鍵を引き渡し、退去が完了した。不動産屋と別れた僕は、しばらくアパートの前に立ち尽くした。毎日帰っていたこの場所が、もう今日から帰る場所ではないのだ。全然温かくならないエアコン、ゴキブリがひょっこりと顔を出す台所、二度ほどベッドから落ちて顔面を強打したフローリング。すべて僕の手元から離れてしまった。つい昨日まで当然のように占有していたのに。
「なにセンチメンタルになってんだよ!」
 えみが背後から頭を叩いてきた。不意打ちのため、一瞬、意識が飛んだ。突っ込みの叩き方ではない。プロレスだ。
「あんたアドレスホッパーになりたいんじゃないの? 住む場所なんかにいちいち感傷的になってたらキリがないよ」
 えみの言葉に初めて納得した。そのとおりだ。住む場所を失った悲しさではない。住む場所から解放された嬉しさを堪能すべきなのだ。
「じゃあいくよ」えみが颯爽と歩き出した。
「どこへ?」
「リッツカールトンよ」
「リッツカールトン?」
 予想外にラグジュアリーな響きのするワードが飛び出した。何度かテレビを通じて聞いたことがある、リッツカールトン。
「自分が書いたんでしょ。『高級ホテルのスイートに泊まる』って」
「そりゃ書きましたけど。でも今日とは思いませんでしたよ。昨日、ボロアパートで泊まったところでしょう? いきない高級ホテルに泊まったら頭おかしくなりますよ」
「仕方ないじゃない。善は急げ。人間、いつ死ぬかわからないんだから。突然脳卒中とか交通事故で亡くなる人が日本だけで何人いると思う? できるときにやるしかないんだよ」
 そのとおりだ。ぐうの音も出ない。そんなことを言われたら、もう従うしかなかった。僕は従順にえみのあとについていった。
 地下鉄に乗り、港区へ向かった。港区なんてラグジュアリーな街はほとんど降りたことがないが、その中で超高級ホテルに立ち入ることなんて考えもしなかった。でもリストに書いたことにより、実現するわけだ。やりたいことリストというのも素晴らしいものだ。
 リッツカールトン東京は、ミッドタウンのど真ん中にそびえたっていた。日本の中心かのようだ。おそるおそる足を踏み入れた。少なくとも入り口でつまみ出されることはなかった。
 受付に二人で押し掛けた。
「ご予約は?」美形の受付嬢が上品に応対した。