いつものように窓を少しだけ開けて空を見上げると、満月の淡い光が暗い部屋にいる私を優しく包んでくれた。
部屋に引きこもるようになって始めた月の観察は、これで約一ヶ月続いたことになる。別にそれに意味があるわけではないけど、なにもなくなってしまった私にとって唯一残された日課のようなものだった。
そんなもぐらみたいな私は、中学三年生の夏を前にして突然不登校になった。
理由は、本当に些細なことだった。
何気ないクラスメイトとの会話。その中で盛り上がった恋愛話。苦手だった私も、恥ずかしさを懸命に堪えて胸の内を明かした。
けど、みんなの反応は冷ややかだった。クラスでも中心的な存在の綾瀬美樹の一言で、私の世界は崩壊した。
『え? 菜々美って恋愛できるとか思ってるの?』
笑いながら放たれたその一言の意味を、私は上手く理解できなかった。けど、周りにいたみんなの馬鹿にした笑いと哀れむ眼差しによって、私の存在が綾瀬さんにどう扱われているかを知ることになった。
その日を境に、私は朝起きれなくなり、学校に行こうとすると極端な目眩と吐き気に襲われ続けている。
おかげで、高校受験を控えた大切なこの時期に、私は不登校児という全く予期していなかったレッテルを貼られることになった。
――まだやってるよ……
日課の月の観察を終えてベッドに戻ると、再びリビングから両親の声が聞こえてきた。日付が変わる前から始まった話は、日付が変わる頃には口論となり、今もその勢いは収まりそうになかった。
その口論の原因は、もちろん私だ。不登校になった私をどうするかで、ほぼ毎日お父さんとお母さんは喧嘩を繰り返していた。
――わかってるんだけどね
どんなに耳をふさいでも聞こえてくる二人の声。なんとかしてでも学校に行かせたいお母さんと、無理矢理はよくないと擁護するお父さんの声。決して交わることのない二人の声は、平行線のままどちらも私の胸に深く食い込んでいた。
もちろん、お母さんの意見もお父さんの意見もよくわかっていた。このままでは高校受験は危ういし、そうなるとさらに自分が惨めで苦しくなることは簡単に想像できる。
でも、私にはどうしたらいいかわからなかった。無理して学校に行ったとしても、目眩と嘔吐に苦しむだけだろうし、だからといってこのままでいいとも思っていない。なんとかこの状況を脱出したいとは思うけど、どうしたらいいのか、どう考えたらいいのかわからないというのが今の私だった。
タオルケットを頭からかぶり、ひたすら両親の声が消えるのを願う。胸につき刺さる一言一言によって鼓動は乱され、今すぐ嘔吐したい気持ちをおさえながら、ただひたすら涙を拭う作業に没頭した。
そんな、人生で全く意味をなさない作業をしてる中、私は天変地異が起きるくらいのショックに突然見舞われるはめになった。
――え? 誰か、いる?
いつの間にか僅かに開いていたドア。その隙間からもれてくる光の中に、確かに人の形をしたシルエットが浮かび上がっていた。
――うそ、っていうか、誰?
発作のようなパニックに襲われながら、両膝を抱いたまま意識をドアの隙間に集中させる。両親はまだリビングで口論中だし、たった一人の弟は家に嫌気がさしておばあちゃんの家にいっているから、光に浮かぶシルエットは家族以外の誰かということしか考えられなかった。
――まさか、泥棒?
家族以外の誰かとなれば、次に考えられるのは第三者による侵入だった。
だとしたら、すぐに声を上げて両親にこの異常事態を伝えないといけない。
そう思い、恐怖と緊張で固まった姿勢のまま、震える手を力一杯握りしめて悲鳴を上げようとした。
けど、その悲鳴は喉のところで急ブレーキがかかった。
突然、全開になったドア。その先にはっきりと現れた姿に、私は文字通りに声を失った。
――え? 浦川くん?
淡い光を受けて廊下に立つシルエット。上下黒のジャージ姿のその人は、間違いなく同じクラスの浦川光だった。
――ちょ、え? どういうこと?
