店を出ると、意外と一時間も経っていなかった。あっという間に三万三千円も使い、やりたいことをクリアした。勢いが出てきた僕は、続けて以前から目をつけていた店をはしごすることにした。
 なんと、『松阪牛を食べる』『世界三大珍味を食す』を一日でクリアした。死ぬほど腹いっぱいになった。そして初めてわかったことがある。どんなに高級で美味しいものを食べても、お腹いっぱいになると苦しい。そしてやや吐き気がする。


 翌朝、以前から目をつけていた弁護士事務所に赴き、退職手続きを依頼した。対応してくれた佐藤弁護士は、まだ二十代だろうか。薄らと茶色がかった髪にパーマを当てている。僕が大事そうに会社所定の退職届と、社員証や業務用のスマホを差し出すと、弁護士は流れ作業のように受け取った。そりゃあ先方からすれば事務作業でしかない。競争社会からの落伍者から手数料を取る仕事に思い入れがあるわけもない。僕も途端に冷めながら、会社に残した僅かなわたし物は全て処分してよいという旨のサインをした。それだけだ。準備しただけあって、僅か十五分で終わってしまった。これで早速、今日対応してくれるという。今のご時世、弁護士もかなり暇らしい。有休は消化せず、退職日は今日の日付にした。長年積み重ねた四十日分の休暇が霧散するが、有休消化という中途半端な状況を二か月近く続けるほうがいやだった。最後の奉公と思い、有休を手放してでも早くフリーになりたかった。
「最後、会社に何か言っておくことありますか?」帰り際、佐藤弁護士が問いかけてきた。
 そうだな、と僕は少し逡巡した。今までありがとうございました、と綺麗に飛び立つか、全社員地獄に落ちろ、と毒づくか。そのどちらでもない気がした。
「特に、ないです」僕はつぶやいて事務所を出た。
 外は、心地よく陽が出ていた。元々陽は出ていたのだろうが、それを浴びる余裕が出たということか。
「フリーだああああ!」といきなり僕は叫んだ。傍らで通りすがりのおばさんが凝視してきたが、構わず叫び続けた。