好きな人がいることにした。

****

「はあ……」

 わたしは溜息をついた。
 ずっとレンくんと話をしていたはずなのに。見えない男の子で、わたし以外には声が聞こえていない幽霊みたいな人。手を繋いでいて引っ張られる感覚はあっても、触感だってない。
 それが外見を知った途端に態度を変えるなんて、自分はどうかしているとついつい思って自己嫌悪に陥ってしまう。
 なによりも。レンくんはわたしが彼の外見を知る前と知ったあとでも、なにひとつ態度を変えていないんだ。
 だからこそ、ちくちくと不毛だという言葉が突き刺さるんだ。
 ……見えない男の子のことを好きになったところで、どうにもならないじゃないと。
 見えないから、触れないから。彼の声が聞こえない限り、いるのかいないのかわからない人を好きになったところで、どうなるんだろう。
 なによりも、外見を知った途端に態度を変えたら、そんなの失礼じゃないかと思ってしまうんだ。
 レンくんはおかしなわたしに対しても、ちっとも態度を変えていないのに。
 自己嫌悪がズキズキと突き刺さるのを感じていたところで、ふとスマホを見る。
 スマホには当然カメラが搭載されている。それでわたしはなにげなく景色を映してみた。わたしの近くは、今はテスト勉強用の単語帳を広げている子や、赤シートを駆使して暗鬼をしている子、皆でクイズ大会をしながらテスト勉強している子ばかりが目に留まる。
 あちこちを映して回ってみても、レンくんの姿はなかった。
 そう、だよね。わたしはスマホを鞄にしまい込みながら、家路を急いだ。
 レンくんがいつもタイミングよくわたしに声をかけてくるからといって、いつも一緒にいるわけがない。
 わたしもなにを期待してたんだろう。
 そして、少しだけ萎む気持ちを叱咤する。なにを勝手に期待して、勝手にがっかりしているんだろうと。

****

 昼休み、普段だったら皆外にお弁当を持って行って食べたり、食堂に行ってご飯を済ませるのに、ほとんどは購買部やコンビニで買ったパンやおにぎりを食べて、教室で勉強にかかりっきりになっていた。
 そういうわたしも、購買部で買ったメロンパンと紙パックの紅茶でお昼を済ませると、テスト勉強をガリガリとする。暗記ものは家でじゃないと覚えきれないけれど、苦手な数学はせめて赤点くらいは回避したいから、毎日のように文章題の勉強をしている。数式計算だけだと、赤点回避にはちょっと足りない。
 教室は皆、テスト前だからと勉強にかかりっきりになっている。当然部活も休みで、休み時間や登下校中に聞こえる運動部の掛け声も、声楽部のコーラスも、吹奏楽部のクラリネットの音色も聞こえてこない。
 うちの学校の古い冷房が、ぶおんと埃を撒き上げて教室を冷やしていく音を耳にしていたところで、「泉ちゃんは今回のテスト、調子はどう?」と声をかけられて、顔を上げる。
 沙羅ちゃんは数学や英語は問題ないから、もっぱら暗記ものをしようと、赤シートと赤ペンを片手に勉強をしている。絵美ちゃんはどちらかというと英語の赤点回避のために、せめてもと英単語の暗記を続けているみたいだ。
 わたしは数学の問題集をちらっと見せて、首を振る。

「全然自信ないよー」
「うん、そうだよねえ」
「うんうん」

 そんな会話をしつつも、入院していてちんぷんかんぷんなわたしはともかく、ふたりともそこそこの成績を取っているのを知っている。社交辞令って言ってしまったらそれまでなんだけれど。
 テスト範囲の山をかける度胸もないから、こうやってちまちまとできる範囲で点数を稼ぐしかないなあとぼんやりと考えていたところで、沙羅ちゃんが「最近、泉ちゃん元気ない?」と聞かれる。思わず瞬きをする。

「え……そう見える?」
「見えるかなあ。もうすぐテストだけれど、なにかあった? 委員の当番のときとか」

 そう言われて、わたしは思わずルーズリーフに立てていたシャーペンの芯をぽきりと折る。それが床に転がったのを尻目にわたしは目をぱちぱちぱちとさせてしまう。

「ど、どうして?」
「泉いずみ、それ全然隠れてないからね? 隠してるつもりだったら謝るけどさ」

 絵美ちゃんに首を振られても、わたしはあわあわしている以外にできず、思わずルーズリーフに視線を落とす。
 すると沙羅ちゃんは困ったように眉を下げて笑う。

「私にも言えないこと?」
「……うーんと、ちょっと待ってね」

 あのとき一緒に撮ったプリントシールは、生徒手帳に貼っている。でもそれを見せる勇気なんてちっとも出ないから、わたしはただ、小さくごにょごにょと言う。

「……気になる人と、ちょっとだけ。散歩したんだ」
「え?」
「おおっ!」

 沙羅ちゃんが目を瞬かせ、一方絵美ちゃんは目を輝かせる。
 絵美ちゃんは詰め寄って「誰!? 私たちの知ってる人!?」と案の定聞いてくるので、わたしはますます口元をごにょごにょとさせてしまう。
 機械を使わないと見えないし、触れないし、「レン」って名前以外知らないし、どう説明すればいいんだろうと、ただわたしは蚊の鳴くような声で、「多分知らない……」とだけ言う。
 絵美ちゃんはますます「どんな人!? 格好いい!?」と聞くので、わたしは助けを求めるようにして沙羅ちゃんを見ると、沙羅ちゃんはなにかを考え込むように、唇に親指を押し当てていた。

「ええっと……泉ちゃんの好きな人って、もしかして、背がわたしと同じくらい?」

 それにわたしは思わず肩を強張らせる。沙羅ちゃんは女子としては身長が高めだけれど、スポーツやっている男子よりは当然低い。
 レンくんはサッカー部のユニフォームを着ていたけれど……サッカー部の見えない人……なのかなあとぽつんと思う。
 でも。どうして沙羅ちゃんがそんなこと言うんだろう。わたしがぼんやりと思ったら、その言葉に絵美ちゃんは「ああ……」と言葉をすぼめ、さっきまでの勢いを殺す。

「泉、そいつと遊んできたんだ?」
「遊んで……本当に、ただ散歩して、ご飯食べただけだよ」
「それデートじゃん」

 そう絵美ちゃんに指摘されても、わたしだってどうすればいいのかわからなかった。
 沙羅ちゃんだけでなく、絵美ちゃんにまで気を遣われてしまう理由が、こちらにはさっぱり。
 隠し事? そうは思っても。そもそも見えない男の子のことなんていったいどう聞けばいいのかわからず、わたしは喉を詰まらせた。
 わたしが忘れてしまっている事故のときの前後のことは、相変わらずちっとも思い出せないし、思い出すきっかけすら掴めない。それでもちっとも困っていないから放っておいたけれど。
 レンくんは、わたしが思い出せないこととなにか関係しているんだろうか?
 そうじんわりと胸に広がっていく疑問を打ち消すように、絵美ちゃんが「あーあーあーあー!!」と声を上げる。

「とりあえず! テスト頑張ろう!」

 中途半端な声を上げたせいで、こちらにクラスメイトが怪訝な顔で振り返ったけれど、絵美ちゃんは気にすることもなく「とりあえず室町時代、金閣寺つくった人は!?」と無理矢理話を締めてしまったので、わたしたちはおずおずと口を開いていた。

「ええっと……足利義満……?」
****

 今日は天気が悪く、来週からテストだっていうのに、台風が近付いてきているってニュースも流れてきていた。
 わたしはじっとりと纏わりつく湿気にうんざりしながら、群青色の空の下を歩いていた。
 今日は図書館で勉強する気にもなれず、そのせいかレンくんの声を聞くことはできなかった。
 皆がなにかを隠しているような気がする。そうは思っても、わたしの事情を明かすこともできないし、どうしたものか。
 そうひとりでもやもやを抱えていると、「あれえ、図書委員の子、だよね?」と間延びした声をかけられ、わたしは怪訝な顔で声のほうに振り返った。
 身長はモデルさんみたいで、沙羅ちゃんよりも10cmは高い。同じ制服を着ているけれど、はっきりいってあちらのほうがスタイルがいいということは嫌でもわかる。
 髪はすすけた茶色に染まっているし、前髪で見え隠れする耳にはピアス穴が開いているのが見える。派手な外見の子とは、はっきりいってあまり縁がないため、こうやって声をかけられてもどう返事をすればいいのかわからず、わたしは挙動不審になって視線をうろちょろとさまよわせる。

「ああ、ごめんごめん。別に脅したいとかたかりたいとかじゃないからさあ。あんまり怖がんないでよ」
「ええっと……はい」
「あー、タメなんだから敬語なんて使わなくっていいよ。あたし、塩田桃子《しおたももこ》。B組。おたくはA組の図書委員でしょ?」
「え? あ、はい……A組の間宮泉……です」
「だからあ、敬語なんていいって」

 格好は派手だし、口調は結構癖があるけれど、そこまで悪い人じゃないらしいと、どこかほっとする。
 でも、図書委員って知ってるのはなんでだろう。もし図書館を使ってるなら、わたしも週に二回は当番でカウンターにいるんだから、わかると思うんだけれど。貸出申請だってしてるから、名前を見たことだってあると思うけれど、塩田さんって苗字の同学年の女の子から貸出申請を受けた覚えはない。
 わたしが思わず怪訝な顔をしてしまったのがわかったのか、塩田さんは「あはは」と笑う。

「警戒なんてしなくっていいってば。ねえ」

 そう言って塩田さんは眉を下げる。そして彼女は「ええっと……」「うーんと……」とどもり出す。そしてええいままよとでも思ったのか、いきなり90度に背中を折り曲げて、こちらに頭を下げてきたのだ。
 わたしはさすがにぎょっとして目を見開く。

「ごめん! いきなり謝られたら迷惑かもしれないけど! でも絶対に夏休み入る前には謝らないとって思ってたから!」
「ええ……?」

 ますますもってわからない。
 初対面のはずの塩田さんに、いきなり謝られてしまう理由が。派手な見た目に反して、意外と律儀な塩田さんの態度に、わたしは目を白黒とさせて、おろおろとする。

「あ、あの……顔を上げて! 本当に、わからないから……!」

 あわあわと塩田さんに手を振る。いきなり謝られても困ってしまうし、こんな綺麗な人に謝られるようなことをされた覚えもない。
 ただ、直感はしていた。
 彼女は、明らかにわたしが失っている記憶に関わっている。

「あ、あの……塩田……さん?」
「ん?」
「えっとね、顔を上げて。それと、ちょっとだけ話、いいかな。ここだったら目立つかもしれないから、もうちょっと座れそうな場所で」
「うん……」

 ようやく顔を上げてくれた塩田さんと、わたしはテクテクと歩いていく。
 公園で座っているのも、今日みたいな中途半端な暑い日だと参ってしまうし、繁華街はちょっと遠いからハンバーガー屋でしゃべるっていうのもなしだ。
 結局着いた先はコンビニで、コンビニのカフェメニューを適当にコーヒーを頼んでから、イートインコーナーに入ることとなった。
 そこの先に入っていた男子中学生がちらちらとこちらを見てくるのが痛い。片やばっちり化粧をしていて綺麗な女子と、片や地味で日焼け止め以外なにもしていない平凡顔の女子だったら、顔面偏差値が違い過ぎる。
 わたしはコーヒーにミルクを入れて混ぜながら、口を開いた。

「あの……塩田さん。変なこと聞くけれど、いいかな?」
「あたしでいいんだったら」

 塩田さんは注文したココアをすすりながら、カウンターに頬杖をついた。それにギクシャクしつつ、近くでスマホゲームに夢中になっている中学生を尻目に、わたしは口を開いた。

「わたしが、五月の終わりくらいに事故に遭ったんだけれど」
「うん……」

 それに塩田さんが顔を曇らせるのを見て、確信した。
 やっぱり彼女は、あの事故のことを知ってる。というより、多分近くにいたんだ。
 覚えていなくっても、本当に全然問題はないんだ。ただ不可思議なことが色々あって、それが何でとかどうしてって思うだけで、わたし自身なんにも問題がない。
 でも……何故か変に気を遣われているような気がするから、それを煩わしく思うことがある。事故に遭ったのに、誰もかれもがそのことについては口を閉ざしているんだから。
 お母さんは、事故の前後のことは知らないんだと思う。でも、なにかを知っているみたいな沙羅ちゃん。なにかを黙っている絵美ちゃん。そして……。
 見えないはずのレンくん。何故か機械にだけは映っている、触れないし見えないし、黙られてしまったらどこにいるのかもわからない男の子。
 これは全部、わたしが遭った事故に繋がっているような気がしたんだ。
 ……ただ謝りに来てくれた塩田さんに、それを蒸し返してしまうのは酷なことかもしれないけれど。それでもわたしは知りたかった。
 わたしが忘れてしまったことって、いったいなんだったのかを。

