昨夜のことで混乱していた私は、ぐちゃぐちゃにかき乱された感情のまま朝を迎えることになった。
昨夜のことがまるで夢のようで、でも、リアルに浦川くんの悲しい眼差しが脳裏に残っているせいか、私はいつも以上に落ち着かない気持ちのままリビングに顔を出した。
「今日の調子はどう?」
慌ただしく朝の仕事をこなすお母さんが、少しやつれた顔で声をかけてくる。私と同じショートカットで小柄なお母さんは、この一ヶ月で嘘みたいに老けこんでいた。
「今日、学校に行ってみる」
迷いながらも、吐き気をおさえて声を絞り出した。本当ならリビングに行くことさえ億劫だったけど、今日はどうしても学校に行って浦川くんに昨夜のことを確認したい気持ちが勝っていた。
「そう、無理しなくて大丈夫だからね」
久しぶりに見たお母さんの笑顔が、朝日を受けて輝きだす。昨夜の口論を知っているだけに、ちょっとだけ気持ちが軽くなった気がした。
といっても、身支度する間に震える手は止まらなかったし、何度も嘔吐しかけてトイレにかけこむのは相変わらずだった。
――大丈夫、確認するだけだから
すっかり弱気になった私は、鏡に映る病的に青白い自分の顔に何度も言い聞かせた。こんな弱気で学校にたどり着けるか不安だったけど、今の私を奮い立たせる動機は、浦川くんに会う以外になにもなかった。
靴を履くだけで全身冷や汗に包まれた私は、よろけながら家を出た。夏を間近に控えた朝日は既に強烈で、いつもの目眩がすぐに襲ってきた。
――大丈夫、大丈夫だから
今にも倒れそうな体を引きずりながら、通い慣れたはずの通学路をなめくじみたいなスピードで歩いていく。なにもない田舎町にあるのは、田園風景と古い家ぐらいだ。その殺風景な世界を、なんで私だけがこんな目にあうのかと呪いながら歩き続けた。
やがて、制服の集団が目につき始め、私の緊張と恐怖は、一歩歩くごとに高まっていた。
――見ない見ない
すぐに顔を伏せて、周囲の視界を強制的に狭くする。まるで、みんなが私を見ているみたいで、しかも、なにかこそこそ言ってるような気がして、耐え難い吐き気が胃の底から喉へと突き上げてきた。
――大丈夫、大丈夫だから……
学校が見えてきたのに、私の足は動いていないみたいに景色が変わることはなかった。一度立ち止まり、空を仰いで深呼吸しながら自分に言い聞かせ続けた。
既に大半の気力が削がれたまま、人気が少なくなった玄関を抜け、三階にある教室に向かう。あちこちで楽しそうな笑い声が聞こえ、その声に胃が反応するのを無理矢理おさえて教室のドアに手をかけた。
一ヶ月ぶりに入る教室。なにも変化はなかった。私の空っぽみたいな机はそのままだったし、クラスメイトにも変化はなかった。
ただ、みんなが一斉に私を不審者でも発見したかのように、奇異の視線を向けてきた。特に綾瀬さんが率いるグループは、すぐに輪になってあからさまに私を指さしてきた。
予想はしていたけど、想像以上に異物のような扱いをされることに、私は恐怖と息苦しさで再び目眩に襲われた。倒れこむように椅子に座ると、薄くなった意識のままひたすら窓の外の空だけを眺めることにした。
ホームルームが終わり、朝のざわめきが息を吹き返していく。みんなの話題は間違いなく私のことだろう。そう考えるだけで、なんだか悲しくて悔しくて、目が熱くなることにすら苛立ちがあった。
やっぱり来るんじゃなかった。そう判断し、帰ろうと決意したところで、いきなり肩を叩かれた。見ると、すらりと背が高い浦川くんが無表情で私を見下ろしていた。
「なに?」
必死に声を絞り出して言えたのはそれだけだった。けど、浦川くんは私の問いに答えることなく、教室を出ていった。どうしていいかわからなくなったけど、みんなが私を見ていることに気づいた瞬間、私は逃げるように教室を飛び出した。
廊下に出ると同時に肩で息をするはめになった私は、仕方なく少し前を歩く浦川くんのあとを追いかけることにした。
「ねえ、どこに行くの?」
無言で歩く浦川くんの背中に問いかけたけど、浦川くんはふりむくことも答えることもなかった。
――ほんと、なんなんだろう
みんなの視線の圧力から解放されたことで少し気が楽になった私は、急にこの状況のおかしさに戸惑いを感じた。
目の前には、昨夜突然現れた同級生がいて、なにも言わずにどこかへ連れていこうとしている。もうなにがなんだかわからなくなったけど、それでもなにかが起こりそうな予感だけは否応なしに感じていた。
結局、無言のまま行き着いた先は屋上だった。立ち入りは禁止されているのに、なぜか鍵を持っている浦川くんは、まるで家に帰るみたいに屋上へ足を踏み入れた。
恐る恐るあとに続いた私は、急な日差しに目を細めながらも、優しく撫でてくる風にちょっとした解放感を味わうことができた。
「四万八千人」
「え?」
屋上を囲うフェンスに手をかけた浦川くんが、ようやく私に顔を向けて声をかけてきた。
「この町の人口。意外と県内では多いそうなんだ」
「そ、そうなんだ……」
なんの話をしているかと思ったら、まさかの町の人口数だった。どう反応していいかわからなくなった私は、気の抜けた声をもらすことしかできなかった。
「あの、一つ聞いてもいい?」
私のことなどおかまいなしに、気持ちよさそうに風を受けている浦川くんに、私は意を決して昨夜のことを切り出した。
「昨日の夜、うちに来ていたよね? なにしていたの?」
「泥棒」
拍子抜けするくらいにあっさりとした答えに、私は売れない芸人みたいにぎこちなくずっこけそうになった。
「泥棒って、どうして?」
「お父さんに頼まれたから」
悪びれた様子もなくあっさりと答える浦川くんに、いつもの頭痛以外の頭の痛みに襲われるはめになった。
「頼まれたからって、いつもそんなことしてるの?」
「そうだよ」
「そうだよって、泥棒は悪いことだよね?」
「そうなんだ」
無表情のせいでわかりづらいけど、どうやら浦川くんは色々と抜けているタイプみたいだった。言葉から悪気を感じないのは、本気で悪いことと思っていないからだろう。
「でも、篠田さんも学校に来てないよね?」
「え?」
「それはいいこと? 悪いこと?」
「それは悪いことだけど――」
いきなり痛いところをつかれた私は、上手く言葉が出なくなってしまった。
「なら、一緒だね。よかった」
どう話をするか迷っていたところに、急に浦川くんがはっとするような笑顔を向けてきた。
その瞬間、初夏の暑さを跳ね返すくらいに一気に全身が熱くなり、呼吸ができないくらいに心臓がはね上がっていった。
ちょっと眠たげな瞳が彩る横顔に見とれそうになる寸前で頭をふった私は、くらくらする思考を切り替えて聞きたかったことを頭の中で無理矢理まとめた。
「昨日の夜言ってたこと、あれってどういう意味なの?」
「言ってたこと?」
「ほら、幸せってなんだろうねって言ってたよね?」
一瞬、昨夜聞いた言葉は幻聴だったのかと思うくらい、浦川くんの反応は鈍かった。けど、なんとか思い出してもらうためにあれこれ説明したところで、ようやく浦川くんの目に小さな光が宿ったように見えた。
「僕ね、探してるんだ」
「え?」
「幸せってなんだろうって、ずっと探してるんだ」
僅かにふるえている声から、浦川くんの緊張が伝わってくる。なにを考えてるのかよくわからない人と言われるとおり、ぎこちなく語る浦川くんの真意はさっぱりわからなかった。
「どうして探してるの?」
「うーん、どうしてなんだろう」
視線をずらした仕草に、なにかをはぐらかすような感じがした。でも、よくわからない不思議な人だけに、悪い感じはしなかったし、たぶん浦川くんなりの理由が本当はあるような気もした。
「そうだ、篠田さんも一緒に探してみない?」
無表情から一転して明るい笑顔になった浦川くんが、まるで放課後に遊びに行くかのようなノリで誘ってきた。
「探すって、幸せをってことだよね? どうやって探すの?」
