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 それから、わたしはサッカー部の朝練の見学をするようになった。
 普段早めに出ても予鈴ギリギリなんだから、早めに出るのはちょっと眠たかったけれど、グラウンドの周りを見たら、意外と女子が多い。
 他校の偵察みたいな人も来るのかなと思っていたけれど、前にファンと揉めたせいなのか本格的な練習を朝練ではしてないから、そんな人はいなかった。
 グラウンドでランニングをはじめた途端、滝くんのファンたちが「滝くーん!!」と歓声を上げる。
 隣でちらっと沙羅ちゃんを見たら、沙羅ちゃんは頬に手を当てるだけで、声すらかけられないみたいだ。絵美ちゃんはというと、メモ帳を走らせている。

「これも記事にするの?」
「しないよー。でも、一応書いておいたら、あとでネタになるかもしれないしさ」
「ふうん」

 新聞部の事情はわからないけれど、コンテスト用に新聞記事を作成するから、テーマによってはサッカー部に取材交渉に行ったりもするのかもしれない。
 そう思いながらグラウンドのほうに目を戻したら、「あっ、間宮ー!!」と手をぶんぶんと振られて、わたしは思わず肩を跳ねさせる。
 身長が高い順で走っているサッカー部で、後ろのほうで走っていた蝉川くんが、意外とあるバネでピョーンピョーンと跳んでこちらに手を振るものだから、自然とサッカー部員からも見学に来ていた女子からも視線が集まって、わたしは縮こまって絵美ちゃんの後ろに隠れてしまう。
 練習が終わるまで、まじまじと見ていたところで、沙羅ちゃんはくすくすと笑う。

「でも意外だね。まさか泉ちゃんがサッカー部の朝練見学に行きたいって言うなんて」
「そうかな? わたしも、なんで早起きして朝練見てるんだろうって思ったけど」
「サッカー部人気だしねえ、蝉川は、競争率相当低いけどね」
「え、そうなの?」

 わたしが絵美ちゃんの言葉に、思わず声を裏返らせると、沙羅ちゃんと絵美ちゃんから、気のせいか温かい眼差しを向けられてしまい、思わずわたしは肩を縮こまらせる。
 どうも見ている限り、本当に蝉川くんはモテないみたいだとは思っていたけれど。他の人からもそう思われているとは思わなかった。
 モテてしまうのもなんかやだけど、モテないって断定されてしまうのも、なんか違う気がすると、わたしはごにょごにょと口を動かす。

「いや、蝉川くん。いい人だし……優しいし、意外とちゃんといろんなこと見てる人だし……」
「まあ、悪い奴ではないんだと思うよ。ただデリカシーのかけらもないっていうか、女子と男子と区別なく接するせいか、いちいち余計なひと言言って女子を怒らせるせいか、蝉川モテないからねえ。隣に滝がいるっていうのも大きいかもしれないけれど。寡黙なイケメンとうるさいチビだったら、どっちがモテるかって話だわね」
「べ、別に蝉川くん、デリカシーないとか思ってないんだけれど……」
「おやおや?」

 絵美ちゃんに顔を覗き込まれ、わたしは必死で両手で顔を隠した。それに沙羅ちゃんはにこにこと笑っている。
 わたしは妙に安心してしまったんだ。蝉川くんはモテない。だから、格好よくっても彼女ができない。
 そのことにわたしは安心していた。
 わたしは別に、蝉川くんと彼氏彼女になりたいとか、大それたことは考えていない。ただ隣にいても誰にも文句言われないことに、安心したんだ。
 まともにしゃべれるのは図書室での当番のときだけ。運動部の人たちに囲まれている中で声をかけるなんて、怖くってとてもじゃないけれどできない。二学期に入ったらまた委員投票がはじまるから、どうなるのかなんてわからないけれど。
 告白する勇気はなくて、ただ片思いを満喫していよう。ふたりでしゃべれる時間を大切にしよう。
 わたしはそこにあぐらをかいているという自覚が全くなかった。

