あのウィンドウショッピングのような、散歩のような、デート……のようなものから、一週間経った。
テストが近付いてきたせいだろう、普段は閑散としている図書館の閲覧席も人で埋まっていく。さすがに勉強しないとやばいって空気になるし、だからといって家に帰っても誘惑が多すぎてついつい遊んでしまうから、人の視線があって、適度に静かな場所を求めて、ここまで来るのだ。
さすがにテスト期間が近付いたら、図書委員の当番もお休みになるんだけれど、それでもわたしは図書館のカウンターに座っていた。
図書館の利用者は増えても、テスト前になったら貸出申請の作業はほとんどゼロになってしまうから、はっきり言ってここで勉強してしまったほうが安心感があるんだ。
司書さんは苦笑したようにこちらを見てくる。
「間宮さん、今年もここで勉強するのね」
「だって、せっかくの特権ですから。わたし、図書館の閲覧席に向かおうとしたら最後、適当な本棚から本をさらってきて読みふけってしまいますから、勉強になりません。今はカウンターに座っていても、本がないですから気が散りませんし」
「そうねー、夏休み前になったら一気に増えるけど、今はないもんね」
去年もそう言い訳してカウンターで勉強させてもらっていたから、今年もわたしはそれで勉強していた。
暗記ものは単語帳を使って勉強するから、カウンターでやるのは専ら数学とか英語とかの反復練習するものばかりだ。
沙羅ちゃんは勉強は家でするタイプだし、絵美ちゃんは新聞部の部室のほうで勉強しているから、わたしはもっぱらここで勉強するわけなんだけれど。
「なあなあ、間宮は日本史どこまで覚えた?」
ひとりで文章題を解いているところで、唐突に声をかけられて、わたしは思わず顔を真っ赤にする。
現金なもので、レンくんのプリントシール以降、レンくんに声をかけられると、途端にわたしの肩が強張るようになってしまった。わたしが顔を火照らせようと、レンくんは本当にいつものペースのままだっていうのに。
「い、一応、室町時代まではなんとか……」
「えー、そこまで覚えたのかよ。年号とかって、どうやって覚えんのかさっぱりだ」
レンくんはどちらかというとアウトドアタイプみたいだから、日本史は丸暗記したあとで忘れるタイプなんだろうなあ。
わたしは本が好きで、好きな歴史小説のことは覚えておこうと思って、小説の元ネタとして覚えるから、わたしの暗記方法は全然参考にならない。
そう思っていたら、レンくんはあっさりと「でも間宮は暗記得意じゃん、どうやってんの?」とか聞いてきて、思わずむせた。
わたしは現国以外の成績は赤点を取ってないだけでそこまでよくない。そもそも、レンくんはテスト受けるんだろうか。聞いてみたいような気がしたけれど、同時に聞いてはいけないような気もする。
わたしが口元をむずむずさせていると「どうなの?」と返してくるものだから、疑問はひとまず打ち止めだ。
「えっと……その時代に興味持てるような小説を一冊読んで、それに沿って暗記する……とか?」
「え? 例えば?」
「室町時代だったら、一休さんの伝記を読むとか」
「ええっと……あれってトンチで物事解決するっていうのしか知らないんだけど」
絵本やアニメで知られているのは、もっぱらトンチで和尚さんや周りの人をやり込める小坊主の一休さんだけれど、伝記を読んでみれば、意外とシビアな背景が知れたりする。
そもそも室町時代って、いくら本を読んでみてもどうして終わったのかがよくわからないし、歴史の教科書にも室町時代のあとに戦国時代に入って、そのあとの織田信長とか豊臣秀吉の話に移行しちゃうから、自分で本を読まないと、間の歴史がどうなっているのかなんて把握できないんだ。
興味ない人にどうやって教えればいいんだろうと思いながら、わたしは「うーんと」と髪の毛を揺らした。
「絵本やアニメだったら、子供用にわかりやすい話ばかり並べられてるから。実は偉い人のご落胤だったとか、仏教で禁じられていることを次々と行って、宗教が形骸化していることに対して警鐘を鳴らした人だとかは知られてないのかも」
「えー、じゃあトンチはフィクション?」
「そういう話って割とあるよね。江戸時代の人が、一休さんの話をモチーフに御伽噺をつくったのが、今知られている話。ほら、真田幸村っていう有名な武将さんがいるじゃない。あの人は、徳川幕府を転覆させようとした人だから、フルネームの話を語るのは御法度だったから、違う名前を付けて、あと一歩まで徳川を追い詰めたって話がつくられたの。元の話よりも、史実を下敷きにしたフィクションのほうが有名になっちゃうってことはあるから」
