし」

 
僕が挙動不審にそんなことを口走れば、彼女の悲しそうな目が僕を見上げた。


「それって、連絡先交換してくれないってことですか?」

「あっ、いや...」


それで気圧されるように僕は、気づけば彼女と連絡先を交換することになっていた。自分から言い出しておきながら、恥ずかしそうに俯いたままスマホを操作する彼女は、何故か耳まで真っ赤にしていた。
こうして僕のスマホに、大学に入って初めて新たな連絡先が追加された。彼女に名前を尋ねようと口を開いたその時。


「じゃあ!」


突然そう言って小さく手を上げると、止める間も無く踵を返し、彼女はカフェを出て行った。


「えっ、あ...じゃあ...」


柔い花のような香りだけがその場に残された。小走りに遠ざかってゆく彼女。暖かな風に舞った淡い色の花びらが、そのセーターに髪にといくつも留まっていた。本当に妖精か何かなんじゃないかと思いながら、駆けていく彼女に僕は小さく手を振った。