「確かに奈々美ちゃんの立場だったら、自分が何も覚えていないのはとても怖いことだと思う。憶測でしかないけれど、私なら奈々美ちゃんほど冷静でいられないと思う」
「……」
「でも、だからって自らを危険に晒してまで思い出そうとするなんて、私はそれが正しいとは思えない」
きっと、何が正解なのかは誰にもわからない。
だから、私の思いも間違いではないし、立花さんのその意見も間違いではない。
「けど、東海林先生の言う通り、奈々美ちゃんの心の中は誰にもわからないし、当事者にしかわからない葛藤や苦しさがある。どう足掻いたって私にはそれが本当の意味では理解できないし、共感することは難しい」
東海林先生も立花さんも、私のことを思っての言葉だとわかるから、私もそれは素直に受け止められる。
でもそれがわかるからこそ、私は"自分がとんでもないわがままを言っている"ということもちゃんと理解しているつもりだ。
「だからこそ、私はそんな奈々美ちゃんのような患者さんの力になりたい」
「……立花さん」
「……私が言いたいのは一つだけ。記憶に関することは、私が付き添いする。他の看護師じゃなくて、私が一緒に行ける時だけにして」
その言葉に、正面を向いていた顔を思わず後ろに勢い良く向けた。
「二週間に一度だけ。それなら私も奈々美ちゃんの記憶を取り戻すために協力する。その代わり、リハビリにも一切手を抜かないこと。カウンセリングも大切だから、しっかり受けること。必ず一人では行かないって、約束してね」
困ったように微笑んだ表情は、"こうなった奈々美ちゃんには何を言っても無駄だ"と諦めた後のようなもので。
「……東海林先生も立花さんも、本当に優しすぎるよ」
その優しさが、今の私にとってどれだけ心強くて嬉しいものか。
涙が滲みそうになり、鼻を啜りながら上を向く。
天井の照明の眩しさに目を細めているうちに思わず零れ落ちた笑み。
立花さんもつられるように小さく笑って、そんな穏やかな空気のままゆっくりと病室に向かった。
病室には美優ちゃんと龍之介くんの姿は無く、ベッドに戻ったところで立花さんは病室から出て行った。
私は引き出しからノートを取り出し、今東海林先生と立花さんと話した内容をつらつらと書いていく。
"記憶を取り戻すためには、引き金が必要"
"私の場合は、それは風なのではないか"
"二週に一回、立花さんに協力してもらう"
"カウンセリングって、いったい何をするのだろう"
左手で文字を書くことにも大分慣れてきたためか、 最初の数ページと比べるとその変化は歴然としていた。
"東海林先生と立花さんは、優しすぎるくらいに優しい"
"でも優しいで言ったら、龍之介くんも美優ちゃんも同じくらい優しい"
そんなことを書いて、ノートを閉じて再び引き出しの中にしまう。
「……ふわぁ……、早起きしすぎたかな……」
病室には誰もいないけれど、なんとなく下を向いてあくびにより大きく開く口元を隠す。
どうせ二人もいないし、ちょっと寝よう。
ゆっくりとベッドに横になると、すぐに眠りに落ちた。
─────
───
─
"奈々美、お母さんとお父さんね、また海外にお仕事に行かないといけないの。何かあったら二軒隣のおばさんにお願いしておいたから、相談してね"
"また行っちゃうの?いつ帰ってくるの?"
"わからないの。長期の出張になりそうだから、お金は定期的に振り込んでおくからね"
"奈々美。ごめんな。でも大切な仕事なんだ。お前を苦労させないためだから、わかってほしい"
"お父さん……"
そんなに海外に頻繁に行くのであれば、もう海外で暮らせばいいのに。
わたしも海外に連れて行ってくれればいいのに。
そうしたら、ずっと一緒にいられるのに。
どうしてこうなっちゃうんだろう。
どうして、わたしは二人に連れて行ってもらえないのだろうか。悪いことをしたのだろうか。
"わたしも行きたい。お父さんとお母さんと一緒に行きたい"
そう告げても、二人は薄く笑うだけで、わたしを連れて行ってはくれなかった。
"待って!待ってよ!"
何度叫んでも、二人は止まってくれない。
わたしは、また一人ぼっちになってしまった。
─
───
─────
あ、れ……?
ふと目が覚めて気が付いた時。
私は疑問を抱きながらまだ暗い室内の中で、白い天井を見つめた。
「今の……なんだろう」
夢?二人の男女がいて、その二人に必死に手を伸ばしていたのは誰?