そこまで語って、わたしは口の中で「しまった……」とつぶやいた。
興味のない人には、語り過ぎたら変人呼ばわりされてしまう。本や物語が好きじゃない人には、できるだけ端的に語らないと伝わらないのに。
わたしが思わず押し黙ってしまったけれど、レンくんは「はあ~」と声を上げる。
「本当、間宮って詳しいなあ、なんでも」
「な、なんでもって、わけじゃないかな。だって、こういうのは、調べたら調べるほど、わたしって本当になんにも知らないなあって思うわけで……」
「でも俺が知ってる中で、一番博識なのは間宮だと思ったけどなあ」
「…………!!」
喉を詰まらせそうになる。
なんで彼は、こんなにおだて上手なんだろう。レンくんはわかってないような口ぶりで「間宮?」と聞くけれど、わたしは「なんでもない!」としか答えられず、「とりあえず、せめてわかりやすい話だけでも知ってたら、そこから暗記できるよ!」とだけ教えておいた。
本当にやったのかどうかは、わたしも知らない。
****
家に帰ってから勉強しようとしても、なかなか勉強することに集中できなかった。
暑いし、蒸して汗ばむし、おかげで前髪が貼りつくし、ついでにTシャツだって背中に貼りつく。
扇風機は頑張ってくれるけれど、問題集がぱさぱさとめくれ上がってしまうから、どうしても集中することができなかった。
どうにか化学の記号を覚えようとしたけれど、どこまで覚えたのかもわからないまま、わたしはとうとう根を上げてしまった。
「はあ……休憩」
仕方がなく、机から離れてゴロンとベッドに転がった。
そして何気なく生徒手帳を広げて、前に撮ったプリントシールを見る。そのプリントシールに写っている満面の笑みのレンくんを見ていると、どっと熱が上がるし、どうにも落ち着かなくなる。
こんな格好いい子と手を繋いだり、プリントシールを撮ったのかと思うと、気恥ずかしいし、第一に「なんで?」って思ってしまう。
わたしは特に目立たない普通の女子だ。文学少女といえば聞こえはいいけれど、実のところ友達以外に本好きがいないために、マイナーな趣味にはまってしまっているマイノリティーってだけだ。今流行のアイドルソングの区別もつかないし、アイドルのグループとメンバーをシャッフルされてしまったらもう誰が誰かわからないくらいには興味がない。俳優さんだって、ドラマの役だとわかるのに、インタビューに出ていても誰が誰だかわかっていないことがほとんどだ。
わたしはそのプリントシールをまじまじと見る。
レンくんは、どうしてわたしに関わってくるのかがわからない。わたしは彼が見えないのに。触れないのに。向こうにはわたしが見えている、触れるというのは理不尽だと思ってしまうし、なによりも彼はわたしと住んでいる世界が違うような気がする。それこそ、沙羅ちゃんが片思いしている滝くんみたいに、サッカーしてグラウンドで活躍している男子には、ちょっとしたハプニングでもない限り声をかけるのだって、地味な女子からはためらわれてしまうんだ。
ぐちぐち考えても仕方ないもんなあ……。
勉強する気にならなくって、結局は晩ご飯を食べたあとは、すぐに眠ってしまった。
馬鹿だなあ。現国以外、そこまでいい点取れないくせにね。
****
結局悶々としたまま、学校に着いてしまった。いつもの癖で早めに学校に来てしまったけれど、部活はテスト休みのせいで、サッカー部の朝練だって当然なしだ。グラウンドは閑散としてしまっていて、普段はキャーキャー言っているファンの子たちも、コンクールに提出するための新聞を作成している子たちも、今はいない。
わたしはガランとしたグラウンドを眺めていたとき、「あれ、間宮?」という声が聞こえたのに、わたしは思わず肩を跳ねさせる。
恐る恐るスマホのカメラ機能をオンにして見てみると、たしかにその向こうにはレンくんがいた。わたしのいきなりスマホを出したのを見て、スマホ越しのレンくんはきょとんと黒目がちな目を瞬かせる。
「なんで? 写メ撮ればいいのか?」
「そ、うじゃなくって! わたし、知らなかったから。スマホ越しだったら、レンくんが見えるんだよ?」
「あー……それは盲点だったなあ……」
レンくんは口元を抑えて、明後日の方向を見る。あれ、それは駄目だったの? わたしは恐る恐る手を伸ばしてみる。レンくんの腕を引っ張ってみようと思ったけれど、触れない。
「あーあーあーあー」と声を上げたかと思ったら、レンくんはずっぱりと言う。
「そういうこと、あんまりやるなよ」
「え? どうして? やっぱり……変だから?」
そりゃそうだ。