「わたし、あのときの前後のこと、全く覚えていないの」
「……ええ?」

 それにさすがに、塩田さんは目を見開いて、口を付けていたストローをぽろっと唇から外した。
 わたしはコーヒーボトルで両手をくっ付けながら、頷く。

「事故自体は、そこまでひどかったんじゃないと思う。わたしも丸一日寝てただけだし、病院には定期的に通っているけど、後遺症もないみたいだから。でもひと月経った今でも、あのときになにがあったのか思い出せないんだ。なにがあったのか。塩田さん、もし知っているんだったら教えて。わたし、あのときになにがあったの?」

 隠さないで欲しい。ちゃんと教えて欲しい。塩田さんはわたしのことを知っていても、わたしにとっては初対面。我ながら初対面の人に残酷なことを言っていると思うけれど。
 謝りに来たはずの塩田さんに、なんてこと言っているんだと思うけれど。
 皆が隠していることがなんなのか、わたしは教えて欲しかった。
 塩田さんはしばらく無表情でこちらを見ていた。
 ときどきスマホゲームの電子音混じりなBGMが流れ、中学生がオーバーリアクションしているのが目に入る。
 やがて、塩田さんはひとつ「ふう」と息を吐き出した。

「そうだよね。当事者がなんにも知らないんじゃ、あたしが謝っても、仕方ないもんね」

 そう言って塩田さんが口を開いた。
 ようやく、あのときになにがあったのかわかると思ったとき。塩田さんが目を丸くした。
 え? わたしが思っている間に、ガッタンとわたしは立ち上がっていた。誰かに引っ張られている。そう気付いたときにはもう遅く、わたしは鞄ごとズルズルと引きずられていた。

「ちょっと……なに!?」
「間宮、やめとけ」
「レ、レンくん!?」

 こちらのほうを、塩田さんだけでなく中学生たちまでびっくりして見ている。
 今まで。レンくんがこんな態度を取ることなんてなかった。今までは、わたしが気付かなかったらそのままだったし、気付いたときにはいろいろしゃべってくれていた。でも。
 人前でこんなに大事を起こしたことなんてなかった。
 見えないのに。声が聞こえないといるのかどうかもわからないのに。なんでこんなことをするのかわからなかった。
 わたしが力を抜いた途端に、そのままレンくんに鞄ごと引きずられていく。
 そして、レンくんの信じられない言葉を耳にした。

「……悪い、塩田。ちょっとこいつ借りる」

 塩田さんに対して、そう言ったのだ。
 彼女は力なく顔を緩めると、こちらに対して緩く手を振った。
 え、ちょっと待って。これってなに? なんなの?
 わたしはツッコミを入れる暇もなく、店員さんの「ありがとうございますー」の声を背に、コンビニから出てしまった。

****

 レンくんの触れない手がようやくわたしを離してくれたのは、前に散歩の待ち合わせをしていた矢下公園だった。
 テスト期間中だから、当然ながら運動部はどこもここのグランドを借りてスポーツなんてしていない。遊具のほうに母子連れの集団が集まって一緒に遊んでいるのが目に入る程度だ。
 わたしはようやく自由になったのに、どこにいるのかもわからないレンくんに向かってがなってしまう。

「なにするの!? せっかく……聞けるところだったのに!!」

 対してレンくんの声は、いつもよりも硬く険しい。

「……間宮、あの事故のこと聞く気だったのか?」
「そうだよ! なんか皆が隠してるってわかるもの……気を遣ってくれるのは嬉しいけれど……臭いものに蓋をされているというか、腫れ物に触れられるというか……そういう扱いされると、こっちだって気になるもの」

 わたしが吐き出した言葉を、いったいレンくんはどんな表情で、どんな態度で聞いていたのかはわからない。
 ただ、黙られてしまったら、どこにいるのかがわたしにはわからなかった。
 お願いだから、ちゃんと教えて。
 どこにいるのか、教えて。
 あなたは、ちゃんといるんだよね?
 自分でも訳がわからなくなって、最後にはとうとう目尻に涙が溜まりはじめていた。

「おい、間宮。泣くところあったか?」

 しばらくの沈黙のあと、ようやく、レンくんの言葉が耳に入ったことにほっとする。
 胸はグジグジと痛んでいるのに、現金なものだ。

「わかんない……。どうして涙が出るのか……なんでこんなに訳がわかんないのか、もう全然わかんない……」
「泣くなよ」
「だってわたしは、あなたが黙っちゃったらどこにいるのか全然わからないんだもの。ねえ、レンくんはいるんだよね? 本当に、いるんだよね?」

 レンくんのその言葉を聞いてほっとしているわたしは、きっとずるい。
 彼の優しさに付け込んでいるんだから、本当にどうしようもない話だ。
 でも。わたしは彼に黙られてしまったら、もうどこに彼がいるのかわからないんだ。だからわたしを慰める言葉でもいい、罵倒でもいい、ちゃんと「いる」って安心させてほしかった。

「どうして、誰も教えてくれないの? レンくんは、知ってるの?」

 その言葉に、レンくんは答えてくれなかった。替わりに「ごめんな」のひと言が耳に入ってきた。
 違うのに。わたしが聞きたいことは、それじゃないのに。
 どうしてここまで胸が痛いのか、わたしは本当にわからなかった。
 蝉の鳴き声がけたたましい。
 テストがはじまって、教室の空気も冷房の冷気と一緒に集中の熱気が篭もって、混沌とした雰囲気になっている。
 あの日以来、レンくんの声はピタリと聞こえなくなってしまった。図書館に行っても、人気のない廊下に出ても、彼の声を聞くことがとうとうできなくなってしまったんだ。
 レンくんの声が聞こえなくなると、途端にきゅっと心臓が痛くなる。
 唯一彼がいると証明してくれるのはプリントシールだったけれど、それを貼っている生徒手帳を毎日開けて眺めるわけにもいかず、ただ生徒手帳を制服のスカートのポケットに入れて、ときどきスカート越しに生徒手帳に触れて、安心するしかない。
 彼はたしかにいると。
 テスト期間のせいで、通院する回数も減り、わたしがひとりでネットや図書館で勉強した記憶喪失に対する疑問を打ち明ける機会もなく、次の通院までずるずると待つしかできなくなっている。
 塩田さんとはというと、話をしたくっても、タイミングが悪く、いつも邪魔が入る。
 廊下で話をしようとしたら、沙羅ちゃんから「ちょっとごめん……掃除当番の子がひとり先に帰っちゃって……悪いんだけれど、手伝ってくれる?」と言われてしまったら、班の半分以上が勉強や面倒臭いと言い訳並べて帰っちゃっている状態なんだから、手伝わない訳にはいかない。
 放課後に待ち合わせしようとしたら、絵美ちゃんから「泉ー! ちょっと部活の記事読んで欲しいんだけど!」と頼まれる。どうもコンクールで選考を通ったらしく、その発表のために新しい記事を書かないといけないという。
 ふたりがあからさまに塩田さんへの接触を阻もうとするのに、さすがに塩田さんに悪いんじゃと思っていたけれど、そのたびに彼女は人のよさそうな顔で目尻を下げて笑っている。

「あぁあ、やっぱりあたし嫌われてるねえ」

 そうしみじみと言うものだから、申し訳ない。
 彼女はそこまで悪い人とは思えないんだけれど、あからさまにふたりが敵視しているのが気になった。
 でも……レンくんが塩田さんのことを呼んでいたことも、まだ聞けていない。
 こうしてまともに塩田さんとしゃべれないまま、テスト期間は終了してしまった。
 あとは自習日のあと、学校の大掃除をやって、ようやく終業式だ。
 わたしは今度こそ塩田さんに話をしたいと思いながら、塩田さんと廊下で出会ったときに、ひょいと彼女のスカートのポケットに突っ込んだ。それに塩田さんは「おっ?」と振り返ると、わたしは頭を下げる。
 彼女のポケットに入れたのはメモ。わたしのスマホアプリのIDが書いてある。
 本当だったら直接会って直接話を聞きたいけれど、こうも邪魔が入るんだったら、アプリで話を付けたほうがよさそうだ。
 わたしは素知らぬ顔でIDを渡したあと、そのまま何事もなく学校の用事を済ませた。
 テストの点は、やっぱり現国以外は可もなく不可もない点数で、赤点をギリギリ回避しているだけだった。これで来年の受験は大丈夫なのかとは思うけれど、できるだけわたしの偏差値で行けて、わたしのやりたいことがやれる大学を選ぶしかない。
 アプリで話をすればいいやと思って、その日は塩田さんを探すこともなく、沙羅ちゃんと一緒に帰る。
 沙羅ちゃんは蝉の鳴き声に目を細めながら、にっこりと笑った。

「今年もサッカー部、インターハイに出るんだってね」
「へえ……今年はどこでするの?」
「うん、M県。応援に行けるといいんだけど」
「結構遠いねえ」

 去年もわたしは沙羅ちゃんと一緒にサッカー部の応援にインターハイまで行っていた。去年は親戚のつてがあったから、それで泊まることで旅費を浮かせて応援に行けたけれど、今年はつてがなさそうだ。
 去年は学校からの応援団は他の部のほうに回ってしまっていたせいで、そこについていって応援に行くことができなかった。今年は結構強いから、サッカー部のほうにも応援を回してくれたら、一緒に応援に行けるのになあ。
 わたしがそうしみじみと思っていたら、ふと沙羅ちゃんと目が合う。沙羅ちゃんがまじまじとわたしのほうを見て、遠慮がちに言う。

「……泉ちゃんは、今でもやっぱり思い出したい?」
「え?」

 一瞬なんのことかと思ったけれど、トラックが道路でエンジンを噴かせている音に、わたしは肩を強張らせる。
 トラックに跳ねられた前後のことは記憶が飛んでいるくせに、トラックを見た途端に体が強張るのは、未だに治らない。
 そのわたしの態度を見て、沙羅ちゃんはそっとわたしを車道の反対側に押して、沙羅ちゃんが車道側に回って歩き直す。そして、ぽつんと言った。

「私は、思い出して泉ちゃんが辛くなっちゃうのなら、思い出さなくってもいいって、今でも思ってる」
「え……沙羅ちゃん?」

 わたしが思わず沙羅ちゃんの顔をまじまじと眺めると、沙羅ちゃんはゆるりと笑う。目尻を下げて、今にも泣きだしそうな顔をされてしまったら、彼女は本気でわたしが傷付くのを嫌がっているんだって、わかってしまう。
 思えば。沙羅ちゃんがなにかに対して怒っていたり、ちくりと棘を出していたときに話題に出していたのは、いつもわたしのことだ。
 沙羅ちゃんはどちらかというとわたしと気性はよく似ていて、滅多に人に対して当たりが厳しくなったりしない。そんな穏やかな子に無理させてしまっていたんだと、我ながら情けなく思った。
 わたしが俯きそうになったとき、沙羅ちゃんは口を開いた。

「泉ちゃんは思い出したそうで、いろいろなにかやってるのは知ってても、どうしても邪魔しちゃう……説明しなかったら、ただ意地悪しているようにしか見えないはずなのに、それでも言えなかった。ごめんね」
「……沙羅ちゃん。ごめん。心配してくれるのは嬉しいけど、でもね」

 わたしはスカートの上から、ポケットを撫でる。今日もプリントシールを貼った生徒手帳はそこにある。
 ……レンくんは、たしかにいるはずなんだ。
 彼が黙ってしまったら、もうわたしだとどこにいるのかもなにをしているのかもわからない。でも、わたしと遊びに行った彼は、たしかにいるはずなんだよ。
 見えない、触れない、声だけしか聞こえない。
 いるのかもどうなのかもわからない人を、ずっといるって思い続けるのは、結構疲れるんだ。

「……前にもちょっとだけ言ったけどね。好きな人が、いるんだ」
「泉ちゃん」

 沙羅ちゃんは眉を潜ませる。……本当に、沙羅ちゃんはレンくんのことが嫌なんだなあ。塩田さんに向けていたのと同じような、棘のある顔をする沙羅ちゃんを安心させるように、わたしは笑顔で続ける。

「でもね、わたしには何故か見えないし、触れない……本当に、どうしてこうなったのかわたしにもわからない。病院で検査しても、わたし悪いところなんてどこにもないんだよ?」
「泉ちゃん……それ、本当?」

