****

 普段はサッカー部の朝練を見学に行くために早めに出るんだけれど、思い出したばかりのわたしはいきなり蝉川くんに会う勇気がなくて、結局はギリギリに出ることになってしまった。
 遅刻するしないのギリギリで校舎に滑り込むと、既に朝練の見学は終わったらしい沙羅ちゃんと絵美ちゃんが心配そうに寄ってきた。

「泉ちゃん、おはよう……今日は遅かったけど、大丈夫?」
「おはよう……今日は寝坊しちゃって」

 見え見えな嘘だけれど、ふたりとも「ふうん」でスルーしてくれるのがありがたい。
 インターハイに出るサッカー部の応援に、バスが借りれそうだという話とか、去年は見学に行くの大変だったねという話とか、他愛ない話をしているとき。

「はよー。今日も見学ありがとうな」

 ぶんぶんと手を振る姿を見て、わたしは喉をひゅんと鳴らす。
 朝日に照らされて、金髪に光輪が見える。曇りのない笑顔を見たら、途端に気恥ずかしくなって、わたしはぱっと沙羅ちゃんの後ろに隠れてしまった。沙羅ちゃんは驚いたようにわたしのほうに振り返る。

「あの、泉ちゃん……どうしたの?」
「せ、蝉川くん、が、いるから」
「ええ……?」

 絵美ちゃんは顔をしかめると、蝉川くんと少し遅れて校舎に入ってきた滝くんを交互に眺める。
 沙羅ちゃんは顔を火照らせて上手く呂律の回らないわたしに「思い出したんだね? だから、びっくりしたんでしょう?」とゆっくりと尋ねるので、わたしは首を縦に振る。
 今まで、見えないからといって、蝉川くんの前でさんざん変なところを見せた。周りからしてみれば、蝉川くんの前で挙動不審になっているのは、いつものことだから生温い目で見られてしまっていたのかもしれないけれど、わたしは本当にそんなつもりはなかったんだ。
 蝉川くんはしばらくわたしのほうをキョトンと見たあと、沙羅ちゃんの傍に近付いて、わたしのほうを見る。

「間宮。もしかして俺のこと、見えるようになったのか?」

 ち、近い。いくら沙羅ちゃんを挟んでいるからといっても、近い。
 わたしは必死で沙羅ちゃんにしがみついて目が合わないように努めているのを見た沙羅ちゃんが、棘のある声を出す。

「……ごめんね、今は泉ちゃん落ち着かせたいから。もうちょっと向こうに行ってて」
「……うん、わかった」

 わたしはそっと沙羅ちゃんの背後から顔を覗かせて、蝉川くんと目が合わないよう横顔を盗み見る。
 残念そうな、複雑な色が見え隠れしたような気がした……それはわたしにとって、都合がよ過ぎる考えか。
 蝉川くんは滝くんと連れ立って教室へと入っていった。滝くんは蝉川くんがぶーたれた顔をしているのに「お前怖がられるようなことしたのか?」と呆れた顔で聞くのに、彼は「してねえし! あんな怖がられるの初めてだし!」と言い合っているのが、少しだけ寂しい。
 今までは、見えないから安心して距離を詰められたんだよなあと思う。だって、近くにいたら、途端に息がハクハクして上手く呼吸ができなくなるし、動悸だってマラソンの後みたいになるもの。
 わたしが蝉川くんを見送っているのを、絵美ちゃんは呆れた顔をしてわたしの頭を撫でてきた。

「蝉川のこと、思い出したんだ? それで、今までやってたこと思い返して、恥ずかしくなっちゃったの?」

 そう聞かれて、わたしは首を縦に振る。
 沙羅ちゃんは相変わらず固い表情で、ぷんすこと怒る。

「蝉川くん、勝手なんだもの。むやみやたらと刺激しないようにって言われているのに、泉ちゃん本当に蝉川くんのことわかってないのに、ちょっかいかけようとするし、セクハラしようとするし……本当に、なにもされてないよね?」
「し、心配されるようなことは、なにもされてないよ……? セクハラってなに?」
「だって、蝉川くん男子にするようなこと、すぐ女子にもしようとするから怒られるんじゃない。好きでもない子にむやみやたらと抱き着いてはいけません。それはセクハラだよ」

 それに、わたしはますます縮こまる。
 全然感触はなかったけれど、手は繋いだことはあるとは、珍しく本当に怒っている沙羅ちゃんを見たら、言えるわけがない。
 でも……同じクラスメイトだし、同じ図書委員だし、忘れられたら困るんだろうけれど……どうしてわざわざ名前呼びにしたんだろう。わたしが見えなくなってからも、蝉川くんは「レンって呼べ」と言ってきたことだけは、どうしてもわからなかった。
 わたしが沙羅ちゃんに抱き着いたまま縮こまっているのに、絵美ちゃんは「沙羅もあんまり怒らないの」とチョップをかました。