レンくんが格好いいからと舞い上がってしまっているのはわたしのほうだけで、レンくんはわたしに顔が割れる前も今も、態度が一律なんだ。なにも思っていなかったら、こんな態度になんてならない。
調子に乗ってしまったんだなと、わたしはしゅんとしてスマホをケースごと鞄に突っ込んだ。
「ごめん……ただレンくんはわたしのことを見えるし触れるのに、フェアじゃないと思ったの。わたしは、しゃべらないとレンくんがどこにいるのかわからないし、触ってもなにも感じないから……」
「いや、怒ったんじゃないんだ。本当に」
レンくんの声には、少しだけ焦りが入り混じっているように聞こえた。なんでそこで慌てるんだろう。散歩と称して遊びに誘ったのはレンくんのほうなのに。
少しだけ押し黙っていると、いよいよいるのかどうかもわからなくて不安になる。そのとき、レンくんはやっと言葉を吐き出してくれた。
「……勘違いしそうになるからさ。俺」
「なにを?」
「別に、俺たち。付き合ってもないよなあと」
そのぼそぼそとした言葉に、わたしは思わず鞄の柄をぎゅっと掴んだ。
当たり前だ。わたしとレンくんは、ただわたしにしか声が聞こえないだけの人。何故かかまってくる人ってだけの間柄で、友達というには互いが気の置けない存在とは程遠い。彼氏彼女かと聞かれたら友達よりももっと遠い。
レンくんさえ黙ってしまったら、わたしは彼がどこにいるのかもわからない、全くの赤の他人だ。
わたしは鞄を持って、そのまま逃げ出した。
「おい、間宮!」
「教室入ってテスト勉強する!」
根性なしは、本当にとことん根性なしだ。
****
教室に着いたけれど、日直ですらまだいない時間なんだから、やることがない。
黒板だって綺麗だし、花瓶の水だって変わっているから、せいぜい冷房を付けてテスト勉強をするしかできない。
わたしはのろのろと昨日覚えきれなかった化学の問題集を取り出して、暗記に戻ろうとしたとき。
「なあ、間宮!」
「ひゃっ!?」
思わず隣からの声に、わたしは悲鳴を上げてしまった。
レンくんに教室で声をかけられたことなんて今までなく、わたしはそんな馬鹿な反応しかすることができなかった。
思わず問題集を閉じそうになったけれど、無視してどうにか暗記をこなそうとするけれど、隣から聞こえてくる声が気になって、覚えられるものも覚えられない。
「あのさ、なんで逃げたんだよ」
「……たんぱく質の分子構造……」
「俺、本当に全然気が利かなくって、すぐ怒られるから、間宮が全然怒らないから調子に乗ったのかもしれない」
待って。わたし、レンくんに出会ってから、悲鳴ばかり上げているし最初のほうは困惑ばかりしてたと思うけれど。
まるでレンくんの中じゃ、女神のように心が広くなっているみたいだ。わたしは思わず見えない方向に、目を瞬かせる。
やがて、レンくんはすっと息を吸うと、一気に吐き出した。
「ごめん! 調子に乘って怒らせた!」
「……待って、謝らないで。そもそもなんでレンくんが謝るの? わたしが根性なしだから謝ることでは」
「はあ? 根性? どこら辺に必要?」
……わたしが言ったことも、意味もなにひとつ伝わってないみたいだけれど、まあいいや。
わたしはできるだけ笑顔を浮かべて頷いた。
「本当の本当に、全然怒ってないから。だからお願いだから謝らないで」
「えー、そうか。そうかあ……よかったあ……」
レンくんはひとりで納得してくれたみたいなことに、わたしは心底ほっとした。
やがて、クラスメイトがパラパラ来たので、わたしはレンくんのことをスルーして、今度こそ科学の暗記に戻っていった。
不思議なことに、さっきまでざわついたりしていた気持ちが落ち着いたし、同時にふわふわした気持ちがまとわりついている、妙な心地になっている。
気持ちがジェットコースターのように沈んだり、上昇したりを繰り返している。
わたしは、やっぱりレンくんのことが好きなのかもしれない。
そう自分の気持ちと向き合うのが、何故か怖かった。
****
授業が終わり、図書館で勉強するか、そのまま家で勉強するかで考え込む。
相変わらず絵美ちゃんは部室で勉強しているし、沙羅ちゃんはさっさと家に帰ってしまうし。
でもなあ……図書館のカウンターで勉強していたら、レンくんに会うのかもしれない。いるのかどうかわからないけれど、一緒にいると落ち着かないし、いるのかもしれないしいないのかもしれないとそわそわしていたら、勉強に集中できない。
仕方ないから家に帰ろうかなあ。そう思って廊下に出ていたとき。
意外な組み合わせが立ち話しているのが見えて、思わず角に身を寄せてしまった。
しゃべっているのは、沙羅ちゃんと滝くんだ。