 沙羅ちゃんがつらそうな顔をすると、わたしもつらい。できるだけ安心させるように、わたしは言葉を重ねた。

「嘘ついてもしょうがないよ。誰も信じられないだろうから、わたしもこれを口にしたことって、ないけどね……忘れる前のわたしは、なにかやってた。それがなんなのか、わたしは知りたいんだ」
「……泉ちゃん」

 沙羅ちゃんは眉を潜ませて、唇を噛み、なにかを必死で考えているように視線を落とした。
 本当だったらわたしを説き伏せて、その考えを捨てさせたいんだと思う。
 でも、彼女は一瞬だけかぶりを振ったあと、こちらに対して口角を持ち上げた。

「うん、泉ちゃんが決めたんだったら、それでいいよ」
「沙羅ちゃん……ありがとう」
「泣きたくなったら、私はいつでも待ってるからね?」

 そういたずらっぽく笑う沙羅ちゃんに、わたしは心から感謝した。
 親友に、もう向いてないことをさせたくないなあ。わたしは、沙羅ちゃんに無理ばっかりさせてるもの。
 蝉時雨がけたたましい中、わたしたちはようやくそれぞれに家路に別れたのだ。

****

 家に帰ったあと、スマホを確認したら、知らないIDからアプリチャットが入っていた。
 確認したら、それは塩田さんだった。

桃子【間宮さん、大丈夫?】

 メッセージを読んで、すぐに返信した。

泉【はい、大丈夫。ごめんね、いきなりID押し付けて】
桃子【いや、いいよ。聞きたかったのは、間宮さんが事故に遭った日のことだよねえ】
泉【うん】
桃子【でも、間宮さんの友達も結構トラウマってるみたいだからねえ……だから、多分言いたがらなかったんだとは思うよ。何度も邪魔してきてたのは、それが原因だと思うな。あの子たちもパニックになっていただけなんだから、そこは許してあげてね】

 塩田さんは存外面倒見がいいらしい。
 そういえば、派手な外見の子たちと集まって、よく遊んで帰っているみたいだけれど、グループの女の子たちの姉御分みたいで、よく甘えてきている子たちの面倒を見ているようだったな。あまり交流のないグループの様子を振り返りながらそう思う。
 わたしは彼女の言葉にありがたく思いながら、言葉をタップした。

泉【大丈夫。友達ともちゃんと話をしたらわかってくれたから】
桃子【そっか。それなら大丈夫かな。あー、こっから先は、電話で大丈夫?】
泉【えっ? うん】

 すぐ、アプリの電話機能がついて、スマホが鳴った。わたしはそれを取る。

「もしもし」
『ごめんね、無理に電話にしてもらって』
「ううん、わたしのほうこそ、何度も何度も押しかけたのに」
『そりゃ記憶が飛んでたら気になるから、それは気にしないで……じゃ、あのときのことだけど』

 塩田さんが、あのときのことを口にした。
 それを耳にした途端、わたしは目の前が真っ白になったような気がした。
 視界がぐにゃりと魚眼レンズを覗き込んだときのように、曲がって見える。まるでくるくる回って、世界全体がぐるぐる回っているような錯覚に陥った。わたしが黙り込んだのを、慌てて塩田さんが声をかけてくる。

『ちょっと、間宮さん大丈夫!?』
「ごめん……ちょっとショックを受けただけだったから……でも、そのせいかな。思い出した、みたい」

 ぐるぐると視界が回る。
 もう座っていることも困難で、わたしはベッドに突っ伏して、目が回るのをやり過ごす。
 行儀悪くベッドの下に置きっぱなしの鞄に手を伸ばすと、中身を漁って、つるつるした小さな紙袋をふたつ、引っ張り出してきた。
 掌に納まったのは、神社で買ったお守りがふたつ。
 ひとつは渡しそびれたもの、もうひとつは訳もわからないまま買ったもの。
 馬鹿だなあ……わたし、本当に馬鹿だ。いろんな人に心配されて、守られていたのに。本当に、馬鹿だなあ。

「……蝉川《せみかわ》くん」

 好きな人の顔も、名前も、忘れてしまっていたなんて、大馬鹿だ。
****

 わたしは読書が趣味の文系女子だし、スポーツ大会で花形になり、朝礼のときに表彰状を授与されている人たちとは無縁だと思っていた。
 身長が大きいし、声は大きいし、ひとりっこで男子に慣れていないわたしにはどうしてもガサツに思えて怖い。小学校の頃から持っていた苦手意識は、年を追うごとに隔たりになって、気付けば同じクラスにいる違う人種というくらいにまで、自分とは関わりのない人認定をしてしまっていた。
 だから一学期早々、委員を決める投票を見たとき、ものすごく青い顔になったことを、ようやく思い出した。
 黒板に書かれている正の字。
 図書委員の候補者で、圧倒的に多いのはわたしの名前の下。わたしが去年も図書委員をしていたのを知っていた子たちがこぞって入れたんだろうと、納得できたけれど。
 問題は男子。男子は押し付け合いをしたかったのか、候補に挙がった子は多かったけれど票がばらばら。でも明らかに組織票が働いている男子が、わずかに他の男子の票の数を上回っていたんだ。

「うわあ、誰だよ! 俺に票を入れた奴!!」

 そう頭を抱えて声を上げる男子を見て、わたしは小さく震えていた。
 髪は金髪だし、身長こそ沙羅ちゃんと同じくらいだけれど、それでもわたしよりは充分高い。声が大きいし、明るすぎる。別にわたしは根暗というわけではないけれど、テンションが違い過ぎる人は、どうしても怖いと思ってしまうんだ。
 蝉川くんに票を集中投下したのは、案の定サッカー部の男子たちだった。

「やあ、だってお前だって俺らに票入れただろ。練習時間減るじゃん」
「そうだけどさ! でもよりによって図書委員って! 俺が本を読むように思う訳!?」
「そりゃ入れるだろ。お前やかましいんだから、もうちょっと静けさを覚えろ」
「どんな説得!?」

 サッカー部の男子たちがギャーギャー言い合っているのを、わたしは縮こまって見守っていた。
 沙羅ちゃんは困ったようにわたしのほうに寄ってきて、わたしが震えているのに絵美ちゃんが抱きついてくる。

「ごめん、泉ちゃん。去年も図書委員だったし、楽しそうだったから、今年も泉ちゃんに票入れたんだけれど……」
「せめて滝だったらよかったのにねえ、よりによって蝉川かあ。蝉のようにけたたましいじゃん」
「う、ううん。いいよ。きっと部活が忙しいから、委員の当番はわたしに押し付けるだろうし……」
「こら、そこは「サボるな!」と抗議すべきところでしょ!」
「だって……どう言えばいいのか、全然わからないんだもん……」

 沙羅ちゃんと絵美ちゃんにさんざん慰められたものの、わたしはひとりで震えていた。
 サッカー部は去年、滝くんが入部してから絶好調で、他校からも女の子のファンがやってきたり、ときどきサッカー雑誌が取材に来ているのは知っている。去年は沙羅ちゃんの付き添いでインターハイを見に行ったくらいだから、サッカー部は真面目に真面目にサッカーをやっているという事実はわかってはいる。いるんだけれど……。
 滝くんは女の子にモテているにも関わらず、誰とも噂が流れないくらいに硬派だし、無口なほうだから、図書委員で一緒になっても大丈夫だろうなとは思っていたけれど。
 蝉川くんはテンションがわたしと全然違うし、背が小さいけど金髪で典型的な体育会系だ。いったいどう接すればいいのかわからないと、ついつい気後れしてしまう。
 同じ委員に決まった時点では、彼への印象が全然変わるとは想像だってしていなかった。

****

「これ全部本棚に片付ければいいんだな?」
「うん……でもこれ重いから、カート使ってもいいよ?」
「いいっていいって! それは間宮が使えよ」

 意外だ。と思ったのは、あれだけ練習に行きたいを連呼していた蝉川くんは、当番をわたしだけに押し付けることがなかったことだ。たしかに練習試合で学校にいないときもあったけれど、そのときは事前に謝りに来てくれたし、当番のときだってしっかりと仕事をしてくれている。
 今日も先生が返却した分厚い専門書を何冊も持って、本棚に片付けに行ってくれている。
 重くないかなとハラハラしながら、わたしはカートに生徒から返却のあった小説を棚に片付ける。
 だいたい返したけれど、最後の一冊は台に乘らないと片付けることができない。
 わたしはきょろきょろしながら台を探していて「あちゃあ」と口の中でつぶやいた。
 本を立ち読みしていた子が、そこに座り込んで読書に没頭してしまっている。でもあと一冊で終わりなのに。わたしは困ってうろうろしていたら、既に手ぶらになった蝉川くんがきょとんとした目でこちらを見てきた。

「あれ、間宮返却終わった?」
「えっと……最後の一冊片付けられなくって……」
「ええ、台なかったか?」
「あるけど……」

 わたしはちらっちらっと奥を見る。すると蝉川くんは屈託なく、読書してしまっている子に「ごめんっ! ちょっと台使うからどいてくれない!?」と手を合わせて声をかけてしまった。わたしは思わず肩をビクンッと跳ねさせていたけれど、その子はびっくりしたように本を持って閲覧席のほうへと移動してくれた。
 それを見送り、蝉川くんはこちらのほうへ笑う。

「ほら、空いたから使えって」
「う、うん……ありがとう」

 わたしが台のほうに昇り、最後の一冊を片付け終えたら、カートを押してカウンターへと帰っていった。
 蝉川くんはにこにこしている。

「うん、ひと仕事終えたし!」
「えっと、さっきはありがとう」
「え、なに?」

 蝉川くんはあまりに屈託なく言うので、わたしはどもる。彼の中の普通は、わたしにはなかなかできないことだから。

「えっと……台を、出してくれたから……」
「別に、そんなの普通だろ?」

 彼のことを最初はあんなに怖がっていたのに、気付いたら彼に頼ることも、目で追っていることも増えていった。

****

 中学時代のときから、運動部の子たちは「練習があるから、任せた!」とすぐにそれ以外の子に掃除当番を押し付けてしまうし、わたしは何回も何回も押し付けられていたから、残念だけれどそんな子たちなんだと思っていた。
 でも蝉川くんを目で追うようになってから、そんなことは人に寄るという事実を知った。

「ジャンケンポーン! 負けたぁ! ダッシュでゴミ捨ててくる!」
「おう、行ってこい行ってこい。終わったら練習場まで走りな」
「おーっす」

 蝉川くんはサッカー部の皆と一緒に掃除をしたら、ジャンケンでゴミ当番を決めて、走って練習に向かっているのが目に入った。
 わたしは不思議そうな顔で蝉川くんを見ていたら、絵美ちゃんが「サッカー部見過ぎぃー」と顎を肩に乗っけてきたので、わたしはビクンと背筋を伸ばす。

「い、いやぁ……掃除、普通にしてるなあと」
「あー。部活優先するために押し付ける奴多いもんねえ。サッカー部って遠征で授業抜けたりするの多いじゃない? だから普段からきっちりやることやってなかったら、抜けた部分のノートとか貸してもらえないから、普段から意外とやることやってるんだよねえ」
「そうだったんだ……」

 そういえば、滝くんは女子が好き好んでノートを貸してあげたりしているけれど、他の男子も意外と赤点なかったりするのは、日頃の行いのたまものだったんだなと、当たり前なことに気が付いた。 
 蝉川くんは普段から女子とも男子とも壁なくしゃべっているし友達も多いけれど、身長が運動部にしては低いせいなのか、それとも近くに滝くんみたいな格好いい人がいるせいなのか、いまいち女子にはもてない。でも本人はそれをあまり気にしてないみたい。
 怖くってあんまり関わってなかったタイプの人も、こうして見てみると、わたしたちとあまり変わらないんだなと、当たり前なことを知る。
 これで声が大きくなかったらなあ……。わたしはそう思って見ていた。別に声が大きいからといって、なにもおかしなことはされたことないけれど、小心者には大きな声は必要以上に委縮してしまうものなんだ。
 しゃべるたびに、わたしが勝手に肩を震わせているのに気付いたのか、ある日の図書委員の当番のとき、本当に唐突に蝉川くんに聞かれた。

「俺さあ、間宮になにかした?」
「え?」
「うーん……間宮と何故か全然目が合ったことないから。怖がらせるようなことってしたっけって」

 そう聞かれて、口をへの字に曲げられてしまい、わたしはどっと顔に熱を持たせた。
 変だと思われた。わたしが挙動不審だから。どうにかして蝉川くんが悪くないと、わたしはどうにか顔を真っ赤にしたまま、手をパタパタさせて言い繕う。

「いや、本当に、蝉川くんは悪くないよ? ただ……わたしが、変だから?」
「え? 別に間宮が変だとは思ってないけど」
「そ、そうじゃなくってね……わたしが勝手に怖がっているだけで……」
「いや。怖い理由がなにって聞いているんだけど」
「声……」
「え?」

