好きな人がいることにした。

****

 日曜日になったら、近場だけでなく遠方からのお見舞い客が増えて、たくさん席のあるはずの食堂だって混雑してしまう。
 だからわたしは沙羅ちゃんや絵美ちゃんと食堂で勉強するのを諦めて、ナースのお姉さんから来客用の椅子を借りてきて、わたしのベッドの周りで勉強をはじめた。
 案の定、数学は一日進んだだけでちんぷんかんぷんになってしまい、沙羅ちゃんに丁寧に説明してもらわなかったら、もう授業をドロップアウトしてしまうところだった。

「以上……これでわかったかな?」
「うーん、なんとか……」

 普段は優しい沙羅ちゃんも、勉強を教えるときはスパルタだ。わたしがヘロヘロになって教科書を閉じたとき、ようやく笑ってくれた。

「うん、これだったら、次の小テストも大丈夫だよ」
「考えたくない……もうちょっとしたら検査して、退院だけれど……」
「なら授業に遅れることもないから、大丈夫でしょう?」
「そうなんだけど……」

 スパルタっ。わたしがそう思いながら唇を尖らせていたら、絵美ちゃんが「それじゃさっさとノートを写しちゃってね」と日本史と化学のノートを広げるので、それらもひいこら言いながら写し終えた。
 それにしても。わたしはノートを写しながら、ときどき耳を澄ませる。
 今日も来るって言っていたはずのレンくんは、今はいないみたいだった。声しか聞こえないから、わからないんだけれど。
 わたしがときどきノートを取る手を止めて、ちらちらと入り口を気にするのに、絵美ちゃんが「なあに、泉?」と笑う。

「えっ……なに?」
「誰か待ってるの?」

 そう言われて、わたしは思わず顔を上げる。まさか見えない男の子がいないかなと探しているなんて言えないし、そもそも見えない男の子の説明なんて、わたしだってできない。
 だからわたしは精一杯嘘をつくしかできなかった。

「お母さん。もうちょっとしたらギブス取ってもらって、退院処理するから」
「そっかあ……もうちょっとしたら、なんだよね」

 絵美ちゃんは納得したように頬杖を突きながら、わたしがノートを取れた部分に視線を落としていた。
 逆に沙羅ちゃんは困ったように眉を下げる。

「じゃあ、私たち、そろそろ帰ったほうがいい? 退院の準備するときに、邪魔でしょう?」
「ううん、今日は人が多いから、退院の処理ができるのは夕方まで時間がかかっちゃうんだって。だから、ノートを全部写すくらいはできるよ」
「そう? ならいいんだけど」

 そう納得してくれたのに、わたしはほっとする。まさか、レンくんのことなんて言える訳もないから。見えない男の子の声を聞いたせいで、入院日が伸びたことなんて。
 わたしがそう思いながらノートをどうにか写し終えると、絵美ちゃんが「そういえばさあ」と口を開くので、わたしはノートを閉じる。

「なに?」
「退院したらさ、泉。図書委員の当番、大丈夫?」
「えっと……大丈夫だけれど、どうして?」
「どうしてって、だって」

 絵美ちゃんが気を遣いながら口を開こうとするけれど、それより前に沙羅ちゃんが「絵美ちゃんっ!」と肘鉄をしてきた。
 えっ、なに?

「あの……なにかあった? 図書委員は、いつものことだから大丈夫なんだけれど」
「ううん。泉ちゃん、いっぱい体打ったあとだから、肉体労働は大丈夫かなと思っただけで」
「あー……しばらくは診断書出すから、体育の授業は休みになると思うけれど、それ以外は無理な運動さえしなかったら大丈夫だって先生が言ってた」

 わたしは答えながらも、沙羅ちゃんと絵美ちゃんの言葉にひたすら首を傾げていた。別に変なことはひと言もなかったと思うけれど。
 あと図書委員。わたしが入院してしまった日は、ちょうど当番日だった。当番を一日休んでしまって迷惑かけてないかなと心配したけど、それ以外は特になにもなかったはずだ、多分。
 わたしが訝しがっていたら、絵美ちゃんはトントンとわざとらしくノートを畳んでテーブルを突いてから、鞄にしまい込む。

「それじゃ、私たちもそろそろ帰るから! 明日はちゃんと学校来てね!」
「え? うん。わかった。本当にノートありがとう」
「いいのいいの! じゃあ沙羅も行こう!」
「うん。泉ちゃんまたね」
「またね」

 慌ただしくふたりが出て行ってしまったので、わたしはぱちくりとしながらふたりの背中を見送った。
 なんだろう、ふたりともなにか隠してるような……。そう思ってみたものの、ふたりしてわたしを騙しても、特になにもいいことはないような気がする。
 気にしない方がいいのかな。そう思いながら取り終えたノートを鞄に入れて、お母さんが来るまで沙羅ちゃんの貸してくれた本を読みはじめた。
 食前食後、消灯前に読んでいたら、なんだかんだいって薄い文庫はあと一冊で読み終わるところまで読み進めていた。これなら、月曜日に学校行ったときには本は返せるだろう。
 わたしがパラリとページをめくった、そのとき。

「あれ、また本読んでる」

 そう声がかけられて、気が付いた。レンくんの声だ。わたしはきょろきょろと目線をさまよわせるけれど、やっぱり見えない。

「レンくん?」
「おう。元気してたか?」

 明るく声をかけられると、本当に不思議だ。見えないことを除けば、彼からは幽霊特有の湿っぽい雰囲気を感じない。それはわたしがオカルト体験をしたことがないのが原因なのか、レンくんは透明人間なのかはわからないけど。
 わたしは頷くと、レンくんは「そっかそっか」と反芻する。

「なに読んでんだ?」
「ええっと、追いかけている作家さんの本……」
「タイトルは?」
「……あんまり興味ないと思うよ?」
「有名な本じゃないんだ?」
「うーんと……知る人ぞ知る人。かな……」

 レンくんに次々と聞かれて、わたしはしどろもどろになりながら答える。
 本の説明をするのは苦手だ。だって本を好きじゃない人は、そもそも教科書に載っているような作者以外の本は知らない。ミーハーな活字読みの人だったら、そもそも流行作家やドラマ化映画化された小説じゃなかったら知らないから、マイナーな本の名前を上げても「ふーん」の相槌だけで、会話が途切れてしまうから。
 わたしが言葉を詰まらせていたら、レンくんは人懐っこい声で続ける。

「どんな話?」
「ええっと……剣道を習っている男の子の青春小説、かな」
「主人公は高校生なのか?」
「違うよ。ええっと……舞台は江戸時代で、地方の話なの」

 たどたどしく説明するのがもどかしい。本を好きだというと、本好き同士だったら盛り上がるけれど、それ以外の人に話をしたら、だいたいどちらかが聞き役になってしまって、会話のキャッチボールにはならない。
 こんな話をして楽しいのかな……。だんだんと声がすぼまっていくけれど、レンくんは「そっかそっか」と適度に相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれたので、少しだけほっとする。……きっと彼は、見えない男の子だから、最後まで話ができたんだ。見える男の子だったら、きっとここまで話をすることなんてできない。
 わたしが話の内容を説明し終えたら、レンくんは「間宮は」と声を出す。

「本が好きだなあ」

 そうしみじみとした感想を言われてしまうと、わたしは思わず縮こまる。
 本が好きだとイコール頭がいいと思われるせいで、本を読んでいると勝手にわたしのことをでっち上げられてしまう。
 そのせいで、友達以外にはあまり本が好きだと言えないし、話題にもしない。だからそう言われてしまうと、どうすればいいのかわからなかった。
 返事に困っていると、レンくんのほうからきょとんとした声が返ってきた。

「あれ、俺変なことを言ったか?」
「い、言ってないよ? 言ってない……」
「ふうん」

 レンくんがどういう顔をして相槌を打っているのかはわからないけれど、多分悪い人ではないんだろうなと思う。
 わたしはほっとしていたところで「泉ー」と言う声が聞こえてきたのに気付いた。
 お母さんが来たってことは、退院処理が終わったんだと思う。

「あのね、わたしもうちょっとしたら退院なの。ギブス外して、検査を終えたら退院」
「そっか。おめでとう」
「ええっと、レンくんも最初会ったときに、叫んでごめんなさい」

 そう言うと、レンくんは「いやいや」と笑う。

「別に気にすんなって」
「でも……もう、お別れだし……」
「え? どうして?」
「ええ?」

 意外なことを言われて、わたしはきょとんとした。
 レンくんが幽霊なのか透明人間なのかはわからないけれど、わたしが退院したら、もう会わないんじゃあと、そう思っていたのに。
 わたしが呆気に取られていたら、あっさりとレンくんは言う。

「だって、明日からまた会うだろ?」
「ええ……?」
「間宮はそそっかしいから、見といてやるから、気にすんなって」

 そう言われてしまい、わたしはますます目を剥いてしまった。
 ……ちょっと待って。どうして、見えない男の子が、わたしについてくるの? それ、どういう意味?
 わたしが目を白黒としている間に、レンくんは「じゃあな、また明日」という声を残してなんの痕跡も残さずにいなくなってしまった。
 どういうことなの。ちょっと待って。どういうことなの。
 わたしが心臓をバクバクさせている間に、カーテンが開いたかと思ったら、お母さんが入ってきた。

「あら、泉。そろそろ検査に行くけど、大丈夫?」

 その言葉に、わたしはなんの返事もできなかった。
 ギブスを外してもらって、検査を行ったけれど、やっぱり異常は見つからなかった。打撲で青あざはできてしまっていたけれど、これくらいだったら一週間くらいで消えると先生が教えてくれた。
 その間、わたしはずっとそわそわしているのに、お母さんは怪訝な顔でこちらを見てくる。

「どうしたの、泉? さっきからずっときょろきょろして。明日から学校行ける?」
「行ける……けど、うん」

 まさか言えない。見えない男の子に取りつかれているのかもしれない、なんて。
 今はレンくんの声は聞こえない。でもレンくんのことは声以外でいるのかいないのかわからないから、黙り込まれてしまったら、もうどこにいるのかなんてわたしにはわからない。
 だから注意深くあちこちに耳を澄ませてみるけれど、あの独特の高めな男の子の声が耳に入ることはなかった。
 わたしがそわそわきょろきょろしているのを、お母さんは溜息つきつつ言った。

