昨夜のことで混乱していた私は、ぐちゃぐちゃにかき乱された感情のまま朝を迎えることになった。

 昨夜のことがまるで夢のようで、でも、リアルに浦川くんの悲しい眼差しが脳裏に残っているせいか、私はいつも以上に落ち着かない気持ちのままリビングに顔を出した。

「今日の調子はどう?」

 慌ただしく朝の仕事をこなすお母さんが、少しやつれた顔で声をかけてくる。私と同じショートカットで小柄なお母さんは、この一ヶ月で嘘みたいに老けこんでいた。

「今日、学校に行ってみる」

 迷いながらも、吐き気をおさえて声を絞り出した。本当ならリビングに行くことさえ億劫だったけど、今日はどうしても学校に行って浦川くんに昨夜のことを確認したい気持ちが勝っていた。

「そう、無理しなくて大丈夫だからね」

 久しぶりに見たお母さんの笑顔が、朝日を受けて輝きだす。昨夜の口論を知っているだけに、ちょっとだけ気持ちが軽くなった気がした。

 といっても、身支度する間に震える手は止まらなかったし、何度も嘔吐しかけてトイレにかけこむのは相変わらずだった。

 ――大丈夫、確認するだけだから

 すっかり弱気になった私は、鏡に映る病的に青白い自分の顔に何度も言い聞かせた。こんな弱気で学校にたどり着けるか不安だったけど、今の私を奮い立たせる動機は、浦川くんに会う以外になにもなかった。

 靴を履くだけで全身冷や汗に包まれた私は、よろけながら家を出た。夏を間近に控えた朝日は既に強烈で、いつもの目眩がすぐに襲ってきた。

 ――大丈夫、大丈夫だから

 今にも倒れそうな体を引きずりながら、通い慣れたはずの通学路をなめくじみたいなスピードで歩いていく。なにもない田舎町にあるのは、田園風景と古い家ぐらいだ。その殺風景な世界を、なんで私だけがこんな目にあうのかと呪いながら歩き続けた。

 やがて、制服の集団が目につき始め、私の緊張と恐怖は、一歩歩くごとに高まっていた。

 ――見ない見ない

 すぐに顔を伏せて、周囲の視界を強制的に狭くする。まるで、みんなが私を見ているみたいで、しかも、なにかこそこそ言ってるような気がして、耐え難い吐き気が胃の底から喉へと突き上げてきた。

 ――大丈夫、大丈夫だから……

 学校が見えてきたのに、私の足は動いていないみたいに景色が変わることはなかった。一度立ち止まり、空を仰いで深呼吸しながら自分に言い聞かせ続けた。

 既に大半の気力が削がれたまま、人気が少なくなった玄関を抜け、三階にある教室に向かう。あちこちで楽しそうな笑い声が聞こえ、その声に胃が反応するのを無理矢理おさえて教室のドアに手をかけた。

 一ヶ月ぶりに入る教室。なにも変化はなかった。私の空っぽみたいな机はそのままだったし、クラスメイトにも変化はなかった。

 ただ、みんなが一斉に私を不審者でも発見したかのように、奇異の視線を向けてきた。特に綾瀬さんが率いるグループは、すぐに輪になってあからさまに私を指さしてきた。

 予想はしていたけど、想像以上に異物のような扱いをされることに、私は恐怖と息苦しさで再び目眩に襲われた。倒れこむように椅子に座ると、薄くなった意識のままひたすら窓の外の空だけを眺めることにした。

 ホームルームが終わり、朝のざわめきが息を吹き返していく。みんなの話題は間違いなく私のことだろう。そう考えるだけで、なんだか悲しくて悔しくて、目が熱くなることにすら苛立ちがあった。

 やっぱり来るんじゃなかった。そう判断し、帰ろうと決意したところで、いきなり肩を叩かれた。見ると、すらりと背が高い浦川くんが無表情で私を見下ろしていた。

「なに?」

 必死に声を絞り出して言えたのはそれだけだった。けど、浦川くんは私の問いに答えることなく、教室を出ていった。どうしていいかわからなくなったけど、みんなが私を見ていることに気づいた瞬間、私は逃げるように教室を飛び出した。

 廊下に出ると同時に肩で息をするはめになった私は、仕方なく少し前を歩く浦川くんのあとを追いかけることにした。

「ねえ、どこに行くの?」

 無言で歩く浦川くんの背中に問いかけたけど、浦川くんはふりむくことも答えることもなかった。

 ――ほんと、なんなんだろう

 みんなの視線の圧力から解放されたことで少し気が楽になった私は、急にこの状況のおかしさに戸惑いを感じた。

 目の前には、昨夜突然現れた同級生がいて、なにも言わずにどこかへ連れていこうとしている。もうなにがなんだかわからなくなったけど、それでもなにかが起こりそうな予感だけは否応なしに感じていた。

 結局、無言のまま行き着いた先は屋上だった。立ち入りは禁止されているのに、なぜか鍵を持っている浦川くんは、まるで家に帰るみたいに屋上へ足を踏み入れた。

 恐る恐るあとに続いた私は、急な日差しに目を細めながらも、優しく撫でてくる風にちょっとした解放感を味わうことができた。

「四万八千人」

「え?」

 屋上を囲うフェンスに手をかけた浦川くんが、ようやく私に顔を向けて声をかけてきた。

「この町の人口。意外と県内では多いそうなんだ」

「そ、そうなんだ……」

 なんの話をしているかと思ったら、まさかの町の人口数だった。どう反応していいかわからなくなった私は、気の抜けた声をもらすことしかできなかった。

「あの、一つ聞いてもいい?」

 私のことなどおかまいなしに、気持ちよさそうに風を受けている浦川くんに、私は意を決して昨夜のことを切り出した。

「昨日の夜、うちに来ていたよね? なにしていたの?」

「泥棒」

 拍子抜けするくらいにあっさりとした答えに、私は売れない芸人みたいにぎこちなくずっこけそうになった。

「泥棒って、どうして?」

「お父さんに頼まれたから」

 悪びれた様子もなくあっさりと答える浦川くんに、いつもの頭痛以外の頭の痛みに襲われるはめになった。

「頼まれたからって、いつもそんなことしてるの?」

「そうだよ」

「そうだよって、泥棒は悪いことだよね?」

「そうなんだ」

 無表情のせいでわかりづらいけど、どうやら浦川くんは色々と抜けているタイプみたいだった。言葉から悪気を感じないのは、本気で悪いことと思っていないからだろう。

「でも、篠田さんも学校に来てないよね?」

「え?」

「それはいいこと? 悪いこと?」

「それは悪いことだけど――」

 いきなり痛いところをつかれた私は、上手く言葉が出なくなってしまった。

「なら、一緒だね。よかった」

 どう話をするか迷っていたところに、急に浦川くんがはっとするような笑顔を向けてきた。

 その瞬間、初夏の暑さを跳ね返すくらいに一気に全身が熱くなり、呼吸ができないくらいに心臓がはね上がっていった。