その夜、浦川くんの話は半信半疑のまま、パジャマ代わりの紺色のダサいジャージにこっそり隠していたスニーカーを胸に抱いて、浦川くんが来るのを待つことにした。

「おはよ。待たせたね」

 ふわふわとした落ち着かない気分の中、ようやく浦川くんが姿を見せたのは午前二時になりかけた時だった。

「お父さんとお母さんは大丈夫?」

 窓から出るという慣れない作業に苦労していると、浦川くんが手を貸してくれながら両親のことを聞いてきた。

「お父さんは出張でいないし、お母さんは朝が早いからぐっすりかな」

 ひんやりとした感触の中にじんわりとしたぬくもりのある浦川くんの手に緊張しながら、とりあえず大丈夫ということだけはなんとか伝えた。

 地に足をつけたところで、初夏のぬるい風が頬を撫でていった。夜空は満点の銀河で、初めて体験する深夜の世界は、緊張よりも感じたことのない解放感があった。

「で、どこに行くの?」

「それなんだけど、篠田さんは幸せってなんだと思う?」

 なんとなく歩きだしたところで、全身黒いジャージ姿の浦川くんが相変わらずの能面で尋ねてきた。

「なんだろう。よくわからないかな」

 幸せという言葉はわかるけど、その意味を聞かれると上手く説明できなかった。

「じゃあ、金持ちって幸せだと思う?」

「それは、幸せなんじゃないの?」

「どうして?」

「だって、お金があれば色々できるし、苦労も少ないからかな?」

 とりあえず思いついたことを口にしてみたけど、しっくりくる答えとは思えなかった。

 けど、浦川くんは私の答えに二度頷くと、ようやく能面顔を崩して笑顔を見せてくれた。

「よし決めた。今日はお金持ちの家にしてみよう」

 まるで他愛のない遊びを決めるかのように、浦川くんが突拍子なことを口にする。突然の笑顔に思考が麻痺しかけていた私は、なんとかどういうことかと聞いてみた。

「実際に金持ちの家に行ってみて、幸せか感じれるか試してみるんだ」

 そう切り出すと、浦川くんが急に歩むスピードを上げ始めた。なにもない田園風景も今は闇に沈んでいる。心細い外灯の明かりを頼りに、なんとか浦川くんの背中を追いかけた。

「ここがいいかな」

 たどり着いた先は、暗闇でもわかるくらいに豪華な二階建ての家だった。庭には高級そうな車が存在感を主張していて、誰が見てもお金持ちとわかるのは間違いなかった。

 簡単に門を飛び越えた浦川くんが、門の鍵をあっさりと外していく。その手馴れた動きに、やっぱり泥棒なんだと変に感心するはめになってしまった。

「金持ちのくせに、セキュリティはつけてないんだね」

 忙しなく周囲を確認した浦川くんが、意地悪そうな笑みを浮かべた。普通はこうした家にはセキュリティがついていることが多いらしいけど、いまだに鍵もかけない田舎町の雰囲気のせいか、金持ちとはいえセキュリティをつけない家もあるとのことだった。

「ここからは、僕の傍から離れないでね」

 急に近づいてきた浦川くんにびっくりしていると、浦川くんが右手の人差し指を鼻にあてる仕草をみせた。

「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫。僕の秘密兵器があれば問題ないから安心して」

「わかった。でも、秘密兵器ってなに?」

 一気に襲ってきた緊張で上手く喋れない私とは対象的に、浦川くんは近所を散歩しているみたいに落ち着いていた。その安心感をもたらす秘密兵器がなにかを改めて確認すると、浦川くんは自分の耳を指さした。

「僕は、色んな音を聞き分けることができるんだ。人の呼吸や心臓の音から考えてることがわかるから、気づかれてるかどうかも判断できる。他にも、色々あるんだけど、とりあえず見つからないようにすることだけは保証するよ」

 よくよく考えてみたらかなり特殊な能力なのに、浦川くんが当たり前のことのように説明する。その様子に嘘は感じられなかったこともあり、なぜか私はその荒唐無稽な話をすんなり受け入れていた。