「それはまだ秘密。ただ、夜の町を出歩くことになるから覚悟は必要かも」
「出歩くって、まさか、私に泥棒につきあえってこと?」
「違うよ。泥棒は、僕一人でやるから大丈夫。篠田さんとは、ちょっと違うことをやりたいんだよね」
なにか含みのある言い方だっただけど、やけに必死に説得してくるあたり、浦川くんなりになにか考えがあるみたいだった。
とはいっても、簡単に受け入れられる誘いではなかった。夜の町を二人で出歩くことへの心理的な抵抗もあったけど、やっぱり一番は見つかった時のリスクだ。ただでさえ私は、不登校児として親を心配させているのに、さらに問題を起こしてしまったら、たぶん両親は私を許さないのは目に見えていた。
「もしかして、誰かに見つかる心配してる?」
そんな私の不安を見抜いたのか、浦川くんは私を真っ直ぐに見つめながら尋ねてきた。
「ちょっと不安かな。だって、見つかったら大変なことになるし、もし、警察に捕まるみたいなことになったら、それこそただではすまないよね?」
「その点は大丈夫。絶対に見つからないように、僕が守ってあげるから」
浦川くんは、私の不安をなんでもないことのようにあっさりと吹き飛ばした。しかも、胸をざわつかせるような言葉をさらりと言ってくるから、私は再び緊張してなにも言えなくなってしまった。
「だから安心して。僕にはね、秘密兵器があるんだ。それを使えば、どんな状況でも切り抜けられるから」
だめ押しとばかりに、浦川くんが私に詰めよってくる。こうなると、押しに弱い私は断ることができなかった。
「でも、浦川くんの秘密兵器がどんなものかちょっと気になるかな」
「それは、あとで教えてあげる。だから、今は僕を信じてよ」
自信たっぷりに語る浦川くんの雰囲気からして、その秘密兵器は相当なものなんだろう。どんなものか気になったけど、知るのはあとになりそうだった。
――それにしても
再び能面に戻った浦川くんの横顔を見ながら、浦川くんのことを考えてみる。この町の人口数に始まり、いきなり夜の町に誘ってきたことからして、浦川はちょっと変わった人ではなく、だいぶおかしな人にしか思えなくなってしまった。
「じゃ、今晩迎えにくるから」
私の不安や戸惑いなどおかまいなしに、浦川くんが早速予定を立ててきた。
もうどうにでもなれといった心境に陥った私は、ただ頷いて返すだけだった。
◯ ◯ ◯
久しぶりの登校は、結局昼まで持たなかった。教室に戻った私を待っていたのは、奇異の視線とわざとらしく声を高くした綾瀬さんたちの陰口だった。
なんとか頑張ってみようと思ったけど、もともと精神的に強くない私は、あっさりと綾瀬さんたちの攻撃に敗れ、しっぽを巻くように家に帰るしかなかった。
「よ、菜々美おつかれ!」
家に帰ると、なぜか親友の前田詩がリビングでお母さんと談笑していた。
「って、詩どうしたの?」
「ん? ああ、菜々美のお母さんから菜々美が学校に行ったと聞いたから、学校すっぽかして来たわけ」
悪びれた様子もなく語る詩に、私は一気に緊張から解放されることになった。
詩は、小学校で知り合ってからずっと仲良くしてくれる大切な親友だった。見た目は庶民派の私と違い、長い髪が似合うお嬢様系だ。実際、家もお金持ちだから、男勝りの性格がなかったら名実共にお嬢様と呼ばれてもおかしくはなかった。
そんな詩だから、不登校児になった私をいつも心配してくれている。原因を知った時は、綾瀬さんのところに殴り込みに行きかけるぐらい怒りを露にしたけど、私と詩の両親の説得によって今は一番近くで寄り添ってくれていた。
「でも、やっぱり最後までもたなかったかな」
お母さんの手前、つい悪いことをした気分に包まれた私は、重い鞄を床に置くと同時にため息をこぼした。
「いいじゃん、別に。一歩前進したと思えば上出来だよ」
「でも、一歩進んで二歩下がるになったかも」
せっかく励ましてくれた詩に、私はつい愚痴をもらした。本当は二歩どころか百歩下がった気分だっただけに、お母さんが壮大なため息には胸が締まるような苦しさがあった。
「菜々美、部屋に行こうよ」
そんな私を察してか、詩が私の部屋へと手を引いていく。詩を信用しているからこそ、お母さんもなにも言わなかった。
「で、なにがあった?」
部屋に入るなり、取調室の刑事みたいにテーブルの前に座った詩が、これみよがしに意味深な笑みを見せてきた。
「なにって?」
「隠しても無駄。私にはわかるんだから、正直に白状しなさいよ。まさか、男子に告白されたとかじゃないでしょうね」
相変わらず鋭いのか鋭くないのかわからなかったけど、どうやら詩は私の異変に気づいたみたいだ。
「告白なんかされてないよ。ただ――」
「ただ?」
観念した私に、詩が一気に迫ってくる。言うか迷ったけど、詩とは隠し事したくなかったし、浦川くんの誘いを詩がどう思うか知りたかったから、今日のことを説明した。
「なにそれ」
当然といえば当然の反応に、私は笑うしかなかった。幸せとはなにかを探しに夜の町を出歩くという話は、考えてみたらひどくおかしなことでしかなかった。
「でも、部屋にいるよりいいんじゃない」
「え?」
「その浦川って人は頭おかしいみたいだけどさ、菜々美の感じからしたら悪い人じゃないみたいだし。それに、菜々美には外に出るきっかけが必要かもね」
「今度は私がなにそれだよ」
「ううん、違う違う。私が言いたいのは、きっかけがなんであったとしても、前に進むならいいってこと。菜々美は、変に優しいから自分を犠牲にしがちだけど、たまには自分の感情に素直になるのも大事だと思うってこと」
「ちょっと、それどういう――」
意味かと聞く前に、詩が悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「不思議な男子と秘密の逢い引き。ついに菜々美にも春が来たんだね」
嬉しそうに笑う詩に、私は慌て否定を繰り返した。一瞬、綾瀬の『恋愛できると思っているの?』と薄笑う残像が頭をよぎって胸が痛くなったけど、勝手に盛り上がっていく詩を止めることに専念して残像を打ち消した。
その夜、浦川くんの話は半信半疑のまま、パジャマ代わりの紺色のダサいジャージにこっそり隠していたスニーカーを胸に抱いて、浦川くんが来るのを待つことにした。
「おはよ。待たせたね」
ふわふわとした落ち着かない気分の中、ようやく浦川くんが姿を見せたのは午前二時になりかけた時だった。
「お父さんとお母さんは大丈夫?」
窓から出るという慣れない作業に苦労していると、浦川くんが手を貸してくれながら両親のことを聞いてきた。
「お父さんは出張でいないし、お母さんは朝が早いからぐっすりかな」
ひんやりとした感触の中にじんわりとしたぬくもりのある浦川くんの手に緊張しながら、とりあえず大丈夫ということだけはなんとか伝えた。
地に足をつけたところで、初夏のぬるい風が頬を撫でていった。夜空は満点の銀河で、初めて体験する深夜の世界は、緊張よりも感じたことのない解放感があった。
「で、どこに行くの?」
「それなんだけど、篠田さんは幸せってなんだと思う?」
なんとなく歩きだしたところで、全身黒いジャージ姿の浦川くんが相変わらずの能面で尋ねてきた。
「なんだろう。よくわからないかな」
幸せという言葉はわかるけど、その意味を聞かれると上手く説明できなかった。
「じゃあ、金持ちって幸せだと思う?」
「それは、幸せなんじゃないの?」
「どうして?」
「だって、お金があれば色々できるし、苦労も少ないからかな?」
とりあえず思いついたことを口にしてみたけど、しっくりくる答えとは思えなかった。
けど、浦川くんは私の答えに二度頷くと、ようやく能面顔を崩して笑顔を見せてくれた。
「よし決めた。今日はお金持ちの家にしてみよう」
まるで他愛のない遊びを決めるかのように、浦川くんが突拍子なことを口にする。突然の笑顔に思考が麻痺しかけていた私は、なんとかどういうことかと聞いてみた。
