"わたし"が死んで、"私"が生まれた日。




「立花さんから受け取ってた制服を見てピンと来た。それで、噂のことを思い出した」



女子の制服はこの辺じゃ有名だ。一目で気が付いた。


そしてあの頃学校中で噂が広がったのを思い出した。



"二年の先輩が自殺図ったって"


"マジかよ。それ誰、俺の知ってる人?"



「そもそもどこから広まった噂かわからなくて、正直知らない人だったから俺はあんまり興味も無いし本当かどうかもわからなかった」



だから、奈々美と話すようになってからもその噂の人物と奈々美は繋がらなかった。



"ほらあの可愛い先輩!いただろ!"


"は?あの先輩が!?嘘だろ!?"


"マジらしいよ?通報した人が、制服見てうちの学校名出したらしいし"


"しかもあの先輩、今入院してるらしいし"


"マジかよ……"



クラスメイトたちがそう話していたのを覚えている。



「マンションの屋上から飛び降りたけど、不幸中の幸いなのか木が上手いことクッションになってくれたから一命を取り留めたって聞いた」



薄い線が残ってしまっている奈々美の頰を指でなぞる。この傷もおそらく、木の枝で切ってしまったんだろう。




「そ、っか……噂になってたんだ……」


「奈々美の学年がどうだったかはわからないけど、結構学校自体は騒然としてたと思う」



次に俺の周りから聞こえてきた声は、困惑だった。



"いじめとか?でも可愛くて人気あったよね。そんなことあったとは思えないんだけど……"


"だよね。でも、じゃあどうしてあんなこと……"


"馬鹿だな、もしかしたら家庭の事情ってやつかもしれないだろ?きっと学校は関係ねぇんだよ"


"でも……"



飛び降りた原因を邪推する者。純粋に心配する者。


いろいろいたけれど、結局真相はわからないまま噂はそのうち何も言われなくなった。



"触れてはいけない話題"



それがいつしか暗黙の了解になっていた。


ちょうどその頃に美優が事故に遭いそれどころじゃなくなった俺は、偶然奈々美にも出会って噂のことなんてすっかり忘れてた。


……まさか、あの噂の人が奈々美だったなんて。



「……幻滅した?」


「それはしてない。どっちかって言うと普通に怒ってる」


「怒ってるの?」



頷くと、奈々美は困ったように眉を下げた。




「奈々美ともっと早く出会ってれば良かった。奈々美のことをもっと早く知りたかった。そしたら、飛び降りるなんてマネさせなかった」



でも、病院で出会わなければ、もしかしたらこんなに仲良くなることはなかったかもしれない。


こんなに助けたいと、守りたいとは思わなかったかもしれない。


ただ同じ学校の先輩としか、見なかったかもしれない。


そうだとしたら。



「あんな怪我までして、記憶まで無くして。……もっと自分を大切にしてほしい。俺はそれに怒ってる」


奈々美と仲良くなれて良かった。病院で出会えて、良かった。


そう思ってしまった俺自身に、そんな不謹慎な自分に俺は一番怒っている。



「だからこれからは、そんなこと考えなくて済むように、俺が支えてやる」


「え?」


「俺が、奈々美を守ってやる」



だから。



「一緒に行こう」



俺が、奈々美を助けるから。


驚きに揺れる瞳の奥に、確かな強い意志を感じた。





*****


病院に連絡すると、東海林先生は手術中とのことですぐに会うことは難しそうだった。


立花さんは夜勤明けで休み。


私は両親に連絡をし、美優ちゃんの病室で東海林先生の手術が終わるのを待っていた。


もちろん隣には龍之介くんがいて、背中をさすってくれる。


美優ちゃんにも記憶が戻ったことを報告した。



「奈々美ちゃん、良かった。本当に良かったね……!」


「美優ちゃんありがとう」



忘れていた記憶を取り戻した。

それだけ伝えたため、その記憶の内容までは伝えていなかった。



"美優は多分噂のことなんて知らないし、今は怪我を治すことと勉強に集中させてやりたいんだ。奈々美の記憶が戻ったって知るだけでもあいつは喜ぶと思うから"