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 その日も図書室で当番だった。今日は返却の本もなく、司書さんに「本の修理をしてね」とテープを渡されたので、読まれ過ぎて背表紙から取れそうなページをもう一度背表紙にくっ付ける修繕作業をしていた。
 テープでぺったんとくっつけてから、めくれにくくなっていないかとパラパラとページをめくっていたところで、同じ作業に没頭していた蝉川くんに声をかけられる。

「あっ、今度の日曜ってさ、間宮は暇?」

 日曜日に、暇かどうかを聞かれる。
 わたしは一瞬顔を真っ赤にして、上擦った声で「ど、どうして?」と聞く。変だと思われていないといいなと、心臓をバクバクさせながら。
 それに蝉川くんは「どうした?」と聞かれるので、わたしはブンブンブンと首を振る。
 蝉川くんは一冊ボロボロになってしまっているハードカバーの表紙に当て紙を足して補強しながら、口を開く。

「今度さ、サッカー部の試合があるんだ。決勝戦」
「あれ? まだ大会に、出てないよね……」

 もし練習試合や試合があるんだったら、公休扱いになるはずだけれど、サッカー部が公休になったのは、今月に入ってからまだだったはずだ。
 わたしが首を傾げていたら、蝉川くんは続ける。

「いや、今年のチームだったら多分決勝戦まで残れるからさ。もし暇だったら、間宮見に来ないか?」
「え……」
「用事入ってたか?」

 蝉川くんが小首を傾げる様に、わたしは顔に溜まった熱をどうにか冷まそうと、ブンブンブンと再び首を振る。

「なんにも入ってない。暇。……あの、見に行って大丈夫? 邪魔にならない?」
「え、なんで? 女子が声援上げてくれたら、気合入るじゃん」

 なんだ、女子の声援が欲しいだけか。
 思わずガクッとしたけれど、蝉川くんはのんびりと「滝ばっかり声かけられるのもつまんねえしなあ」と続けるので、わたしは思わずギクリとした。
 そりゃわたしは滝くんのことをなんとも思ってないけれど。
 わたしは少し考えてから、ふと思いついた。

「うん、行くよ。勝ったら教えてね」
「おうっ! 絶対に勝つ!」

 わたしはそう蝉川くんと約束したものの、アプリのIDもスマホの番号も教えていなかったことに気付くのは、それからあとだ。
 ただわたしは、蝉川くんに誘われたことに浮かれて、勝って欲しいなと思って近所の神社で宮司さんが帰ってくるのを見計らって、お守りを買った。
 最後に、神社の賽銭箱にぽいぽいと小銭を入れて、手を合わせた。
 うちの学校のサッカー部が勝ちますように。
 蝉川くんとの約束が守れますように。
 今思っても、浮かれ過ぎだったんだ。あのときの自分にビンタをしたい。
 だって、蝉川くんがフレンドリーなのはわたしだけじゃないもの。誰にだってだもの。

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 その日、わたしは沙羅ちゃんと一緒に学校に向かっていた。

「ふうん、それで蝉川くんにお守り買ったんだ」
「はじめてなんだ、試合を見に来て欲しいって言われたのは」
「すごいじゃない、ちゃんと言えばなんとかなるんじゃないかな?」

 沙羅ちゃんはにこにこ笑いながらそう言ってくれるけれど、わたしは首を振る。

「言えないよ……気まずくなるの、嫌だし」
「ええ? でも同じ委員の当番のときは、ちゃんとしゃべれてるんでしょう?」
「うん……でも、それは蝉川くんが同じ委員のよしみでしゃべってくれるんであって、それ以外にわたしと蝉川くん、接点がないし……」
「同じクラスじゃない」
「お、同じクラスでも、グループが全然違って、近付くこともままならないので……っ!!」