「実際に金持ちの家に行ってみて、幸せか感じれるか試してみるんだ」
そう切り出すと、浦川くんが急に歩むスピードを上げ始めた。なにもない田園風景も今は闇に沈んでいる。心細い外灯の明かりを頼りに、なんとか浦川くんの背中を追いかけた。
「ここがいいかな」
たどり着いた先は、暗闇でもわかるくらいに豪華な二階建ての家だった。庭には高級そうな車が存在感を主張していて、誰が見てもお金持ちとわかるのは間違いなかった。
簡単に門を飛び越えた浦川くんが、門の鍵をあっさりと外していく。その手馴れた動きに、やっぱり泥棒なんだと変に感心するはめになってしまった。
「金持ちのくせに、セキュリティはつけてないんだね」
忙しなく周囲を確認した浦川くんが、意地悪そうな笑みを浮かべた。普通はこうした家にはセキュリティがついていることが多いらしいけど、いまだに鍵もかけない田舎町の雰囲気のせいか、金持ちとはいえセキュリティをつけない家もあるとのことだった。
「ここからは、僕の傍から離れないでね」
急に近づいてきた浦川くんにびっくりしていると、浦川くんが右手の人差し指を鼻にあてる仕草をみせた。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。僕の秘密兵器があれば問題ないから安心して」
「わかった。でも、秘密兵器ってなに?」
一気に襲ってきた緊張で上手く喋れない私とは対象的に、浦川くんは近所を散歩しているみたいに落ち着いていた。その安心感をもたらす秘密兵器がなにかを改めて確認すると、浦川くんは自分の耳を指さした。
「僕は、色んな音を聞き分けることができるんだ。人の呼吸や心臓の音から考えてることがわかるから、気づかれてるかどうかも判断できる。他にも、色々あるんだけど、とりあえず見つからないようにすることだけは保証するよ」
よくよく考えてみたらかなり特殊な能力なのに、浦川くんが当たり前のことのように説明する。その様子に嘘は感じられなかったこともあり、なぜか私はその荒唐無稽な話をすんなり受け入れていた。
「その能力で、いつも泥棒をやってるの?」
裏手に回り、鍵がかかっていないドアや窓を探す浦川くんの背中に、そっと問いかけてみた。
「そうだけど?」
勝手口が未施錠だったことをつきとめた浦川くんが、一切の悪気も感じさせない口調で答えてくれた。
「あのさ、いくらお父さんに頼まれたからといっても、こんなことしてたらまずいんじゃないの?」
「それはわかってるんだけどね。でも、僕は父さんと二人暮らしだから、父さんに頼まれたからにはやらないといけないんだ」
闇に慣れた目の先にうっすらと浮かぶ浦川くんの表情が、はっきりと暗くなるのがわかった。どうやら浦川くんも少しは悪いこととは思っているみたいで、でも、仕方なくやっているというのがなんとなく伝わってきた。
「浦川くん、お父さんと二人暮らしなんだ?」
「そうだよ。さらに言うと、僕と父さんは血が繋がってないんだ」
曇る表情に連動するように、浦川くんの声も低くなっていく。考えるまでもなく、浦川くんの家庭は色々と複雑そうだった。
「血の繋がってる母さんは、妹だけを連れて家を出ていったんだ。僕は捨てられたも同然なんだけど、父さんは僕が家に残ることを拒否しなかった。だから、僕は父さんの頼みならなんでもするってわけ」
無理しておどけた素振りを見せる浦川くんが、かえって痛々しく感じられた。ちょっと不思議な男子というイメージは、浦川くんの背後にある複雑な環境が作り出しているような気がした。
「時間もあまりないから、急いで終わらせよう。僕がとらえた感覚だと、この家にいるのは一人で、まだ起きてると思う」
だから慎重についてきてと釘をさしてきた浦川くんが、慣れた手つきでドアを開ける。これからなにが起きるかわからないということもあって、私の心臓は破裂しそうなほど激しく揺れていた。
浦川くんの背中から離れないように中へ入っていく。見たことのない真剣な眼差しで様子をうかがう浦川くんに、怖さからくる緊張とはまた別の緊張が重なっていった。
――なんだか、寂しい感じがする……
入った先は広々としたキッチンだった。薄暗い中でもわかるくらいの高級そうなテーブルとシンク。でも、乱雑に散らかったテーブルの上と、洗い物が溜まったままのシンクからは、なぜか悲壮感が漂っていた。
「あそこにいるみたいだね」
浦川くんが指さした先は、淡いオレンジの明かりが漏れる部屋だった。その部屋を覗くつもりなのか、前傾姿勢のまま滑るように先へと進んでいった。
音を立てないように慎重についていくと、僅かに開いたドアの先に髪の長い女性が椅子に座っているのが見えた。
「スマホとにらめっこしてるのかな?」
微かに聞き取れるくらいの小さな浦川くんの声に、私は無言のままうなずいた。
女性は、頬杖ついたままじっとスマホだけを見ていた。なにかを操作するわけでもなく、ただ悲しさだけを滲ませた生気のない顔でスマホをにらんでいるだけだった。
「戻るよ」
目的は果たしたといわんばかりに、浦川くんが観察の終了を告げる。数分間の観察だったけど、一つだけ言えるのは、この家と女性から幸せを感じることは一切なかったということだった。
「幸せそうには見えなかったね」
家を抜け出して一息ついたところで、浦川くんが感想を口にする。その感想には私も同じと示すように、深く頷いて返した。
「なんか、散らかったキッチンや部屋を見た時、ひどく寂しい感じがしたんだよね。なんというか、誰も訪ねてこない牢獄みたいな冷たさが漂ってるみたいだった」
浦川くんの隣に並んで、私なりの感想を口にする。見た目は羨ましい限りの家だったのに、その実態は見てはいけないものを見たような感じさえもあった。
「お金持ちだからといって、必ずしも幸せとは限らないってことはわかった。となると、次は別の方向で探す必要があるね」
帰り道、互いの感想を確認しながら浦川くんが次の予定を立て始める。本当は、この奇妙な冒険は一度限りと決めていたけど、また次も浦川くんと探してみたいという気持ちが強くなり、次の予定も受け入れることにした。
「じゃ、またね」
きっちり家まで送り届けてくれた浦川くんが、去り際に手をふってきた。
――またね、か
闇に消えていく浦川くんに手をふり返しながら、久しぶりに誰かと次の約束を交わしたことに、私のテンションは奇妙なほど高まり続けていた。
翌朝の目覚めは最悪だった。寝不足という体調不良に加えて、昨日の学校のことが脳裏に蘇った瞬間、私はトイレから出られなくなってしまった。
そんな私の様子に不安を感じたのか、お母さんは私を病院に連れていくことに決めたみたいだ。これまで何度も病院には行ったけど、決まって異常なしの検査結果と心療内科を案内されるのがオチだから、私は頑なに病院に行くことを拒み続けた。
結局、押し問答の末に部屋での安静を勝ち取った私は、パートに出かけるお母さんに罪悪感を抱きながらも、気ままな一人の時間に浸ることにした。
――本当に不思議な人なんだよね
ベッドに寝転んですぐに思い浮かんだのは、浦川くんのことだった。浦川くんとはほとんど接点はなかったのに、妙なきっかけでおかしなことをする仲になってしまった。
そのおかげで、浦川くんのことが少しだけわかった。浦川くんの両親は離婚していて、浦川くんは血の繋がりのないお父さんと一緒に暮らしている。その時点で複雑な環境というのはわかるし、さらに浦川くんはお父さんに頼まれて泥棒もしているから、浦川くんという存在が普通じゃないことは間違いなかった。
――でも
脳裏に浮かぶ浦川くんの顔が、悲しげに曇っていく。家族のことを語った時にみせた寂しげな表情が印象的だったからこそ、浦川くんの本当の気持ちが見えたようにも思えた。
――だから、幸せを探しているのかな?