そう龍之介くんに言われたためだ。



「あとは私が退院して、無事に受験に合格するだけだね!」


「うん。あ、そうだ。実はね、私と龍之介くん、同じ高校だったんだよ」


「え!そうなの!?じゃあ私が来年入学したら奈々美ちゃんと同じ学校ってこと?」


「うーん……もしかしたら私転校するかもしれなくて。そればっかりはまだわからないんだ」


「そうなのか?」


「うん。出席日数が足りなくて。今も休学中なんだけど、復帰してももう留年は確定してるからどうしようかなって」


「そっか……」



話しているうちに、病室のドアをノックする音が響く。


美優ちゃんが返事をすると、そっと開いたドアの向こうから東海林先生が顔を出した。




「桐ヶ谷さん」


「東海林先生」


「待たせたね。記憶が戻ったって本当かい?」


「はい。多分、全部戻りました」


「ちょっと話を聞かせてもらえるかな?」


「はい……」



龍之介くんと美優ちゃんと別れ、私は東海林先生の後ろを歩いて診察室に向かう。


その道中でお母さんが病院に着いたと連絡があり、お母さんが合流するまで待つことにした。



「奈々美!」


「お母さん」


「記憶が戻ったって!?本当!?」


「うん」


「お母さんもそちらにどうぞお掛けください」


「あ、先生。すみません取り乱してしまって。失礼します」



私の隣にある丸椅子に腰掛けたお母さんは、そっと私の肩を抱いてくれる。


東海林先生とお母さん、それから後からやってきたカウンセラーの中原さんに、思い出したことと私が自分から飛び降りたこと、その原因と今までの生活についてを順を追って説明した。