 わたしがあわわと手を振りながら訴えると、沙羅ちゃんはくすくす笑いながら「気持ちはわかるよ」と答えてくれた。

「うん。私は蝉川くんとちゃんとしゃべれる泉ちゃんが羨ましいけどなあ。私は近付くこともできないから……」

 そういう沙羅ちゃんに、わたしは言葉を詰まらせる。沙羅ちゃんの気になる人は、あまりにも競争率が高過ぎるんだ。

「あ……で、でも。サッカー部の応援だったら、女子の声が欲しいらしいし、沙羅ちゃんも一緒に行こうよ! 新聞部も取材に行くんだから、絵美ちゃんだって言ったらきっと一緒に行ってくれるしさ!」
「うん……迷惑にならないといいよね」
「ならないって」

 お互い、本当に難儀な部の人を気になりだしたものだなと思っていた、そのときだった。
 沙羅ちゃんが一瞬顔を上げたあと、くいっとわたしの手を掴んで道の端に寄せた。そこの信号を待って渡れば学校まですぐなのに。

「あれ、沙羅ちゃん。信号を待たないの?」
「ちょっとコンビニに行きたいんだ……コンビニに寄って行っちゃ駄目?」
「え? いいけど、朝練間に合うかな」
「大丈夫、多分間に合うから」

 そう言って沙羅ちゃんが手を引いてコンビニのある路地に移動しようとしているとき、向かいの信号が青に変わった。
 信号がぽんと変わったと同時に、トラックが走り去り、今まで車で隠れていた姿が見えた。
 綺麗な女の子と、蝉川くんだ。彼女はにこにこ笑いながら、蝉川くんとしゃべっている。蝉川くんはそれに対して笑顔で応じている。派手なグループの子は、口こそ利かないものの、一緒にサッカー部の朝練にも来ていた子だったと思う。
 蝉川くんと親し気に話している中、彼女がなにかを彼に渡しているのが見えた。
 あ……。わたしは言葉を詰まらせた。その小さな袋は、見覚えがあった。
 神社のお守りだ。多分、必勝祈願。

「……泉ちゃん、行こう」
「で、でも」
「……蝉川くん、デリカシーないから。多分、好かれてるって自覚もないんだよ。あの子、どう見たって蝉川くんに気があるじゃない。いいの?」

 沙羅ちゃんは必死にわたしをこの場から動かそうと腕を引っ張るけれど、それでもわたしは石像になったみたいに動けないでいた。
 ……当たり前のことだ。
 蝉川くんは、本当にいい人なんだもの。わたし以外にも好きになる人だって現れる。あんな可愛い子に好かれてたんじゃ、勝ち目なんてないや。
 ……馬鹿だなあ。わたしは途端に暗くなる。
 図書室で一緒に当番するだけで満足してたら、傷付かずに済んだのに。ふたりがしゃべっているだけなのか、付き合っているのかはわからないけれど、見ているだけで、酸素が薄くなったように息苦しい。
 わたしは沙羅ちゃんの手を解いて、ふらふらと信号を渡る。
 渡ったところで、一緒にしゃべっていた蝉川くんと女の子が振り返った。蝉川くんは元気に手を振る。

「よっ、間宮! また見に来てくれるのか?」
「……う、うん」
「あ、いつも見に来てる子だよね。おはよー」

 綺麗な子はにこにこ笑いながら手を振る。朝から化粧をばっちりしていて、浮かべている表情は晴れやかだ。
 地味で目立たないわたしのことも覚えているなんて……いい子なんだ、きっと。なんとなくそう思ってしまうと、ますますこちらがいたたまれなくなる。
 勝手に自己嫌悪に陥って、勝手に被害妄想に陥る自分が馬鹿みたいだと。
 慌てて沙羅ちゃんが追いかけて信号を渡ってきた。