浦川くんが幸せを探している理由。それは、自分が不幸な環境にあるからこそ、追い求めていようとしているのかもしれない。
――でも、幸せって本当になんだろう?
これまで幸せの意味を真面目に考えたことはなかった。私がどうかといえば、もちろん私は不幸の部類になるのは間違いない。でも、だからといって不登校になる前は幸せだったかというと、正直よくわからなかった。
それに、昨夜見た光景が意外過ぎて、幸せの定義をますますわからなくしていた。お金持ちという憧れしかない世界にいるのに、あの女性からは幸せの欠片さえも感じられなかったからだ。
何度も寝返りをうちながら色々考えてみたけど、結局答えがでるわけもなく、ただ意味のない時間だけが過ぎっていった。
浦川くんとの幸せ探しは、順調とは程遠い日々が続いていた。ただ、幸せに関して思いついた内容を確認するという作業は、私に想像を越える結果をもたらしてもいた。
たとえば、幸せそうな顔をしている近所の愛想のいいおばさんの家に行った時は、奇声を上げて夫婦喧嘩している場面に遭遇したりもした。
その結果わかったことは、人は表に出す顔と出さない顔があるということだった。さらに言えば、表の顔は必死に幸せなふりをしているだけで、実際には表面上の事柄だけでは幸せというのはわからないということだった。
だから、幸せを見つけるには、裏の部分を探す必要があった。お金持ちだとかいう表面上の事柄ではなく、物事の裏に潜むなにかにこそ、幸せかどうかを決めるものがあるような気がした。
「篠田さんは、どうして学校に来ないの?」
いつものように迎えに来た浦川くんが、今日は珍しく私のことを聞いてきた。これまで、ほとんどプライベートのことは互いに触れなかったけど、どうやら他愛のない話だけで場をつなげるのは限界にきたみたいだった。
「ちょっと、友達と色々あってね」
「綾瀬さん?」
間髪容れずに問われたことに驚いたけど、考えてみたら私と綾瀬さんの関係はみんな知っていることだから、浦川くんが知っていても不思議ではなかった。
「そう。綾瀬さんからちょっと辛いこと言われて」
「それで学校に来れなくなったんだ?」
私の歩むスピードに合わせてゆっくり歩いていた浦川くんが、急に立ち止まる。相変わらず能面顔のおかげで、感情が全く読み取れなかった。
「でも、綾瀬さんとは友達なんだよね?」
たたみかけるように、浦川くんが痛いところをついてきたことで、私は上手く答えることができなかった。
詩が間違いなく親友だとしたら、私にとって綾瀬さんは友達かどうか微妙だった。綾瀬さんは一年の頃から男子にも女子にも人気がある女の子だったから、たいして取り柄のない私には接点がなかった。
そんな綾瀬さんと仲良くなったのは、三年生で同じクラスになってからだった。綾瀬さんに話しかけられたことがきっかけで仲良くなり、華のある綾瀬さんの傍にいられることが単純に嬉しかった。
「私は友達と思ってたんだけどね。綾瀬さんは違ったみたい」
力なく笑ったところで、不意に目頭が熱くなってきた。脳裏に浮かぶ綾瀬さんの薄笑いに、呼吸が苦しくなって目眩が襲ってきた。
「きっと、綾瀬さんは私を馬鹿にしたかっただけだと思う。なのに、私は勘違いしちゃったんだ」
我慢できずに流した涙を乱暴に拭い、無理矢理笑って誤魔化した。
学年で一番人気の女の子と友達。そのステータスを不意に手に入れた私は、自分の立場も忘れて有頂天になっていた。
ピエロは、演じている時はまだいい。一番辛いのは、自分がピエロになっていたと気づいた時なのだ。
そんな私の様子を、黙って浦川くんは眺めていた。ただ、その瞳には穏やかな温もりが感じられた。私を馬鹿にすることなく、黙って寄り添ってくれる温かさが嬉しくて、胸のざわつきが一気に加速していった。
「よし、決めた!」
「え?」
「今日は、綾瀬さんの家に行こう」
私が落ち着いたのを確認した後、浦川くんはとんでもないことを口にした。
「ちょっと、綾瀬さんの家って」
浦川くんの提案に戸惑いながら理由を聞くと、浦川くんがいきなり意地悪そうな笑みを浮かべた。
「綾瀬さんの本当の姿、見たくない?」
悪魔のごとき囁きに、私は気づくと生唾を飲んでいた。これまでの経験からして、人は裏の顔を必ず持っていることはわかっている。それは綾瀬さんも決して例外ではないはず。
「善は急げだ。行こう」
迷う私の手をとった浦川くんが、急に歩むスピードを上げた。突然握られた浦川くんの柔らかい手の温もりに、私の意識は目眩を通り越してどこかに飛んでいきそうだった。
暗闇でもわかるくらいに耳が赤くなっているはずの私は、激しく乱れる鼓動を浦川くんにさとられないことを祈りながら、暗闇のピクニックに専念する。といっても、宙に浮くような感覚にいたせいで、どこをどう歩いたのかわからないまま目的地にたどり着いた。
綾瀬さんの家は、私と同じ閑静な住宅地にある一軒家だった。今は全ての電気が消えてるから、綾瀬さんの家族も眠っているみたいだった。
「二階の角部屋にいる」
目を閉じて意識を綾瀬さんの家に集中していた浦川くんが、ぽつりと呟いた。浦川くんがとらえた音によると、綾瀬さんは両親と三人暮らしで、今は三人とも深い眠りにいるらしい。
裏手に回り、勝手口のドアを慣れた手つきで開けた浦川くんが、目だけで合図を送ってくる。ここからは、浦川くんの背中にくっつくように後ろをついていくことになるから、黙らない心臓を少しでも落ち着かせるように深呼吸を繰り返した。
「中に入ってみよう」
流れるように二階に進んだところで、浦川くんがとんでもないことをささやきだした。
「大丈夫なの?」
これまで家に入ることはあっても、人がいる部屋に入ることはなかった。そのため、綾瀬さんのすぐ近くまでいくことに急に不安になってきた。
「大丈夫だよ」
じっとドアに集中していた浦川くんが、答えると同時にドアを開ける。耳がこもるくらいに静まりかえった空間にわずかな音が響いた後、ゆっくりと綾瀬さんの部屋が姿を現した。
綾瀬さんの部屋は、こじんまりとしながらも綺麗にしてあった。奥の窓際のベッドで眠る綾瀬さんは、まさか私がいるなんて夢にも思っていないだろう。
「あれ、調べてみよう」
浦川くんの微かな声に反応すると、浦川くんが綾瀬さんの机を指さした。
綺麗に整理整頓された机には、ノートパソコンが置いてある。浦川くんはパソコンを調べるつもりみたいだけど、私は浦川くんの腕を静かに掴んで首をふった。
人のパソコンを覗き見るのは、さすがに罪悪感が強かった。いくら幸せを探すためとはいえ、あまり人のプライベートに入り過ぎるのはよくない気がした。
けど、浦川くんは大丈夫だと言う代わりに微笑むと、迷うことなく机に手を伸ばした。その動きにさらに罪悪感が増していったけど、浦川くんの手がパソコンに触れることはなかった。
その代わりに、浦川くんの手が掴んだのは一枚の写真だった。本棚の隙間に隠すように挟まれていた写真は、文化祭の時の一コマを切り取ったものだった。
――え? これって……
暗闇の中、目をこらして写真の人物を判別する。写真にはポツンと男子が一人で写っていて、写真を撮った人も仕方なく撮った感が溢れていた。
問題はその構図ではなく、人物だった。写真に写っていたのは、クラスでも存在感のない剣崎くんで、男子はもちろん女子からも馬鹿にされているような人だった。
そんなスクールカーストの底辺にいる剣崎くんの写真を、スクールカーストのトップにいる綾瀬さんが持っていることに、私は驚きで頭が混乱しかけていた。
さらに、浦川くんが手にした日記帳を差し出してくる。一瞬気が引けたけど、浦川くんがうなずくのを見て、恐る恐る中を開いた。
日記帳には、剣崎くんに対する綾瀬さんの赤裸々な気持ちが書かれていた。しかも、詩よりも強気な綾瀬さんからは想像できないような弱音や苦悩が綴られていて、綾瀬さんに対するイメージが徐々に崩れていくのを感じた。
「帰ろうか」
色んなことが一気に押し寄せてきたせいでなにも言えなくなった私に、浦川くんが探索の終了を告げる。
この日の夜は、なぜかいつも以上に疲れがどっと押し寄せてきた。
綾瀬さんの家に行った日から二日が過ぎた。その間、浦川くんが家に来ることもなく、私はただ無限に思えるような時間の中で、意味もなく漂うだけの存在になっていた。
これまで浦川くんと過ごした時間は、いろんな意味で衝撃的だったけど、やっぱり一番は綾瀬さんのことだった。
トップクラスの人気者である綾瀬さん。見た目から不幸な要素や気配も感じられないのに、その実態は、恋に悩む一人の女の子でしかなかった。
――本当に、幸せってなんだろう
何度も繰り返したため息をつきながら、来るかわからない浦川くんを待つ。気づくと、いつの間にか月を見なくなっている自分に気づき、久しぶりに見た月から二週間が過ぎていることがわかった。
――また始まったよ
浦川くんの気配を感じない代わりに、聞こえてきたのは両親の口論する声だった。もうすぐ夏休みに入るから、このままなにもせずに夏休みを過ごすことを、お母さんは心配しているのだろう。
夜遅くに帰ってきたお父さんも、疲れてるのにお母さんの溜まったストレスをぶつけられているせいか、その声にはいらだちがはっきり表れていた。
――やめてよ
タオルケットで両耳を強くふさぎ、聞こえてくる声を遮断する。けど、容赦ない鋭いトゲのような言葉たちは、簡単に私の耳を貫いていった。
――やめてって!
