綾瀬さんの家に行った日から二日が過ぎた。その間、浦川くんが家に来ることもなく、私はただ無限に思えるような時間の中で、意味もなく漂うだけの存在になっていた。
これまで浦川くんと過ごした時間は、いろんな意味で衝撃的だったけど、やっぱり一番は綾瀬さんのことだった。
トップクラスの人気者である綾瀬さん。見た目から不幸な要素や気配も感じられないのに、その実態は、恋に悩む一人の女の子でしかなかった。
――本当に、幸せってなんだろう
何度も繰り返したため息をつきながら、来るかわからない浦川くんを待つ。気づくと、いつの間にか月を見なくなっている自分に気づき、久しぶりに見た月から二週間が過ぎていることがわかった。
――また始まったよ
浦川くんの気配を感じない代わりに、聞こえてきたのは両親の口論する声だった。もうすぐ夏休みに入るから、このままなにもせずに夏休みを過ごすことを、お母さんは心配しているのだろう。
夜遅くに帰ってきたお父さんも、疲れてるのにお母さんの溜まったストレスをぶつけられているせいか、その声にはいらだちがはっきり表れていた。
――やめてよ
タオルケットで両耳を強くふさぎ、聞こえてくる声を遮断する。けど、容赦ない鋭いトゲのような言葉たちは、簡単に私の耳を貫いていった。
――やめてって!
繰り返される言葉の大半が、私を心配している内容というのはわかっている。でも、そのおかげでお父さんもお母さんも互いを罵りながら喧嘩するのは、本当にやめてほしかった。
――わかってる。わかってるけど、でも、どうしたらいいの?
喧嘩の原因が私にあるのはわかっている。その解決策が、学校に行くことだともわかっている。
でも、わかっていながらできないのが今の私だ。繰り返す嘔吐や目眩、おさえきれない鼓動の乱れや体のふるえは、なにをどうしたらなくなるのか、今の私にはさっぱりわからなかった。
頭が潰れるくらいに両耳をおさえていた私は、ついに耐えきれなくなって部屋を飛び出した。最近は喧嘩の最中に出てくる離婚の話が、どんどんリアルになっているのが辛くて苦しかった。
暑苦しい熱帯夜の闇の中、私は気づくと流していた涙を拭いながら、休憩場所に利用していた無人の神社を目指した。
あまり人の来ない朽ちかけた神社の石段に座り、斑に光を放つ町をぼんやり眺めてみる。この世界には、きっと幸せはないのだろう。誰もが不幸を作り出していて、それを隠すためにただ幸せなふりを演じているにすぎないのかもしれない。
もちろん、私だって例外じゃない。今の私は、家族を不幸にするだけの生きてる価値もない存在でしかなかった。
「篠田さん」
すっかり落ち込んだ私の耳に、聞きなれた声がやんわりと入ってきた。びっくりして顔を上げると、浦川くんが相変わらずの能面顔で私を見下ろしていた。
「泣いてるの?」
一瞬で表情が曇る浦川くんを見て、私はもう我慢できずに声をあげて泣いた。
浦川くんの顔が曇るのは、心配していることとわかったのは最近のことだ。だから、こんな私を心配してくれてることが嬉しくて、でも、どうすることもできずに泣くことしかできなかった。
「なんでこうなっちゃったんだろうね」
ひとしきり泣いた私は、黙って隣に座った浦川くんに漏れでる感情を口にした。
「子供のころは、こんなことになるなんて少しも思わなかった。なのに、私は気づいたら人を不幸にする存在になってた」
「なにかあったの?」
「私のせいで、お父さんとお母さんが離婚するかもしれない」
言うか迷ったけど、もう黙っていられるほど強くなかった私は、浦川くんから伝わる温もりに刺激されるように口を開いた。
「私が不登校になったせいで、お父さんもお母さんも毎日喧嘩するようになって。だから、なんとかしないとって思うんだけど、でも、なにをどうしたらいいのか全然わからないの」