「まだ体のこととか色々気になるなら、学校休んでもいいのよ?」
「行けるよ! 本当に大丈夫だから!」
「そーう? なら、別にいいんだけどね」

 久しぶりのTシャツにジーンズの普段着に着替えて、病院を出る頃になったら、すっかりと夕方になってしまっていた。
 レンくんの声は聞こえなかったけれど、どこかで見ているのかもしれないと思ったら気が気じゃなかったけれど、もう声は聞こえないから大丈夫かなと、そう思い込むことにした。
 四日ぶりの家に戻ってくると、四日ぶりにスマホを返してもらったので、早速確認する。
 メッセージアプリを起動させたら、わたしの退院祝いがあれこれと入っていたので、ひとつひとつに返信していく。
 あと図書委員の先輩に、入院していたことと、当番休んでごめんなさいのメッセージを入れたら、すぐに返信が来た。

【間宮さん大丈夫? 無理してるならしばらく休んでもいいよ?】

 先輩にまで心配されちゃったなあと、わたしは首を捻る。
 トラックに跳ねられても、打撲以外はピンピンしているのに。お母さんや泉ちゃん、絵美ちゃんにまで心配かけちゃって、無断で当番休んだのに先輩にまで気を遣わせちゃって。周りが過保護なくらいに心配してくれるんだから申し訳ない。
 わたしはそれに【大丈夫です。今週は休まなくってもいけます】と返信してから、鞄に明日の授業の教科書とノートを詰め込む。
 皆が心配するようなことなんて、なにもないのになあと、そう思いながら。

****

 その日は天気もよくって、まだ夏服の季節じゃないのに、冬服だとちょっと汗ばむくらいに太陽がまぶしい。
 わたしはいつもよりも早めに起きて、いそいそと学校に向かった。たった三日間車いす生活だっただけなのに、ギブスのはまっていた足からは筋肉がなくなっちゃったみたいで、いつもよりも歩くのに苦労したけれど、どうにか辿り着けてほっとした。
 グラウンドのほうを見れば、もうサッカー部が朝練をしているのが目に入る。朝だから本格的な練習はまだできないらしく、準備体操と走り込みだけだけれど、サッカー部の人たちがゴールポストまでダッシュで走る練習をしているのはわかる。
 近くのベンチにはマネージャーとコーチらしい男性。そしてネットの近くにはわらわらと女の子たちが立って見守っている。
 うちの学校は、今年のサッカー部は強いらしくって、夏の大会への出場権が決まっているとか、プロリーグから声がかかった選手がいるとかで、ちょっと盛り上がっているみたいだ。文化系のわたしにはあんまりわからない世界だけれど、なんかすごいんだなあと思いながら、それを遠巻きに眺めている。
 ちらっとネットのほうを見ると、一生懸命カメラで写真を撮りながらメモの走り書きをしている絵美ちゃんと、グラウンドをうっとりと見ている沙羅ちゃんが目に入った。
 絵美ちゃんは新聞部だから、大会前のサッカー部の取材だろう。あの子は新聞記事をコンクールにも提出しているから、その作品づくりも兼ねているのかもしれない。
 沙羅ちゃんはというと……サッカー部の花形ストライカーの滝《たき》くんを見に来ているんだと思う。沙羅ちゃんは滝くんのファンだから。
 うちのクラスの滝くんは、身長も高くって、スポーツ刈りも似合っている。おまけに顔はちょっとしたアイドルよりも整っているものだから、サッカーに全然興味ない子でも顔を一度見に来るくらいだ。まあ、あんまり一部の女子がライブ会場みたいに叫んでうるさくて集中できないってことでトラブルになったこともあるから、朝の基礎練以外は他の場所に練習に行ってしまっているし、サッカー部関係者以外は立入禁止になってしまったから、朝練以外は練習するのを見ることもできなくなってしまったけれど。
 わたしはサッカー部の練習をぼんやりと眺めているところで、ようやく沙羅ちゃんがネットの向こうから視線を移して、こちらに手を振ってきた。

「おはよう、泉ちゃん。体調はもう大丈夫?」
「おはよう。うん、もう大丈夫」
「おっはよー。サッカー部も最近はいろいろ情報規制で大変だからねえ。せっかくコンクールで賞獲れそうなネタが揃ってるのに、なかなか記事書けなくって大変だわ」

 絵美ちゃんはそう言いながら、笑ってカメラをネット越しに向ける。
 シャッターの光もサッカー部がうっとうしがらないようにと、なかなか使えないみたいだから、こちらはこちらで苦労しているみたい。
 やがてグラウンドで基礎練をしていたサッカー部がコーチに呼ばれてなにやら集合しはじめた。そろそろ朝練も終わりで、解散するんだろう。
 わたしたちも邪魔にならないように、そろそろ帰らないとなあ。既にネット越しで見物していた子たちも捌けはじめたのを感じながら、わたしも教室に向かおうとしたとき。

「間宮!」

 声がかけられたのに、わたしは思わずビクン、と肩を跳ねさせる。
 わたしが思わず固まったのに、沙羅ちゃんと絵美ちゃんがきょとんとした顔をこちらに向けてくる。

「泉ちゃん?」
「どしたの、急に固まって」
「えっと……あの、ね」

 わたしは口をパクパクさせる。ふたりとも、さっきの声に関してなんの反応も示していない。
 今まで、声をかけられたのは一対一のときだったから、こんな人前でしゃべったこともなく、わたしの顔は火照ったり血の気が引いたりを繰り返す。
 仕方なく、わたしは軋んだ音を立てる体を無理矢理動かして、回れ右をする。

「さ、先。教室に行くね……」
「ええ? うん」

 絵美ちゃんは生返事をし、沙羅ちゃんは気を遣わし気に「大丈夫? 一緒に教室に行く?」と尋ねるけれど、沙羅ちゃんはもうちょっと滝くんを見てたいだろうから、それは申し訳ない。わたしはブンブンと首を振る。

「大丈夫……だよ」
「そう?」

 ふたりが心配しているのがわかるので、わたしは必死に笑顔をつくると、足早にグラウンドから遠ざかる。
 玄関で靴を履き替えてると「そんな無視すんなって」と声をかけられる。
 やっぱり、レンくんだ。
 まだ予鈴が鳴るには時間があるけれど、玄関は人通りが多い中で声をかけられても、どう返事をすればいいのかわからない。そもそも見えない彼に返事をしていたら、変だって思われてしまう。わたしは早歩きでできるだけ人気の少ない道を選んで歩くけれど、レンくんは「待てってば」と声をかけてくる。
 ようやく移動授業以外だと使わない階にまで差し掛かってから、わたしはようやく振り返った。

「あの、わたし……皆の前で話しかけられると、困るから……」
「ええ? そんなに困ることか?」
「変だって、思われちゃう!」
「んー……そっか、間宮は俺が見えないんだもんなあ。でも別にいいじゃん。変だって思わせといても」
「あなたはいいかもしれないけど、わたしが困るから……」

 レンくんは苦情を言っても、ひょいひょいと避けてしまうし、わたしが嫌がっているということがどうにも伝わっていないような気がする。
 わたしも、なにがどう嫌とか、言わないと駄目なんだけれど……見えないレンくんだとわからないような気がする。
 レンくんは「んー」と間延びした声を上げると、やがて息を吐き出す。

「そこまで変って思われること、嫌がることか?」
「嫌がるよ……だって、わかんないことって、変だって思うもの……」
「そっかー、それは全然思ったことがなかったわ。うん、ごめん」

 拍子抜けするほどあっさりとした謝罪に、わたしはますます目をパチパチさせてしまう。

「あのう……」
「でもさ、他人って変って思うほども、人のことなんて気にしないと思うけど。俺もぜーんぜんわかんねえし」
「そう、かもしれないけれど……」

 ずいぶんと自信満々な人だ。見えないのに自信にあふれるってどういうことなんだろうと、矛盾しているような、してないような。
 わたしは思わずむずむずしてしまっていると、レンくんは「それじゃ!」と声を上げる。

「それじゃ、またな!」
「え、またって……」
「またあとで!」

 それだけ言い残して、レンくんの声は聞こえなくなってしまった。
 なんなんだろう……わたしは思わずヘナヘナと階段に座り込んでしまった。
 幽霊にしては、ずいぶんと湿っぽくないし。透明人間にしては、ずいぶんと自信満々だし。いったいレンくんってなんなんだろう。なによりも見えない人からは、こちらから声をかけることだってできないし、口を開いてくれないといるのかいないのかだってわからない。
 ……もしかしなくっても、わたしたちのよくわかんない関係のイニシアチブは、レンくんにあるんじゃあ。
 そう考えたら、どうしたら正解なのかがわからなかった。
 無視する? 黙っておく? そう楽なほうに考えてみるけれど、それも申し訳ない気がする。
****

 授業がはじまってからも、わたしは落ち着かずに先生が黒板に板書している音を聞きながら、耳を澄ませていた。
 いきなりレンくんに話しかけられたらどうしよう。いきなりおかしなこと言われたらどうしよう。もし周りに変な顔をされてしまったら、一体どんな誤魔化し方をしたらいいんだろう。ドキドキしていたけれど、特にそんなことはなかった。
 むしろわたしが挙動不審にあちこち視線をさまよわせているのに、先生が怪訝な顔で「もしかして間宮、具合が悪いのを我慢しているんじゃないのか?」と言われる。スカートから出ている脚にはばっちり青あざが浮かんでしまっていて、一部はみっともないからガーゼを貼って隠しているけれど、点々とした青あざは隠しきることもできずに見えている。
 沙羅ちゃんは心配そうな顔で、絵美ちゃんは先生と同じく怪訝そうな顔でこちらを見てくるのにいたたまれなくなったわたしは、小さく「はい……」と答えた。
 先生はぐるっと周りを見回し「なら、保健室に行ってきなさい。保健委員、ついていってあげなさい……」と言ったけれど、それより先にわたしは「い、いいです……!」と言って、慌てて教室を出て行った。
 教室を出て、誰もいないガランとした廊下を、わたしはとぼとぼと歩く。
 まさか言えないもんね、幽霊の声が気になり過ぎて、授業に集中できないなんて。皆にも変な顔で見られちゃったし、これはもう具合が悪いからという理由をゴリ押ししてしまったほうがいいような気がする。
 そう思いながら歩いていたら「間宮」と声をかけられたのに、わたしはビクン、と肩を跳ねさせた。
 廊下には足音は聞こえない。今はわたし以外廊下にはいない。でも、たしかにレンくんの声が聞こえたんだ。