 蝉川くんはあまりに屈託なく返事をするからか、わたしはぽろっと言ってしまう。

「声、大きいと、小心者は、勝手に委縮するんです……」
「ああ、それか!!」

 それでわたしが勝手に肩を跳ねさせるのに、「ああ、ごめんごめん」と蝉川くんは声を抑えて謝ってくれる。

「そっかあ、悪い。なんか間宮が怖がってるの見てたら、こっちがいじめてるみたいに感じてさあ。じゃあ今度から気を付けるからさ」
「い、いじめられているとは、思ってない、よ? い、いっつも、助けてくれるのは、蝉川くんだから……」

 わたしの言葉は、最後のほうになったらごにょごにょと小さくすぼまってしまって、みっともなくなってしまったけれど、蝉川くんは「そっかそっか」と繰り返す。

「お前うるさいとはずっと言われ続けてたけど、まさかそれが原因で女子を怖がらせてるとは思わなかったしなあ。理由もわかったし、ありがとうな」

 そう屈託なく笑うのに、わたしはまたも頬がどっと熱を持つことに気付く。
 どうにかして返事をしないとと思ったけれど、上手く言葉が出てこず、わたしは「どういたしまして……」と小さく小さく言うことしか、できなかった。

****

 新聞部の部室は、いつもインクの匂いがしている。
 コンクールに出品する記事以外に、学校で貼り出す新聞だったり、文化祭に貼り出す新聞だったりをつくっているせいだろう。
 そこで手をインクまみれにして、絵美ちゃんは振り返った。校正作業を行っている新聞には、赤ペンでびっしりとなにやら書かれている。

「えっ、サッカー部の練習を見に行きたいの?」
「う、うん……サッカー部って、今どこで練習しているのか全然知らないし……わたしひとりで行っても、浮くから……」

 前は放課後で練習していたけれど、外部からもファンが見に来たり、他の学校が偵察に来たりするから、一度部員と見学者でトラブルがあったらしい。それ以降は外のグラウンドで練習しているとは聞いていたけれど、そこがどこかはわたしは知らなかった。新聞部だったら取材に行ったりするから知らないかなと思ったんだけれど。
 絵美ちゃんは「うーん」と声を伸ばす。

「なんか滝のファンがトラブル起こして以来、サッカー部も見学するの厳しくなったしねえ。でもわざわざ外の練習見に行くよりもさあ、朝練見に行ったほうがいいと思うよ? 朝だったら基礎練しかしてないから、偵察に来られてもファンがうるさくっても問題ないみたいだし、うちの学校のグラウンドで練習してるから」
「そうだったの?」
「あはは……普段学校にはギリギリで来るから、朝練してたことは知らないかあ」

 絵美ちゃんはニヤニヤと笑ってわたしを見るのに、思わず「な、なに……?」と聞く。それに絵美ちゃんは「いやあ」と笑う。

「沙羅に続いて、泉までサッカー部に落とされたかあと思ってさあ」
「だ、誰に落とされたの……!?」

 どっと顔を火照らせて、わたしは抗議するけれど、絵美ちゃんのニヤニヤ笑いは止まらない。
 沙羅ちゃんが滝くんを気にしているけれど、滝くんは普段からサッカー部員かファンの女の子たちに取り囲まれているし、本人も不愛想が過ぎる。だから同じクラスになった今でも話しかけるタイミングもなく、遠巻きに見つめているので精一杯なのは知っている。
 ……と、そこで思いついた。

「じゃあ、朝練のとき、一緒に見に行ってもいいかな。沙羅ちゃんも誘って」
「まあ、それくらいだったらサッカー部も文句は言わないと思うよ。ファンも割とキャーキャー言って朝から見てるからねえ」

 わたしが住んでいる場所は校区ギリギリなせいで、登校はどうしても予鈴が鳴る直前になってしまうけれど、早起きすれば見に行けるかな。
 見に行ってなにがしたいわけでもないけれど、いつも蝉川くんが目をキラキラさせているものがなんなのか知りたかった。
 サッカーのルールは体育の授業でやったものくらいしか知らないけれど、それで大丈夫かなあ。
 わたしはそうぼんやりと思った。
****

 それから、わたしはサッカー部の朝練の見学をするようになった。
 普段早めに出ても予鈴ギリギリなんだから、早めに出るのはちょっと眠たかったけれど、グラウンドの周りを見たら、意外と女子が多い。
 他校の偵察みたいな人も来るのかなと思っていたけれど、前にファンと揉めたせいなのか本格的な練習を朝練ではしてないから、そんな人はいなかった。
 グラウンドでランニングをはじめた途端、滝くんのファンたちが「滝くーん!!」と歓声を上げる。
 隣でちらっと沙羅ちゃんを見たら、沙羅ちゃんは頬に手を当てるだけで、声すらかけられないみたいだ。絵美ちゃんはというと、メモ帳を走らせている。

「これも記事にするの?」
「しないよー。でも、一応書いておいたら、あとでネタになるかもしれないしさ」
「ふうん」

 新聞部の事情はわからないけれど、コンテスト用に新聞記事を作成するから、テーマによってはサッカー部に取材交渉に行ったりもするのかもしれない。
 そう思いながらグラウンドのほうに目を戻したら、「あっ、間宮ー!!」と手をぶんぶんと振られて、わたしは思わず肩を跳ねさせる。
 身長が高い順で走っているサッカー部で、後ろのほうで走っていた蝉川くんが、意外とあるバネでピョーンピョーンと跳んでこちらに手を振るものだから、自然とサッカー部員からも見学に来ていた女子からも視線が集まって、わたしは縮こまって絵美ちゃんの後ろに隠れてしまう。
 練習が終わるまで、まじまじと見ていたところで、沙羅ちゃんはくすくすと笑う。

「でも意外だね。まさか泉ちゃんがサッカー部の朝練見学に行きたいって言うなんて」
「そうかな? わたしも、なんで早起きして朝練見てるんだろうって思ったけど」
「サッカー部人気だしねえ、蝉川は、競争率相当低いけどね」
「え、そうなの?」

 わたしが絵美ちゃんの言葉に、思わず声を裏返らせると、沙羅ちゃんと絵美ちゃんから、気のせいか温かい眼差しを向けられてしまい、思わずわたしは肩を縮こまらせる。
 どうも見ている限り、本当に蝉川くんはモテないみたいだとは思っていたけれど。他の人からもそう思われているとは思わなかった。
 モテてしまうのもなんかやだけど、モテないって断定されてしまうのも、なんか違う気がすると、わたしはごにょごにょと口を動かす。

「いや、蝉川くん。いい人だし……優しいし、意外とちゃんといろんなこと見てる人だし……」
「まあ、悪い奴ではないんだと思うよ。ただデリカシーのかけらもないっていうか、女子と男子と区別なく接するせいか、いちいち余計なひと言言って女子を怒らせるせいか、蝉川モテないからねえ。隣に滝がいるっていうのも大きいかもしれないけれど。寡黙なイケメンとうるさいチビだったら、どっちがモテるかって話だわね」
「べ、別に蝉川くん、デリカシーないとか思ってないんだけれど……」
「おやおや?」

 絵美ちゃんに顔を覗き込まれ、わたしは必死で両手で顔を隠した。それに沙羅ちゃんはにこにこと笑っている。
 わたしは妙に安心してしまったんだ。蝉川くんはモテない。だから、格好よくっても彼女ができない。
 そのことにわたしは安心していた。
 わたしは別に、蝉川くんと彼氏彼女になりたいとか、大それたことは考えていない。ただ隣にいても誰にも文句言われないことに、安心したんだ。
 まともにしゃべれるのは図書室での当番のときだけ。運動部の人たちに囲まれている中で声をかけるなんて、怖くってとてもじゃないけれどできない。二学期に入ったらまた委員投票がはじまるから、どうなるのかなんてわからないけれど。
 告白する勇気はなくて、ただ片思いを満喫していよう。ふたりでしゃべれる時間を大切にしよう。
 わたしはそこにあぐらをかいているという自覚が全くなかった。

****

 その日も図書室で当番だった。今日は返却の本もなく、司書さんに「本の修理をしてね」とテープを渡されたので、読まれ過ぎて背表紙から取れそうなページをもう一度背表紙にくっ付ける修繕作業をしていた。
 テープでぺったんとくっつけてから、めくれにくくなっていないかとパラパラとページをめくっていたところで、同じ作業に没頭していた蝉川くんに声をかけられる。

「あっ、今度の日曜ってさ、間宮は暇?」

 日曜日に、暇かどうかを聞かれる。
 わたしは一瞬顔を真っ赤にして、上擦った声で「ど、どうして?」と聞く。変だと思われていないといいなと、心臓をバクバクさせながら。
 それに蝉川くんは「どうした?」と聞かれるので、わたしはブンブンブンと首を振る。
 蝉川くんは一冊ボロボロになってしまっているハードカバーの表紙に当て紙を足して補強しながら、口を開く。

「今度さ、サッカー部の試合があるんだ。決勝戦」
「あれ? まだ大会に、出てないよね……」

 もし練習試合や試合があるんだったら、公休扱いになるはずだけれど、サッカー部が公休になったのは、今月に入ってからまだだったはずだ。
 わたしが首を傾げていたら、蝉川くんは続ける。

「いや、今年のチームだったら多分決勝戦まで残れるからさ。もし暇だったら、間宮見に来ないか?」
「え……」
「用事入ってたか?」

 蝉川くんが小首を傾げる様に、わたしは顔に溜まった熱をどうにか冷まそうと、ブンブンブンと再び首を振る。

「なんにも入ってない。暇。……あの、見に行って大丈夫? 邪魔にならない?」
「え、なんで? 女子が声援上げてくれたら、気合入るじゃん」

 なんだ、女子の声援が欲しいだけか。
 思わずガクッとしたけれど、蝉川くんはのんびりと「滝ばっかり声かけられるのもつまんねえしなあ」と続けるので、わたしは思わずギクリとした。
 そりゃわたしは滝くんのことをなんとも思ってないけれど。
 わたしは少し考えてから、ふと思いついた。

「うん、行くよ。勝ったら教えてね」
「おうっ! 絶対に勝つ!」

 わたしはそう蝉川くんと約束したものの、アプリのIDもスマホの番号も教えていなかったことに気付くのは、それからあとだ。
 ただわたしは、蝉川くんに誘われたことに浮かれて、勝って欲しいなと思って近所の神社で宮司さんが帰ってくるのを見計らって、お守りを買った。
 最後に、神社の賽銭箱にぽいぽいと小銭を入れて、手を合わせた。
 うちの学校のサッカー部が勝ちますように。
 蝉川くんとの約束が守れますように。
 今思っても、浮かれ過ぎだったんだ。あのときの自分にビンタをしたい。
 だって、蝉川くんがフレンドリーなのはわたしだけじゃないもの。誰にだってだもの。

****

 その日、わたしは沙羅ちゃんと一緒に学校に向かっていた。

「ふうん、それで蝉川くんにお守り買ったんだ」
「はじめてなんだ、試合を見に来て欲しいって言われたのは」
「すごいじゃない、ちゃんと言えばなんとかなるんじゃないかな?」

 沙羅ちゃんはにこにこ笑いながらそう言ってくれるけれど、わたしは首を振る。

「言えないよ……気まずくなるの、嫌だし」
「ええ? でも同じ委員の当番のときは、ちゃんとしゃべれてるんでしょう?」
「うん……でも、それは蝉川くんが同じ委員のよしみでしゃべってくれるんであって、それ以外にわたしと蝉川くん、接点がないし……」
「同じクラスじゃない」
「お、同じクラスでも、グループが全然違って、近付くこともままならないので……っ!!」

 わたしがあわわと手を振りながら訴えると、沙羅ちゃんはくすくす笑いながら「気持ちはわかるよ」と答えてくれた。

「うん。私は蝉川くんとちゃんとしゃべれる泉ちゃんが羨ましいけどなあ。私は近付くこともできないから……」

 そういう沙羅ちゃんに、わたしは言葉を詰まらせる。沙羅ちゃんの気になる人は、あまりにも競争率が高過ぎるんだ。

「あ……で、でも。サッカー部の応援だったら、女子の声が欲しいらしいし、沙羅ちゃんも一緒に行こうよ! 新聞部も取材に行くんだから、絵美ちゃんだって言ったらきっと一緒に行ってくれるしさ!」
「うん……迷惑にならないといいよね」
「ならないって」

 お互い、本当に難儀な部の人を気になりだしたものだなと思っていた、そのときだった。
 沙羅ちゃんが一瞬顔を上げたあと、くいっとわたしの手を掴んで道の端に寄せた。そこの信号を待って渡れば学校まですぐなのに。