突然現れた同級生に、私の思考は一瞬でショート寸前となった。それでも、なにか言わないといけないと思ったけど、さっきの悲鳴が喉に蓋をしているみたいに声が出ることはなかった。
「篠田さん――」
この状況にパニックになる私と正反対に、やけに落ち着いたままの浦川くんがゆっくりと口を開いた。
「幸せってなんだろうね」
唐突にささやかれた言葉。その言葉の意味を全く理解できない私は、ただ浦川くんの顔を眺めることしかできなかった。
短く刈り込んだ髪に、端正な顔立ち。クラスではあまり表情を見せないけど、だからといって暗い人でもない。人をよせつけない独特のオーラが、かえって人を惹きつけるかのように、浦川くんは一部の女子には人気があった。
一言で言えば、不思議な人。そんな浦川くんが目の前にいる。ただ一つ普段と違うのは、ひどく寂しくて悲しい表情をしていることだった。
結局、会話も始まることなく別れは唐突に訪れた。口論が終わって動き出した両親に気づいた浦川くんは、一度だけ悲観に満ちた瞳を私に向けた後、慣れたような動きで闇に消えていった。
部屋に引きこもるようになって始めた月の観察は、これで約一ヶ月続いたことになる。別にそれに意味があるわけではないけど、なにもなくなってしまった私にとって唯一残された日課のようなものだった。
そんなもぐらみたいな私は、中学三年生の夏を前にして突然不登校になった。
理由は、本当に些細なことだった。
何気ないクラスメイトとの会話。その中で盛り上がった恋愛話。苦手だった私も、恥ずかしさを懸命に堪えて胸の内を明かした。
けど、みんなの反応は冷ややかだった。クラスでも中心的な存在の綾瀬美樹の一言で、私の世界は崩壊した。
『え? 菜々美って恋愛できるとか思ってるの?』
笑いながら放たれたその一言の意味を、私は上手く理解できなかった。けど、周りにいたみんなの馬鹿にした笑いと哀れむ眼差しによって、私の存在が綾瀬さんにどう扱われているかを知ることになった。
その日を境に、私は朝起きれなくなり、学校に行こうとすると極端な目眩と吐き気に襲われ続けている。
おかげで、高校受験を控えた大切なこの時期に、私は不登校児という全く予期していなかったレッテルを貼られることになった。
――まだやってるよ……
日課の月の観察を終えてベッドに戻ると、再びリビングから両親の声が聞こえてきた。日付が変わる前から始まった話は、日付が変わる頃には口論となり、今もその勢いは収まりそうになかった。
その口論の原因は、もちろん私だ。不登校になった私をどうするかで、ほぼ毎日お父さんとお母さんは喧嘩を繰り返していた。
――わかってるんだけどね
どんなに耳をふさいでも聞こえてくる二人の声。なんとかしてでも学校に行かせたいお母さんと、無理矢理はよくないと擁護するお父さんの声。決して交わることのない二人の声は、平行線のままどちらも私の胸に深く食い込んでいた。
もちろん、お母さんの意見もお父さんの意見もよくわかっていた。このままでは高校受験は危ういし、そうなるとさらに自分が惨めで苦しくなることは簡単に想像できる。
でも、私にはどうしたらいいかわからなかった。無理して学校に行ったとしても、目眩と嘔吐に苦しむだけだろうし、だからといってこのままでいいとも思っていない。なんとかこの状況を脱出したいとは思うけど、どうしたらいいのか、どう考えたらいいのかわからないというのが今の私だった。
タオルケットを頭からかぶり、ひたすら両親の声が消えるのを願う。胸につき刺さる一言一言によって鼓動は乱され、今すぐ嘔吐したい気持ちをおさえながら、ただひたすら涙を拭う作業に没頭した。
そんな、人生で全く意味をなさない作業をしてる中、私は天変地異が起きるくらいのショックに突然見舞われるはめになった。
――え? 誰か、いる?
いつの間にか僅かに開いていたドア。その隙間からもれてくる光の中に、確かに人の形をしたシルエットが浮かび上がっていた。
――うそ、っていうか、誰?
発作のようなパニックに襲われながら、両膝を抱いたまま意識をドアの隙間に集中させる。両親はまだリビングで口論中だし、たった一人の弟は家に嫌気がさしておばあちゃんの家にいっているから、光に浮かぶシルエットは家族以外の誰かということしか考えられなかった。
――まさか、泥棒?
家族以外の誰かとなれば、次に考えられるのは第三者による侵入だった。
だとしたら、すぐに声を上げて両親にこの異常事態を伝えないといけない。
そう思い、恐怖と緊張で固まった姿勢のまま、震える手を力一杯握りしめて悲鳴を上げようとした。
けど、その悲鳴は喉のところで急ブレーキがかかった。
突然、全開になったドア。その先にはっきりと現れた姿に、私は文字通りに声を失った。
――え? 浦川くん?
淡い光を受けて廊下に立つシルエット。上下黒のジャージ姿のその人は、間違いなく同じクラスの浦川光だった。
――ちょ、え? どういうこと?
突然現れた同級生に、私の思考は一瞬でショート寸前となった。それでも、なにか言わないといけないと思ったけど、さっきの悲鳴が喉に蓋をしているみたいに声が出ることはなかった。
「篠田さん――」
この状況にパニックになる私と正反対に、やけに落ち着いたままの浦川くんがゆっくりと口を開いた。
「幸せってなんだろうね」
唐突にささやかれた言葉。その言葉の意味を全く理解できない私は、ただ浦川くんの顔を眺めることしかできなかった。
短く刈り込んだ髪に、端正な顔立ち。クラスではあまり表情を見せないけど、だからといって暗い人でもない。人をよせつけない独特のオーラが、かえって人を惹きつけるかのように、浦川くんは一部の女子には人気があった。
一言で言えば、不思議な人。そんな浦川くんが目の前にいる。ただ一つ普段と違うのは、ひどく寂しくて悲しい表情をしていることだった。
結局、会話も始まることなく別れは唐突に訪れた。口論が終わって動き出した両親に気づいた浦川くんは、一度だけ悲観に満ちた瞳を私に向けた後、慣れたような動きで闇に消えていった。