繰り返される言葉の大半が、私を心配している内容というのはわかっている。でも、そのおかげでお父さんもお母さんも互いを罵りながら喧嘩するのは、本当にやめてほしかった。
――わかってる。わかってるけど、でも、どうしたらいいの?
喧嘩の原因が私にあるのはわかっている。その解決策が、学校に行くことだともわかっている。
でも、わかっていながらできないのが今の私だ。繰り返す嘔吐や目眩、おさえきれない鼓動の乱れや体のふるえは、なにをどうしたらなくなるのか、今の私にはさっぱりわからなかった。
頭が潰れるくらいに両耳をおさえていた私は、ついに耐えきれなくなって部屋を飛び出した。最近は喧嘩の最中に出てくる離婚の話が、どんどんリアルになっているのが辛くて苦しかった。
暑苦しい熱帯夜の闇の中、私は気づくと流していた涙を拭いながら、休憩場所に利用していた無人の神社を目指した。
あまり人の来ない朽ちかけた神社の石段に座り、斑に光を放つ町をぼんやり眺めてみる。この世界には、きっと幸せはないのだろう。誰もが不幸を作り出していて、それを隠すためにただ幸せなふりを演じているにすぎないのかもしれない。
もちろん、私だって例外じゃない。今の私は、家族を不幸にするだけの生きてる価値もない存在でしかなかった。
「篠田さん」
すっかり落ち込んだ私の耳に、聞きなれた声がやんわりと入ってきた。びっくりして顔を上げると、浦川くんが相変わらずの能面顔で私を見下ろしていた。
「泣いてるの?」
一瞬で表情が曇る浦川くんを見て、私はもう我慢できずに声をあげて泣いた。
浦川くんの顔が曇るのは、心配していることとわかったのは最近のことだ。だから、こんな私を心配してくれてることが嬉しくて、でも、どうすることもできずに泣くことしかできなかった。
「なんでこうなっちゃったんだろうね」
ひとしきり泣いた私は、黙って隣に座った浦川くんに漏れでる感情を口にした。
「子供のころは、こんなことになるなんて少しも思わなかった。なのに、私は気づいたら人を不幸にする存在になってた」
「なにかあったの?」
「私のせいで、お父さんとお母さんが離婚するかもしれない」
言うか迷ったけど、もう黙っていられるほど強くなかった私は、浦川くんから伝わる温もりに刺激されるように口を開いた。
「私が不登校になったせいで、お父さんもお母さんも毎日喧嘩するようになって。だから、なんとかしないとって思うんだけど、でも、なにをどうしたらいいのか全然わからないの」
拭っても拭ってもあふれる涙を隠すように、両手で顔を覆いながら顔を伏せた。きっと、浦川くんは今の私を迷惑だと思っているだろう。いきなりこんな話を一方的にしたわけだから、無言で立ち去ってもおかしくなかった。
けど、浦川くんは黙ったまま隣に座っている。あまりに反応がないから変に思って様子をうかがった瞬間、私は息が止まるような衝撃を受けた。
「浦川、くん?」
予想外に涙していた浦川くんに、反射的に声をかけた。いつか見た悲しい表情よりも、さらに色濃くなった悲しげな表情に、私は瞬時に目が離せなくなっていた。
「ごめん、ちょっと思いだしたんだ」
震える浦川くんの声に、悲壮感が滲んでいる。暗く沈んだ横顔には、もういつもの浦川くんの影はなかった。
「僕ね、本当は捨てられたんじゃないんだ」
「え?」
「本当は、僕が母さんを裏切ったんだ」
膝を抱えたまま、浦川くんは肩をふるわせていた。どんな悲しいことがあったのかと思っていると、浦川くんが途切れ途切れの声で過去のことを語り始めた。
浦川くんは本当のお父さんに会ったことがなく、今のお父さんを本当のお父さんと思っていた。事実を知ったのは両親が離婚した時で、浦川くんも本当はお母さんに引き取られる予定だったという。
「でも、僕は拒んだんだ。僕が抵抗したら、ひょっとしたら父さんも母さんも諦めてくれると思った。だって、父さんは血の繋がってない僕なんかいらないだろうし、母さんも僕を残しては行かないと思ったから」
力なくうなだれる浦川くんから、当時の苦悩が漂ってくる。浦川くんにとっては、その行動は一つの賭けみたいなものだったから、結果が出るまで怖くてふるえていたらしい。
「父さんはあまりいい人じゃないし、警察のお世話になったこともある人だけど、僕には優しかった。だから、家族がばらばらになるのが嫌で抵抗したんだけど、結果は裏目に出た感じかな」
無理矢理笑う浦川くんの瞳から、再び涙があふれだした。言葉にするのも辛そうで、でも、私には慰める術はなかったから、ただ黙って聞き続けるしかなかった。
「結局、母さんは僕を置いて出ていってしまった。残された僕は、父さんに引き取られたけど、でも、本当に僕を引き取ってくれたかどうかわからないんだ」
「だから、お父さんの言うことに従って泥棒をやってるの?」
ようやく見えた浦川くんの陰。お父さんの頼みとはいえ、泥棒なんかやっている理由には、浦川くんの苦悩が満ちあふれていた。
「仕方ないんだ。父さんに嫌われたら、僕は独りになってしまうから」
寂しさに満ちたその一言に、私は声が出なくなってしまった。浦川くんは不思議な人でもなんでもなかった。ただ、家族がばらばらになってしまい、自分が独りぼっちになってしまうのを恐れているだけの、普通の男の子だった。
「なんでうまくいかないんだろうね」
かける言葉が見つからない私は、やけに綺麗に晴れ渡った夜空の星に呟いた。
「私、別に多くのことは望んでないの。ただ普通に生きてればいいと思ってるのに、なんで思ってるのとは違う方になにもかもいっちゃうんだろうね」
「篠田さん」
「ねえ、浦川くん。私たち、なんのために生きてるんだろう。幸せを探してるうちに思ったんだけど、そんなものは本当はなくて、みんな不幸になるように生きてるとしたらさ、なんのために私たちは生きてるんだろうね」
浦川くんに刺激され、再びあふれだした感情に任せて乱暴に言葉を吐き出し続ける。そんな私に、浦川くんはなにも言わず、代わりにぴったりと肩がくっつくように距離を縮めてきた。
不意に伝わってくる浦川くんの体温に、私の呼吸が急停止する。と同時に、誰かが傍にいることがこんなに心地いいとは思わなかった。
きっと、私一人だったらとっくに壊れていたかもしれない。けど、浦川くんがいてくれるだけで、なんとか耐えられている感じだった。
それからは、私も浦川くんも口を開くことはなく、白くなっていく空を二人並んで眺め続けた。
浦川くんに弱音をはいた夜から、私の中に小さな変化があった。これまで重くまとわりついていたなにかが剥がれ落ちたように、不思議と私の心は軽くなっていた。
その反面、浦川くんが完全に姿を見せなくなったことが、新たな悩みの種になっていた。理由はわからないけど、ひょっとしたら私とは探している幸せを見つけられないと思って誘うのを止めたのかもしれかなった。
ぽっかりと胸に穴が空いたような気持ちのまま、ただ時間だけが過ぎる日々をすごすなかで、衝撃的なニュースを詩から知らされることになった。
『浦川って人のお父さん、警察に捕まってない?』
詩から突然送られてきたラインに、私の思考はついていけなかった。ただ漠然と流れ込んでくる情報を必死で理解しようとした瞬間、脳裏に浮かんだのは浦川くんの寂しげな横顔だった。
詩からもらった情報によると、なにかの事件で詩の学校の生徒のお父さんが逮捕されて話題となり、その話題の中に浦川くんのお父さんの話が出たらしい。
――浦川くんのお父さんって、警察のお世話になったことがあるって言ってた……
浦川くんの話が甦り、頭を切り替えて詩の情報を調べ直す。内容からして、浦川くんのお父さんでほぼ間違いなさそうだった。
――浦川くん、どうなるの?