「あ、のう……」
「大丈夫か? 青い顔してるけど。後遺症とか、そういうのではないんだよなあ?」
「ち、ちがうよ……! 本当に、体はどこにも問題がないの。ただ」

 レンくんはいったい、どんな顔でわたしを見ているんだろうと思った。
 呆れているのかもしれない、困っているのかもしれない。面倒臭いって思われているのかもしれない……見えないから、全然わからないんだけれど。
 面倒臭いなと自覚しながら、わたしはおずおずと口を開いた。

「……レンくんが、いきなり話しかけてきたらどうしようと、思って、そわそわしてた……」
「はっ」

 いきなり噴き出した息に、わたしはビクンと再び肩を跳ねさせる。
 途端に、前に聞いたような笑い声が響いて、わたしはますますいたたまれなくなり、縮こまる。

「あ、あの……わたし、そんなに笑われるようなことを、言った覚えは……」
「ははははは……ああ、ごめんごめん。別にお前を笑ったんじゃないんだ……」

 どうにか笑いをこらえようとしているみたいだけれど、全然こらえきれていない。
 わたしは真面目に困っているのに。わたしは思わずむっつりと唇を尖らせると、レンくんは「ごめんごめん」と言いながら、言葉を続ける。

「別に授業の邪魔はしないから安心しろって。それに、下手にちょっかいはかけないから、それも安心しろって。なっ?」
「で、でも……今は……」

 それだったら、どうしてそのまま放っておいてくれなかったんだろう。わたしにいきなり声をかけてくるんだろう。見えないのに。そう自分勝手な言葉が頭の中でくるくると回るわたしは意地が悪い。
 わたしが自己嫌悪で落ち込みそうになったけれど、レンくんはあっさりと言ってのける。

「今は、間宮が本当に顔色悪いから、保健室までは一緒に行ってやるから。そこで先生に休ませてもらえって。なっ?」
「う、うん……ありがとう……」

 わたしはようやく、保健室への道を再び歩きはじめる。
 保健室の先生はわたしの顔を見ると、すぐに顔色を変えて「あとのことはちゃんとやっておくから、一時間寝ちゃいなさい!」とベッドをひとつ用意してくれた。
 なんで皆、事故から戻った途端に、過保護になったんだろう。わたし、そこまでひどい顔をしてたのかな。
 この数日見慣れてしまった真っ白なカーテンに真っ白なベッド。それに思わず顔をしかめながら、わたしは「レンくん?」と小さく声をかける。
 返事は返ってこなかったし、あちらから声をかけてくることもなかった。
 ……なんでこんなに勝手なんだろう。自分勝手なことを思いながら、わたしはもぞもぞとベッドに横たわって、布団を引き上げる。
 でも。たった三日入院していただけで、ふくらはぎはぷにぷにになっていて、はっきり言って体力が戻っていない。学校に着くまでに体力を削ってしまったのも問題だったのかも。それで授業受けただけですぐに疲れてしまったのかもしれないと考え直す。
 自分だと全然気付かなかっただけで、レンくんが心配してくれたのは本当なのかもしれないと、そう思うことにした。
 わたしは見えないのに、どうしてこんなに優しくしてくれるのかは、全然わからないけれど。

****

 それから次の授業は普通に受けられた。
 三時間目は体育だったから、皆が体育を受けているのを端に座って見ていたけれど。
 女子はバスケットボールで、男子は外でサッカーをやっている。
 何組かに分けてバスケット勝負を行っているけれど、ゴールネットが足りなくって順番待ちしているグループは、わたしと一緒にときどき外の男子を応援したり、女子のグループを応援したりしていた。うちのクラスにも滝くん含めてサッカー部員が何人かいるから、滝くんが入っているチームがサッカーをはじめた途端に、黄色い声援が飛ぶ。これじゃサッカーの観戦というよりも、アイドルのライブだ。
 沙羅ちゃんも絵美ちゃんも特に運動神経がよくないから、運動部の子たちにボールをパスして、どうにかゴールの近くにいて、走ってくる子の邪魔をするにとどまっていた。沙羅ちゃんは身長があるから、誰もいなかったらボールをネットにまで入れるのは楽なんだけれど、走りながら入れることは全然できないんだ。
 わたしはそれを眺めながら、体育館の戸にもたれて体育座りをしていたら。戸の隙間から勢いを付けてボールが入ってきた。わたしは慌てて戸から立ち上がって避けると、サッカーボールが床でいい音を立ててリバウンドしていた。
 どうもサッカーに熱が入り過ぎて、男子のボールが体育館まで飛んできてしまったらしい。
 当然ながら、運動部の子たちが「こら、男子! 危ない!!」と怒鳴りながらボールを拾うと、男子のほうからボールを取りに来た。
 来たのは滝くんだ。本当に顔が整っているけれど、取っつきにくい雰囲気が原因で、ほとんどしゃべったことがない。沙羅ちゃんは滝くんのことを気にしているのは知っているけれど、彼としゃべったことがあるのかどうかまでは、わたしも知らない。
 彼とまともにしゃべれるのは、運動部の子だけじゃないかな。彼は運動部の子に怒鳴られながら、しゅんとしてボールを受け取る。

「……すまん」
「サッカー部、危ないからこんなところまでボール飛ばすな!」
「悪かった。あ」

 滝くんは相変わらずの不愛想な表情のまま、逃げていたわたしのほうに視線を寄こしてきたのに、わたしは思わず肩を跳ねさせる。
 な、なに? 滝くんとは全然接点がなかったと思うんだけれど。
 わたしが勝手にビクビクしていたけれど、こちらのほうに軽く会釈してきた。

「間宮、すまん」
「ええっと……別に、大丈夫。です」
「そうか」

 滝くんはほっとしたように息を吐いてから、サッカーボールを抱えてグラウンドのほうに戻っていってしまった。
 そのままグラウンドで他の男子と合流してしゃべっているのが目に入る。
 わたしはポカンとしながら、彼の背中を見送る。
 ええっと……たしかに戸に座っていたのはわたしなんだけれど。滝くんが謝るようなことだったっけ。
 たしかにグラウンドからボール飛ばしてきたんだけれど。
 わたしは滝くんの意図がさっぱりと掴めないまま、スポーツ刈りの綺麗な髪を見届けていた。
****

 訳がわからないまま体育の見学も終わり、四時間目の授業を受けたら、ようやくお昼になった。
 食堂で食べようと思ったけれど、食堂を見て「むう……」と声を上げてしまった。
 三時間目と四時間目の間の休み時間中に、日替わり定食のチケットは完売してしまったらしい。今日の定食は唐揚げ定食だったから、運動部の子たちに全部買い占められてしまったようだ。
 すごく唐揚げが好きな訳じゃないけれど、一品ずつ買うよりも安かったのになあ……。仕方がなく、他に買えそうなチケットを見ると、焼きそばとか、カレーライスとか、一品料理だけれど大味過ぎるものばかりだった。ナポリタンとかオムライスとかあったらよかったのに、今日はないみたい。

「今日は外れだったねえ。どうする? 購買部でパン買いに行く?」

 沙羅ちゃんが気を遣ってそう言ってくれる。ちなみに部活のほうに顔を出すからと、絵美ちゃんはさっさと購買部でパンを買って部室のほうに引っ込んでしまった。
 わたしは「そうだねえ……」と諦めて食堂を出ようとしたとき。

「チケット、買えなかったのか?」

 意外なことに声をかけてきたのは、滝くんだった。滝くんの手には、日替わり定食のチケットが四枚。
 沙羅ちゃんは思わずわたしの背後に隠れようとするけれど、沙羅ちゃんはわたしより背が高いから隠れきれない。
 わたしは慌てて沙羅ちゃんに替わって口を開いた。

「うん。もうチケットがなかったから、パンを買いに行こうと思ってたんだけれど……」

 思わずちらちらチケットを見てしまうけれど、サッカー部の先輩たちに頼まれて買ったんだったら、滝くんも怒られてしまうだろう。
 なによりも、さっきから滝くんのファンの女の子たちがちらちらとこちらに視線を寄こしてくるので、気まずいから早く会話を切り上げたい。でも沙羅ちゃんは恥ずかしそうにわたしの後ろで身じろぎしているのを見ていたら、その場で会話を打ち切って逃げ出すのも酷だ。
 わたしがぐるぐると考え込んでいたら、滝くんはひょいとチケットを二枚取って差し出してきた。

「これ。買ってこいって言われたけど、先輩たち保護者会から差し入れ入ったからそっち食べるって」
「へえ……そうなんだ」
「余ってるのを売るのもどうかと思ったけど」
「い、ただきます!」

 わたしが答えるよりも先に、沙羅ちゃんがありがたそうに滝くんからチケットを受け取った。うん、よかったよね。沙羅ちゃんも。顔を真っ赤にしてチケットを受け取っている沙羅ちゃんを見ながら、わたしも「ありがとう、あとでお金返すね」と言いながらチケットを受け取って、唐揚げ定食をもらうことができた。
 席はどこもかしこも混雑していたせいで、必然的にわたしたちは開いていた大テーブルで並んで食べることになった。
 わたしは沙羅ちゃんに気を遣って滝くんの隣をあげようとしたけれど、沙羅ちゃんが照れ過ぎてわたしを盾にしてしまい、わたしが滝くんの隣に座ることになってしまった。いいのかな。
 さくっとした唐揚げのジューシーさと、レモンドレッシングのおいしいサラダを堪能していたら、滝くんは珍しく口を開いた。