「あれ、沙羅ちゃん。信号を待たないの?」
「ちょっとコンビニに行きたいんだ……コンビニに寄って行っちゃ駄目?」
「え? いいけど、朝練間に合うかな」
「大丈夫、多分間に合うから」

 そう言って沙羅ちゃんが手を引いてコンビニのある路地に移動しようとしているとき、向かいの信号が青に変わった。
 信号がぽんと変わったと同時に、トラックが走り去り、今まで車で隠れていた姿が見えた。
 綺麗な女の子と、蝉川くんだ。彼女はにこにこ笑いながら、蝉川くんとしゃべっている。蝉川くんはそれに対して笑顔で応じている。派手なグループの子は、口こそ利かないものの、一緒にサッカー部の朝練にも来ていた子だったと思う。
 蝉川くんと親し気に話している中、彼女がなにかを彼に渡しているのが見えた。
 あ……。わたしは言葉を詰まらせた。その小さな袋は、見覚えがあった。
 神社のお守りだ。多分、必勝祈願。

「……泉ちゃん、行こう」
「で、でも」
「……蝉川くん、デリカシーないから。多分、好かれてるって自覚もないんだよ。あの子、どう見たって蝉川くんに気があるじゃない。いいの?」

 沙羅ちゃんは必死にわたしをこの場から動かそうと腕を引っ張るけれど、それでもわたしは石像になったみたいに動けないでいた。
 ……当たり前のことだ。
 蝉川くんは、本当にいい人なんだもの。わたし以外にも好きになる人だって現れる。あんな可愛い子に好かれてたんじゃ、勝ち目なんてないや。
 ……馬鹿だなあ。わたしは途端に暗くなる。
 図書室で一緒に当番するだけで満足してたら、傷付かずに済んだのに。ふたりがしゃべっているだけなのか、付き合っているのかはわからないけれど、見ているだけで、酸素が薄くなったように息苦しい。
 わたしは沙羅ちゃんの手を解いて、ふらふらと信号を渡る。
 渡ったところで、一緒にしゃべっていた蝉川くんと女の子が振り返った。蝉川くんは元気に手を振る。

「よっ、間宮! また見に来てくれるのか?」
「……う、うん」
「あ、いつも見に来てる子だよね。おはよー」

 綺麗な子はにこにこ笑いながら手を振る。朝から化粧をばっちりしていて、浮かべている表情は晴れやかだ。
 地味で目立たないわたしのことも覚えているなんて……いい子なんだ、きっと。なんとなくそう思ってしまうと、ますますこちらがいたたまれなくなる。
 勝手に自己嫌悪に陥って、勝手に被害妄想に陥る自分が馬鹿みたいだと。
 慌てて沙羅ちゃんが追いかけて信号を渡ってきた。

「ちょっと、泉ちゃん!」
「うん……またグラウンド、見に行くからね」
「おう」

 そのままよろよろと歩きはじめて、沙羅ちゃんが「ちょっと、泉ちゃん……!!」とさっきよりも声が大きくなることに気付いた。
 わたしが思わず顔を上げて、気付いた。
 信号のない路地から、トラックが出てきたことに気付かず、そのままふらふらと歩いていたんだ。
 耳をつんざくようなブレーキの音。しまったと思う暇もなく、体がぶわり、と浮かぶ。
 全てがスローモーションに見えた。
 歩道を渡ろうとしていた人の驚いた顔や、慌ててスマホを取り出してどこかに電話をかける人たちの声。トラックに乗っている運転手さんの顔は、わたしからだと見えない。
 死ぬ間際には走馬燈が見えるって言うけれど、わたしはなんにも見えなかった。死ぬ前に思い出したいほど、強い思い出はわたしにはまだなかったみたいだ。

「間宮……!!」

 あのとき、わたしのことを呼んだのは、蝉川くんだったんだ。
 馬鹿だなあ、わたし。
 勝手に自爆した挙句に跳ねられて、勝手に忘れて。皆に心配かけて……挙句に、綺麗な女の子……塩田さんだって全然悪くもないのに謝らせて。
 わたし、本当に馬鹿じゃない。

****

 あのとき、蝉川くんは多分救急車に乗ったんだと思う。救急隊員の人と警察に事情を説明するために。
 ひどいものを見せちゃったんだなと、丸一日起きなかったせいで、そのときのことは想像することしかできなかったけれど。
 多分うちに連絡をしてくれたのは沙羅ちゃんだ。だからお母さんが来てくれたんだろう。
 わたしの蝉川くんに関する記憶が抜け落ちてしまったとき、どうして見えることも触ることもできなくなっていたのかは、わたしが車いすでぼんやりしている間に、先生がお母さんに説明してくれていた。ただ、あのとき、わたしはそれを上手く認識することができなかった。

「緑内障は、片方ずつじゃないと診断が難しいというのはご存知ですか?」
「ええっと……どういうことでしょうか?」
「はい、両目でものを見ても、物がふたつに見えることがないのは、利き目のほうの見えない視力を、もう片方の目で情報を補っているせいです。欠けているものをもう片方で補われてしまったら、診察が困難ですから、片方ずつ診断しなければならないんです。泉さんの記憶も同じで、忘れてしまった彼のことを思い出せないせいで、無意識のうちにいないものと判断してしまったようです」
「それって……」
「脳というものは、簡単に本人を騙してしまうんです。昔、脳の実験でこんなものがありました。ある監視カメラに映った犯人の姿を皆で再現しようというものです。見せた実験対象たちの中にさくら《、、、》を混ぜ、さくら《、、、》が嘘の犯人像を口にしてしまったところ、実験対象たちの記憶は混同し、間違った犯人像が完成してしまったんです。人間は自分にとって都合の悪いもの、気持ち悪いものは無意識のうちに遠ざけようとします。泉さんの場合も、忘れてしまった蝉川くんのことを「見えない」と認識することでなかったことにしてしまったんだと推測できます」
「それは……元に戻るものなんでしょうか?」
「わかりません。記憶が戻ることもあれば、戻らないこともあります。ひと月。ひと月経っても戻らない場合は、そのほとんどは戻ることがありません……ただ、無理に思い出させようとすることだけは、どうかやめてください」
「と、言いますのは?」
「記憶喪失になった場合、思い出すのに脳に負荷やストレスがかかります。自主的に思い出すならともかく、周りからせっつかれた場合、泉さんの脳にどう作用するかわかりませんから。彼女が自主的に思い出したいと行動するまでは、どうか待ってあげてください」

 わたしが忘れてしまっても、彼のことを認識できなくなってしまっても、どうして蝉川くんはわたしにちょっかいをかけてきたのかはわからない。
 目の前でトラックに跳ねられたのを見て、責任を感じてしまったのかもしれない。だって、あれは本当にわたしが悪かったんであって、蝉川くんはなにも悪くなかったの。
 むしろ、「見えない」わたしは、無自覚とはいえど、なんであんなに彼を振り回したのか、本当に意味がわからない。
 わたしは今までのことを一気に思い出したら、顔がだんだんと火照って、申し訳なさで萎縮してしまい、体を海老のように折り曲げて、ベッドで丸まってしまった。
 スマホ越しに、塩川さんの『間宮さん! 本当に大丈夫!?』という声が響く。……本当に、塩川さんに対しても申し訳がなさすぎる。

「ごめんなさい、塩川さん……あのとき、わたしが勝手に跳ねられただけで、皆悪くなかったのに……」
『え、間宮さん……思い出したの?』
「うん……塩田さんから話を聞いたら……皆にひどいことしちゃったから、明日顔を合わせにくい」

 沙羅ちゃんは蝉川くんに対して明らかに怒っていたのは、わたしの記憶喪失の事情を、既にお母さんから聞いていたせいだろう。わたしを刺激したくなかったんだと思う。多分は絵美ちゃんも。
 退院してから滝くんとしゃべる機会が増えたのは、もしかしたら、隣に蝉川くんがいたから、少しでも彼がわたしの近くにいても自然になるよう気を遣っていた……って考えるのは、わたしに都合がよすぎるのかな。
 蝉川くんは、わたしが全部忘れちゃったのにずっと横にいてくれたのはなんでなんだろう。
 それだけは、わたしはどうしてもわからなかった。
 わたしがぐるぐる考えていると、スマホ越しに『ふう』と塩田さんの溜息が耳に入った。

『ちゃんと、蝉っちに告白、したほうがいいと思うよ。間宮さんは』
「……っ! わ、わたし……あれだけ迷惑かけたのに……どうして今更、思い出したからって、そんなこと言え……」
『あたしねえ、蝉っちに告白したけど、フラれちゃったんだよねえ』

 そうしみじみとした口調で言う塩田さんに、わたしは思わず目を瞬かせた。
 塩田さんは見た目は派手だけれど、わたしなんかよりもよっぽど機微のわかっている子だし、面倒見だっていい。性格無茶苦茶いい子なのに……。

『んー、フラれた理由を言っちゃうのは、蝉っちに対してフェアじゃないから言わない。でも間宮さんがネガネガしく考えることじゃないと思うなあ』
「で、でも……その、わたし、なんか……」
『案外、自分のいいところなんて自分だとわっかんないもんだからなあ。蝉っちだっていいところいっぱいあるけど、ぜーんぶ無自覚なんだもん。間宮さんだってそうだよ。ダイジョブダイジョブ、当たっても砕けたりしないから。あ、あたしに悪いとか思わなくっていいよー? あたし、もう新しい彼氏できてるからさ』

 そう言い残して、一方的に塩田さんに電話を切られてしまった。わたしはようやくスマホを持ったまま、ベッドに大の字になって寝っ転がり、考え直す。
 本当に、明日どんな顔で皆に会えばいいんだろう。
 なによりも、蝉川くんと顔を合わせて、まともにしゃべれるんだろうか。
 わたしはのろのろと制服のスカートに手を突っ込むと、生徒手帳を取り出した。
 笑顔でにこにこ笑っている蝉川くんと、ぎこちなく引きつった顔をしているブサイクなわたしのプリントシール。
 きっと、蝉川くんのことを覚えていたら、プリントシールだって撮る勇気はなかった。どんなに格好いいなと思っても、その人と一緒にずっとい続けることは、今の心地いい関係を壊すような気がして、どうしても踏ん切りが付かない。
 あんなに迷惑かけたんだから、都合よく告白なんてできないよ。塩田さんに背中を押してもらっても、だ。
 せめて記憶が戻ったことくらいは、伝えたいなあ。
 わたしはそう思いながら、生徒手帳を抱きしめた。
****

 普段はサッカー部の朝練を見学に行くために早めに出るんだけれど、思い出したばかりのわたしはいきなり蝉川くんに会う勇気がなくて、結局はギリギリに出ることになってしまった。
 遅刻するしないのギリギリで校舎に滑り込むと、既に朝練の見学は終わったらしい沙羅ちゃんと絵美ちゃんが心配そうに寄ってきた。

「泉ちゃん、おはよう……今日は遅かったけど、大丈夫?」
「おはよう……今日は寝坊しちゃって」

 見え見えな嘘だけれど、ふたりとも「ふうん」でスルーしてくれるのがありがたい。
 インターハイに出るサッカー部の応援に、バスが借りれそうだという話とか、去年は見学に行くの大変だったねという話とか、他愛ない話をしているとき。

「はよー。今日も見学ありがとうな」

 ぶんぶんと手を振る姿を見て、わたしは喉をひゅんと鳴らす。
 朝日に照らされて、金髪に光輪が見える。曇りのない笑顔を見たら、途端に気恥ずかしくなって、わたしはぱっと沙羅ちゃんの後ろに隠れてしまった。沙羅ちゃんは驚いたようにわたしのほうに振り返る。

「あの、泉ちゃん……どうしたの?」
「せ、蝉川くん、が、いるから」
「ええ……?」

 絵美ちゃんは顔をしかめると、蝉川くんと少し遅れて校舎に入ってきた滝くんを交互に眺める。
 沙羅ちゃんは顔を火照らせて上手く呂律の回らないわたしに「思い出したんだね? だから、びっくりしたんでしょう?」とゆっくりと尋ねるので、わたしは首を縦に振る。
 今まで、見えないからといって、蝉川くんの前でさんざん変なところを見せた。周りからしてみれば、蝉川くんの前で挙動不審になっているのは、いつものことだから生温い目で見られてしまっていたのかもしれないけれど、わたしは本当にそんなつもりはなかったんだ。
 蝉川くんはしばらくわたしのほうをキョトンと見たあと、沙羅ちゃんの傍に近付いて、わたしのほうを見る。

「間宮。もしかして俺のこと、見えるようになったのか?」

 ち、近い。いくら沙羅ちゃんを挟んでいるからといっても、近い。
 わたしは必死で沙羅ちゃんにしがみついて目が合わないように努めているのを見た沙羅ちゃんが、棘のある声を出す。