詩に詳しい情報を仕入れるように頼んだ私は、落ち着かないまま部屋をぐるぐると回り続けた。本当は、今すぐに学校に行って浦川くんの安否を確かめたかった。
けど、私の気持ちとは反対に、私の体は真っ向から拒み続けた。耐え難い吐き気と頭痛、さらには目眩が襲ってきて、結局ベッドに倒れこむはめになってしまった。
○ ○ ○
薬を飲んで横になっていたおかげで、夜には目眩も吐き気も収まってくれた。急いで詩から新たな情報がないか調べてみたけど、スマホには詩の心配する言葉以外に新たな情報はなかった。
詩にお礼と感謝の言葉を送り、夜の町に出かける準備を進める。浦川くんが姿を見せない理由になんとなく嫌な予感がしたけど、その反面、浦川くんはいつもの場所にいるような気もしていた。
両親が寝静ったのを確認し、ひっそりと窓から外へと抜け出す。なぜかはわからないけど、夜の町に出かけるのはこれが最後になるような気がした。
いるかいないかわからないけど、でも、やっぱりいるという根拠のない確信が、私を神社へと導いていく。すっかり闇に染まった神社にたどり着いたところで、胸の鼓動は最高潮に達した。
「やっぱり、ここにいたんだね」
石段に座る浦川くんを見つけ、はやる気持ちをおさえながら浦川くんのもとにかけ寄っていく。浦川くんは思ったよりも元気そうで、私を見つけるなり手をふっていた。
「篠田さんも、話は聞いたんだね?」
「うん、友達が教えてくれたの。それで、お父さんは大丈夫なの?」
言ってすぐに、警察に捕まっているのに大丈夫と聞くのは変かなと思ったけど、浦川くんは特に気にするそぶりをみせることなく、笑って首を横にふった。
「詳しくはわからないけど、親戚のおじさんが言うには、ちょっと長くかかるかもしれないんだって」
「そんな、じゃあ浦川くんは?」
「とりあえず親戚のおじさんの家に行くことになりそうだけど、長くは居られないかな」
浦川くんによると、未成年者が一人で生活するには無理があるらしく、とりあえずは親戚の人に預けられるものの、すぐに施設に入ることになるとのことだった。
「独りぼっちにならないように頑張ってたんだけど、まさかこんな形になるなんて夢にも思わなかったよ」
笑顔で呟く浦川くんの肩が、小刻みにふるえていた。きっと、今、浦川くんは泣くのを我慢しているんだろう。
「だったら、お母さんに連絡したら?」
「え?」
「お母さんなら、浦川くんの引き取ることできるんじゃないの?」
「それは――」
「迷っている場合じゃないと思う。ねえ、お母さんはどこにいるの?」
話を聞く限り、浦川くんは親戚の人に引き取られるよりも、お母さんに引き取られたほうがましに思える。お母さんがどこにいるのかは聞いてなかったけど、そんなに離れていないならすぐに対応してもらえる可能性があった。
浦川くんを心配するあまり勢いで話していた私だったけど、お母さんの居場所を聞いた瞬間、私の勢いに急ブレーキがかかった。
「東京?」
いきなりつきつけられた現実に、一瞬、目の前の浦川くんが遠くにいるように感じられた。東京となると、この地方の田舎町からだと遥か彼方の世界になる。もし、浦川くんがお母さんに引き取られたら、もう会うことは絶望的になるのは間違いなかった。
そう考えた瞬間、私は声が出なくなっていた。じわりとわきあがってくる恐怖が、にじみ出る汗を冷たくさせていった。
「きっと、お母さんは裏切った僕を引き取りなんかしないよ」
微かにうなだれた浦川くんに、胸の奥がきりきりと痛みだした。浦川くんも、本当はお母さんのもとに行くの望んでいるはず。あれだけ独りぼっちになるのは嫌だと言っていたから、わけのわからない施設なんかに入ったら、浦川くんは一生残る傷を負うことになるかもしれなかった。
「大丈夫、お母さんならきっと受け入れてくれるよ」
「無理だよ。僕がやったこと、話したよね? それを考えたら、今さら――」
「そんなことないよ!」
相変わらず抵抗を続ける浦川くんに、私はあふれ続ける恐怖にふたをしながら、浦川くんの言葉を遮った。
「私、お母さんとは喧嘩したりもするけど、困ったときはいつも助けてくれるの。だから、浦川くんのお母さんも、浦川くんが困ってるとわかったら、必ず助けてくれるて思うよ」
迷う浦川くんの背中を無理矢理押すように、思いついたことを伝えていく。浦川くんは下を向いたまま黙っていたけど、その横顔には、お母さんと連絡取りたい気持ちがはっきりとあらわれていた。
「大丈夫だから。私が浦川くんの秘密兵器を信じたように、今回は私のことを信じてほしい」
最後は、浦川くんの背中を叩く勢いで伝えた。浦川くんはまだ迷っているみたいだったけど、とりあえず連絡してみると約束してくれた。
「必ずだよ」
そう呟きながら、顔を上げた浦川くんと目を合わせる。
その瞬間、言い様のない恐怖に包まれた私は、はっきりと浦川くんの存在が遠くなったのを感じた。
二日後、顔をだした浦川くんの落ち着いた瞳を見て、私の予感は話を聞くまでもなく的中するのがわかった。
ただ、嬉しそうにお母さんの所に行くと言った浦川くんが、続けて東京に行く日を口にした瞬間、ショックでなにも言えなくなってしまった。
浦川くんは、すぐに東京へと向かうことになっていた。理由は、転校の手続きをするなら夏休み前がいいらしく、そんなリアルな話によって、浦川くんがいなくなってしまうことをはっきりと感じることになった。
突然の急展開の中、今日の夕方には浦川くんは電車で旅立つというのに、私は相変わらず部屋から出ることができなかった。
本当は学校に行ってお別れ会に参加するつもりだった。そのため、体を引きずるようにして登校したけど、朝から遭遇した綾瀬さんによって、私の思考は完全にストップしてしまった。
『あんた、浦川と仲いいみたいね。でも、それって迷惑なんだけど』
学校に着く前に容赦なく浴びせられた言葉。なにがなんだかわからないでいると、綾瀬さんは馬鹿にしたような笑みで私にとどめを刺してきた。
『友達が浦川のこと気にいってるから、最後に告りたいんだって。だから、見送りには絶対に来ないでよね。そもそも、あんたは学校に来てないんだから、まさか都合よく見送りに来るつもりじゃないよね?』
周りにいた子たちが笑う中、綾瀬さんは無理矢理私に同意を求めてきた。パニックになった私は、なぜか浦川くんとの関係を否定してしまい、気づいたら綾瀬さんの提案にうなずいていた。
その後のことは記憶がなかった。泣きながら帰った私は、誰もいない家の中で悔しさに耐えきれずに声をあげて泣くしかなかった。
電車の時間が迫ってくる中、私は泣き疲れてベッドに倒れていた。自分の馬鹿さ加減にほとほと嫌気がさし、もうなにもかもがどうなってもいいと全てを諦めかけた時、いきなり私の部屋に詩が飛び込んできた。
「菜々美、どうしたの?」
開口一番、詩の心配した声が部屋に響く。詩には今日のことも含めて全てラインでやりとりしていたから、詩は心配になって来てくれたみたいだった。
「詩、私ね、やっぱり見送りには行かないことにしたんだ」
「行かないって、どうして?」
「ラインでも話したけど、綾瀬さんの友達に悪いし、それに、学校に行ってない私が行くのは変だし――」
「菜々美、それ本気で言ってるの?」