「退院したばっかりだけれど、大丈夫か?」

 あんまりしゃべったことがないのに、場を繋ぐっていう発想があったのかと、ついつい失礼なことを思ってしまう。

「ええっと、大丈夫だよ。授業は沙羅ちゃんや絵美ちゃん……ええっと早水《はやみ》さんや鮎川《あゆかわ》さんにノート取らせてもらったし、わかんないことは教えてもらったから」
「そうか」

 そこでぶっつりと会話が途切れてしまう。
 不器用だなあ。わたしはそう感心しながらカップのコンソメスープをすすっていたら、沙羅ちゃんが気を遣って会話に入ってきた。

「サッカー部は、今日は昼練はなし? いつも外で食べてるから、サッカー部が食堂を使うのは珍しいよね」

 そうだ、サッカー部は外野に練習の邪魔されないようにって、外でバスに乗って練習に行っているから。昼休みもバスの中でお弁当を食べて、練習してから帰ってきているイメージがあった。
 沙羅ちゃんが振った話題がよかったのか、滝くんはさっきよりも会話が長い。

「今日はいつも練習しているグラウンドを中学校に貸してるから、今日は学校のグラウンドだけで基礎練だけ」
「そっか。大変だねえ。もうすぐ大会もあるのに」
「うちの学校は応援に来るのか?」

 チアリーディング部や吹奏楽部、応援団が応援に向かうのは、学校から依頼があった強い部活にだから、学校の指示がないとわかんないんだ。
 沙羅ちゃんはそれに笑顔をつくって小首を傾げる。

「うーん、まだわかんないかな。サッカー部に応援に行きたいけどねえ」
「授業があるからな」

 そこは嘘でも冗談でもいいから、「応援してくれ」って言えばいいのに。部活やってたら公休扱いになるけれど、学校さぼって応援に行ったら当然公休にはならないんだ。
 わたしはふたりの会話にぐぬぬ、となりながら、ご飯を全部よそってしまっていたら、滝くんはちらっと隣を見る。わたしの席じゃない。滝くんの隣だ。
 今はわたしたちが食べている列は混雑してしまっていて、全部埋まってしまっている。それどころか食堂はほとんど食べる席がなくなってしまっている。でも、ちょうど滝くんの隣の席は空いていた。
 ひとつだけ空いてたら、ひとりだけで食べに行くのも気まずいせいか、ここの席が埋まらないのかな。いくら格好いい滝くんの隣とはいっても、今日みたいな食べる場所がないってときじゃなかったら、わたしだって座ることができないし、ファンの子たちに目を付けられたくないもんなあ。
 そう勝手に納得しながら、どうにか定食を食べ終えたら、滝くんはわたしたちよりもいち早く食べ終えて、お盆を手に取った。

「本当になにかあったら言えよ」
「えっ? うん……ありがとう……?」

 それだけ言うと、滝くんはそのままお盆を返しに行ってしまった。わたしはそれを呆気に取られた顔で見ていた。
 沙羅ちゃんは目を細めながら、滝くんを見送っている。
 ……まずい、わたしは別に滝くんに対して気が全くないのに、沙羅ちゃんが嫉妬するようなことはないのに。

「ええっと、沙羅ちゃん。滝くんはわたしが入院していたから心配していただけだと思うよ?」

 そもそも今まで接点がなかったのに、今日だけいろいろしゃべりかけられてしまって、困惑しているのはこっちなんだから。
 滝くんを気にしている沙羅ちゃんに誤解されたら困ると、どうにかフォローを入れようとすると、沙羅ちゃんは「うん、わかってる」と言いながら、笑ってコンソメスープを飲み干す。沙羅ちゃんも既に定食の器は空っぽだ。

「滝くん、優しいから。不器用だなあと思ったの……本当に、馬鹿なんだから」

 チクンとした棘が入るのに、わたしは恐々と「沙羅ちゃん?」と尋ねる。
 普段は穏やかな性格なのに、女の子特有の棘を見せてくるのは珍しい。普段から滝くんに対してポォーとした顔で見ている彼女が、滝くんの悪口を言うとは考えにくいけど、これって誰に対しての言葉なのか。
 わたしが声を上げたのに、沙羅ちゃんはぱっとこちらを振り返ってぶんぶんと手を振る。

「ち、ちがうのよ!? 本当に泉ちゃんにも滝くんにも怒ってないから!」
「本当?」
「本当だよ! そんなことじゃ怒らないから!」

 そう必死で訴えるんだから、多分そうなんだと思うけれど。
 わたしはわからんないままに、ふたりで並んでお盆を返しに行くことにした。

****

 午後の授業が終わってから、わたしは図書館へと向かう。図書委員で週に二回、図書館の貸し出し返却当番を務めているんだ。
 うちの学校の図書館は、とにかく本が充実している。文豪って呼ばれる人の本だけじゃなく、最近の娯楽小説に随筆、中には学校の先生が借りに来るような専門書まであるんだから、最初は図書館の本を返す番号を覚えるのにも四苦八苦したもんだ。
 わたしが入院していたことを先輩越しに知っていた司書さんは気を遣わし気に「もう体大丈夫?」と聞いてくれたので、わたしは頷く。

「もう平気ですよ」
「具合が悪いようだったら、ちゃんと言ってね」

 そう言ってくれたのに会釈しながら、今日の仕事を見る。
 図書館の貸し出し申請返却申請以外にもやることは多い。返却された本を元の本棚に片付けたり、予約申請の入っている本を回収してきて予約棚に入れたりすることだって仕事だ。
 最近はマンガやゲームの効果か、やけに古い小説の予約申請が多いから、本の回転がやけに速い。わたしは予約の申請用紙を見ながら、「取ってきまーす」とカウンターに伝えて、本棚へと行った。
 図書館の閲覧席で読んでいる子もいれば、本屋と同じく立ち読みしている子もいる。一生懸命本を探している先生もいる。
 それらを横目に、わたしは目的の本棚に行って「うーん……」と唸る。
 目的の本は、はっきり言ってわたしの背だと届かない。台はないかなときょろきょろしていたら、既にそれを使って本を取ろうとしている人がいたから、諦めた。
 図書館でこういうのはちょっととは思うけれど。わたしはジャンプして取ろうとするけれど、指はどうにか背表紙を引っ掻くけれど、掴むことはできない。

「うう……」

 ちらっと台を使っていた人のほうを見る。
 台の順番待ちをしているけれど、台を使っていた人はそこで座って本を読みはじめてしまった……読書に集中してたら、次はいつ台から降りてくれるのかわかったもんじゃない。
 どうしよう。別の本を先にしようか。わたしがそう思っていたら。

「え? どの本が欲しいんだ?」

 そう背後から言われて、わたしは思わずビクッとして振り返った。当然ながら姿は見えなかった。
 わたしは隣で読書している人に気を遣いながら、声をすぼめる。

「レ、レンくん?」
「ええっと、森鴎外全集? うーんと。ああ、一番上のあれな」

 そう言ったと思ったら、「ほいっ」と声を上げた。気付いたらわたしの手元に目的の本の重みを感じ、思わず目を白黒とさせる。たしかに取ろうとしていた本だ。

「え……? え?」
「取ったけど、これじゃなかったか?」
「え? どうやって取ったの?」
「跳んで取ったけど?」

 見えないのに、幽霊なのに、いったいどうやって。どうして。疑問符が付きまとうけれど、お礼はちゃんと言わないと駄目だ。

「……ありがとう」
「いいっていいって」

 なんでこの人、ずっとわたしに付きまとっている割に、わたしにとって都合のいいことしかしないんだろう。
 そうぽつんと思ったけれど、ひとまず本を予約棚に立てることが先だと思って、考えるのを打ち止めた。
 交通事故から退院してから、早一週間経った。わたしはお母さんと一緒に病院に検査に行ったけれど、特に悪いところは見つからなかった。
 打撲でできた青あざも、一週間経ってからは薄くなってきて、あとちょっとで完全に消えてくれると思う。それにほっとした。
 もうそろそろ夏服になるからだ。足だったらロングソックスで誤魔化せるけれど、腕はなかなか誤魔化しが効かない。ガーゼで留めるのにも限度がある。
 でも、相変わらず事故の前後のことは思い出せなかった。学校の授業で忘れたら困ることがあるかなと思ったけれど、特に抜けや漏れもないし、わたしが入院して授業を受けていないこと以外は、特に授業の内容で飛んでいる部分もなかった。
 先生に触診されたり質問を受けたりしたけれど、やっぱりなにもなかったことに、わたしはほっとする。

「ええ、泉ちゃんはもう大丈夫ですね」
「そうですか」

 お母さんは心底ほっとした顔をしたあと、お金のことを話するからと、わたしは診察室を出された。
 待合席の硬めのソファーに座ってみると、アルコールや独特の薬の匂いがするので、思わず顔をしかめる。三日ほどこの匂いの中で入院していたはずだけれど、相変わらずこの匂いに慣れることはなかった。

「大丈夫だったか?」

 ふいに声をかけられて、わたしはビクッと肩を跳ねさせる。
 思わずキョロキョロすると、診察待ちらしいおばあちゃんと目が合い、にっこりと笑われる……変な子がはしゃいでいると思われた……と会釈しながら思い、わたしは小さな声で隣に声をかける。

「レンくん……だよね? どうしてここにいるの?」
「え? お前が病院に行くって聞いたから」

 ちょっと待って。わたしが病院に行くことなんて、沙羅ちゃんや絵美ちゃんくらいにしか言ってない。どうしてわたしが診察受けること知ってたんだろう……。
 わたしは怪訝な顔でビクビクと隣を見る。相変わらず誰もいない中で、ソファーにひとり分の空白がある。

「そんなに怖がるなって。色々あるんだよ、色々と」
「ん……でも」
「そんなことより、お前のほうは大丈夫だったのか? ほら、体。どこも後遺症とかはなかったんだよな?」

