恋は落ちるものだと誰かが言った。

あぁ好きだ、そう思った。

するりとそう思った。

落ちるのとは違うよなぁと、僕は思う。


足元でちらつく木漏れ日につられて、

ふと空を見上げるように、

そんな風に僕は恋をした。


じんわりと暖かなそれが戯れに踊る。

優しく、誘われるように、

僕は彼女に恋をした。







✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






大学のカフェのテラス席に一人座っていた。柵の外、遊歩道には満開の桜がどこまでも続いている。


リュックにはついさっき買い揃えた教科書。始まったばかりのキャンパスライフ。それなのに、僕の心は沈んでいた。


「はぁ...」


ため息をひとつ、僕は筆箱から鉛筆を取り出した。桜があまりに綺麗だから、久々に描いてみようと思って。


もう何度目か、これで踏ん切りをつけようと心に決めながら。





真っ白なノート。


軽くアタリをつけて。


少しずつ春を描き足していく。


木漏れ日の遊歩道、淡く連なる桜並木。


こんもりと実った色が優しく揺れて。


はらはらと散る花びらに日の光が躍っている。


情景それごと閉じ込めるように、僕は手を動かした。





描き進めていた手が、ふと、止まる。
ノートの中には、僕が描いた春がある。
そして...


「ほら、やっぱり」


僕は、自分にがっかりするのだ。


ため息と共に、僕はノートと鉛筆をテーブルに投げ出した。





僕は小さな頃から絵を描くのが好きだった。けれど「好き」と「得意」は必ずしも一致するわけではない。目の前のこんなに美しい風景も、僕の手で描くとどこか魅力的に映らない。


本当は絵描きに、なりたかった。

けれど僕には才能がない。

そのことに、気づいてしまった。


それで僕はこの春、美術とは縁もゆかりもないこの大学の法学部に入学したのだ。
オリエンテーションを終えて数日、履修登録だって済ませた。それなのに、諦めの悪い僕は結局、いまだ夢への未練を断ち切れずにいた。


「これで最後。描くのはもう、さっきので最後だ」


僕の描ききれなかった春が、視界いっぱいに咲き乱れていた。刻一刻ひらひらと取りこぼされていく美しさを前に僕は、何もできずにただぼうっと座っていた。





...と、ひときわ強く吹いた風に、桜がいっせいに宙を舞った。日の光が花びらに反射して、視界がちらちらと照らされる。
ハッと我に返り、僕は目を瞬かせた。光と色が溢れ広がる世界、その隅にいつの間にか映っていた人影に気がつく。僕の視線はまるで導かれるように、ひとりでにそちらへと吸い寄せられた。


そこには、可愛らしい女の子が座っていた。僕から少し離れた席にちょこんと。


肩口で緩くカーブを描く柔らかそうな髪、桜のような唇。日の光にどこまでも透き通るような肌、カラメル色の瞳。
白いテーブルと椅子、背景の春がなんだかとても似合っていて。彼女はテラスの外の桜並木を、眩しそうに眺めていた。このまま春に溶けて消えてしまっても不思議じゃないような儚さをまとって。


『春の精』


今僕が見ているこの情景を絵に描いたのだとしたらきっと、タイトルはこうだ。





あぁ...何故だろう、どうしようもなく。


描きたいが、頭を、もたげた。





気づけば僕は再びノートを手に取り、握った鉛筆を新しいページに擦り付けていた。





バレないように彼女を盗み見る。

背景なんてそっちのけ、画角の中心に彼女を。

遠慮がちに座る姿、なめらかな首のライン。

風に軽やかなその髪、きゅっと上がった口元。


ある程度の所までいくと、今度は細かい部分を描き足していく。

彼女の瞳に映る世界、そこに広がる春。

絵の中の彼女と睨めっこ。

気づけば頼んだホットコーヒーもすっかり冷めてしまっていた。


だから気づかなかったんだ、あまりに夢中で。

突然、僕の耳元で弾むような声がした。





「それ、私ですか?」


ビクッと肩を震わせ顔を上げる。
そこには絵に描いていた彼女が、いた。絵の中の何倍もイキイキと、絵の中の何十倍も可愛らしい笑顔で、僕の目の前に。
瞬間、背中に冷や汗がつたうのを感じた。


「私、ですよね?」


勝手にモデルにして絵を描くなんて、気持ち悪いと思われたに決まってる。
突然のことに声も出ない僕。すると彼女は小さな両手を胸の前で合わせて、僕のノートを覗き込んだ。