「私にはむしろ、泉に対してはよっぽど気を遣ってたように見えたけどねえ。いやあ、変わるもんだわねと」
「なにそれ?」

 わたしはようやく沙羅ちゃんから離れて絵美ちゃんのほうを見ると、絵美ちゃんはもう教室に入ってしまった蝉川くんたちのほうに視線を送る。

「怖がられたくないよう、必死だったねえって。あんたは見えてなかったけどね、蝉川ずっと必死であんたのこと追いかけてたから。沙羅は蝉川に対して相当に当たりが厳しくなってたけど、私からしてみれば、ガキ臭い奴があんなに嫌われたくない一心でしゃべってるの見てたら、むしろ同情しちゃってねえ……」
「絵美ちゃんは甘いの……! 私、泉ちゃんにしてたこと、全然許してないから」

 沙羅ちゃんが髪の毛を膨らませて怒っているのに、絵美ちゃんはやれやれと肩を竦ませる。

「まあ私も、両者許可なしのセクハラは私も反対だけどね」

 そうばっさりと言い切る絵美ちゃんを見ながら、わたしはどうにか呼吸を整えようとする。
 別に元通りにならなくってもいい。見えない男の子の「レンくん」として接することができなくってもいい。あれは、あまりにもわたしにとって都合がよ過ぎる夢みたいな時間だったんだから。
 ただ、同じ図書委員の「蝉川くん」として接することくらいは、許してください。

****

 その日は学校に着いても授業はなく、ロングホームルームが終わったあとは大掃除だ。
 体操服に着替えて、皆それぞれの持ち場へと移動する。
 わたしたちが宛がわれた大掃除の場所は中庭で、中庭には噴水があり、そこの水が通っている溝には泥が溜まっているので、大掃除のときにその溝の泥を取らないといけない。
 力がなくってへっぴり腰なわたしを尻目に、皆が「重っ!」「臭っ!」と騒ぎながら、次々と泥をカーに積んでいく。
 溝に溜まった泥があらかたさらったあと、綺麗な水を流したら、溝からしていた匂いも消え、そこの掃除を先導していた先生から「溜まった泥は裏のゴミ捨て場に捨ててきて!」と言われた。
 掃除していた皆でじゃんけんをし、わたしは見事負けてしまい、へっぴり腰のまま、カーを押した。
 カーに乗せられているけれど、重いものは重く、押してもよろよろとしか進んでくれなかった。
 それを見ていたのは、蝉川くんだった。

「間宮、重いなら俺押そうか?」

 そうわざわざ寄ってきて言うと、途端にサッカー部の男子から口笛が飛び、わたしは縮こまる。
 皆の生ぬるい視線が痛い。そりゃそうだろう。思い返せば思い返すほど、五月からずっと「レンくん」と呼びながら蝉川くんとしゃべっていたのがわかる。
 声が聞こえないと、どこにいるかもわからないから、蝉川くんはずっとわたしの近くにいたんだ……傍から見たら、距離感が近過ぎる男女は付き合っているようにしか見えない。でも蝉川くんは、基本的に男女関係なくこの距離感だ。
 ……塩田さんにだって、それくらいの距離感で話していたんだから、わたしだけが特別な訳じゃない。
 なんとか周りを誤魔化したくても、わたしはそんなことを言える度胸なんてない。
 せめてじゃんけんで負けたんだからきっちりやろうと、わたしが思わず「い、いいよ。自分で、押せるから!」と取っ手を持って押すけれど、やっぱり重くって、変な体勢で押さないと前に進まない。
 それを見ていたのか、さっきからの口笛を気になったのか、蝉川くんはぱっとサッカー部のほうに向くと「お前ら、マジいい加減にしろよ!」と大声を上げる。
 それにわたしが肩をビクリと跳ねさせる。それに蝉川くんはしょんぼりとした顔をしてきた。

「悪い、間宮」
「い、いいから。わたしのことは、気にしないで、ね?」

 わたしがなおも押そうとするのに、「間宮、マジで動かないんだったら、押すから。なっ?」と言って、カーを取り上げてしまった。
 そのまま「ありがとう」で任せてしまえばよかったものの、蝉川くんについていくのと、ここに残って冷やかされるの、どっちがマシかと考えたら、じゃんけんで負けたんだから泥を捨てに行ったほうがマシだろうと、わたしは蝉川くんについていくことにした。
 戻ったとき、また冷やかされるんだろうかと思うと、またも縮こまりそうになったけれど、まあ仕方ないや。
 ゴミ捨て場には、あっちこっちで集められたゴミ袋に混ざって、業者に出す土の山ができていた。蝉川くんはそこまでカーを押すと、さっさと泥をそこに捨てていく。
 それをぼんやりとわたしが見ていたら、蝉川くんはカーの泥を落としながら、「なんかごめんな」と声をかけてきた。

「記憶、戻ったんだよな?」

 そう聞かれて、わたしはたじろぐ。
 じっと目線を逸らすことなく見つめてくる蝉川くんに、視線をまともに合わすことができなかったからだ。
 ゴミ捨て場には他のクラスや学年の子たちもゴミ出しにやってきている。
 忙しいからこちらに声をかけることもなく、わたしたちがしゃべっていても、気に留める様子もない。
 このまま逃げ出してしまえば、なあなあにできてしまうけれど。へっぴり腰なわたしは、逃げ出すこともできず、だからといって真正面から答えることもできず、そのまま黙って立ち尽くしていた。