 話を強引にすり替えられたような気がするけれど、レンくんの声はいつも明るく人懐っこい色をしているのに、今のは真剣そうだった。だから多分心配してくれているんだと思う。ちゃんと答えないと。そう切り替えて、わたしは素直に結果を報告する。

「本当に、なんにもなかったよ。心配してくれてありがとう」
「そっか……あー、よかった」

 そう言ってレンくんは声に明るさを滲ませるので、わたしはほっとする。
 見えない彼は、どうにもわたしのことを心配してくれていたみたいだから。そう思ったとき、ふいに向かいに座っていたおばあちゃんと目が合った。さっききょろきょろしたときに目が合ったおばあちゃんとは別の人だ。やっぱりにっこりと笑われてしまった。
 思わず周りをぐるっと見回していて、気が付く。こちらのほうをときどきちらちらと見ている人がいるということに。
 腕を組んで新聞を読んでいるけれど、ときどき新聞越しにこちらを見ているおじさん。小さい子はあからさまにこっちを見てくるのに、お母さんは「お姉ちゃんのほうをじっと見ないのよ」と注意されている。
 ……もしかしなくっても、こちらを見て変な子扱いされているんじゃ。途端にわたしは顔を赤くして、立ち上がろうとするのに、レンくんは怪訝な声を上げる。

「おばさん待ってるんだろ? 大丈夫か?」
「こ、ここにずっと座ってたら、わたし変人扱いされるから……」
「ふーん?」

 レンくんは少しだけ間延びした声を上げたものの、あっさりと言う。

「他の奴らにどう思われようと、別によくないか?」
「レ、レンくんはともかく、わたしは気にするの」
「別に他人がどうこう言ってもおんなじだろ」
「違うよ」

 見えないレンくんだったらいざ知らず、見えるわたしがひとりでぶつぶつしゃべっていたら、やっぱり変な子に思われる。無視してしまえばいいのに、ついつい返事をしてしまう自分が憎らしい。
 恥ずかしい子扱いされて、いいわけなんか全然ないのに。
 レンくんは一瞬黙ったものの、やっぱり口を開く。また単純なことを言われちゃうんだろうかと思って身構えていたら、意外なことを言われてしまった。

「ん、ごめんな。間宮が嫌がってるのにしゃべりかけてさ」
「え……」

 明るい声がしゅんとした声に変わってしまい、途端にうろたえる。

「ごめん。俺の自己満足だっていうのはわかってるけどさ、どうしても」
「ちょっと待って、どうしてレンくんが謝るの?」

 そんな声で謝られてしまったら、まるでこっちが悪者になってしまったみたいだから厄介だ。
 たしかに、見えない相手に色々話しかけられて、ついつい答えてしまうわたしが悪い。でも見えないレンくんに八つ当たってしまってもどうしようもない話だ。
 レンくんは「中途半端に立ってるんだったら、もう一度座り直せば?」と言うけれど、わたしは首を振った。

「ううん、わたしトイレ行く……は、入ってこないでね」
「ばっ……入る訳ないだろ!?」

 わたしはレンくんが悲鳴みたいな声を上げるのを耳にしながら、本当にトイレに向かった。
 特に催しているわけでもないので、ただ洗面所に入って手を洗うだけで留めた。

「はあ……」

 この一週間、レンくんにあれこれと声をかけられてしまった。
 図書委員の当番のときには、ときどき本の話をされ、学校でも人がいないときにぱっと声をかけられる。
 最初は人の目を気にして、できるだけ声をかけないように、そう努めていたはずなのに、気付いたらレンくんの言葉に返事してしまっている迂闊な自分がいる。
 でも……不思議なことに、わたしのプライベート空間では話しかけられたことが一度もなかったんだ。わたしの家とか、お風呂とか、寝るときとか。
 だから、病院で待合室にいるときに話しかけられるなんて思ってもいなかったから、テンパって変なことを言ってしまったような気がする。
 レンくんはちっとも悪くないと思うんだけれど……。いや、そもそも彼が幽霊なのか透明人間なのかなんなのか、ちっともわからないことのほうが問題なんだ。
 そもそも。彼はどうしてわたしのことを知っているんだろう。最初からわたしのことを「間宮」と呼んでいるし、わたしが交通事故で病院に運ばれたことを知っているみたいだった。
 知り合いで事故に遭った人なんていないし、病気で亡くなった人なんていないはずなんだけれど……。
 そこまで考えて、わたしは「ん?」と気付いた。
 わたしは、何故か交通事故に遭ったときの前後の記憶が抜け落ちているのだ。おまけに一日眠っていた。
 ……その間に、亡くなった人がいたんだとしたら?
 そう考えて、小刻みに震えが出てくる。わたしと一緒に事故に巻き込まれた人が、レンくんだとしたら?
 わたしは濡れた手をハンドタオルで吹きながら、意を決して待合席に戻る。
 もし、レンくんがわたしにくっついてきている理由が、交通事故のせいだとしたら。あまりにも申し訳がない。

「あの、レンくん?」

 きょろきょろと辺りを見回す。やっぱり見えない。
 周りの生温かい視線が恥ずかしい。でも、わたしだとレンくんがどこにいるのかわからないんだ。テレパシーでなんでもわかるわけでもないから、彼としゃべらない限り意思疎通なんてできない。

「ん、トイレ終わったか?」
「そう、いうのは、いいから……!」

 レンくんはわたしがさっきまで座っていたソファーにいるらしかった。わたしは恐る恐る彼の隣のソファーに腰をかけると、頭を下げる。

「なに?」

 レンくんがきょとんとした声を上げる。

「ご、ごめんなさい」
「なにが?」
「えっと、わたし。交通事故に遭ったときの記憶が、全然なくって……今でも思い出せてないから……」

 上手く言葉にできないし、どう考えてもわたしを励ましてくれているひとを悪霊呼ばわりもしたくなかった。
 でも、どうにかたくさん読んだ本の語彙を駆使して、言葉を絞り出す。

「レンくんがどうして死んだのか、全然わからなくって……本当にごめんなさい……わたしが生き残っちゃって……」
「間宮」

 途端に「ブフッ」とくぐもった声が聞こえた。え、なに……? もしかしなくっても、噴き出されたの?
 レンくんはこらえきれなかったように、声を上げて笑い出してしまった。きっと見えていたらお腹を抱えて足だってバタバタさせて笑っていただろう。
 それに、わたしは思わずポカンとする。
 ええっと……違ったの?

「あの、違ったの……かな。レンくんの正体」
「ぜんっぜん違う! 間宮ー、お前本っ当に想像力豊かだなあ、本読んでるとそうなるのかなあ……ああ、腹痛い……!」

 レンくんが声を出してなおも笑うのに、今度はわたしのほうが戸惑ってしまう。
 これは、交通事故で死んだ幽霊じゃないってことで、いいんだよね? そのことにほっとしたと言うべきか、じゃあレンくんの正体ってなにと言うべきか。
 ようやく笑い声は治まり、声のトーンを落として、レンくんは「まあ」と声を上げる。

「そこまで気にすんなって。むしろ俺、間宮にうっとうしがられてもしょうがないと思ってたから、謝られるとは全然思わなかったんだけどなあ」

 あ、変にお節介だなあという自覚はあったんだ。
 わたしが目をパチパチとさせていたら、レンくんは「だから」と続ける。

「間宮が俺のこと、思ってるより嫌わないでくれたことのほうが嬉しい」

 そのしみじみとした口調で、わたしは思わず固まってしまった。
 よくわからないけれど。レンくんが優しいとは思っている。でも、むしろわたしはどうしてレンくんに優しくされているのかのほうが、わからないのに。
 わたしはただの本好きで、特に取り柄がなくって、地味で目立たず生きている。見えない男の子がわざわざ気にかけてくれる理由が、全く思いつかない。
 見えないけれど、それが厄介だと思っているだけで、嫌ってなんかいないのに。
****

 病院の一件があったせいか、気付いたら学校でもふたりっきりじゃないときにもレンくんは話しかけてくるようになった。
 授業中には話しかけてこないけれど、移動授業になった途端にレンくんが声をかけてくるんだ。

「間宮、絵はどこまで描けたんだ?」
「ひゃっ!?」

 またも、廊下を歩いているタイミングで声をかけられ、わたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。
 もっと慣れればいいのに、本当にレンくんがどこにいるのかわからないし、足音だって聞こえない。気配だって感じないから、いつどんなタイミングで話しかけられるのかがわからず、すぐに悲鳴を上げてしまう癖が抜けきらない。
 おまけに。わたしが奇声を上げるのが、だんだん沙羅ちゃんや絵美ちゃんにも見られるようになってきたのだ。おまけに滝くんにもなにかと話しかけられるようになったものだから、滝くんのファンの子たちにも自然と目撃される訳で。
 これでもっと冷たい目で見られるんだったら、もっと強くレンくんに「やめて」と言えるのに、何故か周りの視線は生ぬるいんだ。別にマゾヒストじゃないから冷たくされても嬉しくないけれど、こんな目で見られる謂れがないから、ますます変人扱いされているんじゃあと肩を跳ねさせてしまう。
 次の移動授業は芸術。美術、書道、音楽の中からひとつ選んで受けるのだ。わたしは中学時代に美術の油絵の具を買ったから、それがもったいなくって美術を選んだ。沙羅ちゃんは小学校の頃から使っている書道セットを捨てるのがもったいないから書道、絵美ちゃんは教科書代だけで残りは小学校、中学校からのリコーダーが使えるからという理由で音楽だ。
 レンくんがてくてく美術室まで歩くわたしに聞いてくるので、わたしはどう答えたものかと迷う。
 今描いている絵は、静止画。皆でリンゴと瓶をモチーフに据えて、それを写生していたのだ。

「どこまでって言われても……絵って人によって違うでしょう?」
「そっかそっか。今日って品評会じゃなかったっけ?」
「あー……」

 完成していてもしていなくても、個展を開くくらいに熱心な美術の先生は、皆でそれぞれの絵を見ようと言って、一旦キャンバスから離れて絵を見ないといけない。
 絵が上手い子だったらともかく、ただ絵を描くのが好きなだけのわたしには、荷が重い。
 でも、レンはどうしてそんなことを知っているんだろう?