拭っても拭ってもあふれる涙を隠すように、両手で顔を覆いながら顔を伏せた。きっと、浦川くんは今の私を迷惑だと思っているだろう。いきなりこんな話を一方的にしたわけだから、無言で立ち去ってもおかしくなかった。
けど、浦川くんは黙ったまま隣に座っている。あまりに反応がないから変に思って様子をうかがった瞬間、私は息が止まるような衝撃を受けた。
「浦川、くん?」
予想外に涙していた浦川くんに、反射的に声をかけた。いつか見た悲しい表情よりも、さらに色濃くなった悲しげな表情に、私は瞬時に目が離せなくなっていた。
「ごめん、ちょっと思いだしたんだ」
震える浦川くんの声に、悲壮感が滲んでいる。暗く沈んだ横顔には、もういつもの浦川くんの影はなかった。
「僕ね、本当は捨てられたんじゃないんだ」
「え?」
「本当は、僕が母さんを裏切ったんだ」
膝を抱えたまま、浦川くんは肩をふるわせていた。どんな悲しいことがあったのかと思っていると、浦川くんが途切れ途切れの声で過去のことを語り始めた。
浦川くんは本当のお父さんに会ったことがなく、今のお父さんを本当のお父さんと思っていた。事実を知ったのは両親が離婚した時で、浦川くんも本当はお母さんに引き取られる予定だったという。
「でも、僕は拒んだんだ。僕が抵抗したら、ひょっとしたら父さんも母さんも諦めてくれると思った。だって、父さんは血の繋がってない僕なんかいらないだろうし、母さんも僕を残しては行かないと思ったから」
力なくうなだれる浦川くんから、当時の苦悩が漂ってくる。浦川くんにとっては、その行動は一つの賭けみたいなものだったから、結果が出るまで怖くてふるえていたらしい。
「父さんはあまりいい人じゃないし、警察のお世話になったこともある人だけど、僕には優しかった。だから、家族がばらばらになるのが嫌で抵抗したんだけど、結果は裏目に出た感じかな」
無理矢理笑う浦川くんの瞳から、再び涙があふれだした。言葉にするのも辛そうで、でも、私には慰める術はなかったから、ただ黙って聞き続けるしかなかった。
「結局、母さんは僕を置いて出ていってしまった。残された僕は、父さんに引き取られたけど、でも、本当に僕を引き取ってくれたかどうかわからないんだ」
「だから、お父さんの言うことに従って泥棒をやってるの?」
ようやく見えた浦川くんの陰。お父さんの頼みとはいえ、泥棒なんかやっている理由には、浦川くんの苦悩が満ちあふれていた。
「仕方ないんだ。父さんに嫌われたら、僕は独りになってしまうから」
寂しさに満ちたその一言に、私は声が出なくなってしまった。浦川くんは不思議な人でもなんでもなかった。ただ、家族がばらばらになってしまい、自分が独りぼっちになってしまうのを恐れているだけの、普通の男の子だった。
「なんでうまくいかないんだろうね」
かける言葉が見つからない私は、やけに綺麗に晴れ渡った夜空の星に呟いた。
「私、別に多くのことは望んでないの。ただ普通に生きてればいいと思ってるのに、なんで思ってるのとは違う方になにもかもいっちゃうんだろうね」
「篠田さん」
「ねえ、浦川くん。私たち、なんのために生きてるんだろう。幸せを探してるうちに思ったんだけど、そんなものは本当はなくて、みんな不幸になるように生きてるとしたらさ、なんのために私たちは生きてるんだろうね」
浦川くんに刺激され、再びあふれだした感情に任せて乱暴に言葉を吐き出し続ける。そんな私に、浦川くんはなにも言わず、代わりにぴったりと肩がくっつくように距離を縮めてきた。
不意に伝わってくる浦川くんの体温に、私の呼吸が急停止する。と同時に、誰かが傍にいることがこんなに心地いいとは思わなかった。
きっと、私一人だったらとっくに壊れていたかもしれない。けど、浦川くんがいてくれるだけで、なんとか耐えられている感じだった。