「……ごめんね、今は泉ちゃん落ち着かせたいから。もうちょっと向こうに行ってて」
「……うん、わかった」

 わたしはそっと沙羅ちゃんの背後から顔を覗かせて、蝉川くんと目が合わないよう横顔を盗み見る。
 残念そうな、複雑な色が見え隠れしたような気がした……それはわたしにとって、都合がよ過ぎる考えか。
 蝉川くんは滝くんと連れ立って教室へと入っていった。滝くんは蝉川くんがぶーたれた顔をしているのに「お前怖がられるようなことしたのか?」と呆れた顔で聞くのに、彼は「してねえし! あんな怖がられるの初めてだし!」と言い合っているのが、少しだけ寂しい。
 今までは、見えないから安心して距離を詰められたんだよなあと思う。だって、近くにいたら、途端に息がハクハクして上手く呼吸ができなくなるし、動悸だってマラソンの後みたいになるもの。
 わたしが蝉川くんを見送っているのを、絵美ちゃんは呆れた顔をしてわたしの頭を撫でてきた。

「蝉川のこと、思い出したんだ? それで、今までやってたこと思い返して、恥ずかしくなっちゃったの?」

 そう聞かれて、わたしは首を縦に振る。
 沙羅ちゃんは相変わらず固い表情で、ぷんすこと怒る。

「蝉川くん、勝手なんだもの。むやみやたらと刺激しないようにって言われているのに、泉ちゃん本当に蝉川くんのことわかってないのに、ちょっかいかけようとするし、セクハラしようとするし……本当に、なにもされてないよね?」
「し、心配されるようなことは、なにもされてないよ……? セクハラってなに?」
「だって、蝉川くん男子にするようなこと、すぐ女子にもしようとするから怒られるんじゃない。好きでもない子にむやみやたらと抱き着いてはいけません。それはセクハラだよ」

 それに、わたしはますます縮こまる。
 全然感触はなかったけれど、手は繋いだことはあるとは、珍しく本当に怒っている沙羅ちゃんを見たら、言えるわけがない。
 でも……同じクラスメイトだし、同じ図書委員だし、忘れられたら困るんだろうけれど……どうしてわざわざ名前呼びにしたんだろう。わたしが見えなくなってからも、蝉川くんは「レンって呼べ」と言ってきたことだけは、どうしてもわからなかった。
 わたしが沙羅ちゃんに抱き着いたまま縮こまっているのに、絵美ちゃんは「沙羅もあんまり怒らないの」とチョップをかました。

「私にはむしろ、泉に対してはよっぽど気を遣ってたように見えたけどねえ。いやあ、変わるもんだわねと」
「なにそれ?」

 わたしはようやく沙羅ちゃんから離れて絵美ちゃんのほうを見ると、絵美ちゃんはもう教室に入ってしまった蝉川くんたちのほうに視線を送る。

「怖がられたくないよう、必死だったねえって。あんたは見えてなかったけどね、蝉川ずっと必死であんたのこと追いかけてたから。沙羅は蝉川に対して相当に当たりが厳しくなってたけど、私からしてみれば、ガキ臭い奴があんなに嫌われたくない一心でしゃべってるの見てたら、むしろ同情しちゃってねえ……」
「絵美ちゃんは甘いの……! 私、泉ちゃんにしてたこと、全然許してないから」

 沙羅ちゃんが髪の毛を膨らませて怒っているのに、絵美ちゃんはやれやれと肩を竦ませる。

「まあ私も、両者許可なしのセクハラは私も反対だけどね」

 そうばっさりと言い切る絵美ちゃんを見ながら、わたしはどうにか呼吸を整えようとする。
 別に元通りにならなくってもいい。見えない男の子の「レンくん」として接することができなくってもいい。あれは、あまりにもわたしにとって都合がよ過ぎる夢みたいな時間だったんだから。
 ただ、同じ図書委員の「蝉川くん」として接することくらいは、許してください。

****

 その日は学校に着いても授業はなく、ロングホームルームが終わったあとは大掃除だ。
 体操服に着替えて、皆それぞれの持ち場へと移動する。
 わたしたちが宛がわれた大掃除の場所は中庭で、中庭には噴水があり、そこの水が通っている溝には泥が溜まっているので、大掃除のときにその溝の泥を取らないといけない。
 力がなくってへっぴり腰なわたしを尻目に、皆が「重っ!」「臭っ!」と騒ぎながら、次々と泥をカーに積んでいく。
 溝に溜まった泥があらかたさらったあと、綺麗な水を流したら、溝からしていた匂いも消え、そこの掃除を先導していた先生から「溜まった泥は裏のゴミ捨て場に捨ててきて!」と言われた。
 掃除していた皆でじゃんけんをし、わたしは見事負けてしまい、へっぴり腰のまま、カーを押した。
 カーに乗せられているけれど、重いものは重く、押してもよろよろとしか進んでくれなかった。
 それを見ていたのは、蝉川くんだった。

「間宮、重いなら俺押そうか?」

 そうわざわざ寄ってきて言うと、途端にサッカー部の男子から口笛が飛び、わたしは縮こまる。
 皆の生ぬるい視線が痛い。そりゃそうだろう。思い返せば思い返すほど、五月からずっと「レンくん」と呼びながら蝉川くんとしゃべっていたのがわかる。
 声が聞こえないと、どこにいるかもわからないから、蝉川くんはずっとわたしの近くにいたんだ……傍から見たら、距離感が近過ぎる男女は付き合っているようにしか見えない。でも蝉川くんは、基本的に男女関係なくこの距離感だ。
 ……塩田さんにだって、それくらいの距離感で話していたんだから、わたしだけが特別な訳じゃない。
 なんとか周りを誤魔化したくても、わたしはそんなことを言える度胸なんてない。
 せめてじゃんけんで負けたんだからきっちりやろうと、わたしが思わず「い、いいよ。自分で、押せるから!」と取っ手を持って押すけれど、やっぱり重くって、変な体勢で押さないと前に進まない。
 それを見ていたのか、さっきからの口笛を気になったのか、蝉川くんはぱっとサッカー部のほうに向くと「お前ら、マジいい加減にしろよ!」と大声を上げる。
 それにわたしが肩をビクリと跳ねさせる。それに蝉川くんはしょんぼりとした顔をしてきた。

「悪い、間宮」
「い、いいから。わたしのことは、気にしないで、ね?」

 わたしがなおも押そうとするのに、「間宮、マジで動かないんだったら、押すから。なっ?」と言って、カーを取り上げてしまった。
 そのまま「ありがとう」で任せてしまえばよかったものの、蝉川くんについていくのと、ここに残って冷やかされるの、どっちがマシかと考えたら、じゃんけんで負けたんだから泥を捨てに行ったほうがマシだろうと、わたしは蝉川くんについていくことにした。
 戻ったとき、また冷やかされるんだろうかと思うと、またも縮こまりそうになったけれど、まあ仕方ないや。
 ゴミ捨て場には、あっちこっちで集められたゴミ袋に混ざって、業者に出す土の山ができていた。蝉川くんはそこまでカーを押すと、さっさと泥をそこに捨てていく。
 それをぼんやりとわたしが見ていたら、蝉川くんはカーの泥を落としながら、「なんかごめんな」と声をかけてきた。

「記憶、戻ったんだよな?」

 そう聞かれて、わたしはたじろぐ。
 じっと目線を逸らすことなく見つめてくる蝉川くんに、視線をまともに合わすことができなかったからだ。
 ゴミ捨て場には他のクラスや学年の子たちもゴミ出しにやってきている。
 忙しいからこちらに声をかけることもなく、わたしたちがしゃべっていても、気に留める様子もない。
 このまま逃げ出してしまえば、なあなあにできてしまうけれど。へっぴり腰なわたしは、逃げ出すこともできず、だからといって真正面から答えることもできず、そのまま黙って立ち尽くしていた。

「あのな、別に怒ってないか。騙されたとか、本当に思ってないから」

 蝉川くんは、普段の大きな声を必死で抑えるようにして言った。知っているよ、蝉川くんが優しいのは知ってる……だって、レンくんと呼んでいたときから、ずっと優しかったもの。

「えっと……うん」

 わたしがそう答える。

「うん、戻ってよかった。ほんっとうに、よかった」

 蝉川くんに噛みしめられるようにして言われると、こちらもどう返事をすればいいのかがわからない。わたしはようやく蝉川くんと顔を合わせて、思わず口をポカンと開けてしまった。
 ……蝉川くんの目尻には、ぽろっと涙が転がっていたのだ。

「あ、あの……蝉川くん、泣いて……」
「わあ、別に間宮に泣かされたーとか、そういうんじゃないからな! うん、ほんとに」
「えっと、そうじゃなくって、そうじゃなくって……」

 蝉川くんがぐしぐしと目尻を擦る中、わたしは必死で言葉を探した。
 見えない男の子だった「レンくん」とはまともにしゃべれたのに、見える男の子の「蝉川くん」とは、どうしても気恥ずかしさが先だって、上手く口が回らない。
 わたしがたどたどしくしゃべるのを、蝉川くんは黙って待ってくれているのに安心して、どうにか言葉を吐きだした。

「どうして……名前を教えてくれたの? わたし、本当に見えなかったし、わかんなかったのに……黙ってたら、きっと思い出すまで、変なこと、しなかったのに」
「んー……本当に、ごめんな。間宮を怖がらせるつもりは、全然なかったのに」
「こ、怖いとかは、全然思わなかったんだよ。本当に……でも、なんで?」

 苗字じゃなくって、名前を教えてくれた。蝉川くんの下の名前は「蓮太《れんた》」。だから「レン」。それが不思議でしょうがなかったのだ。
 それに、蝉川くんは「んー……」と笑う。

「だってさあ、俺。女子によく怒られるしなあ。「デリカシーが足りない」とか「声足りない」とかって。間宮は全然俺に対して怒らないじゃん」
「怒らないって……蝉川くん、わたしに怒るようなこと、したの?」

 他の子はいったい彼のなににそこまで怒ったのかはわからない。でもわたしは、蝉川くんの言動でカチンときたことは一度もなかった。
 多分友達だからと土足で入って、ひと言多かったんじゃないかと思うけれど、元々タイプが違い、澄む世界が違うせいで、蝉川くんはわたしにどう踏み込めばいいのか計りかねていたんじゃないかと思う。
 わたしの言葉に、蝉川くんは一度虚を突かれたような顔をしたけれど、やがてふっと口元を綻ばせた。

「あー……よかった。だってさ、間宮にいないものとして扱われるのは、割ときつかったし」
「え?」
「さっきも言っただろ? 俺のこと怒らない女子って、間宮以外に知らないんだよ。それに、好きなことには一生懸命だし、人のことそこまで気を遣わなくってもいいのにってくらいに遣うし……そんな奴なのにさあ……」

 これは、褒められているんだろうか。
 わたしは蝉川くんがなにを言いたいのかわからず、ただ普段端的にしゃべる蝉川くんにしては、論点があっちこっちに飛んでいるような気がすると、そのまま黙って聞いていたとき。
 本当にぽろっと言葉が出てきた。

「忘れられたくないって、主張したかったんだよ。俺のこと見えなくっても、せめているって証明したかったんだよ。幽霊でも透明人間でもいいから、間宮の中にしがみつきたかった……必死でやり過ぎて、やっぱり怒られたけどな」

 そう言われた途端に。今度はわたしの目からぽろっと涙が出てきてしまった。
 それに蝉川くんはうろたえたように声を上げる。

「いっ、今のどこに、間宮が泣くところがあった!? ごめん!」
「わ、かんない……ただ、その……嬉しくって……あの、ね。蝉川くん……」

 見える蝉川くんのことも、見えないレンくんのことも、結局は好きになった。
 見えても、見えなくっても。覚えてても、覚えてなくっても、結局は同じ結論に辿り着くんだ。
 そう考えたら、今まで勇気が出なくって口にできなかった言葉がぽんっと飛び出てしまったんだ。

「……好き、です……都合がよすぎるかもしれないけれど、好きなんです……」

 そのままわんわんと泣き出したわたしを、蝉川くんは「だ、だから泣くなってば!」とおろおろしながら、ただわたしの肩に、ぽんと手を置いた。

「……よろしく、で、いいか?」

 ジャージのままで、大掃除の終わりしなで。ロマンティックのかけらもないけれど。
 わたしたちにはそれでいいかなと思う。

「……はい」

 お守りを、いつ渡そうと。わたしはそうぽつんと思った。
 バスが揺れる。見知った街中からだんだん離れ、高速道路に乗ってやっと到着したのは、大きなグラウンドだった。
 インターハイに出場するサッカー部の応援に、学校が有志を募ってM県にまで応援に来たのだ。今回は学校の応援団がサッカー部に行けることになったので、わたしたちもそれに混ぜてもらう形で、一緒に参加することになったんだ。