「どうして知ってるの?」
「内緒」
「ずるい! レンくんはわたしのこと色々知っているみたいだけど、わたしは全然あなたのこと知らないんだから」

 思わずそう言うと、レンくんは「あはは」と笑う。笑うところなんてちっともないのに。

「まあ美術室でおいおい」

 そう言ってまだ笑い声を上げているのが癪だった。
 なにより一番癪だったのは、彼がわたしに話しかけてくるのにいちいち驚いている癖に、それがすっかりと馴染んで当たり前になってしまっている今の自分だ。

****

 美術室に入ると、油絵の具とテレピン油の匂いがつんと鼻に刺さる。
 先生はそれぞれを机に座らせると、「それじゃあ、残り三十分を切ったところで、皆の絵をそれぞれ見て回るので、今日は二十分で仕上げなさい」と声を上げたら、一部からは「えー」という非難の声、一部からは「えー!!」という悲鳴が上がり、それぞれの席について絵を描きはじめる。
 わたしはいつもの調子でペタペタとパレットの絵の具をテレピン油で溶いて、キャンバスに色を乗せていたところで、隣のキャンバスには誰も座っていないことに気付いた。
 美術室全体が窓を開けていてもなお、油絵の具特有の匂いが抜けきらないけれど。キャンバスが乾いていたら、匂いなんて微々たるもののはずなのに、隣のキャンバスからもつんと油の匂いがする。
 どうして? わたしは何度も目を凝らしたけれど、それはわからなかった。

「こら間宮。よそ見してないで絵に集中しなさい」
「あ、ごめんなさい」

 一瞬だけわたしに視線が集中したのに縮こまっていたら、くすりと笑い声が聞こえたような気がして、わたしは思わず耳をそばだててしまった。さすがに授業中にきょろきょろとするような真似は、挙動不審が過ぎてできない。
 今の笑い声は、レンくんのものだったような気がする。
 筆を動かしてどうにか色を乗せる。それを見て、先生は苦笑してわたしの絵に口を挟む。

「間宮は色が淡すぎるなあ。油絵の具なのに、これじゃ水彩みたいだ。絵の具を溶き過ぎだ」
「ええっと……すみません」
「もうちょっと油絵の具を溶かずに、キャンバスで色をつくるんじゃなくって、色を乗せることを考えて塗ってみなさい」
「あ、はい」

 わたしの絵は、どうにも薄すぎてぼんやりとしているように見える。
 自分だと濃く塗っているつもりなのに、どうもはっきりとしない。わたしはそれに首を傾げている間に、時間が来た。

「時計回りに見て行って。感想があったら伝えてあげなさい」

 先生の合図の元で、皆の絵をそれぞれと眺めていく。
 わたしみたいに画材のよさを生かし切れずに水彩みたいに色が薄くなってしまっている絵もあれば、いかにも油絵という感じでべったりと絵の具を塗って、それを何度も何度も塗りながらタオルや雑巾で拭ったせいで、不思議な色合いになってしまっている絵もある。
 そして。わたしは自分の右隣の絵に差し掛かったとき、思わず目をぱちぱちとさせてしまった。
 リンゴと瓶を並べてそこに光と影を書き込むシンプルな構図をシンプルなままに描いている。本当に教科書通りの無難な塗り方で、上手くも下手でもないんだけど。問題はそこじゃない。
 瓶の光の中に、うっすらと白い絵の具で字が描いてあったのだ。瓶の光を表現したと言ってしまえばすぐに見落としてしまうような文字。

【Ren】

 筆記体で書き流しているその文字で、わたしは皆で絵を見ていた列に振り返ってしまう。
 隣のキャンバスはたしかに空いていたはずなのに。でも、レンくんの文字が入ってる。
 なんで、どうして……?

「間宮さん、次のテーブルに移動して、次の絵も見ていくよ」
「あ、はい! すみませんっ!」

 先生に促されて、それからも絵をぐるぐると眺めていたけれど、目は泳いでしまって、どうしても絵をゆっくり鑑賞している気分じゃなくなってしまっていた。
 レンくんが、この教室にいる。
 今までどうして気付かなかったのかわからなかったというくらいに、衝撃的だった。
 わたしには見えないのに。いるの?
 でもどうして誰もなにも言わないの? わたしが変なの?
 頭の中でぐるぐるといろんなものが渦巻いて、授業が終わるころには力が抜けてしまった。
 いつもよりも重く感じる油彩セットをぶら下げて、すごすごと教室に戻る。体が妙に重く感じるのは、衝撃が強過ぎたのかもしれない。

「間宮、大丈夫か?」

 そうレンくんに声をかけられて、わたしは力なく頷く。

「うん、大丈夫」
「元気ないみたいだけど、また体が痛いとか?」
「……ううん、体は全然痛くない」

 記憶喪失……病院では体にはなんの不具合もなかったからと見過ごされていたことだ。
 わたしはもしかして、交通事故の前後のことだけじゃなくって、なにか忘れてしまっているんじゃ。レンくんが見えないのは何故なのかは、それじゃ説明できない気がするけれど。

「あの、レンくんは……いるんだよね?」
「ん? いるよ。俺は、ここにいる」
「……見えないから、ときどきわからなくなる。声だけは聞こえてるのに」

 見ているものが正しいのかが、あやふやになる。たしかに人としゃべっているし、言葉の受け答えもできているのに。
 わたしが頼りないことを言うと、レンくんはやんわりと口を出した。

「あんまり抱え込むなって。ちゃんといるから」
「……どうしてわたしに声をかけたの」
「ん、じゃあ間宮は俺が声をかけなかったほうがよかった?」

 そう言われてしまうと、黙ってしまう。
 レンくんとしゃべっていても、楽しいから全然嫌じゃない。ひとりでしゃべってて変に見えるんじゃと思うこともあるけれど、何故か生ぬるい視線で見られることはあっても、誰も変なものを見る目で見てこない。
 もしレンくんが黙ってしまったら……わたしはレンくんを見つけられない。そのままいないものとして扱ってしまうと考えたら……それはひどく寂しいことだと思った。

「本当に……嫌じゃないんだよ? 嫌じゃない」
「そっか。あー、よかった」

 そう嬉しそうに噛みしめて言われてしまうと、本当に彼を責めることなんてできない。
 レンくんは何者なのかも教えてくれないし、卑怯だとついつい当たってしまいたくなるけれど、何故か嫌になりきれないんだ。
****

 その日は天気が悪く、お昼を過ぎた頃から空が群青色になってきたと思ったら、下校時刻になった途端に土砂降りになってしまった。

「……最悪」

 わたしは傘立てを見て呆然としてしまった。持ってきていた傘を誰かに取られてしまったのだ。お気に入りだったのに。
 絵美ちゃんは「傘入ってく?」と言ってくれたけれど、わたしは首を振る。絵美ちゃん家とわたしの家はちょうど真逆だから。仕方がなくわたしは「購買部にビニール傘まだ残ってるかどうか見に行ってくるよ!」と言って、急いで購買部へと踵を返した。
 廊下は雨で濡れて滑りやすくなっている。気を付けないとすぐに滑って転んでしまうと、わたしは足早に歩いていたとき。

「……川くん、誰にでも優しいって、それって誰に対しても冷たいってことと一緒だよ?」

 購買部のある廊下の近くの階下で、見慣れた長い髪が、誰かとしゃべっているのが見えた。
 あれは、沙羅ちゃん?
 沙羅ちゃんは今日は掃除当番で先に帰ってと言っていたのに。わたしは思わず足を止めて、階段の後ろに回る。
 沙羅ちゃんが誰としゃべっているのかは、わたしには見えなかった。普段は穏やかな沙羅ちゃんが、明らかにチクチクとした棘を出しているのが不思議だ。
 ……なにをそんなに怒っているんだろう?

「責任を感じてるんだったら、期待させるようなことを言っちゃ駄目だよ……私も、泉ちゃんとおんなじだから、わかるもの」

 わたしの名前が出てきたのに、思わず肩がヒュンとなる。誰? 沙羅ちゃん。誰としゃべってるの?
 どうにか耳をそばだてて聞こうとしていたけれど、それは中断に追い込まれてしまった。
 階段から一年生の子たちが走っていて、階段から滑り落ちてしまったのだ。そのまま尻餅着いたのにびっくりして、沙羅ちゃんは避けてしまった。

「あの……大丈夫?」
「すみません! 大丈夫です!!」

 沙羅ちゃんが思わず手を差し出したけれど、慌てて立ち去ってしまう一年生たちの後ろから、わたしもゆっくりと階段を降りて行ったとき、沙羅ちゃんはびっくりしたように目を見開いてしまった。

「泉ちゃん? まだ帰ってなかったんだ」
「傘を盗られちゃったから、購買部まで買いに来たの。沙羅ちゃんは? 掃除終わった?」
「……うん、さっきゴミ出しが終わったから、鞄取りに行ったら帰るつもり」
「誰か、いたの?」

 わたしが聞くと、沙羅ちゃんは廊下のほうをちらっと見た。
 さっきはしゃいで尻餅ついた一年生たちが、購買部で元気に傘を買っているのが見える。でも、沙羅ちゃんがしゃべっていた相手がいたのかまでは確認が取れない。
 わたしの視線に気付いたのか、沙羅ちゃんはゆっくりと首を振った。

「……ううん、なんでもない」
「そう、なの?」

 なにか聞いちゃ駄目なことだったんだろうか。普段、沙羅ちゃんは男の子とあんまり話せない。身長をからかわれたことがあるせいで、苦手視しているからだ。滝くんみたいに沙羅ちゃんより高い男子だったらまだ大丈夫なんだけれど。
「くん」付けで呼んでいたってことは、沙羅ちゃんがしゃべっていたのは男子だと思うけれど、どういうことなんだろう。
 わたしの疑問はよそに、沙羅ちゃんはわたしの背中を押した。