東海林先生と中原さんは難しい顔をして頷き、お母さんは何度も"ごめんなさい"と泣きながら謝っていた。



「お母さんは悪くないんだよ。私がずっとお父さんとお母さんの仕事の邪魔をしたくなくて。それで言わなかっただけ。私が弱かっただけなの」


「奈々美……」


「奈々美ちゃん、それはちょっと違うかな」


「え?」



中原さんは、私の手を取って視線を合わせる。




「奈々美ちゃんはとっても優しくて、ご両親想いで。弱くなんてなかった。むしろ、とっても強かった」


「強かった……?」


「そう。奈々美ちゃんは一人で全部抱え込んで、自分が耐えればいいって思い込んで。そうすれば我慢できてしまった。耐えられてしまった」


「……だって、それ以外の方法が浮かばなかった」


「そう。あなたはまだ子どもだったから、どうすることもできなかった。ご両親に言っても無駄だって教え込まれた。それは一種の洗脳状態だから」


「……」


「だから奈々美ちゃんはもっと強くなろうとした。人に頼る方法も、甘える方法もあまり知らなかったから」


「……そう、かも」



両親がいないことの方が多かったから、自分で立つしかなかった。たまに帰ってくる二人に心配をかけたくなくて、笑顔でいることしかできなかった。


私は両親の存在に甘えてると思っていたけれど、それは本当の意味では甘えていなかったのではないか。


「感情を殺してはいけない。言ったでしょう?」


私は、誰にも頼らず誰にも甘えることなく、自分の感情を押し殺していた。


向き合うことを恐れて、自ら放棄した。


「……頑張ったね、奈々美ちゃん」


「え?」


「頑張りすぎちゃったね。奈々美ちゃん」



中原さんの言葉が、心にスッと染み込んできた。



「もう、そんなに頑張らなくていいんだよ」


「っ……はいっ」



じわりと滲んだ涙を袖で拭う。すると



「っ奈々美……奈々美っ!」



お母さんが、耐えきれないとばかりに私を思い切り抱きしめる。



「お母さん。ごめんね。心配かけないように、迷惑かけないようにって思ってたのに。一番酷い方法で心配かけちゃった」


「謝るのは私の方なの。自分の仕事を優先してしまって、あなたと一緒の生活を蔑ろにしてしまった。お母さんが悪いのよ。奈々美は何も悪くない。だからもう謝らないで……」


「お母さん……ありがとう」



記憶よりも小さく感じるその背中に手を回す。


優しいお母さんの香りは、何よりも安心できた。




「言いたいことは全部中原さんに言われてしまったよ。桐ヶ谷さん、少しだけ検査にも付き合ってもらえるかい?」


「っ、はい」


「お母さんはその間私と少しお話ししましょう」


「……はい。お願いします」



お母さんと離れて、涙を拭いて立ち上がる。


お母さんは中原さんと一緒に部屋を出て行って、二人で何かを話しに向かった。



「なに、心配することはないよ。ちょっと話があるだけだろうから」


「……はい」



東海林先生に頷いて検査に向かった。


異常が無いとわかると、しばらくはゆっくり生活するようにと言われて今日は帰ってもいいことになった。


エレベーターで一階に降りながらスマートフォンを見ると龍之介くんから連絡が来ており、お母さんに声をかけて少しだけ病院の外で会うことに。



「奈々美」


「龍之介くん」


「どうだった?」


「うん。検査も異常無いって」


「そっか、良かった」



頭を撫でてくれる龍之介くんは、私の後ろにいるお母さんに気が付いたらしく「はじめまして、乙坂 龍之介といいます」と綺麗に挨拶をした。



「あなたが龍之介くんね?はじめまして、奈々美の母です。あなたがずっと奈々美のそばにいてくれたのよね。本当にありがとう」


「いや、俺は別に……」



照れたようにそっぽを向いた龍之介くんにお母さんは優しく微笑む。



「良かったら、お家まで送っていくわ」


「そうだよ龍之介くん、乗ってって」



車で来たらしいお母さんの提案で



「じゃあ、お願いします」



龍之介くんと一緒に駐車場に向かった。




龍之介くんのお家は私の家からもそう遠くは無くて。車で十分もいかないくらいの距離らしい。


同じ高校に通っているのも頷ける。


後部座席に並んで乗り込み、私たちが仲良くなった経緯を説明していた。



「じゃあ、龍之介くんの妹さんと奈々美が同じ病室だったの?」


「そう。それで美優ちゃんのお見舞いに来た龍之介くんとも仲良くなって」


「そうだったの。その妹さんは?」


「もうすぐ退院する予定です」


「そう。良かったわ。その妹さんにも今度お礼を言わなきゃ」


「いや、あいつは難しいことあんまりわかってないので」



たじたじになっている龍之介くんも珍しい。


笑いを堪えていると龍之介くんはじとりとした目でこちらを見ていて。それもまた面白い。



「お母さん、美優ちゃんは受験生なの。うちの高校受けるんだって。龍之介くんも同じ学校だったの」



記憶が戻って、お母さんにしゃべりたいことがたくさんあった。



「あらそうなの?すごい偶然」



そんな話をしているうちに龍之介くんのお家に着き、「今日はありがとう」とお礼を告げた。




「だから気にすんなって。俺がしたくてしてるんだから。また連絡する。……送っていただいてありがとうございました」


「ふふっ、いいのよ。これからも奈々美のことよろしくね」


「ちょっとお母さん!?」


「はい。失礼します」


「龍之介くんまでっ……もう、バイバイ」



恥ずかしさに負けて手を振って別れる。車が見えなくなるまで龍之介くんは手を振ってくれていて、そんな些細なことが嬉しかった。



「奈々美にあんなに優しいお友達ができてたなんて、お母さん知らなかった」


「私も、こんなに仲良くなれるなんて思ってなかった」


「ふふっ、奈々美が好きになるのもわかるわ」


「……えっ!?」


「あら、違うの?」


「な、にをっ」


「お母さん、彼なら賛成するからね」


「お母さんってば!?何言ってるのよ……!?」



急に何を言い出すのだろう。お母さんは面白そうに笑いを堪えながらからかってきて。


それに否定できなかったのは、確かに私の心の中に淡い気持ちが芽生え始めていたからだった。