「すごいね、滝くん二年連続インハイにレギュラーで出場するんでしょう!?」
「今回はスカウトの人も来てるんだって!」
「すっごい!!」

 わたしたちと同じく応援団に混ざっている滝くんのファンの声はけたたましく、思わず沙羅ちゃんを見たけれど、沙羅ちゃんは苦笑して首を振っているだけだった。あの子たちに目を付けられないよう、わたしと蝉川くんの件で滝くんと交流を持つようになった今でも、沙羅ちゃんと滝くんはよきクラスメイトのままだった。

「沙羅ちゃん、いいの?」
「別にいいよー。こういうのって、私ひとりでどうこうできるものでもないし。それより、泉ちゃんは蝉川くんに渡したいものあるんでしょう? ちゃんと持ってきてる?」
「うん……持ってきてるけど、渡せるタイミングあるのかなあ」

 わたしは持ってきている鞄をぎゅっと抱き締めながら背中を丸める。持ってきているのは神社で買ってきた【必勝祈願】のお守り。ふたつも持ってきてもしょうがないよねと、ひとつだけ持ってきた。
 ゴミ捨て場で、するつもりもなかった告白をしてから、インターハイまで、特にそれらしいことはなかった。
 夏休みに入っちゃったんだから、学校には用事がないと行かない。蝉川くんはサッカー部の練習があるし、わたしはわたしで夏休みの貸し出し期間中の当番に出ていたけれど、全然会わなかった。
 ただ好きと言っただけ。向こうもそうだったと答えただけ。
 そもそもわたしには「付き合ってください」と言えるような度胸はなかったし、試合前だから追い込みの練習が増えて忙しい蝉川くんにそれ以上なにも言うことはできずに、今日を迎えてしまった。
 辿り着いたグラウンドの周りも、応援に来た人や物見遊山でサッカーを見に来た人、地元テレビ局やスポーツ紙のカメラを持った人たちで溢れている。それらを横目で見ながら、わたしはきょろきょろとした。
 まだ試合までに時間があるけれど、それまでにお守りを渡さないと意味がない。
 絵美ちゃんはわたしの挙動不審さに笑いながら肩を叩く。

「大丈夫だって。お守り渡すくらいのタイミングはあるからさ。今はアップのためにグラウンドの周りを走ってる頃じゃないかな。もうそろそろ戻ってくるから、そのときにでも渡しなよ」

 新聞部でいつに取材に行けば大丈夫か事前に打ち合わせしているんだろう。絵美ちゃんは本当に詳しい。わたしは頷きながら待っていたら、だんだん見慣れたユニフォームの集団が走ってくるのが見えてきた。
 知っている顔も多いけれど、試合前のせいなのか集中していて、皆顔が真剣そのものだ。その空気を壊してしまいそうで、なかなか声をかけづらい。わたしがひるんでいる間に、絵美ちゃんがぐいっとわたしの腕を取って、その集団のほうへと歩いて行った。

「はあい、新聞部でーす。試合前に突撃インタビューに来ましたんでよろしくお願いしまーす」
「え、絵美ちゃんってば……!」

 新聞部がぎょろっとこちらに視線を合わせるのに、わたしは必死で唇を噛んで悲鳴をこらえる。怖い怖い怖い、試合前のピリピリしている男子、本当に怖いっ。
 わたしがプルプルと震えている中、見慣れた金髪が揺れてひょっこりと顔を出した。

「あーっ、泉! 応援来てくれたんだ。わざわざM県までありがとうなっ」
「えっと……うん、言わなくってごめんなさい……応援団に入れたから、そこでバスに乗せてもらって……」
「そっかそっか」

 蝉川くんがにこにこしながら頷くのに、わたしはたまりかねて縮こまる中、絵美ちゃんはキャプテンさんにインタビューに行く前に、どんと背中を大きく叩いた。
 向こうのほうでは苦笑して沙羅ちゃんが待っている。多分本当は絵美ちゃんに着いていって、ひと言くらい滝くんに応援の言葉をかけたいところだろうけど、これだけギャラリーたくさんいる上に、滝くんのファンの子たちが黄色い声上げている中で行くのは難しいんだろう。さっきから滝くんに対して黄色い声が上がっているけれど、それを当の本人は無視している。
 絵美ちゃんはインタビュー用にボイスレコーダーのスイッチを入れながらすれ違い様にわたしに言う。

「ほら、沙羅と違ってあんたはちゃんと言えるんだから、ちゃんと言うの。あと渡すもんちゃんと渡しなさい。もうすぐ試合なんだから」
「は、はい……」

 そのままキャプテンさんと話し込みはじめた絵美ちゃんをよそに、わたしは縮こまりながら蝉川くんと向かい合っていた。

「えっと……この間神社に行ってきて、買ってきたの……」
「へえ?」

 きょとんとしながら蝉川くんがこちらに向いてくるのに縮こまる。
 も、もう時間だってないし、監督さんやマネージャーさんも時間を気にしはじめたし、わたしひとりがうじうじしていてもしょうがない。
 意を決して鞄に手を突っ込むと、お守りを紙袋ごと差し出した。

「あ、あの……これ……受け取って……!」
「えっ……これってお守り?」

 これ以上は恥ずかし過ぎて、わたしはしゃべることもできずに首を縦に振ること以外できなかった。
 ただ蝉川くんは、わたしの差し出したお守りを受け取ると、満面の笑みを浮かべるのだ。

「ありがとうな、絶対に勝つ」
「う、うん……」

 途端にサッカー部から口笛が飛び、わたしはますますいたたまれなくなって、そのまま沙羅ちゃんのほうへと逃げ出してしまった。こちらに蝉川くんはにこにこしながら手を振ってるものの、わたしは小さく振り返すことしかできなかった。
 取材も済んだ絵美ちゃんは、さっさとわたしたちのほうに戻ってきて、一緒に応援団のほうへと移動する。
 絵美ちゃんは意外そうな顔でわたしのほうを見ていた。

「あらら、いつの間に泉、蝉川から呼び捨てされるようになってたの?」
「えっと……ちょっと前から……」
「ふうん。あんたも名前で呼んであげればいいのに。ちょっと前までは「レンくん」「レンくん」と呼んでて、最初はいったいどんな罰ゲームさせられてるんだろうと思ってたけど、見てたらなあんか微笑ましかったからねえ」
「やめて絵美ちゃん。それはわたしの黒歴史」

 いたたまれなくなって、タオルでボスンと顔を隠す。日当たりがいいから、試合観戦中は絶対にタオルを首から外すなと言われている。
 今日も炎天下だから、観戦中もペットボトルのドリンクは欠かせない。この中で試合に出るんだから、サッカー部の皆も大変だ。
 ……毎朝毎朝、それこそテスト期間中以外はずっと練習してたんだから。勝って欲しいなあ。お守りが効くとか効かないとか関係なく。
 わたしたちがそれぞれ席に座り、応援団の人に応援の説明を受けている間に、ホイッスルが鳴り響く。
 試合がはじまったんだ。

****

 よりによって初戦で去年の優勝校に当たったもんだから、いったいどうなるのかなんて、最後の最後まで試合の行方はわからなかった。最終的にはPK戦になってしまったけれど、結果的に軍配が上がったのはうちの学校だった。
 声が枯れるまで応援して、点が入ったときは一生懸命手を叩いて応援していたので、最後の最後に勝ったときは、皆で抱き合って喜び合っていた。
 いっつもネット越しだったから、試合がどうなっているのかわかりづらかったけれど、今日はグラウンドで少し高めの位置から応援できたのもよかった。上から見たほうが、ちょっと遠くって応援が届いているのかわからないけれど、試合の様子はよく見える。
 蝉川くんはボールを繋ぐポジションで、ストライカーの滝くんまでボールを届ける役割だけれど、あっちこっちからやってくる妨害を綺麗に避けてボールを繋いでいくのは、見ながらハラハラしていた。
 いつもお調子者で、その場を明るくする彼しか知らなかったわたしにとって、こんなに格好いい彼のことを、誰も知らないんだなあと、ほんのりと寂しく思ってしまった。
 選手は宿を取っているからいいけれど、バスで応援に来た組はそろそろ帰らないといけない。帰り際に少しでも声をかけられないかなと思っていたら、試合が終わったサッカー部がぞろぞろとグラウンド裏に出てきたのが見えた。
 わたしがそわそわしているのに、沙羅ちゃんは苦笑して言う。

「ちょっとくらいだったら大丈夫だよ。バスがそろそろ動くってなったら連絡するから、早く言っておいで」
「うん……あの……沙羅ちゃんは大丈夫?」

 向こうのほうでいつもの仏頂面で滝くんが蝉川くんとなにやらしゃべっているのが見えたので、わたしは言ってみる。途端に沙羅ちゃんは顔を真っ赤にして首を横に振る。

「こんなところで声をかけたら、きっと迷惑になっちゃうから、止めとく」
「そう? じゃあちょっと行ってくるね」

 人気者を好きになると、大変だなあ。わたしはそう思いながら、走っていった。

「せ、蝉川くん……!」

 震える声で呼んだら、蝉川くんはぱっとこちらを向いて、他のサッカー部員に手を振ってこっちまで走ってきた。

「おう、勝ったぞ!」
「あ、あの……おめでとう! すっごく、本当にすっごくって……!」

 一生懸命褒めようとしているのに、興奮しているのかちっとも言葉にならない。わたしがふがふがとしていると、蝉川くんはすっと笑顔になり、わたしの頭を掻き混ぜた。
 今、汗かいてるから、頭なんて触って欲しくないのに。

「あ、あの……! わたし、汗かいてるから……!」
「いや、俺もさっきまで試合してたんだから、汗無茶苦茶かいてんぞ。まだシャワーも浴びてねえし」
「べ、別に気にしてないけど、でも……」
「うん、ありがとな。泉。見に来てんのに格好悪いところなんて見せられなかったし」

 そうしみじみと言う蝉川くんに、わたしはされるがままになりながら、きょとんとする。
 本当に見ているだけだったのに、それだけでも蝉川くんの力になれてたんだったら、それは嬉しいことだな。そう思っていたら、なんとなく口に出ていた。

「あ、あの……もし、次も勝てたら、わたしでよかったら、なにかひとつくらいは叶えるよ?」
「え」

 そこで蝉川くんは止まる。そしてきょろきょろと辺りを見回してから、もう一度わたしのほうに視線を向ける。
 え……わたし、なにか変なこと言ったっけ。そう思っていたら、さっきまでいつもよりも大人っぽい顔をしていた蝉川くんは、どっと顔を火照らせていた。

「ばっ……馬鹿……っ、お前、本当に迂闊というかなんというか……もうちょっと自分を大事に……」
「え? 蝉川くん、わたしに変なことするの?」
「し、しないけど……! あーうーうー……」

 蝉川くんは口をふがふがとさせたあと、観念したようにひとつだけ言う。

「……じゃあ、せめて。次の試合で勝ったら、その蝉川くんってもう辞めろよ。前みたいにレンでいいよ」
「……え」
「一応さ、俺らも付き合ってるんだし……俺も試合のせいで、なかなかそれっぽいことできないけどさ。なんか他人行儀みたいでやだ」
「え……」

 わたしが固まっているのに、蝉川くんはわたしの目の前でひらひらと手を振る。

「おーい、泉?」
「……えっと、わたしたち、付き合っているってこと、なんだよね?」
「この間、告白したじゃん!」

 ゴミ捨て場のあれを思い出して、わたしはますますいたたまれなくなって、縮こまる。
 ちゃんと、伝わってたんだと、今更ながら思いながら、小さく頷いた。

「わ……かった……名前、練習しておく」
「照れるなよぉ、俺だって泉にそんな顔されたら、こっちにも移るからぁ」

 ふたり揃って、顔を真っ赤にさせて、なにをやってるんだろうと思っていたら、流れを断ち切るようにわたしのスマホが鳴った。
 メッセージアプリで、沙羅ちゃんから【そろそろバス出発するよ】と入っていたので、我に返って蝉川くんに頭を下げる。

「ご、ごめん。もうすぐバス出ちゃうから!」
「お、おう。泉。明日な」

 明日、試合に勝ったら名前を呼ばないといけないんだ。
 ……勝って欲しいなと思うけれど、ちゃんと名前を呼ぶことができるのかな。わたしは蝉川くんに小さく手を振ってから、バスの停まっている駐車場まで走っていった。
****