「それより、早く傘を買っちゃおうよ。この雨で傘なしは、結構大変だと思うから」
「うん……」

 風もだんだん強くなってきたし、購買部の傘が売り切れてしまったらシャレにならない。わたしの疑問はひとまず喉に引っ込めて、傘を買うことだけを考えることにした。

****

 水溜まりを避けて歩きたくても、雨が激しすぎて避けている暇もない。仕方がないから水溜まりをパシャンパシャンと踏みながら歩きはじめた。
 絵美ちゃんと別れて、わたしは沙羅ちゃんと並んで歩いていた。

「これだったら、本屋に行けないなあ……」
「私が貸した本、泉ちゃん全部読み終わっちゃったもんねえ」
「うん、どれも面白かった」

 他愛ない会話を繰り返しながらも、考えてしまうのは今日起こった不思議なこと、いろいろ。
 わたしは最近皆に笑われているような、とか。絵にレンくんの名前が入っていたこと、とか。
 話したくっても、そんなこと話されちゃったら沙羅ちゃんだって困っちゃうよねと、ついつい当たり障りのない話題になってしまう。

「あのさ」
「あのね」

 思わずわたしは沙羅ちゃんと顔を見合わせた。沙羅ちゃんはいつものように困ったように眉を下げる。

「泉ちゃんからどうぞ」
「いや、わたしは大したことがないから……沙羅ちゃんからどうぞ」
「じゃあ、言うね。泉ちゃん、最近学校楽しい?」

 突拍子もないことを聞かれてしまい、わたしは思わずまごついた。

「普通……かなあ?」
「そう? 最近泉ちゃんが楽しそうだから。入院して心配してたけど、すぐ普段通りになって、ほっとしてるんだ」
「そう……?」

 違うよ、退院してから、ずっと見えない男の子と話をしているだけだよ。
 そう思ったけれど、言い出したらただでさえ最近周りから変人扱いされてしまっているのに、余計に変人扱いされてしまうと、口をつぐんでしまう。
 わたしの挙動不審さはさておいて、沙羅ちゃんは傘でポンと肩を叩いて笑う。

「……うん、私は泉ちゃんが幸せだったら、それでいいなあ」
「沙羅ちゃん?」

 あまりにしみじみとした口調で言われてしまったので、わたしはどう反応すればいいのかがわからなかった。
 だって、まるでわたしが入院したことが不幸だったようなことを言うから。わたし、入院するまでそんなに不幸だった覚えがないんだけど……それとも。単純にわたしがその不幸だったことを覚えていないだけなの?
 聞いてしまいたいような、聞いたら藪蛇になってしまうような。
 結局意気地のないわたしは、聞き出すこともできずに、手を振って沙羅ちゃんと別れた。
 ひとりの家路を歩きながら、わたしはぼんやりと傘を激しく叩きつける雨音を耳にしながら、思い返す。
 普通の学校。普通の教室。地味で普通のわたしは、学校でも普通で目立たない女子だった……と、思う。図書館が好きで、前も図書委員だったからという理由で図書委員に指名されて。
 ……たしかにパッとしないけれど、これのどこが不幸なのかがわからない。いや、思い出せない。

「わたし、そんなに大事なことを忘れてるのかなあ……」

 記憶喪失だと言われてはいるけれど、不都合なことを忘れてしまっている自覚がなかったら、ただ事故に遭っただけなんだ。
 もやもやしていても、季節が梅雨に突入して汗ばんでいても、わたしの日常が変わることはない。
 失くしたらしい記憶も戻ってくる気配がなく、もう忘れちゃったことも日常にすっかりと溶け込んでしまっている。
 わたしがレンくんに思わず話しかけてしまい、周りから生ぬるい目で、ときどき沙羅ちゃんから寂しそうな目で見られてしまうのにも、変だ変だと思いながらも、今ではすっかりと慣れてしまった。
 それがいいことなのか悪いことなのか、わたしにはわからない。
 レンくんは普段はどこにいるのかもわからないけれど、確実にいるってわかるときがあることにも気が付いた。
 図書委員の当番をしているときと、美術の授業をしているときだ。
 美術で皆で絵の鑑賞をしているとき、レンくんのサインが入っている絵を見つけることがあり、わたしはそれをいつも食い入るように見ていた。すごく上手い絵でも、すごく個性的な構図でもないけれど、ここにレンくんがいるのかと思うと、妙に安心してしまう。
 図書委員をしているときは、わたしが台がないときに高いところにある本が取れないでもたもたおろおろしていると、どうやってかわからないけれど取ってくれたり、逆に「この本ってどこに片付ければいい?」と聞かれたりする。そのことにほっとする。
 学校の制服も夏服に替わったけれど、梅雨の中途半端な肌寒さと、図書館の冷房のせいで、未だにカーディガンが欠かせない。
 今日も雨のせいだろう。家にさっさと帰ってしまったらしく、放課後の図書館は閑散としてしまっている。司書さんたちは新しい本にバーコードを付ける作業をしていてカウンターの中。わたしは返却処理を済ませた本をカートに載せて運んで、それぞれの本棚に片付けていた。
 図書館は雨の中でも、たくさん本が詰まっているせいか湿気が溜まらずにからっとしている。今日は誰にも使われることのなかった台に乘って本を片付けていると、「なあ、間宮」と声をかけられる。
 慣れって怖い。前は変人に見られてしまうと躊躇していたのに、見えないレンくんの声に、「はあい?」と返事できるようになってしまったのだから。

「間宮さあ、今度の土曜日って暇?」
「ええ? 暇だけれど」

 高校生だからといって、毎週予定が詰まっている訳じゃない。遊びに行きたくっても定期が使える場所じゃなかったら高くて出かけられないし、少ないお小遣いからスマホ代を差っ引いてやりくりしないといけないんだから、使えるお金は限られている。
 レンくんはいっつもわたしの近くにいる訳じゃなく、確実にいるってはっきりしているとき以外はどこかに行っているし、黙っていられるとわたしもどこにいるのかがわからないから、彼が普段なにをして過ごしているのかは慣れてしまった今でも知らない。
 レンくんの言葉の意図がわからないまま、わたしがきょとんとしていると、レンくんがあっさりと言う。

「ちょっと付き合って欲しいんだけど。散歩」
「……散歩?」
「そう」

 そう言われてしまうと、ついついまごついてしまう。
 だって、今までは学校のクラスメイトたちの前でしか、レンくんとしゃべってはいなかったんだから。記憶喪失のことまでは言っていなくても、入院していたことまでは知っているはずだから、わたしが退院してから挙動不審になっていても見て見ぬふりをしてくれていたけれど、学校の外で会うとなったら話は大きく変わってくる。
 病院では、わたしがひとりで挙動不審だとしても患者さん以外には見られないからいいけど、街中ではどうなんだろう。
 挙動不審のまま歩き回っていたら、本当に変人になってしまう。そもそもレンくんがいるって確実にわかっているのは声だけなのだ。人が多い場所で、彼の声をはっきりと聞き取れるかが、自信がなかった。
 わたしが押し黙ってしまったのをせかしたのか、レンくんが言葉を重ねてくる。

「駄目? やっぱり予定入ってた?」
「予定は、ないけど……」
「んー……やっぱ俺と散歩は駄目、かあ……じゃああれだ。デートと言えばいいのか」
「で、えと?」

 その言葉に、わたしは固まる。
 ……はっきり言って、レンくんとは見えない男の子だからしゃべれているようなものだ。普段のわたしは、世間話ですらまごついて男の子とそんなに長いことしゃべれない。滝くんは要件しかしゃべらないから会話が成立するようなもので、レンくんほど話が弾むようなことはまずない。
 そんなわけだから、わたしは男の子と付き合ったことなんてないし、ましてや、デートなんてしたことは、人生で一度もない。
 それなのにレンくんに「デート」と言われてしまい、みるみる顔に熱が溜まっていくのを、わたしは必死で抑え込もうと顔を手で必死で仰いだ。

「間宮? なんだ、そんな怒るほど嫌か?」
「そ、うじゃなくって……! で、デートとかいう言葉を使うのは、やめたほうがいいんじゃないかな。誤解する子も、いると思うよ」
「んー……そうかあ……」

 レンくんは一瞬間延びした声を上げたあと「なら」と言葉を付け加える。

「ウィンドウショッピングだったらどうだ? 散歩だし、これだったらデートじゃないし」

 それって、ただの言葉遊びで、意味は変わってないような気がするけれど……。
 わたしはどうにか火照った顔を鎮めると、ぽつんと言う。

「それだったら、別に……」
「いいんだな? じゃあどこで待ち合わせしよう!」
「ええっと……声の聞こえるところがいい」
「ん?」
「……レンくんの声が聞こえる場所。そうじゃなかったら、わたしはレンくんがどこにいるのか、わからないから」

 ごにょごにょとする縮こまった声を誤魔化すように作業をしていたいけれど、人気の少ない図書館で、誰にも邪魔されない返却作業はスピーディーだ。もうカートの積んだ返却本は一冊になってしまっていた。
 その一冊をわたしは掴んで、どうにか視線で指定の場所を探していると、レンくんが「声かあ」と唸っているのが耳に入った。
 ……やっぱり変人って思われたのかもしれない。他の人にすっかり変人扱いされてしまうのは仕方ないのかもしれないけれど、レンくんにまで変人扱いされてしまったら辛いなあとぼんやりと思う。
 そう思っていたら、レンくんは「あ、そうだ」と声を上げる。

「ええっと?」
「なら矢下公園で待ち合わせだったらよくないか? 紫陽花咲いてるから、結構人通りも多いけれど静かだし」

 矢下公園は、近所だと結構人通りの多い繁華街からちょっと住宅街に差し掛かった場所にあるから、比較的静かな場所だ。
 ときどき学校で校外マラソンを行う際には、そこのグラウンドを使って走ることもあるけれど、たしかに植わっている紫陽花は綺麗だったと思う。最近は赤っぽい紫陽花ばかりが目立つけれど、あのあたりで咲いている紫陽花は皆白かったと思う。