沙羅ちゃんは滝くんに気があるけれど、滝くんがなにを考えているのかはいまいちわからない。
ふたりの接点なんて、せいぜい同級生くらいだ。何故か事故に遭ったあとからわたしに対してはいろいろ声をかけてくれるときもあるけれど、沙羅ちゃんとなにかあったのかなんて、はじめて知った。
いつの間にふたりは世間話するくらいの関係になったんだろう? 思い返してみても、沙羅ちゃんは滝くんと話をする際にわたしを盾にしてしゃべっていて、まともにふたりだけでしゃべることはなかったと思うんだけれど。
「それで、間宮は大丈夫そうか?」
滝くんはいつものぼそぼそとした口調で言う。何故わたしの話題なんだろう。テスト前なんだから、テストの話でもすればいいのに、自分に気のある女子の前で他の子の話をしなくってもいいのに。
思わずむっとしてしまったけれど、対する沙羅ちゃんはショックを受けている様子もなく、返事をしている。
「うん……相変わらず、だけどね」
沙羅ちゃんはいつものおっとりとした声で、そう言う。
滝くんは形のいい眉にあからさまに皺を寄せる。
「一応聞くけど、具合は本当になんにもないんだな? ときどき保健室に行っていたみたいだが」
「うん、最初は声が聞こえ過ぎてパニック起こしてたみたいだけれど、ひと月経ってからは落ち着いてる」
「そうか」
ふたりの話を聞いていると、どうにも落ち着かない。どうしてわたしの体調の話題をしているんだろう。わたしをネタにせずとも、他に話題はあると思うんだけどなあ。
立ち聞きしているのも難だから、このまま立ち去ろうと思って踵を返したところで、滝くんの声がボソリと聞こえた。
「あいつのこともか?」
「……滝くんには悪いけれど、私は許せそうもないよ」
そこであからさまに沙羅ちゃんの声に棘が入り混じったことに、わたしは思わず足を止めた。
前にもそんなときがあったと思い返す……そうだ、沙羅ちゃんが誰かとしゃべっているとき、あからさまにしゃべってた相手に対して怒っていたんだ。
ちょっと待って。その怒っている誰かとわたしが、どうして結びつくの。
思わずそのまま聞き耳を立てていたけれど、沙羅ちゃんの言葉に対して、あからさまにしょげたような滝くんの声が聞こえるだけだ。
「すまん……」
「あ、本当に滝くんには怒ってないんだよ? 本当だよ」
「だが、あいつは人がよすぎるから」
「人がいいのと、調子がいいっていうのは全然違うよ……ごめん、ちょっと言い過ぎた気がするね」
「いや、すまん。本当に」
「滝くんは、本当に謝らなくっていいと思うの……!」
沙羅ちゃんが吐いた毒にショックを受けているらしい滝くんを、沙羅ちゃんは必死でフォローしようとする会話に切り替わったところで、わたしはようやく廊下をあとにした。
いったい、どういうことなんだろう……? なにかを隠されているような気がするけれど、今までは気付かないふりをしていた。でも、そろそろ向き合わないといけないのかもしれない。
学校を出るまで、不定期に声をかけてくるレンくんの声は、聞こえなかった。何気なくスマホをかざして辺りを見てみたけれど、やっぱりいなかった。
……うん、レンくんがいつもわたしの近くにいるわけじゃない。でもそのことについては、もうちょっと考えたほうがいいのかもしれない。
****
テスト勉強をどうしようと考えあぐねて、遅れてしまった化学の暗記をしないといけないと、心を鬼にしてやってきたのは、近所の市立図書館に設置されている自習室だった。
そこは大学受験生や試験勉強に使っている人しかいないし、図書館の中にあるものだから、コンビニやハンバーガー屋みたいにしゃべりまくる人もいない。
わたしはそこで化学の暗記に躍起になり、問題集をひとつひとつ解いていく。
問題集の答え合わせをして、どうにか赤点は免れそうだなとほっとひと息ついたところで、隣の女の子が本を読んでいることに気が付いた。どうもその子もテスト勉強のために自習室に来たけれど、ノルマが終わったから図書館のほうから本を借りてきたみたいだ。
自分へのご褒美として、本を借りに行くのもいいなあ。そうゆるゆるとしたご褒美を求めて、わたしも図書館に行く。
夕方で、人が程よくはけた図書館で、新刊コーナーを漁る。面白そうな本はないかなと思ってあれこれ手に取っては読み、手に取っては読みを繰り返していたところで、司書さんが返却本を積んで本棚に立てているのが目に留まった。
その本の一冊を見て、思わず目を見張る。
【脳の全て】
普段だったらわたしは物語以外の本にはあまり興味がなく、スルーしているものだったけれど、どうしても目が離せなくなった。
「あの、この本って読んでも大丈夫ですか?」
