「…はい。あ、はい、ありがとうございます」

 電話越しで社交辞令みたいな返事をしながら、目の前にいない相手に頭を下げる。

「荷物も無事に届きました」
「そう、それならよかった。それと何度も言うようだけど、食事はちゃんとしたものを食べるのよ」
「もちろん、気をつけます」
「いつでも頼っていいからね。私はあなたの母親なんだから」
「…はい。ありがとうございます」

 『母親』であるその相手にお辞儀と感謝の言葉を繰り返した後、耳元のスマホから、ツーッ、ツーッと控えめに響く。液晶一面に配置されたキーパッドに目を落としから、空を眺めてため息をつく。

 季節は春になっていた。長くも短くもないと思っていた休みもあっという間に終わり、高校二年がスタートした。高校に通うことになってから、施設での生活から逃げ出すように一人暮らしを始めたが、未だに居心地は悪いままだ。事故に遭ったあの日から、他人の死亡確率が見えるようになってから、ずっと。

 最近は日によって気温変わりやすく、校舎の中でも太陽に近いこの屋上でもまだ肌寒さが残っていた。ため息を吐ききって、再び大きく息を吸い込む。冷えた空気がまるで、罪悪感が身体を蝕んでくるかのように喉を刺してくる。飲み込むように、もう片方の手に持っていた野菜ジュースのストローを口元に運んだ。

 その後ろで鈍い金属音をたてながらゆっくりとドアが閉まる。振り返ると、足音とともに声が近づいてきた。

「こんな日に屋上来る人、他にもいたんですね」

 視界の先で、長い黒髪をふわふわと泳がせた生徒が跳ねるように駆け寄ってくる。

「ごめん、俺はもういいので」

 ため息ばかりついている時に、誰かと話をするなんて気まずいだけだ。早々と立ち去りたくて、飲みかけの紙パックを強く握って勢いよく飲み干す。が、むせて咳き込んでしまい、むしろ去り際のテンポが悪くなる。

「何してるんですか、わざわざそんな事しなくてもいいですよ」
「いや、ほんとにほんの少し飲みに来ただけだから」
「電話越しでもお辞儀するタイプなんですね」

 手元まで伸びたカーディガンで口を押さえてくすくすと笑う彼女が、お辞儀や咳き込む真似をする。その姿が可笑しくて思わず笑ってしまうが、さっきまでの自分のことだと想像して恥ずかしくなる。

「私、この春から転入してきたんです。シューズの色、私と同じ二年生だなって。良かったらこの学校、案内してくれませんか」

「学校案内なんて他にも、それこそもっと話せそうな人とか」
「人と話すのあんまり得意じゃなくて。これでも今話しかけるの、結構勇気出したんですよ」
「後ろでずっと見られてたのはむしろ気にかかるけど」
「それは、その…ごめんなさい」

 自分だって得意じゃない。その言葉は口に出る前に飲み込んで、肩で改めるようにため息を吐く。

「まあ、分かったよ。それと同じ学年なんだし敬語なんて使わなくていい」
「ほんとですか!えっと、ありがとう。それじゃあ、よろしくね」
「はいはい、かしこまりました」
「ね、私、七瀬なつせ。名前まだ聞いてなかったよね」
「伊織徹、伊織でいいよ」

 わざとらしく深々とお辞儀を返す。またひとつ彼女が笑うと、自分の心も晴れていく。あまりに偶然な出会いにも、人生は大きく変わるのかもしれない。そんな感情を握りしめながら、うっすらと曇る空を駆け下りていった。



「─で、最後、ここが図書室」

 放課後の時間をたっぷりと使って、端から端まで校舎のあらゆる場所を巡って、ようやく最後の場所。無駄に大きな空間が広がり、別世界が切り取られたかのような静寂に包まれる。

「結構大きいね」
「うちの学校はこういう所はちゃんとしてる私立だから」
「かくれんぼとかできそう」
「鬼より先に図書委員に見つかるかもな」
「この棚の本とか、杖持って魔法を唱えたら一斉に動き出しそうだね」
「見つかったらいよいよ指導室行きだけどな」

 目を輝かせる彼女をよそに、横線を引くようなに本棚を睨みつける。おもむろに一冊を手に取って、ページをパラパラとめくっていく。

「読んでた本?」

 あたりをうろうろと見回っていたはずの姿が、後ろからスっと顔を出して、肩の上から開いた本を覗く。

「いいや、ここには暇なとき、たまに来てるだけだから。どこまで読んだかも覚えてないし」

 答えながら、おおよそ半分までめくったところで、ページを戻したり少し先をめくったりを繰り返す。

「読んだ本はちゃんと覚えてないとダメだよ。…あ、それじゃあ、はい、これ」
「栞…?」

 本をめくっていた手を押さえて遮るように、ページの間に彼女の手と栞がそっと置かれる。柄も模様もない淡い青色の紙。

「その時文章の中で起きたこととか溢れてきた感情は、その時にとどめておかないと。またページを開いたときに、すぐ思い出せるように。物語が終わっても、それを刻んできた栞があれば、いつでも思い出せるんだよ」

 静寂の中で響いた声が、指先と耳を伝って全身にまで行き渡る。思わず息を呑んで、その瞳を見つめる。茜色に染められて、宙に舞い上がった埃が光を乱反射するその部屋は、まるで時間が止まっているみたいだった。目に映ったその一瞬が、憂鬱に漂っていただけの人生の中で、手を引いてくれたように思えた。

「本、よく読むの?」
「え?」
「栞、持ち歩いてるみたいだし」
「ううん、あんまり読まないんだけど、押し花作るんだ。それはほんとにただの紙切れなんだけどね。栞初心者の伊織君には、その栞からです」
「そうだな、ありがと。でも押し花って、意外と可愛い趣味なんだな」
「もう、意外ってどういうこと。じゃあ今度、ちゃーんとしたの作ってくるから」

 図書室の時計から、長針が十二時を過ぎたベルが鳴る。「もうこんな時間だね」微笑みながら本をパタンと閉じる。

「今日はありがと。今日は本はおしまい、また会った時に聴かせて」
「この本覚えてたらね」

 もとの整った本棚にそっと戻しながら苦笑した。


 この日の出会いを閉じ込めるように、本の背を撫でる。また来た時にこの本があればいつでも思い出せる。静まり返った図書室の扉を閉めて、夕日の中の階段を駆け下りていく。



【連載中】

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