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「はあ……」

 わたしは溜息をついた。
 ずっとレンくんと話をしていたはずなのに。見えない男の子で、わたし以外には声が聞こえていない幽霊みたいな人。手を繋いでいて引っ張られる感覚はあっても、触感だってない。
 それが外見を知った途端に態度を変えるなんて、自分はどうかしているとついつい思って自己嫌悪に陥ってしまう。
 なによりも。レンくんはわたしが彼の外見を知る前と知ったあとでも、なにひとつ態度を変えていないんだ。
 だからこそ、ちくちくと不毛だという言葉が突き刺さるんだ。
 ……見えない男の子のことを好きになったところで、どうにもならないじゃないと。
 見えないから、触れないから。彼の声が聞こえない限り、いるのかいないのかわからない人を好きになったところで、どうなるんだろう。
 なによりも、外見を知った途端に態度を変えたら、そんなの失礼じゃないかと思ってしまうんだ。
 レンくんはおかしなわたしに対しても、ちっとも態度を変えていないのに。
 自己嫌悪がズキズキと突き刺さるのを感じていたところで、ふとスマホを見る。
 スマホには当然カメラが搭載されている。それでわたしはなにげなく景色を映してみた。わたしの近くは、今はテスト勉強用の単語帳を広げている子や、赤シートを駆使して暗鬼をしている子、皆でクイズ大会をしながらテスト勉強している子ばかりが目に留まる。
 あちこちを映して回ってみても、レンくんの姿はなかった。
 そう、だよね。わたしはスマホを鞄にしまい込みながら、家路を急いだ。
 レンくんがいつもタイミングよくわたしに声をかけてくるからといって、いつも一緒にいるわけがない。
 わたしもなにを期待してたんだろう。
 そして、少しだけ萎む気持ちを叱咤する。なにを勝手に期待して、勝手にがっかりしているんだろうと。

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 昼休み、普段だったら皆外にお弁当を持って行って食べたり、食堂に行ってご飯を済ませるのに、ほとんどは購買部やコンビニで買ったパンやおにぎりを食べて、教室で勉強にかかりっきりになっていた。
 そういうわたしも、購買部で買ったメロンパンと紙パックの紅茶でお昼を済ませると、テスト勉強をガリガリとする。暗記ものは家でじゃないと覚えきれないけれど、苦手な数学はせめて赤点くらいは回避したいから、毎日のように文章題の勉強をしている。数式計算だけだと、赤点回避にはちょっと足りない。
 教室は皆、テスト前だからと勉強にかかりっきりになっている。当然部活も休みで、休み時間や登下校中に聞こえる運動部の掛け声も、声楽部のコーラスも、吹奏楽部のクラリネットの音色も聞こえてこない。
 うちの学校の古い冷房が、ぶおんと埃を撒き上げて教室を冷やしていく音を耳にしていたところで、「泉ちゃんは今回のテスト、調子はどう?」と声をかけられて、顔を上げる。
 沙羅ちゃんは数学や英語は問題ないから、もっぱら暗記ものをしようと、赤シートと赤ペンを片手に勉強をしている。絵美ちゃんはどちらかというと英語の赤点回避のために、せめてもと英単語の暗記を続けているみたいだ。
 わたしは数学の問題集をちらっと見せて、首を振る。

「全然自信ないよー」
「うん、そうだよねえ」
「うんうん」

 そんな会話をしつつも、入院していてちんぷんかんぷんなわたしはともかく、ふたりともそこそこの成績を取っているのを知っている。社交辞令って言ってしまったらそれまでなんだけれど。
 テスト範囲の山をかける度胸もないから、こうやってちまちまとできる範囲で点数を稼ぐしかないなあとぼんやりと考えていたところで、沙羅ちゃんが「最近、泉ちゃん元気ない?」と聞かれる。思わず瞬きをする。

「え……そう見える?」
「見えるかなあ。もうすぐテストだけれど、なにかあった? 委員の当番のときとか」

 そう言われて、わたしは思わずルーズリーフに立てていたシャーペンの芯をぽきりと折る。それが床に転がったのを尻目にわたしは目をぱちぱちぱちとさせてしまう。

「ど、どうして?」
「泉いずみ、それ全然隠れてないからね? 隠してるつもりだったら謝るけどさ」

 絵美ちゃんに首を振られても、わたしはあわあわしている以外にできず、思わずルーズリーフに視線を落とす。
 すると沙羅ちゃんは困ったように眉を下げて笑う。

「私にも言えないこと?」
「……うーんと、ちょっと待ってね」

 あのとき一緒に撮ったプリントシールは、生徒手帳に貼っている。でもそれを見せる勇気なんてちっとも出ないから、わたしはただ、小さくごにょごにょと言う。

「……気になる人と、ちょっとだけ。散歩したんだ」
「え?」
「おおっ!」

 沙羅ちゃんが目を瞬かせ、一方絵美ちゃんは目を輝かせる。
 絵美ちゃんは詰め寄って「誰!? 私たちの知ってる人!?」と案の定聞いてくるので、わたしはますます口元をごにょごにょとさせてしまう。
 機械を使わないと見えないし、触れないし、「レン」って名前以外知らないし、どう説明すればいいんだろうと、ただわたしは蚊の鳴くような声で、「多分知らない……」とだけ言う。
 絵美ちゃんはますます「どんな人!? 格好いい!?」と聞くので、わたしは助けを求めるようにして沙羅ちゃんを見ると、沙羅ちゃんはなにかを考え込むように、唇に親指を押し当てていた。

「ええっと……泉ちゃんの好きな人って、もしかして、背がわたしと同じくらい?」

 それにわたしは思わず肩を強張らせる。沙羅ちゃんは女子としては身長が高めだけれど、スポーツやっている男子よりは当然低い。
 レンくんはサッカー部のユニフォームを着ていたけれど……サッカー部の見えない人……なのかなあとぽつんと思う。
 でも。どうして沙羅ちゃんがそんなこと言うんだろう。わたしがぼんやりと思ったら、その言葉に絵美ちゃんは「ああ……」と言葉をすぼめ、さっきまでの勢いを殺す。

「泉、そいつと遊んできたんだ?」
「遊んで……本当に、ただ散歩して、ご飯食べただけだよ」
「それデートじゃん」

 そう絵美ちゃんに指摘されても、わたしだってどうすればいいのかわからなかった。
 沙羅ちゃんだけでなく、絵美ちゃんにまで気を遣われてしまう理由が、こちらにはさっぱり。
 隠し事? そうは思っても。そもそも見えない男の子のことなんていったいどう聞けばいいのかわからず、わたしは喉を詰まらせた。
 わたしが忘れてしまっている事故のときの前後のことは、相変わらずちっとも思い出せないし、思い出すきっかけすら掴めない。それでもちっとも困っていないから放っておいたけれど。
 レンくんは、わたしが思い出せないこととなにか関係しているんだろうか?
 そうじんわりと胸に広がっていく疑問を打ち消すように、絵美ちゃんが「あーあーあーあー!!」と声を上げる。

「とりあえず! テスト頑張ろう!」

 中途半端な声を上げたせいで、こちらにクラスメイトが怪訝な顔で振り返ったけれど、絵美ちゃんは気にすることもなく「とりあえず室町時代、金閣寺つくった人は!?」と無理矢理話を締めてしまったので、わたしたちはおずおずと口を開いていた。

「ええっと……足利義満……?」