わたしは作業をしている司書さんに声をかけて、本を指さすと、当然ながら司書さんは不思議そうな顔をした。
「もちろんかまいませんが……こちらで大丈夫ですか?」
「はい!」
「もし返却する場合はカウンターまでお持ちくださいね」
司書さんが差し出してくれたのにわたしは頭を下げてから、いそいそと閲覧席へと持っていった。
その本は生物の授業で見たような脳の構造からはじまって、脳の機能の低下によって起こる病気や現象によってあれこれと書かれている。
授業でちょっとだけ先生が触れたことあるなあと思いながらパラパラとめくっていたところで、【記憶喪失によって起こる現象】とタイトルの付けられた章に、目が留まった。
これだと思って、わたしは慌てて文に上から下まで順番に目を通す。
脳が衝撃を受けた際に、保存していた記憶を失うことがある。怖いものだったら脳に損傷が起こって、人生を送っていく中で覚えていく人間的活動の方法まで忘れてしまうという恐ろしいものもあったけれど、他にも見逃され勝ちな問題として挙げられているものがあった。
記憶を失っていても、それに全く気付かないものというのが書かれている。
人間の脳というものは本当に人間にとって都合よくできていて、忘れていて矛盾が発生しても、無自覚の内にそれのつじつまを合わせてしまうことで、忘れていることに気付かないということがあると。
わたしは今自分の身の上で起こっていることを思い返しながら、ようやくわたしは図書館を出る決心をした。
カウンターに本を返し、貸してくれた司書さんにお礼を言うと、わたしは図書館をあとにした。
病院で行っても、やっぱりわたしの後遺症らしいものは見つからない。先生もわたしの体にはなにも問題ないとしか言わない。
でも……未だに思い出せない事故当時の記憶。
わたし、本当に大事なことを忘れてない?
なにも忘れてないんだったら問題ないけれど、なにか忘れているのかもしれないというのは、ずるずるとわたしの影にくっついてくる。後ろめたいと思ってしまうのは、大事なことを見落としていないかと不安に駆られてしまうからだ。
わたしは、いい加減このことについて向き直らないといけないんじゃないだろうか。
それが正しいのかなんて、わからないけれど。
家に帰ってから、テスト範囲の暗記のノルマをどうにか終えると、休憩がてらにスマホを弄っていた。
調べてみたのは、記憶喪失に関するエピソード。
ドラマや小説のエピソードもたくさん拾えたけれど、実際にあった出来事もそれなりに拾える。最も、それは玉石混合で、本当のことなのか嘘八百なのかは、知識が足りな過ぎて判別ができない。
記憶喪失になったのは本当に一瞬で、十分間だけ一年間の記憶が全部飛んでしまって、お医者さんに年齢を聞かれたときに一歳若く答えてしまったという話。
病院に運ばれた際にに自分がどこの誰だかわからなくなったものの、身分証明できるものもなにひとつ持っていなかったせいで、警察に保護されて家族を探す羽目になったという話。
記憶喪失というものは、一過性のものと、慢性的なものにわけられるというのがわかった。
ひと月以上忘れていたら慢性的なものにカウントされ、わたしの事故の前後の記憶が抜けてしまっているのは、慢性的にカウントされるらしい。
わたしはそれに、「ふう……」と息を吐いた。
一過性のものはさておいて、慢性的なものは記憶を取り戻すことが滅多にないらしく、気になる記述があるので、そこをタップしてじっくりと読み返した。
慢性的なものは、大きなストレスを抱えることで発症してしまうことがある。そのストレスに耐え切れなくなったときに、肉体的な衝撃を受けた際に一緒にリセットボタンを押してしまうことがあると。
わたしの場合は、慢性的なものだけれど、事故の前後の記憶が飛んでしまっている以外はなにもない。つまりは、わたしが事故に遭った際に、なにかがあったということになる。
学校ではなにがあったっけか。
わたしはカレンダーをめくって、そのときの出来事を思い返そうとする。中間テストのあとに入院したんだから、普通に学校に通っていたはずだ。
時間割とカレンダーを見比べていたとき、わたしは「あれ?」とひとつ記憶にない記述が書いてあることに気が付いた。
わたしが入院していた週ではなく、テストが終了した週の日曜日、【神社】と書いてある。わたしが入院した週の日曜日には【節間グラウンド】とも。たしか節間グラウンドはスポーツや野外ライブの会場になることもある場所だ。名前は知っていても、そんな場所に足を運んだことなんて一度もないはずなのに……あのときのわたしは、ここに行こうとしていた……?