優しい口調から一転して声が低くなった詩の顔からは、完全に笑みが消えていた。
「本気だよ。色々考えたけど、やっぱり行かないほうがいいと思う」
「菜々美、もう一度聞くけど、本当にそれでいいの? 今日行かなかったら、一生後悔することになるかもしれないんだよ」
私の嘘を見抜くように、詩が厳しく追及してくる。もちろん、気持ちは行きたいに決まってたけど、その思いを行動に変える勇気も力も残っていなかった。
「私ね、菜々美から話を聞いて一つだけ気になってたことがあるの」
いじける私をよそにだんまりを続けていた詩が、急に真面目な顔つきで口を開いた。
「菜々美は、浦川って人と幸せを探していたっていうけど、本当に探してたの?」
「それって、どういう意味?」
意外なことを言い出した詩にその真意を聞くと、詩はじっと私を見つめてきた。
「綾瀬の家に行った時の話なんだけど、どう考えても変なんだよね」
「変って、なにが?」
「綾瀬の部屋に入るなり、本棚に隠してあった写真を見つけてるし、日記帳まで見つけてさ、まるで、あらかじめ知ってたみたいじゃん」
詩に指摘され、記憶が一気にあの日の夜にとんでいった。確かにあの時、浦川くんは迷うことなく本棚にあった写真を手にしていた。
「ということは――」
「浦川って人は、綾瀬の家に一度行ったことがあると思う」
詩の結論に、私は動揺をおさえきれなかった。あの時、浦川くんは一度来たことがあるとは言ってなかったし、むしろ初めて来るようなそぶりしかみせてなかった。
「でも、なんでそんなことしたんだろう」
「私が思うにさ、浦川って人は幸せを探すというのを口実にして、本当は菜々美に色んな世界を見せたかったんじゃないのかな」
「どういう意味?」
「なんかうまく言えないけど、浦川って人は、不登校になって苦しむ菜々美に色んな人の裏側を見せたり、最後にはきっかけを作った綾瀬の本当の姿を見せようとしたんじゃないのかな?」
詩の言葉に、私はだんだんと胸が熱くなってくるのを感じた。思い返したら、確かに変だといえる場面もあった。もしそれが全て浦川くんの思惑通りだとしたら、浦川くんは私のためにあれこれ動いていたということになる。
「でも、私は浦川くんとは接点なかったんだよ? 綾瀬さんとのことも、浦川くんは詳しくは知らないはずなのに、どうやって私が苦しんでるってわかったの?」
私の不登校は、綾瀬さんとのやりとりがきっかけだ。でも、教室の中とはいえ、ほとんど接点のない浦川くんが、どうやって私の異変に気づいたのか不思議だった。
「そんなの簡単だよ。浦川って人、特殊な力があるって言ってたよね?」
詩は言葉を口にしながら、右手の人差し指を自分の耳に向けた。その仕草が、浦川くんが秘密兵器を教えてくれた時の仕草とリンクして、ようやく全てがつながっていくのを感じた。
「菜々美に異変が起きた日、浦川って人は菜々美の心臓の音で気づいた。だから、菜々美の家に来たんだよ」
興奮気味に語る詩に、熱くなっていた胸が一気に苦しくなっていった。
「そこで苦しんでいる菜々美の状況を知った浦川って人は、登校してきた菜々美の心臓の音を聞いて、菜々美を誘うと決めたんじゃないのかな」
うんうんとうなずきながら語る詩の推測には、引っかかるものはなかった。浦川くんは音で状況を把握できる人だから、心音だけで私の状況を察知していてもおかしくはなかった。
「ここからは私の考えだけど、浦川って人は幸せ探しをするつもりはなかったと思う。幸せ探しは単なる口実で、本当はさっきも言ったように、菜々美に色んな世界を見せたかったんだと思う」
「でも、それが本当だとして、どうしてそんなことしたの?」
「菜々美を助けたかったんじゃない?」
「え?」
「だって、菜々美と浦川って人はなんか似てるもん。浦川って人の両親は離婚してるんだよね? だから、菜々美の辛さは余計にわかったんだと思う」
詩に言われ、浦川くんが両親のことを話した時のことを思い出した。浦川くんは家族がばらばらになったことに悲しんでいたし、独りぼっちになるのを恐れていた。
それは、今の私にもあてはまることだった。もし本当に両親が離婚してしまったら、きっと私も浦川くんと同じ苦しみを味わうことになるだろう。
「だから、菜々美に辛い思いをしてもらいたくなくて、菜々美の両親が離婚する前に、立ち直るきっかけを作ろうとしたんだよ」
最後はさとすような詩の口調に、私はもう返す言葉はなかった。
浦川くんと過ごした数々の日々。最初は奇妙なことと思ったけど、一緒に過ごすうちに私の中でなにかが変わったような気がするのは事実だった。
「さて、ここからは菜々美に質問です。浦川って人は、なぜ菜々美を助けようとしたんでしょうか?」
「それは、私の今の状況が浦川くんに似てたからじゃないの?」
「残念、不正解です」
クイズ番組の司会者のように大げさに首を横にふった詩が、今度は意味深な笑みを浮かべてきた。
「ちょっと別の角度から聞くよ。浦川って人は音で状況がわかります。だとしたら、クラスの中でも色んな人のことに気づけるはずです。なのに、なぜ菜々美の時だけ浦川って人は動いたんでしょうか?」
「それは――」
詩の質問に、私はうまく答えを見つけられなかった。確かに詩の言うとおり、浦川くんならクラスの中で困っている人を見つけることはできたはず。なのに、なぜ私だけを助けようとしたのかはよくわからなかった。
「はい、時間切れね。まったく、本当に菜々美は鈍感だから」
「ちょっと、それどういう意味?」
「答えは簡単だってこと。男子が特定の女の子だけを助けるってことは、その女の子を好きだからに決まってるじゃない」
なぜか嬉しそうに私の肩を叩いてきた詩に、私は口を開けたままなにも言えなかった。よりにもよって、浦川くんが私を好きだという夢物語を語ったことに、私は全力で否定した。
「いや、私の勘は間違ってないと思う。だって、それ以外に考えられないもん」
私の否定を軽やかにかわしながら、詩はさらに楽しそうに語りだした。
「ねえ、菜々美は浦川って人のことが好きなんでしょ?」
「それは――」
「菜々美、もし私の推測が正しければ、今ごろ浦川って人は菜々美が来るのを待ってると思うよ」
必死に誤魔化そうとする私を遮るように、詩は真顔に戻って私をさとし始めた。
「菜々美、浦川って人を好きなんでしょ?」
有無を言わせない勢いで、詩が詰めよってくる。もはや誤魔化しきれないとわかった私は、全身が熱くなるのを感じながら黙ってうなずいた。
「だったら、行ってやりなよ」
「でも――」
「でもじゃない。菜々美は、本当は行きたいんでしょ?」
「そうだけど、やっぱり綾瀬さんの友達に悪いし」
「そんなの関係ない!」
うじうじ語る私に業を煮やしたのか、詩が机を叩いて私の迷いを一喝した。
「あのね菜々美、自分を犠牲にして優しくするのは菜々美のいいところだけど、時には自分の気持ちに素直になるのも大事なんだよ」
ちょっと怖い顔をしていた詩が、表情を和らげながら優しい口調で切り出してきた。詩は私の一番の親友だからこそ、詩が私を説得しようとしてくれてるのは痛いほど伝わってきた。
詩の説得に根負けした私は、目を閉じて自分の胸に聞いてみた。もちろん、答えは浦川くんに会いにいきたいという一択しかなかった。