「その能力で、いつも泥棒をやってるの?」

 裏手に回り、鍵がかかっていないドアや窓を探す浦川くんの背中に、そっと問いかけてみた。

「そうだけど?」

 勝手口が未施錠だったことをつきとめた浦川くんが、一切の悪気も感じさせない口調で答えてくれた。

「あのさ、いくらお父さんに頼まれたからといっても、こんなことしてたらまずいんじゃないの?」

「それはわかってるんだけどね。でも、僕は父さんと二人暮らしだから、父さんに頼まれたからにはやらないといけないんだ」

 闇に慣れた目の先にうっすらと浮かぶ浦川くんの表情が、はっきりと暗くなるのがわかった。どうやら浦川くんも少しは悪いこととは思っているみたいで、でも、仕方なくやっているというのがなんとなく伝わってきた。

「浦川くん、お父さんと二人暮らしなんだ?」

「そうだよ。さらに言うと、僕と父さんは血が繋がってないんだ」

 曇る表情に連動するように、浦川くんの声も低くなっていく。考えるまでもなく、浦川くんの家庭は色々と複雑そうだった。

「血の繋がってる母さんは、妹だけを連れて家を出ていったんだ。僕は捨てられたも同然なんだけど、父さんは僕が家に残ることを拒否しなかった。だから、僕は父さんの頼みならなんでもするってわけ」

 無理しておどけた素振りを見せる浦川くんが、かえって痛々しく感じられた。ちょっと不思議な男子というイメージは、浦川くんの背後にある複雑な環境が作り出しているような気がした。

「時間もあまりないから、急いで終わらせよう。僕がとらえた感覚だと、この家にいるのは一人で、まだ起きてると思う」

 だから慎重についてきてと釘をさしてきた浦川くんが、慣れた手つきでドアを開ける。これからなにが起きるかわからないということもあって、私の心臓は破裂しそうなほど激しく揺れていた。

 浦川くんの背中から離れないように中へ入っていく。見たことのない真剣な眼差しで様子をうかがう浦川くんに、怖さからくる緊張とはまた別の緊張が重なっていった。

――なんだか、寂しい感じがする……

 入った先は広々としたキッチンだった。薄暗い中でもわかるくらいの高級そうなテーブルとシンク。でも、乱雑に散らかったテーブルの上と、洗い物が溜まったままのシンクからは、なぜか悲壮感が漂っていた。

「あそこにいるみたいだね」

 浦川くんが指さした先は、淡いオレンジの明かりが漏れる部屋だった。その部屋を覗くつもりなのか、前傾姿勢のまま滑るように先へと進んでいった。

 音を立てないように慎重についていくと、僅かに開いたドアの先に髪の長い女性が椅子に座っているのが見えた。

「スマホとにらめっこしてるのかな?」

 微かに聞き取れるくらいの小さな浦川くんの声に、私は無言のままうなずいた。

 女性は、頬杖ついたままじっとスマホだけを見ていた。なにかを操作するわけでもなく、ただ悲しさだけを滲ませた生気のない顔でスマホをにらんでいるだけだった。

「戻るよ」

 目的は果たしたといわんばかりに、浦川くんが観察の終了を告げる。数分間の観察だったけど、一つだけ言えるのは、この家と女性から幸せを感じることは一切なかったということだった。

「幸せそうには見えなかったね」

 家を抜け出して一息ついたところで、浦川くんが感想を口にする。その感想には私も同じと示すように、深く頷いて返した。

「なんか、散らかったキッチンや部屋を見た時、ひどく寂しい感じがしたんだよね。なんというか、誰も訪ねてこない牢獄みたいな冷たさが漂ってるみたいだった」

 浦川くんの隣に並んで、私なりの感想を口にする。見た目は羨ましい限りの家だったのに、その実態は見てはいけないものを見たような感じさえもあった。

「お金持ちだからといって、必ずしも幸せとは限らないってことはわかった。となると、次は別の方向で探す必要があるね」

 帰り道、互いの感想を確認しながら浦川くんが次の予定を立て始める。本当は、この奇妙な冒険は一度限りと決めていたけど、また次も浦川くんと探してみたいという気持ちが強くなり、次の予定も受け入れることにした。

「じゃ、またね」

 きっちり家まで送り届けてくれた浦川くんが、去り際に手をふってきた。

――またね、か

 闇に消えていく浦川くんに手をふり返しながら、久しぶりに誰かと次の約束を交わしたことに、私のテンションは奇妙なほど高まり続けていた。