すぐにスマホで節間グラウンドについて検索をかけ、その週の行事スケジュールの確認をする。
【H県高校サッカー大会決勝】
あれ。つまりは……。
ここまで読んで、わたしは思わず頭を抑える。
サッカー部の応援に行こうとしていた、ってことで合っているよね。でも、なんでだろう……?
沙羅ちゃんが滝くんの応援をしたいから、それの付き添い? でも、もしそうだったら、沙羅ちゃんはわたしにその話題をしてもいいはずなのに、彼女からはサッカー部の話題はされない。
いや……そういえばわたし、退院してから、一度もサッカー部の話題を沙羅ちゃんからも絵美ちゃんからもされてないよ? 沙羅ちゃんは滝くんに気があるはずなのに、こんな不自然なことってある?
それに……。
この神社ってなに?
【節間グラウンド】の前の週に書かれている【神社】の字に、わたしは軽く指を滑らせる。
近所には、たしかに神社がある。土日にしか宮司さんがいないから、その日じゃないとお守りもおみくじも買えないような小さな神社だ。そこにカレンダーにまで書いていたってことは行ったんだろうけれど……。
わたしはちらっと時計を見る。まだ八時にもなってないし、今からだったらコンビニに行くとでも言えば、自転車で走ってすぐに帰ってこられる。
わたしはお母さんに「コンビニにジュース買いに行くけど、他に買ってくるものあるー?」と言いに行った。
お母さんは「テスト勉強は?」と渋い顔をしたものの、「今日は暗記だから、覚えたものは帰ってきてから問題集解いてみる」と言って誤魔化した。
****
ジリジリと鳴る虫の音を聞きながら、自転車を漕いで十分。外灯で朱い鳥居が照らされているのが見えて、すぐに鳥居の脇に自転車を停めた。
多分宮司さんはそろそろ帰っていると思うんだけれど。わたしは汗ばむのをTシャツをパタパタさせて待っていたところで、「あれ?」と声をかけられて振り返る。
スーツ姿で、ジャケットは脱いで脇に挟んでいる。一見すると一介のサラリーマンに見えるけれど、近所に住んでいるわたしは、この人がここの宮司さんだと知っている。宮司さんは平日はどこかで働いていると聞いたけれど、詳しいことは知らない。わたしが宮司さんに頭を下げると、宮司さんも「こんばんは」と返してくれた。
「この間のお守り、渡せましたか?」
そう話しかけられ、わたしはビクッと肩を跳ねさせる。……なにかお祈りにでも来ていたのかなと思っていたけれど、お守りを買いに来ていたんだ。
宮司さんもお祭りのとき以外は人が来ないから、わたしがここに来たことを覚えていたらしく、にこにこと笑いながら聞いてくれる。
わたしが少しだけ考えると、首を振った。
「どうも、落としちゃったらしくって……そのときのお守り、もう一度買いたいんですけれど」
「あー、それは残念でしたね。ちょっと待ってくださいね」
突然押しかけて来たのに、ありがたくも宮司さんはすぐに神社の社務所のほうに入ると、そこからお守りを差し出してくれた。
「たしか、これでしたね」
「あ、はい!」
わたしはそれを見て、目を見開く。
【必勝祈願】。
サッカー部の優勝祈願でお祈りに来たんじゃなくって、お守りを渡すつもりだったんだ。
わたしは宮司さんに尋ねる。
「あの、宮司さん」
「はい?」
「わたし、ひとりでここに来たんですよね?」
宮司さんは少しだけ驚いた顔をしたものの、「そうですよ。一生懸命お守りを選んで、これを買って帰りましたよねえ」と答えてくれた。
わたしは、お守りのお金を支払って、ひとまずポケットにしまい込んだ。
自転車を漕いで、風を前面で受けながら考える。
サッカー部の応援に行ったのは、てっきり滝くんの応援に行きたい沙羅ちゃんの付き添いとか、絵美ちゃんの取材の付き合いだと思っていた。でもこれじゃあ、わたしが自主的にサッカー部の応援に行こうとしていたみたいじゃないか。
てっきり、わたしが忘れていたのは、交通事故前後の記憶だけだと思っていたのに。
そんなことまで忘れていたなんて……。