それからは、私も浦川くんも口を開くことはなく、白くなっていく空を二人並んで眺め続けた。
これまで浦川くんと過ごした時間は、いろんな意味で衝撃的だったけど、やっぱり一番は綾瀬さんのことだった。
トップクラスの人気者である綾瀬さん。見た目から不幸な要素や気配も感じられないのに、その実態は、恋に悩む一人の女の子でしかなかった。
――本当に、幸せってなんだろう
何度も繰り返したため息をつきながら、来るかわからない浦川くんを待つ。気づくと、いつの間にか月を見なくなっている自分に気づき、久しぶりに見た月から二週間が過ぎていることがわかった。
――また始まったよ
浦川くんの気配を感じない代わりに、聞こえてきたのは両親の口論する声だった。もうすぐ夏休みに入るから、このままなにもせずに夏休みを過ごすことを、お母さんは心配しているのだろう。
夜遅くに帰ってきたお父さんも、疲れてるのにお母さんの溜まったストレスをぶつけられているせいか、その声にはいらだちがはっきり表れていた。
――やめてよ
タオルケットで両耳を強くふさぎ、聞こえてくる声を遮断する。けど、容赦ない鋭いトゲのような言葉たちは、簡単に私の耳を貫いていった。
――やめてって!
繰り返される言葉の大半が、私を心配している内容というのはわかっている。でも、そのおかげでお父さんもお母さんも互いを罵りながら喧嘩するのは、本当にやめてほしかった。
――わかってる。わかってるけど、でも、どうしたらいいの?
喧嘩の原因が私にあるのはわかっている。その解決策が、学校に行くことだともわかっている。
でも、わかっていながらできないのが今の私だ。繰り返す嘔吐や目眩、おさえきれない鼓動の乱れや体のふるえは、なにをどうしたらなくなるのか、今の私にはさっぱりわからなかった。
頭が潰れるくらいに両耳をおさえていた私は、ついに耐えきれなくなって部屋を飛び出した。最近は喧嘩の最中に出てくる離婚の話が、どんどんリアルになっているのが辛くて苦しかった。
暑苦しい熱帯夜の闇の中、私は気づくと流していた涙を拭いながら、休憩場所に利用していた無人の神社を目指した。
あまり人の来ない朽ちかけた神社の石段に座り、斑に光を放つ町をぼんやり眺めてみる。この世界には、きっと幸せはないのだろう。誰もが不幸を作り出していて、それを隠すためにただ幸せなふりを演じているにすぎないのかもしれない。
もちろん、私だって例外じゃない。今の私は、家族を不幸にするだけの生きてる価値もない存在でしかなかった。
「篠田さん」
すっかり落ち込んだ私の耳に、聞きなれた声がやんわりと入ってきた。びっくりして顔を上げると、浦川くんが相変わらずの能面顔で私を見下ろしていた。
「泣いてるの?」
一瞬で表情が曇る浦川くんを見て、私はもう我慢できずに声をあげて泣いた。
浦川くんの顔が曇るのは、心配していることとわかったのは最近のことだ。だから、こんな私を心配してくれてることが嬉しくて、でも、どうすることもできずに泣くことしかできなかった。
「なんでこうなっちゃったんだろうね」
ひとしきり泣いた私は、黙って隣に座った浦川くんに漏れでる感情を口にした。
「子供のころは、こんなことになるなんて少しも思わなかった。なのに、私は気づいたら人を不幸にする存在になってた」
「なにかあったの?」
「私のせいで、お父さんとお母さんが離婚するかもしれない」
言うか迷ったけど、もう黙っていられるほど強くなかった私は、浦川くんから伝わる温もりに刺激されるように口を開いた。
「私が不登校になったせいで、お父さんもお母さんも毎日喧嘩するようになって。だから、なんとかしないとって思うんだけど、でも、なにをどうしたらいいのか全然わからないの」
