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 その日は天気が悪く、お昼を過ぎた頃から空が群青色になってきたと思ったら、下校時刻になった途端に土砂降りになってしまった。

「……最悪」

 わたしは傘立てを見て呆然としてしまった。持ってきていた傘を誰かに取られてしまったのだ。お気に入りだったのに。
 絵美ちゃんは「傘入ってく?」と言ってくれたけれど、わたしは首を振る。絵美ちゃん家とわたしの家はちょうど真逆だから。仕方がなくわたしは「購買部にビニール傘まだ残ってるかどうか見に行ってくるよ!」と言って、急いで購買部へと踵を返した。
 廊下は雨で濡れて滑りやすくなっている。気を付けないとすぐに滑って転んでしまうと、わたしは足早に歩いていたとき。

「……川くん、誰にでも優しいって、それって誰に対しても冷たいってことと一緒だよ?」

 購買部のある廊下の近くの階下で、見慣れた長い髪が、誰かとしゃべっているのが見えた。
 あれは、沙羅ちゃん?
 沙羅ちゃんは今日は掃除当番で先に帰ってと言っていたのに。わたしは思わず足を止めて、階段の後ろに回る。
 沙羅ちゃんが誰としゃべっているのかは、わたしには見えなかった。普段は穏やかな沙羅ちゃんが、明らかにチクチクとした棘を出しているのが不思議だ。
 ……なにをそんなに怒っているんだろう?

「責任を感じてるんだったら、期待させるようなことを言っちゃ駄目だよ……私も、泉ちゃんとおんなじだから、わかるもの」

 わたしの名前が出てきたのに、思わず肩がヒュンとなる。誰? 沙羅ちゃん。誰としゃべってるの?
 どうにか耳をそばだてて聞こうとしていたけれど、それは中断に追い込まれてしまった。
 階段から一年生の子たちが走っていて、階段から滑り落ちてしまったのだ。そのまま尻餅着いたのにびっくりして、沙羅ちゃんは避けてしまった。

「あの……大丈夫?」
「すみません! 大丈夫です!!」

 沙羅ちゃんが思わず手を差し出したけれど、慌てて立ち去ってしまう一年生たちの後ろから、わたしもゆっくりと階段を降りて行ったとき、沙羅ちゃんはびっくりしたように目を見開いてしまった。

「泉ちゃん? まだ帰ってなかったんだ」
「傘を盗られちゃったから、購買部まで買いに来たの。沙羅ちゃんは? 掃除終わった?」
「……うん、さっきゴミ出しが終わったから、鞄取りに行ったら帰るつもり」
「誰か、いたの?」

 わたしが聞くと、沙羅ちゃんは廊下のほうをちらっと見た。
 さっきはしゃいで尻餅ついた一年生たちが、購買部で元気に傘を買っているのが見える。でも、沙羅ちゃんがしゃべっていた相手がいたのかまでは確認が取れない。
 わたしの視線に気付いたのか、沙羅ちゃんはゆっくりと首を振った。

「……ううん、なんでもない」
「そう、なの?」

 なにか聞いちゃ駄目なことだったんだろうか。普段、沙羅ちゃんは男の子とあんまり話せない。身長をからかわれたことがあるせいで、苦手視しているからだ。滝くんみたいに沙羅ちゃんより高い男子だったらまだ大丈夫なんだけれど。
「くん」付けで呼んでいたってことは、沙羅ちゃんがしゃべっていたのは男子だと思うけれど、どういうことなんだろう。
 わたしの疑問はよそに、沙羅ちゃんはわたしの背中を押した。

「それより、早く傘を買っちゃおうよ。この雨で傘なしは、結構大変だと思うから」
「うん……」

 風もだんだん強くなってきたし、購買部の傘が売り切れてしまったらシャレにならない。わたしの疑問はひとまず喉に引っ込めて、傘を買うことだけを考えることにした。

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 水溜まりを避けて歩きたくても、雨が激しすぎて避けている暇もない。仕方がないから水溜まりをパシャンパシャンと踏みながら歩きはじめた。
 絵美ちゃんと別れて、わたしは沙羅ちゃんと並んで歩いていた。

「これだったら、本屋に行けないなあ……」
「私が貸した本、泉ちゃん全部読み終わっちゃったもんねえ」
「うん、どれも面白かった」

 他愛ない会話を繰り返しながらも、考えてしまうのは今日起こった不思議なこと、いろいろ。
 わたしは最近皆に笑われているような、とか。絵にレンくんの名前が入っていたこと、とか。
 話したくっても、そんなこと話されちゃったら沙羅ちゃんだって困っちゃうよねと、ついつい当たり障りのない話題になってしまう。

「あのさ」
「あのね」

 思わずわたしは沙羅ちゃんと顔を見合わせた。沙羅ちゃんはいつものように困ったように眉を下げる。

「泉ちゃんからどうぞ」
「いや、わたしは大したことがないから……沙羅ちゃんからどうぞ」
「じゃあ、言うね。泉ちゃん、最近学校楽しい?」

 突拍子もないことを聞かれてしまい、わたしは思わずまごついた。

「普通……かなあ?」
「そう? 最近泉ちゃんが楽しそうだから。入院して心配してたけど、すぐ普段通りになって、ほっとしてるんだ」
「そう……?」

 違うよ、退院してから、ずっと見えない男の子と話をしているだけだよ。
 そう思ったけれど、言い出したらただでさえ最近周りから変人扱いされてしまっているのに、余計に変人扱いされてしまうと、口をつぐんでしまう。
 わたしの挙動不審さはさておいて、沙羅ちゃんは傘でポンと肩を叩いて笑う。

「……うん、私は泉ちゃんが幸せだったら、それでいいなあ」
「沙羅ちゃん?」

 あまりにしみじみとした口調で言われてしまったので、わたしはどう反応すればいいのかがわからなかった。
 だって、まるでわたしが入院したことが不幸だったようなことを言うから。わたし、入院するまでそんなに不幸だった覚えがないんだけど……それとも。単純にわたしがその不幸だったことを覚えていないだけなの?
 聞いてしまいたいような、聞いたら藪蛇になってしまうような。
 結局意気地のないわたしは、聞き出すこともできずに、手を振って沙羅ちゃんと別れた。
 ひとりの家路を歩きながら、わたしはぼんやりと傘を激しく叩きつける雨音を耳にしながら、思い返す。
 普通の学校。普通の教室。地味で普通のわたしは、学校でも普通で目立たない女子だった……と、思う。図書館が好きで、前も図書委員だったからという理由で図書委員に指名されて。
 ……たしかにパッとしないけれど、これのどこが不幸なのかがわからない。いや、思い出せない。

「わたし、そんなに大事なことを忘れてるのかなあ……」

 記憶喪失だと言われてはいるけれど、不都合なことを忘れてしまっている自覚がなかったら、ただ事故に遭っただけなんだ。