図書館で読んだ本によれば、矛盾が生じてしまっても、無意識のうちにつじつま合わせをしてしまうから、忘れていても全く気にならないらしい。
なんでだろう。どうして忘れちゃっていたんだろう。
そう思い返してみても、同時にスマホで見た記事のことが頭にちらつく。
ストレスになることが原因で、衝撃と同時に記憶を手放すスイッチを押してしまうという奴。
思い出したとき、わたしは大丈夫なんだろうか。それとも、思い出さないと駄目なんだろうか。
聞いてみたくっても、誰に聞けばいいのかわからない。どうしたいのかって聞かれても、わからないとしか言えない。
わたしは、コンビニでお母さんに頼まれた牛乳を買うと、家に戻って、それを渡した。
そのあと、わたしは自分の鞄を漁りはじめた。
学校に教科書を置いて帰っているから、鞄の中にはノートや筆記用具、問題集や図書室で借りた本ばかり入っていると思っていたけれど。
わたしは鞄の中身を全部引っくり返して、ひとつひとつ確認して「あ」と気付く。
ちょうど神社で宮司さんに渡されたお守りが、神社の封に入ったまま出てきたのだ。
だとしたら……事故の前に、サッカー部の人にお守りを渡すつもりだったんだ。でも、誰に?
滝くんという線は、ない。事故に遭ってからしゃべることが増えたけれど、同時に沙羅ちゃんとの接点も増えているから。でも……運動部の人が苦手なわたしがしゃべれる相手が、他にいるの?
一瞬レンくんのことが頭によぎったけれど、首を振る。
見えない男の子に、どうやって渡せるの。だって触れもしないじゃない。
思い出そうとしても、なにか靄がかかったように、ちっとも思い出せない。サッカー部の知り合いは、彼以外に思いつかないんだ。
****
「はあ……」
わたしは溜息をついた。
ずっとレンくんと話をしていたはずなのに。見えない男の子で、わたし以外には声が聞こえていない幽霊みたいな人。手を繋いでいて引っ張られる感覚はあっても、触感だってない。
それが外見を知った途端に態度を変えるなんて、自分はどうかしているとついつい思って自己嫌悪に陥ってしまう。
なによりも。レンくんはわたしが彼の外見を知る前と知ったあとでも、なにひとつ態度を変えていないんだ。
だからこそ、ちくちくと不毛だという言葉が突き刺さるんだ。
……見えない男の子のことを好きになったところで、どうにもならないじゃないと。
見えないから、触れないから。彼の声が聞こえない限り、いるのかいないのかわからない人を好きになったところで、どうなるんだろう。
なによりも、外見を知った途端に態度を変えたら、そんなの失礼じゃないかと思ってしまうんだ。
レンくんはおかしなわたしに対しても、ちっとも態度を変えていないのに。
自己嫌悪がズキズキと突き刺さるのを感じていたところで、ふとスマホを見る。
スマホには当然カメラが搭載されている。それでわたしはなにげなく景色を映してみた。わたしの近くは、今はテスト勉強用の単語帳を広げている子や、赤シートを駆使して暗鬼をしている子、皆でクイズ大会をしながらテスト勉強している子ばかりが目に留まる。
あちこちを映して回ってみても、レンくんの姿はなかった。
そう、だよね。わたしはスマホを鞄にしまい込みながら、家路を急いだ。
レンくんがいつもタイミングよくわたしに声をかけてくるからといって、いつも一緒にいるわけがない。
わたしもなにを期待してたんだろう。
そして、少しだけ萎む気持ちを叱咤する。なにを勝手に期待して、勝手にがっかりしているんだろうと。
****
昼休み、普段だったら皆外にお弁当を持って行って食べたり、食堂に行ってご飯を済ませるのに、ほとんどは購買部やコンビニで買ったパンやおにぎりを食べて、教室で勉強にかかりっきりになっていた。
そういうわたしも、購買部で買ったメロンパンと紙パックの紅茶でお昼を済ませると、テスト勉強をガリガリとする。暗記ものは家でじゃないと覚えきれないけれど、苦手な数学はせめて赤点くらいは回避したいから、毎日のように文章題の勉強をしている。数式計算だけだと、赤点回避にはちょっと足りない。
