夕暮れが迫った駅の構内には、ちょうど改札を抜けていく浦川くんと、それを見送るみんなの姿があった。

 恐怖心で足がもたつくなか、追いかける私の前に立ちはだかったのは、やはり綾瀬さんだった。

「迷惑だって言ったよね」

 私を見つけるなり、進路は阻むように仁王立ちした綾瀬さんが、腕を組んだまま睨みつけてくる。すぐに取り巻きの人たちも寄ってきたから、私は完全に囲まれる形になってしまった。

 ――大丈夫、落ち着いて

 怖くて逃げ出しそうになる自分を落ち着けながら、汗ばんだ手を握りしめて綾瀬さんを真っ直ぐに見据えた。

「綾瀬さん、二人だけで話をしたいの」

 ふるえる声を絞りだして、私はその場からゆっくりと離れた。時間に猶予はなかったけど、この問題を解決しない限り前に進めないことはわかっていた。

「なに?」

 二人だけになったところで、綾瀬さんが苛立ちを隠すことなく声をあげた。

「私ね、綾瀬さんと友達になれたこと、本当に嬉しかったんだ」

 全身に力を入れ、倒れそうになるのを堪えながら、私は覚悟を決めた。

「そんなこと言われても迷惑なんだけど」

「わかってる。本当は綾瀬さんが私を馬鹿にする為に近づいてきたってことは、私もわかってる」

「だったらなに? まさか謝れとか言うつもり?」

 冗談じゃないとばかりに、綾瀬さんが笑い声を上げた。その様子を見て、私は浦川くんがくれた切り札を使うことに決めた。

「謝ってほしいとかじゃないの。私、綾瀬さんと仲良くなれたことが嬉しかったのは間違いないから」

「じゃあ、なんなの?」

「ただ、こういうことはもうやめてほしい。綾瀬さん、本当は剣崎くんのことで悩んでいて、その苛立ちを私にぶつけてるたけなんでしょ?」

 一度深呼吸して、私は綾瀬さんの急所を思いっきりついた。

「なにを言って――」

 私の言葉が予想外過ぎたのか、綾瀬さんは勝ち誇った顔から一転して狼狽し始めた。


「私にはわかってるから、誤魔化す必要はないよ。ただ、綾瀬さんの問題は自分で解決してほしいの。これ以上、私にぶつけられても、私にはどうすることもできないから」

 勇気をふりしぼり、私は最後の言葉を伝えた。その瞬間、ちくりと胸が痛んだけど、それ以上に、こびりつくように胸にまとわりついていたなにかが消えていくのを感じた。

「私、行くね」

 涙目になってふるえる綾瀬さんに声をかけて、足早にその場を立ち去る。綾瀬さんはなにか言いたげだったけど、結局私を黙って見送ってくれた。

 ――急がなきゃ

 綾瀬さんに言いたことを言えて体が軽くなったせいか、不思議と足どりからも重さが消えていた。奇異な視線に感じていたみんなの視線も気にならなくなり、私は急いで見送り用のキップを買ってホームへ向かった。

 ――浦川くん!

 長い階段の先に、見慣れた浦川くんの姿があった。その姿を見た瞬間、嬉しさと緊張が一気に押し寄せてきた。

 ――ちょっと、え?

 嬉しさのあまり、鼓動が跳ね上がった瞬間だった。階段に足を伸ばしたところで突然襲ってきた目眩に、慌て手すりにしがみつくように倒れこんだ。

 ――なんで、こんな時に

 気持ちを落ち着けながら、何度も深呼吸をして目眩がおさまるのを待つ。気が抜けたところで緊張したせいか、目眩は一向におさまる気配がなかった。

 ――大丈夫、落ち着いて

 腕時計を見ると、発車の時刻が刻一刻と迫っていた。なんとか手すりにしがみついて階段をおりようとするけど、鉛のように重くなった足は全くいうことを聞いてくれなかった。

 ――浦川、くん

 諦めと絶望が一気に押し寄せてきて、心が挫けそうになった。けど、浦川くんに会いたい気持ちをバネに自分を奮い立たせることで、なんとか目眩をのりきることができた。

 ――急がないと

 焦る気持ちで電車を待つ列をよけながら、浦川くんのもとへかけていく。いざ浦川くんを前にして、また緊張が襲ってきたけど、ふりきるように浦川くんの名前を呼んだ。

「篠田さん! 来てくれたんだ」

 ちょっと暗い横顔をしていた浦川くんは、私の声に気づくと驚いた表情を浮かべた。

「私ね、どうしてもお礼が言いたかったから」

 心臓が口から出そうなくらい息切れしながらも、なんとか言葉をつなげていく。本当は色んなことを話したかったけど、上手く頭が回らなかった。

「僕も、篠田さんにお礼を言いたかったんだ。あの時、僕の背中を押してくれてありがとう」

 淀みのない笑顔を浮かべる浦川くんに、一瞬で息が詰まる。改めて浦川くんを目の前にして、私は浦川くんのことが好きなんだと実感した。

 なにか話さないと思いながら空回りする中、ホームにベルの音が響き渡り、列車がゆっくりと滑り込んできた。

「浦川くん。私ね、ちゃんと学校に行くことにした」

 ようやく声に出せたのは、私なりの決意だった。声が裏返ってうまくつたわらなかったはずなのに、浦川くんは「よかったね」と嬉しそうに目を細めてくれた。

「だから、浦川くんも泥棒をやめて東京ではちゃんと頑張ってほしい」

「わかった、約束するよ」

「それと、これ」

 乗降口のステップに立った浦川くんに、ポケットの中で握りしめていたメモを差し出す。中身は、迷いながらも書いた私のスマホの番号とメアドだった。

「ありがとう。お母さんに頼んでスマホを買ってもらったら、連絡するよ」

 浦川くんは手にしたメモを大切そうにポケットにしまうと、急に真顔に表情を変えた。

「篠田さん、僕ね――」

 なにかを思い詰めたように口を開いた浦川くんだったけど、その声は発車のベルにかき消され、無情にもドアが閉まってしまった。

 ゆっくりと動き出す電車。ドアの窓越しになにかを伝えようとしている浦川くんの姿を見て、私は追いかけるように走りだした。

 堪えきれずに流れ出し涙も拭うことなく、私は胸の中からあふれる感情に任せて、懸命に浦川くんの姿を追い続けた。

 ――浦川くんと仲良くなれて、本当によかったよ

 遠ざかる浦川くんの姿を目に焼きつける中、二人で過ごした日々が頭の中によぎっていく。

 なにもない絶望の日々の中で、浦川くんがくれた温もりだけが救いだった。


 だから、今ならわかる。

 どんなに辛い時でも、誰かが傍にいて自分を想ってくれるなら、自分を変えることができるということを。

 それを教えてくれたのも、他ならぬ浦川くんだった。

「浦川くん……、本当に、ありがとう」

 夕暮れの町並みに消えていく電車を見つめながら、私は耐えきれないほどの喪失感に襲われながらも、力一杯手をふり続けた。