 インターハイ二日目。その日は負ければおしまい、勝手も二連戦と慌ただしい日だ。
 わたしはそわそわとしながら、観戦席に座る。今回は試合前に蝉川くんに会うこともできず、ただ沙羅ちゃんと絵美ちゃんと一緒に試合開始前を待つことしかできない。
 応援団の人たちに「今回の試合は重要だから、昨日以上に声を上げて!」「負けそうになっても絶対に溜息つかないで!」と諸注意をされながら、わたしは小さくなって座っている。
 隣に座っている沙羅ちゃんが、心配そうに声をかけてくれる。

「泉ちゃん、大丈夫? まだ試合はじまってもいないんだけど」
「う、うん……勝つよね。勝つよね……?」
「んー、去年優勝校に勝ってるんだし、弾みは付いていると思うよ。ただ、インターハイにまで上がってきた学校で弱いところなんていないから。人事を尽くした以上は、あとは天命を待つしかないでしょ」

 そこでドライな分析をする絵美ちゃんに、沙羅ちゃんは「絵美ちゃんっ……!」と悲鳴を上げるので、わたしは「ははは……」と乾いた声を上げる。
 やがて、選手は入場してきた。ホイッスルが鳴り響いて、いよいよ試合がはじまる。
 どうも先行を取れたのはうちの学校らしいんだけれど、どうも昨日よりも動きがぎこちないような気がするのに、わたしは「あれ?」と言いながらグラウンドを見下ろす。

「あちゃあ……うちの学校とは相性が悪いところみたいだね。相手校」

 絵美ちゃんがそう呟くのに、わたしはポカンとした顔で彼女を見る。絵美ちゃんは今までの取材メモを見ながら言う。

「うちの学校は機動力……パス回しとかボール運びが速いって意味ね……が物を言うチーム編成なんだけれど、対戦校は守備力が固いんだよ。優勝校はどちらかというとパワータイプ、フォワードにボールを集めて、点をどんどん取るってスタイルだったから、相手校からボールを奪えたら反撃もできたんだけどね。昨日と同じ戦術は使えないって話……ええっと、意味わかる?」

 絵美ちゃんが聞いてくれて、わたしは「なんとなく……」と頷いた。全部は意味がわからなかったけど、要はボールをゴールまで運ぶことができないってことなんだろう。
 応援団が「声出してー!!」と号令をかけるので、わたしたちは必死で「頑張れー!!」と声を上げるものの、試合運びはなかなか上手くいかない。
 とうとう前半はどちらも攻めきれずに、0対0のまま終わってしまった。
 後半に入ってからも、一進一退の試合運びで、どちらもなかなかゴールまで相手を切り崩すことができずにやきもきする展開が続く。
 やがて、うちの学校の監督が審判さんになにかしら言いに行ったと思ったら、選手交代のハンドサインが出た。

「え……?」

 交代させられたのは、蝉川くんだったのだ。
 わたしがおろおろしながら見下ろす。ここからだったら、彼がどんな顔でベンチに入っていくのかが見えない。交替で出て行った人は、たしか朝練で見たことがある人だったと思う。
 わたしがショックを受けているせいか、沙羅ちゃんはわたしの肩に抱き着きながら言う。

「多分、今の状況変えるために交代したのであって、蝉川くんが悪い訳じゃないと思うよ?」
「うん……わかってる……うん」
「大丈夫だって、試合の流れが変わったら、戻ってくるでしょ」

 絵美ちゃんにもそうフォローされたけれど、それでもわたしの意識はベンチのほうに向いてしまって、昨日ほど真面目に試合を見ていられなかった。
 結局試合自体には勝てたけれど、ベンチに引っ込められた蝉川くんが戻ってくることはなかった。
 皆観客席から移動しつつ、「次の試合は昼から……!」と応援団の説明を聞き、お弁当をもらったものの、わたしは落ち着かずにいる。
 今、蝉川くんはどうしているんだろう。試合に引っ込められるところを見たけど……うーんと、うーんと。
 ひとりでそわそわしていたら、「こら、泉」と絵美ちゃんから声をかけられる。

「お昼をちゃっちゃか済ませたら探しに行けばいいでしょ。でも試合が終わったあとの運動部って、本当に気が立ってるから。そこで行かないほうがいいよ」
「うん……でも」
「まあ、心配な気もわかるけどね。ここで下手に刺激しないほうがいいでしょ。無難なこと言っておきなよ」
「うん……」

 絵美ちゃんはそう言ってくれるものの、わたしはどうすればいいのかわからない。
 慰めるのも変だし、でも声をどうかければいいのか……。でも。ひとりでぐるぐる悩みながら、お弁当を食べる。
 出来合いのお弁当はご飯が多い上に脂っこい。おまけに味付けも濃いから、半分食べたところでお腹いっぱいになってしまい、それ以上食べきれなかった。
 もったいないなと思いながらも、夏場に長いこと放置する訳にもいかないしと、お弁当箱を持って蝉川くんを探しに出かけることにした。
 サッカー部はどこで食事を摂っているんだろう。お弁当とか差し入れとか配られているのかな。そう思いながらグラウンドの周りを歩いていたら、うちの学校のロゴの入ったTシャツとジャージを穿いている子が目に入った。たしかサッカー部のマネージャーさんだ。

「あ、あの……すみません」

 わたしが声をかけたら、彼女は驚いたように振り返った。どうもドリンクをつくって運んでいたらしく、手にはドリンクボトルが大量にあるので、慌てて半分持つ。
 彼女は「ありがとうございます、うちの応援ですか?」と手伝わせてくれた。

「は、はい……蝉川くん、大丈夫ですか?」
「ああー。蝉川くんの」

 そう言って彼女がわたしを見てにこにこと笑うので、わたしは肩をピンっと跳ねさせる。蝉川くんのって、なにがだろう。彼女は続ける。

「蝉川くんは元気だよ」
「あ、あの……今日の試合、蝉川くんは引っ込められたんですけど……」
「大丈夫。ベンチに下げられたから戦力外通知されたって、スポーツしてない人だったら誤解しがちなんだけれど、それはないから。単純に、今回は守備が固過ぎるチームだったから、突破力のある選手に出てもらっただけ。攻撃タイプのチームだったら、蝉川くんみたいな選手じゃなかったら小回りは効かないし、相手を翻弄させられるんだけどね。ああ……ごめんなさい。サッカーのこと、わかりますか?」
「え、ええっと……大丈夫、です。はい」
「でも次の試合では活躍してもらうから。力を中途半端にしか発揮できてないせいで、本人やる気を持て余してるから、話を聞いてあげてほしいなあ」

 マネージャーさんにそう言われて、わたしは頷いていたところで、サッカー部のところに辿り着いた。

「はいお待たせー。ドリンクボトル追加したから取りに来てねー。熱中症になるから、ちゃんと取ってよ」

 途端にお弁当を広げていたサッカー部員たちが「あざーっす」と言いながら次々とドリンクボトルを取りに来る。でも、見慣れた金髪の男子が見当たらない。
 あれ、蝉川くんは? わたしがそう思ってきょろきょろしていたら、「間宮?」とぶっきらぼうな声を投げかけられる。
 滝くんは怪訝な顔でこちらを見下ろすので、わたしは慌てて「は、はい……!」とドリンクボトルを渡すと、彼は「どうも」と言いながら受け取る。

「えっと……マネージャーさんが大変そうだったので、手伝ってました……あの、蝉川くんは?」
「ども。蓮太は今、力を持て余して走ってる。次の試合はあいつと相性いいチームだから、全部出ると思うけど。多分間宮の言うことだったら聞くと思うから、はしゃぎ過ぎだって言ってやってくれ」
「えっと、うん。ありがとう」

 わたしは他の選手さんたちにもドリンクボトルを渡してから、マネージャーさんが乾いたタオルと残ったドリンクボトルを差し出してくれた。

「汗かき過ぎたら下手に体を冷やしても、コンディションによくないから、持って行ってあげて」
「あ、はい……ありがとうございます!」

 私はお弁当と一緒に持って、蝉川くんの走っていると教えてくれたグラウンドの近くを探しはじめた。
 蝉の鳴き声がけたたましい。直射日光で焼けているグラウンドの壁面にへばりついて大丈夫なのかなと思っていたら、リズミカルな足音が聞こえてきた。
 見慣れた金髪が走ってきた。

「あっ、泉……!!」

 こっちにピョーンピョーンと跳びながら寄ってきたので、わたしはびっくりして肩を跳ねさせる。汗の匂いが強く、慌ててタオルとドリンクボトルを一緒に押し付ける。

「あ、汗はかき過ぎてもよくないって、マネージャーさんから聞いたから……!」
「おう、サンキュな」
「う、うん……」

 てっきりもっと落ち込んでいると思っていたのに、思っている以上に元気どころか、元気が有り余っている蝉川くんに、わたしはただ目を白黒としていた。
 普段図書館で見ていた彼は、あくまで彼のいち側面だったんだなあと思わずにはいられなかった。
 近くのベンチに座り、ドリンクボトルを傾けている蝉川くんを眺めていたら、蝉川くんは私が半分残したお弁当を目ざとく見つけた。

「あっ……! もったいない! これ泉のぶんか?」
「えっと……お腹いっぱいになっちゃってどうしようと思って持ち歩いてた」
「いらないならくれ。正直腹八分目にもなってないからさあ」
「えっと……食べ過ぎて怒られない? もっとカロリーのこと気にしろって」
「いや全然。むしろ燃費が悪過ぎるからもっと食えって言われてる。今日はまだもう一試合残してるのに、中途半端にしか全力出してないから、どうにも力が有り余ってる感じがしてさあ……だからちょっとそこを一周してきてたんだし」
「ちょっと……なんだ」

 持久走で走るような距離が「ちょっと」なんて、本当にすごいなあとしみじみと思っていたら、蝉川くんはさっさとわたしからお弁当を取り上げて、それをもりもりと食べはじめた。
 わたしはそれを見ながら「あの……」と聞くと、蝉川くんはちらっとこちらを見てきた。

「あの、わたし、名前で呼んだほうがいいのかな。ほら、試合で勝ったし……で、でも。余計なことだったらどうしようと思って」
「んー、相変わらず泉は余計なことで悩むなあ」

 そうばっさりと切られて、わたしはがっくりと肩を落としてしまう。だって、わたしの前で試合に勝つって言っていた手前だから、もっと落ち込んだりしているんじゃないかって思ったんだけど、蝉川くんちっとも落ち込んでないどころか、監督さんの判断にあっさりと頷いているんだもの。
 わたしがごにょごにょと思っている間に、蝉川くんはざっくりと自分の意見を並べる。

「あれはうちの監督の戦術だろ。単純に俺が全力出しきってないから、欲求不満なままってだけで」

 ベンチから勢いを付けて立ち上げると、こちらににかっと笑って振り返る。

「次の試合では活躍するから、その試合に勝ってからでいいだろ?」
「えっと……うん……」
「そもそも泉は余計なこと気にし過ぎだから、もうちょっと俺を信じてくれよ」
「し、信じてない訳じゃ、ないんだよ……た、ただ……わたしの自信のなさを、あなたのせいには、したくないだけで」

 名前を呼びたい。恥ずかしい。でも呼んでと言われているし、わたしもちゃんと呼んでみたい。
 本当に肝の小さなわたしには、好きな人の名前を呼ぶことだって、一大事業なんだ。わたしはしゅんとしていたら、蝉川くんは肩をぽんと叩いた。

「俺に勝てって必勝祈願くれたじゃん? それでうちの学校もずっと勝ち続けてるじゃん? もうちょっと俺のことも、お前のことも信じてみろって」

 そう言っていると、「蝉川くーん!?」とマネージャーさんの声。ま、まずい。もうそろそろ合同のウォーミングアップの時間なのかも。
 わたしは立ち上がって、「ご、ごめんなさい! 休憩時間奪っちゃって!」とひたすら謝ると、蝉川くんはからからと笑う。

「彼女が必死で応援に来てくれたのは、嬉しいに決まってんだろ? じゃあ待ってろって。絶対に勝ってくるから!」

 そう言って、タオルを首にかけて、ドリンクボトルを持って走り出していく。
 その場には、強い汗の匂いだけが残された。わたしはその中で、ただ頬を抑え込んでいた。やけに頭が火照っているような気がするのは、夏の直射日光だけではないような気がする。
 まだ、わたしの記憶がなくなる前のように、見えないからって距離感を詰めて付き合うことなんてできないし、あんなに気安く名前なんて呼べないのに。それでも蝉川くんはわたしには怖いって思うハードルも簡単に飛び越えてしまう。
 サッカーのことは相変わらず全部わかっている訳ではないけれど、それでも自信満々で、辺りに元気を振り撒いている。
 本当に……本当にすごいなあ。