「……もしかして、あれが私?」
勢いよく起きあがろうとして、腕にピキッと痛みが走る。
「っ……、それよりっ」
腕を庇いながら引き出しを開け、そこからノートを取り出す。
簡易ライトを付けて、足元にあったテーブルを引き寄せて鉛筆を持った。
「え、っと……」
感情が昂って、心臓がうるさく鳴り響く。
もし、もしも。あれが私の記憶の一部なのだとしたら。
私にとってはとても重要なもの。
今見た夢の内容を忘れないうちに書こうと鉛筆を走らせる。
「あれ……?」
しかし、やはり夢だからか覚えているところと覚えていないところがあり。
ノートには断片的な内容しか書くことができなかった。
不完全燃焼な気持ちを抱えながらもノートを閉じて、ライトを消してから再びベッドに寝転がる。
まだ夜だし、もう一度寝たら同じ夢を見られるだろうか。……それは流石に無理か。
わかっていながらも期待をせずにはいられない。
いちかばちか。もう一度目を閉じて、夢の中へ沈んでみようと試みた。
「……寝れない」
しかし、目が冴えてしまって寝られそうもない。
仕方なくもう一度起き上がり、引き出しからノートを出してつい数分前に書いたページを開いた。
夢の中で見えたのは、ぼんやりとした男女の姿。
そして私らしき少女。
つまり第三者の視点から夢を見ていたわけだ。
その少女は二人の男女を"お父さん、お母さん"と呼んだ。
その顔を思い出したいのに、朧げな記憶ではそこまでははっきりとしない。
待って!と、何度も手を伸ばしていたのは覚えている。
立花さんも、私の両親は海外にいると言っていた。そこも夢と一致しているような気がする。
「……やっぱり、あれが昔の私……だったのかな……」
ぽつり、呟いてから、ノートを閉じた。
日が登って朝になってから、夢で見た話はすぐに立花さんに伝えた。
立花さんから東海林先生に伝えてくれたらしく、少し様子見してみようと言われたらしい。
少し昔の私に近付いた気がして、心臓がバクバクする。しかし頭の中ではまだ情報の整理が追いついておらず、放心状態が続いていた。
「奈々美ちゃん?」
「……ん?どうかした?」
「ううん。奈々美ちゃんこそ、ずっと考え事してるみたいだけど、なんかあった?」
美優ちゃんに不思議そうに見られて、慌てて笑って首を横に振った。
「大丈夫。外暑そうだなって思ってただけ」
「そうだねー。今日はお兄ちゃん、夏期講習だから来れないって言ってた」
「そうなんだ。そっか、夏休みでも学校あるのか……」
自分が高校に通っていた記憶が無いため、よくわからない。
心の中で頷きながら納得していると、美優ちゃんはがそういえば、と口を開いた。
「奈々美ちゃんの高校は?」
「え?」
「夏期講習とか、やっぱりあるの?」
聞かれて、一瞬返事に困って固まった。
「ていうか、そういえば奈々美ちゃんって高校どこなの?」
「え、っと……」
「私ね、お兄ちゃんと同じ高校行こうと思ってるの。そこね、陸上部がとっても強いんだ。だから私もそこで練習してみたくて」
「そ、そうなんだ……」
「うん。でもね、練習厳しいみたいでさぁ───」
内心、とても焦った。
美優ちゃんは私の高校のことなどどうでも良くなったのか、龍之介くんの通う高校の話から自分の中学の話、陸上部についての話とどんどん派生していく。
終いには
「あれ?何の話してたんだっけ?」
と明るく笑っており、私はそれに
「私も忘れちゃった」
と小さく笑った。
数日後。
「東海林先生から話は聞いています。カウンセリングと言ってもそこまで難しいことはしないから、安心してね。楽しくお話ししましょう」
「は、はい」
朝から緊張していた私は、立花さんと東海林先生に付き添われてとある個室にいた。
そこはカウンセラーが週に一度訪れて、様々な患者さんのカウンセリングをする場所。
私は今日、その初日だった。
私を担当してくれるのは、中原さんという女性のカウンセラー。
事前に立花さんにどんな人か聞き、穏やかな人だとは教えてもらっていたものの、やはり実際に会ってみるとそわそわしてしまう。
「ははっ、緊張してる?」
「はい……」
「無理もないよね。初めてのことばかりだものね」
その優しい笑顔に、私もつられて少し笑った。
中原さんとのカウンセリングは、本当にただのお話だったように思う。
特別なことは一切していない。
ただ、今日食べたものとか、昨日何をしていたかとか。リハビリはどんな感じかとか、美優ちゃんと龍之介くんと仲良くなれたこととか。
他愛無い話しかしていないものの、今日のカウンセリングはどうやら終わったようだ。
次回からは東海林先生の付き添いは無し。月に一度くらいの頻度で通うことになった。
病室に戻る途中に立花さんに聞いてみる。
「カウンセリングって、なんかこう……想像してたのと違ってびっくりした」
「カウンセリングって一口に言ってもいろいろあるからね。今日は初対面だったから、会話の中から奈々美ちゃんの性格とか話し方とか、そういうのを見てたんじゃないかな」
「あ、そういうこと?」
「私はそういうの専門じゃないからなんとも言えないけど、カウンセリングって患者の話を聞くことがメインだから、話したくなるような信頼関係が大切なんじゃないかな?まずは仲良くなることが第一なんだと思うよ」
「なるほど……」
確かに、信頼関係がなければ自分のことなんて話そうとも思わないだろう。
納得して頷いているうちに、病室にたどり着いた。
「おかえり奈々美ちゃん」
「ただいま。……あ、龍之介くん」
「おぉ、なんか久しぶりだな」
「本当だね」
そこには美優ちゃんと喋っている龍之介くんの姿があった。
ここのところずっと夏期講習で忙しかったらしく、ここには来ていなかった。
心なしか美優ちゃんも嬉しそうだ。
「じゃあ美優ちゃん、リハビリ行こうか」
「はーい。じゃあ二人とも、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
入れ違いにリハビリに向かう美優ちゃんを見送り、私は龍之介くんと二人になる。