「うん、それだったらいいよ」
「そっかあ。あー、よかったぁ」

 そこで心底嬉しそうな声を上げるレンくんに、わたしも思わず釣られてにこにこと笑ってしまう。
 ひとりで散歩していても、季節の花が咲いているんだったら、「花を見ている」と言い訳ができるかもしれない。
 レンくんの言う通り「散歩」かも「デート」かもわからないけれど、ウィンドウショッピングだと誤魔化してしまえば、ひとりで歩いていても大丈夫だろう。
 なによりも、病院以外でレンくんと出かけるなんていうのははじめてだ。
 ……思えば入院中、わたしの入院着を見られていたんだよなあと思えば気恥ずかしい思いもするけれど、したくてした訳じゃないと開き直ってしまえばいい。

「何時に待ち合わせしようか」
「ええっと、十時は早過ぎるか?」
「これくらいだったら大したことないよ」

 その日は曇りだけれど、服はどうしよう。靴は綺麗なやつがあったっけと、わたしはぼんやりと持っているものを頭に思い浮かべていた。
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 土曜日は、天気予報でも梅雨の中休みだと説明され、じめっと湿気は溜まっていたけれど、雨だけは降りそうもなかった。
 久しぶりにいい天気な中、わたしはどうにかして可愛い服を探し出していた。
 デニム地のワンピースは、季節が中途半端だったために真夏に着るには暑すぎて、でも春先だと寒すぎてしまい込んでいたけれど、今日だったら着られそうと引っ張り出してきたものだ。靴は可愛いスニーカーを引っ張り出してきて、それを履いた。
 わたしは全然見えないのに、レンくんが声をかけてくれるような格好じゃなかったらどうしようと、そう気を揉みながら矢下公園を目指した。約束の時間までまだ三十分はあったけれど、人を待たせるよりも待つほうがマシだと思って早めに移動を済ませてしまう。
 紫陽花が植えられて、それを眺めながらベンチに座る。じめっとした空気だけれど、晴れていたせいかベンチに水は溜まっていなかった。そしてグラウンドのほうを眺めて「しまったなあ……」とぼんやりと思った。
 グラウンドのほうでは、見慣れたユニフォームが走り回っているのが見えたからだ。うちの学校の名前が入ったサッカーユニフォームで、今は紅白試合をしているらしく、ビブスの色で組み分けして激しいボールの奪い合いを繰り広げている。
 ここは普段学校の授業で使うことはあっても、休みの日まで足を伸ばすことはなかったから、部活でまで使っていることは知らなかった。ましてやサッカー部なんて情報規制がかかっているせいで、休みの日はどこで練習しているのかさえ知らなかった。これって学校の人たちにわたしが挙動不審になっているのを目撃されるんじゃあ。
 どうしよう、ここでひとりで待ってていいのかなと、わたしはきょろきょろと辺りを見回そうとしたとき、タイミング悪くボールが転がってきた。距離が遠かったせいで、ボールの勢いは弱まり、わたしの足元まで転がったときには運動神経が鈍いわたしでも取れる程度の勢いになってくれていた。
 それで慌ててこちらまで走って来る人がいた。滝くんだ。

「ああ、間宮。悪い」
「え、うん。はい」

 滝くんはいつもの不愛想な表情のまま、わたしが持ち上げたボールを受け取ると、わたしの格好をちらっと見る。
 休みの日だったらTシャツとジーンズでうろうろしていると思う。一日制服を着てくたびれているのに、出かける日でもないとわざわざ可愛い服なんて着ない。男の子はそれがわかるんだろうか。わかったらわかったで気まずいんだけれど。
 わたしは表情の読めない滝くんの視線に縮こまっていたら、彼はいつものぼそぼそとした口調で言葉を紡ぐ。

「デートか?」

 その言葉に、わたしは思わずベンチから飛び上がりそうになり、ぶんぶんと必死で首を振る。

「さ、んぽです!!」

 自分でも、あまりにもひどい言い訳だとは思うけれど、他に言いようがないから困る。わたしが必死で取り繕う様に、滝くんは「ふうん」とだけ言ってから、ちらっとグラウンドのほうを見た。
 そしてボソリと言う。

「頑張れ」

 なにを頑張るんですか、とはわたしは言えず、「滝くんも部活頑張って」とだけ言ってお茶を濁そうとしたら、意外と生真面目な口調で「今日は監督の用事があるから、昼まで」とだけ言い残して、そのままグラウンドのほうまで走っていってしまった。
 はあ……。思わずわたしは肩を落とす。滝くんは顔がいいだけでなく、言葉数が少ないだけで、そこまで悪い人ではないのかもしれない。変人扱いされているわたしにも態度を変えないんだから。
 それにしても。わたしは紅白試合を観戦しながらぼんやりと思う。
 昼練で終わりということは、ちょうどわたしがレンくんと散歩の約束をしている時間に終了なのかな。
 サッカー部の人たちに、わたしがひとりで挙動不審な行動を取っているのを見られるのかと思うと、少し気恥ずかしいと思うけれど。滝くんは私が退院してから、謎のフォローをしてくれているから、大丈夫なのかな。わたしは気を取り直して待っていたら、ちょうど紅白試合は終わったみたいだ。
 それぞれが解散していくのを見計らっていたら、「間宮!」と息を切らした声が耳に飛び込んできて、わたしは視線をそろそろとさまよわせる。
 見えないはずだけれど、レンくんの声だからだ。

「レンくん?」
「ごめん、待たせて! まさかこんなに早く待ってるとは思ってなかった」
「いや、気にしないで? 今日は本当に暇だったから」
「あー……よかったあ。じゃあどこ行く? 牛丼屋? ファミレス?」
「ええっと……」

 ご飯屋さんばっかりだけれど、そもそもセルフサービスの店じゃなかったら、不審者扱いされるような気がする。
 この辺りの店で、セルフサービスの店で、そこまで人の混んでない店……。さんざん考えて、「あ」とひらめいた。

「あの、行きたい店があるんだけど」
「え、どこどこ?」

****

 ひとりで入っても差し障りがなくて、セルフサービスで、見えないけれど男の子が入っても問題なさそうな、できるだけ静かでレンくんの言葉が聞き取れる店。
 今日は土曜日だし、なかなか難しいと思ったけれど、ひらめいた店は落ち着いていて、ゆったりとした洋楽が流れていても問題ない店だった。
 創作アメリカ料理の店で、お小遣いでも行ける程度にはリーズナブルな店だった。お客のターゲットは大学生で、普段は男子大学生で混雑している店だけれど、今日は土曜のせいか空いている。
 わたしはカウンターで「ハンバーガーセットひとつください。ドリンクは烏龍茶で」と言うと、「はいよ」と店長が頷いて、会計をしてくれた。どう見ても純日本人にも関わらず、肩を出した筋肉隆々な腕といい、店内のあちこちに貼られた地図や写真といい、アメリカかぶれしてしまっている店長が早速調理に取り掛かっているのを眺めていたら、レンくんは興味ありそうに「へえ」と声を上げた。

「こんな店があったんだ。よく知ってたなあ」
「うん、よくこの店の前を通るし、試しに入ったこともあるから。普段は大学生の人ばっかりで、あんまり入れないから、今日だったら入れるかなと思ったの」
「へえ!」

 カウンター越しに見えるキッチンからは、ソースの焦げる匂いやポテトの揚がる音が響いて、自然とお腹を減らしてくれる。
 それにレンくんは「すっげえ!」と声を上げているのを見ながら、わたしは「そういえば」と気が付いた。

「ええっと……レンくんは食べられるんだよね?」
「え? 食うよ」
「そうなの?」
「おう」

 どうやって食べるんだろうと思ったけれど、よくよく考えたら図書館でもどうやってか本を取ったり片付けたりしてくれているから、わたしがわからないだけで食べられるのかもしれない。
 そう判断していたら、店長がわたしたちのほうに「できたよ」と声をかけてくれたので、取りに行く。
 ボリュームのあるハンバーガーは、ときどきだけれど食べたくなる。それをはむりと食べていたら、向かいから「うめえ」と声が届いた。わたしは思わずハンバーガーを見てしまう。
 ……本当にどうやって食べているんだろう? わたしが思わず声の聞こえるほうをまじまじと見てしまうけれど、やっぱりなにも映らない。
 わたしが困っているのに気付いたのか、レンくんはふっと笑う。

「そんな顔すんなって。ほら食べろ食べろ。美味いのに冷めたらもったいないって」
「ええっと……うん」

 気を取り直してはむはむとハンバーガーを食べる。店内は今日は人が閑散としていて、来ているのは繁華街まで遊びに行く女の子たちがなにやらしゃべっているのが目に留まるくらいだ。こちらに関して生温かい視線を向けてくることもなければ、変人を見るような怪訝な目を向けてくることもないのがありがたい。
 わたしが手についた油をウェットティッシュで拭き取っているときに「あのさ、間宮」と声をかけられて、わたしは顔を上げる。

「なに?」
「ゲーセンって、お前苦手か?」
「ええっと……たまには行くけどさ、どうして?」
「うん、ちょっと入ってみたいなあと思ったんだけど。お前が苦手だったらいいけどさ」
「駄目じゃないけど……でもわたし、ゲームセンターに行ったらレンくんの声を聞き取れるか自信がないよ?」

 ゲームセンターはいろんなゲーム音が充満しているから、ただでさえ声でしかレンくんの存在を把握できないわたしは、彼とはぐれてしまうような気がする。見えないっていうのは本当に厄介だ。
 前は、どうにか声をかけないでほしい、いないことにしたいって思っていたはずなのに、今はいなくなってほしくないのほうが、強くなってしまっている気がする。
 わたしが思わず脅えているのに、レンくんは「ふはっ」と笑った。

「そこまで怖がるなって。ダイジョブダイジョブ。ちょっと試したいことがあるだけだからさ」
「試したいことって……」
「あー、ごちそうさん。それじゃ行こっか」
「え? うん」

 レンくんの意図が掴めないまま、わたしはカウンターにプレートを返却してから、ゲームセンターまで出かけることにした。