「すごい、上手ですね!」


長い髪の影になってなお、その瞳はキラキラと輝いて見えた。
僕の絵が誰かの目にそんな風に映してもらえるのなんて、久しぶりのことだった。


「...ぁ、ありがとうございます」


どうにか絞り出した声は、変にうわずってしまった。みるみる顔が赤くなっていくのを感じる。
それなのに、僕が挙動不審なことなんて一切気にしていない様子の彼女は、やたら可愛らしい笑顔を傾けて今度は僕の顔を覗き込んできた。


「でも、どうして私を?」

「えっ...?」

「どうして私を、描いてくれたんですか?」

「えっ、と」


「可愛い子だと思って」だなんて、言えるわけがなかった。
どうしよう、どうしよう。
見上げた先の笑顔に、早く次の言葉を紡がねばと焦る。彼女のセーターのモコモコとした柔らかな茶色から、咄嗟に思い浮かんだのは実家の犬だった。


「あ、いや、あの...ウチの犬にすごく似てて、それで...」

「犬?」


あぁ。違うだろう、絶対に違う。
見れば彼女はまん丸な目を見開いて固まってしまっている。


「いや、君が犬みたいってことじゃなくて!なんかその服が、ふわふわしてて、うちの犬に色も似てて、それで...」

「ぷっ、くはははは!」


弾けた。
そう、思った。弾けるように笑うのだ、彼女は。


どうして良いかわからずオロオロするばかりの僕を置き去りに、彼女はひとしきり笑った。彼女が「ふふふ」と音を立てるたび、少し苦しそうに息継ぎをするたび、まるで透明な花が彼女の周りを彩るようだった。
やがて目元に浮かんだ涙を拭うと、彼女は僕に向き直ってこう言った。


「それ、ください!」

「へ?」


目の前に差し出された小さなパー。
我ながらマヌケな顔をしていたと思う。


「ください!出演料!」

「えっ、あっ...はいっ」


言われるがまま、僕は急いでノートからページを切り離し差し出した。すると彼女は嬉しそうにそれを受け取り、そしてそのキラキラとした目を忙しく僕の絵に這わせるのだ。「わぁ」と静かに漏れた吐息が、心にくすぐったかった。


暖かな木漏れ日がスポットライトのように、彼女を照らしていた。それだけでなんだか一枚の絵画のようで、僕は彼女から目が離せなかった。


「本当に、素敵...ありがとうございます」


感動したようにそう囁くと、彼女は僕が描いた絵を心底大切そうに胸に抱えた。そして、やっぱり弾けるように笑うのだ。





本当に、久々だった。コンテストに出すために、賞に選ばれるために描いたわけじゃない絵。ただ描きたいと思ったから描いた絵。そんな絵に誰かがこんなにも喜んでくれたこと。


そうだった。最初はただこんな風に僕の絵で、誰かを笑顔にできればと夢見ていたんだった。だから僕は絵描きになりたいと、そう思うようになったんだ。


けれど現実は難しくて、何度も心折れるうちに大切なものはどんどん見えなくなっていって。突きつけられた事実、自分の才能のなさにどうしようもなく苦しくなってしまって。だから僕は逃げるようにこの夢を諦めることにした。
それなのに。そんな顔をされちゃまた踏ん切りがつかなくなるじゃないか。





「お礼に、これ!」


そんな僕にはお構いなしに、彼女は何かを差し出してきた。その手の中にはスマホ。画面には彼女の連絡先のQRコードが表示されていた。


「今日はこの後用事があるんで時間ないんですけど、今度お礼させてください」

「え?いや、お礼なんて。僕が勝手に描いただけですし」


女の子に連絡先を聞かれる。人生で初めてのそんな経験に気が動転してしまって、僕が挙動不審にそんなことを口走れば、彼女の悲しそうな目が僕を見上げた。


「それって、連絡先交換してくれないってことですか?」

「あっ、いや...」





それで気圧されるように僕は、気づけば彼女と連絡先を交換することになっていた。自分から言い出しておきながら、恥ずかしそうに俯いたままスマホを操作する彼女は、何故か耳まで真っ赤になっていた。
こうして僕のスマホに、大学に入って初めて新たな連絡先が追加された。彼女のアカウント名はA.Hとあった。それが何の略なのか尋ねようと口を開いたその時。


「じゃあ!」


突然そう言って小さく手を上げると、止める間も無く踵を返し、彼女はカフェを出て行った。


「えっ、あ...じゃあ...」


柔い花のような香りだけがその場に残された。小走りに遠ざかってゆく彼女。暖かな風に舞った淡い色の花びらが、そのセーターに髪にといくつも留まっていた。本当に妖精か何かなんじゃないかと思いながら、駆けていく彼女に僕は小さく手を振った。


春一番のように現れ過ぎ去った出来事。内心戸惑いながらも僕は、心が春を踊るように弾み始めたのを確かに感じていた。