「ちょっと、泉ちゃん!」
「うん……またグラウンド、見に行くからね」
「おう」

 そのままよろよろと歩きはじめて、沙羅ちゃんが「ちょっと、泉ちゃん……!!」とさっきよりも声が大きくなることに気付いた。
 わたしが思わず顔を上げて、気付いた。
 信号のない路地から、トラックが出てきたことに気付かず、そのままふらふらと歩いていたんだ。
 耳をつんざくようなブレーキの音。しまったと思う暇もなく、体がぶわり、と浮かぶ。
 全てがスローモーションに見えた。
 歩道を渡ろうとしていた人の驚いた顔や、慌ててスマホを取り出してどこかに電話をかける人たちの声。トラックに乗っている運転手さんの顔は、わたしからだと見えない。
 死ぬ間際には走馬燈が見えるって言うけれど、わたしはなんにも見えなかった。死ぬ前に思い出したいほど、強い思い出はわたしにはまだなかったみたいだ。

「間宮……!!」

 あのとき、わたしのことを呼んだのは、蝉川くんだったんだ。
 馬鹿だなあ、わたし。
 勝手に自爆した挙句に跳ねられて、勝手に忘れて。皆に心配かけて……挙句に、綺麗な女の子……塩田さんだって全然悪くもないのに謝らせて。
 わたし、本当に馬鹿じゃない。

****

 あのとき、蝉川くんは多分救急車に乗ったんだと思う。救急隊員の人と警察に事情を説明するために。
 ひどいものを見せちゃったんだなと、丸一日起きなかったせいで、そのときのことは想像することしかできなかったけれど。
 多分うちに連絡をしてくれたのは沙羅ちゃんだ。だからお母さんが来てくれたんだろう。
 わたしの蝉川くんに関する記憶が抜け落ちてしまったとき、どうして見えることも触ることもできなくなっていたのかは、わたしが車いすでぼんやりしている間に、先生がお母さんに説明してくれていた。ただ、あのとき、わたしはそれを上手く認識することができなかった。

「緑内障は、片方ずつじゃないと診断が難しいというのはご存知ですか?」
「ええっと……どういうことでしょうか?」
「はい、両目でものを見ても、物がふたつに見えることがないのは、利き目のほうの見えない視力を、もう片方の目で情報を補っているせいです。欠けているものをもう片方で補われてしまったら、診察が困難ですから、片方ずつ診断しなければならないんです。泉さんの記憶も同じで、忘れてしまった彼のことを思い出せないせいで、無意識のうちにいないものと判断してしまったようです」
「それって……」
「脳というものは、簡単に本人を騙してしまうんです。昔、脳の実験でこんなものがありました。ある監視カメラに映った犯人の姿を皆で再現しようというものです。見せた実験対象たちの中にさくら《、、、》を混ぜ、さくら《、、、》が嘘の犯人像を口にしてしまったところ、実験対象たちの記憶は混同し、間違った犯人像が完成してしまったんです。人間は自分にとって都合の悪いもの、気持ち悪いものは無意識のうちに遠ざけようとします。泉さんの場合も、忘れてしまった蝉川くんのことを「見えない」と認識することでなかったことにしてしまったんだと推測できます」
「それは……元に戻るものなんでしょうか?」
「わかりません。記憶が戻ることもあれば、戻らないこともあります。ひと月。ひと月経っても戻らない場合は、そのほとんどは戻ることがありません……ただ、無理に思い出させようとすることだけは、どうかやめてください」
「と、言いますのは?」
「記憶喪失になった場合、思い出すのに脳に負荷やストレスがかかります。自主的に思い出すならともかく、周りからせっつかれた場合、泉さんの脳にどう作用するかわかりませんから。彼女が自主的に思い出したいと行動するまでは、どうか待ってあげてください」

 わたしが忘れてしまっても、彼のことを認識できなくなってしまっても、どうして蝉川くんはわたしにちょっかいをかけてきたのかはわからない。
 目の前でトラックに跳ねられたのを見て、責任を感じてしまったのかもしれない。だって、あれは本当にわたしが悪かったんであって、蝉川くんはなにも悪くなかったの。
 むしろ、「見えない」わたしは、無自覚とはいえど、なんであんなに彼を振り回したのか、本当に意味がわからない。