拭っても拭ってもあふれる涙を隠すように、両手で顔を覆いながら顔を伏せた。きっと、浦川くんは今の私を迷惑だと思っているだろう。いきなりこんな話を一方的にしたわけだから、無言で立ち去ってもおかしくなかった。
けど、浦川くんは黙ったまま隣に座っている。あまりに反応がないから変に思って様子をうかがった瞬間、私は息が止まるような衝撃を受けた。
「浦川、くん?」
予想外に涙していた浦川くんに、反射的に声をかけた。いつか見た悲しい表情よりも、さらに色濃くなった悲しげな表情に、私は瞬時に目が離せなくなっていた。
「ごめん、ちょっと思いだしたんだ」
震える浦川くんの声に、悲壮感が滲んでいる。暗く沈んだ横顔には、もういつもの浦川くんの影はなかった。
「僕ね、本当は捨てられたんじゃないんだ」
「え?」
「本当は、僕が母さんを裏切ったんだ」
膝を抱えたまま、浦川くんは肩をふるわせていた。どんな悲しいことがあったのかと思っていると、浦川くんが途切れ途切れの声で過去のことを語り始めた。
浦川くんは本当のお父さんに会ったことがなく、今のお父さんを本当のお父さんと思っていた。事実を知ったのは両親が離婚した時で、浦川くんも本当はお母さんに引き取られる予定だったという。
「でも、僕は拒んだんだ。僕が抵抗したら、ひょっとしたら父さんも母さんも諦めてくれると思った。だって、父さんは血の繋がってない僕なんかいらないだろうし、母さんも僕を残しては行かないと思ったから」
力なくうなだれる浦川くんから、当時の苦悩が漂ってくる。浦川くんにとっては、その行動は一つの賭けみたいなものだったから、結果が出るまで怖くてふるえていたらしい。
「父さんはあまりいい人じゃないし、警察のお世話になったこともある人だけど、僕には優しかった。だから、家族がばらばらになるのが嫌で抵抗したんだけど、結果は裏目に出た感じかな」
無理矢理笑う浦川くんの瞳から、再び涙があふれだした。言葉にするのも辛そうで、でも、私には慰める術はなかったから、ただ黙って聞き続けるしかなかった。
「結局、母さんは僕を置いて出ていってしまった。残された僕は、父さんに引き取られたけど、でも、本当に僕を引き取ってくれたかどうかわからないんだ」
「だから、お父さんの言うことに従って泥棒をやってるの?」
ようやく見えた浦川くんの陰。お父さんの頼みとはいえ、泥棒なんかやっている理由には、浦川くんの苦悩が満ちあふれていた。
「仕方ないんだ。父さんに嫌われたら、僕は独りになってしまうから」
寂しさに満ちたその一言に、私は声が出なくなってしまった。浦川くんは不思議な人でもなんでもなかった。ただ、家族がばらばらになってしまい、自分が独りぼっちになってしまうのを恐れているだけの、普通の男の子だった。
「なんでうまくいかないんだろうね」
かける言葉が見つからない私は、やけに綺麗に晴れ渡った夜空の星に呟いた。
「私、別に多くのことは望んでないの。ただ普通に生きてればいいと思ってるのに、なんで思ってるのとは違う方になにもかもいっちゃうんだろうね」
「篠田さん」
「ねえ、浦川くん。私たち、なんのために生きてるんだろう。幸せを探してるうちに思ったんだけど、そんなものは本当はなくて、みんな不幸になるように生きてるとしたらさ、なんのために私たちは生きてるんだろうね」
浦川くんに刺激され、再びあふれだした感情に任せて乱暴に言葉を吐き出し続ける。そんな私に、浦川くんはなにも言わず、代わりにぴったりと肩がくっつくように距離を縮めてきた。
不意に伝わってくる浦川くんの体温に、私の呼吸が急停止する。と同時に、誰かが傍にいることがこんなに心地いいとは思わなかった。
きっと、私一人だったらとっくに壊れていたかもしれない。けど、浦川くんがいてくれるだけで、なんとか耐えられている感じだった。
それからは、私も浦川くんも口を開くことはなく、白くなっていく空を二人並んで眺め続けた。