「あのな、別に怒ってないか。騙されたとか、本当に思ってないから」

 蝉川くんは、普段の大きな声を必死で抑えるようにして言った。知っているよ、蝉川くんが優しいのは知ってる……だって、レンくんと呼んでいたときから、ずっと優しかったもの。

「えっと……うん」

 わたしがそう答える。

「うん、戻ってよかった。ほんっとうに、よかった」

 蝉川くんに噛みしめられるようにして言われると、こちらもどう返事をすればいいのかがわからない。わたしはようやく蝉川くんと顔を合わせて、思わず口をポカンと開けてしまった。
 ……蝉川くんの目尻には、ぽろっと涙が転がっていたのだ。

「あ、あの……蝉川くん、泣いて……」
「わあ、別に間宮に泣かされたーとか、そういうんじゃないからな! うん、ほんとに」
「えっと、そうじゃなくって、そうじゃなくって……」

 蝉川くんがぐしぐしと目尻を擦る中、わたしは必死で言葉を探した。
 見えない男の子だった「レンくん」とはまともにしゃべれたのに、見える男の子の「蝉川くん」とは、どうしても気恥ずかしさが先だって、上手く口が回らない。
 わたしがたどたどしくしゃべるのを、蝉川くんは黙って待ってくれているのに安心して、どうにか言葉を吐きだした。

「どうして……名前を教えてくれたの? わたし、本当に見えなかったし、わかんなかったのに……黙ってたら、きっと思い出すまで、変なこと、しなかったのに」
「んー……本当に、ごめんな。間宮を怖がらせるつもりは、全然なかったのに」
「こ、怖いとかは、全然思わなかったんだよ。本当に……でも、なんで?」

 苗字じゃなくって、名前を教えてくれた。蝉川くんの下の名前は「蓮太《れんた》」。だから「レン」。それが不思議でしょうがなかったのだ。
 それに、蝉川くんは「んー……」と笑う。

「だってさあ、俺。女子によく怒られるしなあ。「デリカシーが足りない」とか「声足りない」とかって。間宮は全然俺に対して怒らないじゃん」
「怒らないって……蝉川くん、わたしに怒るようなこと、したの?」

 他の子はいったい彼のなににそこまで怒ったのかはわからない。でもわたしは、蝉川くんの言動でカチンときたことは一度もなかった。
 多分友達だからと土足で入って、ひと言多かったんじゃないかと思うけれど、元々タイプが違い、澄む世界が違うせいで、蝉川くんはわたしにどう踏み込めばいいのか計りかねていたんじゃないかと思う。
 わたしの言葉に、蝉川くんは一度虚を突かれたような顔をしたけれど、やがてふっと口元を綻ばせた。

「あー……よかった。だってさ、間宮にいないものとして扱われるのは、割ときつかったし」
「え?」
「さっきも言っただろ? 俺のこと怒らない女子って、間宮以外に知らないんだよ。それに、好きなことには一生懸命だし、人のことそこまで気を遣わなくってもいいのにってくらいに遣うし……そんな奴なのにさあ……」

 これは、褒められているんだろうか。
 わたしは蝉川くんがなにを言いたいのかわからず、ただ普段端的にしゃべる蝉川くんにしては、論点があっちこっちに飛んでいるような気がすると、そのまま黙って聞いていたとき。
 本当にぽろっと言葉が出てきた。

「忘れられたくないって、主張したかったんだよ。俺のこと見えなくっても、せめているって証明したかったんだよ。幽霊でも透明人間でもいいから、間宮の中にしがみつきたかった……必死でやり過ぎて、やっぱり怒られたけどな」

 そう言われた途端に。今度はわたしの目からぽろっと涙が出てきてしまった。
 それに蝉川くんはうろたえたように声を上げる。

「いっ、今のどこに、間宮が泣くところがあった!? ごめん!」
「わ、かんない……ただ、その……嬉しくって……あの、ね。蝉川くん……」

 見える蝉川くんのことも、見えないレンくんのことも、結局は好きになった。
 見えても、見えなくっても。覚えてても、覚えてなくっても、結局は同じ結論に辿り着くんだ。
 そう考えたら、今まで勇気が出なくって口にできなかった言葉がぽんっと飛び出てしまったんだ。

「……好き、です……都合がよすぎるかもしれないけれど、好きなんです……」

 そのままわんわんと泣き出したわたしを、蝉川くんは「だ、だから泣くなってば!」とおろおろしながら、ただわたしの肩に、ぽんと手を置いた。

「……よろしく、で、いいか?」

 ジャージのままで、大掃除の終わりしなで。ロマンティックのかけらもないけれど。
 わたしたちにはそれでいいかなと思う。

「……はい」

 お守りを、いつ渡そうと。わたしはそうぽつんと思った。