それに、もし浦川くんが私を助けるために動いていたとしたら、その気持ちに私は素直に感謝を伝えたかった。
「詩、私決めた。浦川くんに会ってちゃんとお礼を言ってくる」
浦川くんと過ごした時間を思い返した瞬間、私は気づくとあふれる気持ちを詩に伝えていた。
「それがいいと思う。私、菜々美のこと全力で応援するから、綾瀬には負けないでね」
私の気持ちを聞いた詩が、嬉しそうに何度も私の肩を撫でてきた。浦川くんに会いに行くということは、綾瀬さんに会うことも意味してるから、詩なりに私を励まそうとしているみたいだった。
「大丈夫。私、絶対負けないよ」
詩のエールに応えるように、私は決心を口にする。本当は怖くて手がふるえていたけど、勢いに任せて出かける準備に取りかかった。
夕暮れが迫った駅の構内には、ちょうど改札を抜けていく浦川くんと、それを見送るみんなの姿があった。
恐怖心で足がもたつくなか、追いかける私の前に立ちはだかったのは、やはり綾瀬さんだった。
「迷惑だって言ったよね」
私を見つけるなり、進路は阻むように仁王立ちした綾瀬さんが、腕を組んだまま睨みつけてくる。すぐに取り巻きの人たちも寄ってきたから、私は完全に囲まれる形になってしまった。
――大丈夫、落ち着いて
怖くて逃げ出しそうになる自分を落ち着けながら、汗ばんだ手を握りしめて綾瀬さんを真っ直ぐに見据えた。
「綾瀬さん、二人だけで話をしたいの」
ふるえる声を絞りだして、私はその場からゆっくりと離れた。時間に猶予はなかったけど、この問題を解決しない限り前に進めないことはわかっていた。
「なに?」
二人だけになったところで、綾瀬さんが苛立ちを隠すことなく声をあげた。
「私ね、綾瀬さんと友達になれたこと、本当に嬉しかったんだ」
全身に力を入れ、倒れそうになるのを堪えながら、私は覚悟を決めた。
「そんなこと言われても迷惑なんだけど」
「わかってる。本当は綾瀬さんが私を馬鹿にする為に近づいてきたってことは、私もわかってる」
「だったらなに? まさか謝れとか言うつもり?」
冗談じゃないとばかりに、綾瀬さんが笑い声を上げた。その様子を見て、私は浦川くんがくれた切り札を使うことに決めた。
「謝ってほしいとかじゃないの。私、綾瀬さんと仲良くなれたことが嬉しかったのは間違いないから」
「じゃあ、なんなの?」
「ただ、こういうことはもうやめてほしい。綾瀬さん、本当は剣崎くんのことで悩んでいて、その苛立ちを私にぶつけてるたけなんでしょ?」
一度深呼吸して、私は綾瀬さんの急所を思いっきりついた。
「なにを言って――」
私の言葉が予想外過ぎたのか、綾瀬さんは勝ち誇った顔から一転して狼狽し始めた。
「私にはわかってるから、誤魔化す必要はないよ。ただ、綾瀬さんの問題は自分で解決してほしいの。これ以上、私にぶつけられても、私にはどうすることもできないから」
勇気をふりしぼり、私は最後の言葉を伝えた。その瞬間、ちくりと胸が痛んだけど、それ以上に、こびりつくように胸にまとわりついていたなにかが消えていくのを感じた。
「私、行くね」
涙目になってふるえる綾瀬さんに声をかけて、足早にその場を立ち去る。綾瀬さんはなにか言いたげだったけど、結局私を黙って見送ってくれた。
――急がなきゃ
綾瀬さんに言いたことを言えて体が軽くなったせいか、不思議と足どりからも重さが消えていた。奇異な視線に感じていたみんなの視線も気にならなくなり、私は急いで見送り用のキップを買ってホームへ向かった。
――浦川くん!
長い階段の先に、見慣れた浦川くんの姿があった。その姿を見た瞬間、嬉しさと緊張が一気に押し寄せてきた。
――ちょっと、え?
嬉しさのあまり、鼓動が跳ね上がった瞬間だった。階段に足を伸ばしたところで突然襲ってきた目眩に、慌て手すりにしがみつくように倒れこんだ。
――なんで、こんな時に
気持ちを落ち着けながら、何度も深呼吸をして目眩がおさまるのを待つ。気が抜けたところで緊張したせいか、目眩は一向におさまる気配がなかった。
――大丈夫、落ち着いて
腕時計を見ると、発車の時刻が刻一刻と迫っていた。なんとか手すりにしがみついて階段をおりようとするけど、鉛のように重くなった足は全くいうことを聞いてくれなかった。
――浦川、くん
諦めと絶望が一気に押し寄せてきて、心が挫けそうになった。けど、浦川くんに会いたい気持ちをバネに自分を奮い立たせることで、なんとか目眩をのりきることができた。
――急がないと
焦る気持ちで電車を待つ列をよけながら、浦川くんのもとへかけていく。いざ浦川くんを前にして、また緊張が襲ってきたけど、ふりきるように浦川くんの名前を呼んだ。
「篠田さん! 来てくれたんだ」
ちょっと暗い横顔をしていた浦川くんは、私の声に気づくと驚いた表情を浮かべた。
「私ね、どうしてもお礼が言いたかったから」
心臓が口から出そうなくらい息切れしながらも、なんとか言葉をつなげていく。本当は色んなことを話したかったけど、上手く頭が回らなかった。
「僕も、篠田さんにお礼を言いたかったんだ。あの時、僕の背中を押してくれてありがとう」
淀みのない笑顔を浮かべる浦川くんに、一瞬で息が詰まる。改めて浦川くんを目の前にして、私は浦川くんのことが好きなんだと実感した。
なにか話さないと思いながら空回りする中、ホームにベルの音が響き渡り、列車がゆっくりと滑り込んできた。
「浦川くん。私ね、ちゃんと学校に行くことにした」
ようやく声に出せたのは、私なりの決意だった。声が裏返ってうまくつたわらなかったはずなのに、浦川くんは「よかったね」と嬉しそうに目を細めてくれた。
「だから、浦川くんも泥棒をやめて東京ではちゃんと頑張ってほしい」
「わかった、約束するよ」
「それと、これ」
乗降口のステップに立った浦川くんに、ポケットの中で握りしめていたメモを差し出す。中身は、迷いながらも書いた私のスマホの番号とメアドだった。
「ありがとう。お母さんに頼んでスマホを買ってもらったら、連絡するよ」
浦川くんは手にしたメモを大切そうにポケットにしまうと、急に真顔に表情を変えた。
「篠田さん、僕ね――」
なにかを思い詰めたように口を開いた浦川くんだったけど、その声は発車のベルにかき消され、無情にもドアが閉まってしまった。
ゆっくりと動き出す電車。ドアの窓越しになにかを伝えようとしている浦川くんの姿を見て、私は追いかけるように走りだした。
堪えきれずに流れ出し涙も拭うことなく、私は胸の中からあふれる感情に任せて、懸命に浦川くんの姿を追い続けた。
――浦川くんと仲良くなれて、本当によかったよ
遠ざかる浦川くんの姿を目に焼きつける中、二人で過ごした日々が頭の中によぎっていく。
なにもない絶望の日々の中で、浦川くんがくれた温もりだけが救いだった。
だから、今ならわかる。
どんなに辛い時でも、誰かが傍にいて自分を想ってくれるなら、自分を変えることができるということを。
それを教えてくれたのも、他ならぬ浦川くんだった。
「浦川くん……、本当に、ありがとう」
夕暮れの町並みに消えていく電車を見つめながら、私は耐えきれないほどの喪失感に襲われながらも、力一杯手をふり続けた。