教室は皆、テスト前だからと勉強にかかりっきりになっている。当然部活も休みで、休み時間や登下校中に聞こえる運動部の掛け声も、声楽部のコーラスも、吹奏楽部のクラリネットの音色も聞こえてこない。
うちの学校の古い冷房が、ぶおんと埃を撒き上げて教室を冷やしていく音を耳にしていたところで、「泉ちゃんは今回のテスト、調子はどう?」と声をかけられて、顔を上げる。
沙羅ちゃんは数学や英語は問題ないから、もっぱら暗記ものをしようと、赤シートと赤ペンを片手に勉強をしている。絵美ちゃんはどちらかというと英語の赤点回避のために、せめてもと英単語の暗記を続けているみたいだ。
わたしは数学の問題集をちらっと見せて、首を振る。
「全然自信ないよー」
「うん、そうだよねえ」
「うんうん」
そんな会話をしつつも、入院していてちんぷんかんぷんなわたしはともかく、ふたりともそこそこの成績を取っているのを知っている。社交辞令って言ってしまったらそれまでなんだけれど。
テスト範囲の山をかける度胸もないから、こうやってちまちまとできる範囲で点数を稼ぐしかないなあとぼんやりと考えていたところで、沙羅ちゃんが「最近、泉ちゃん元気ない?」と聞かれる。思わず瞬きをする。
「え……そう見える?」
「見えるかなあ。もうすぐテストだけれど、なにかあった? 委員の当番のときとか」
そう言われて、わたしは思わずルーズリーフに立てていたシャーペンの芯をぽきりと折る。それが床に転がったのを尻目にわたしは目をぱちぱちぱちとさせてしまう。
「ど、どうして?」
「泉いずみ、それ全然隠れてないからね? 隠してるつもりだったら謝るけどさ」
絵美ちゃんに首を振られても、わたしはあわあわしている以外にできず、思わずルーズリーフに視線を落とす。
すると沙羅ちゃんは困ったように眉を下げて笑う。
「私にも言えないこと?」
「……うーんと、ちょっと待ってね」
あのとき一緒に撮ったプリントシールは、生徒手帳に貼っている。でもそれを見せる勇気なんてちっとも出ないから、わたしはただ、小さくごにょごにょと言う。
「……気になる人と、ちょっとだけ。散歩したんだ」
「え?」
「おおっ!」
沙羅ちゃんが目を瞬かせ、一方絵美ちゃんは目を輝かせる。
絵美ちゃんは詰め寄って「誰!? 私たちの知ってる人!?」と案の定聞いてくるので、わたしはますます口元をごにょごにょとさせてしまう。
機械を使わないと見えないし、触れないし、「レン」って名前以外知らないし、どう説明すればいいんだろうと、ただわたしは蚊の鳴くような声で、「多分知らない……」とだけ言う。
絵美ちゃんはますます「どんな人!? 格好いい!?」と聞くので、わたしは助けを求めるようにして沙羅ちゃんを見ると、沙羅ちゃんはなにかを考え込むように、唇に親指を押し当てていた。
「ええっと……泉ちゃんの好きな人って、もしかして、背がわたしと同じくらい?」
それにわたしは思わず肩を強張らせる。沙羅ちゃんは女子としては身長が高めだけれど、スポーツやっている男子よりは当然低い。
レンくんはサッカー部のユニフォームを着ていたけれど……サッカー部の見えない人……なのかなあとぽつんと思う。
でも。どうして沙羅ちゃんがそんなこと言うんだろう。わたしがぼんやりと思ったら、その言葉に絵美ちゃんは「ああ……」と言葉をすぼめ、さっきまでの勢いを殺す。
「泉、そいつと遊んできたんだ?」
「遊んで……本当に、ただ散歩して、ご飯食べただけだよ」
「それデートじゃん」
そう絵美ちゃんに指摘されても、わたしだってどうすればいいのかわからなかった。
沙羅ちゃんだけでなく、絵美ちゃんにまで気を遣われてしまう理由が、こちらにはさっぱり。
隠し事? そうは思っても。そもそも見えない男の子のことなんていったいどう聞けばいいのかわからず、わたしは喉を詰まらせた。
わたしが忘れてしまっている事故のときの前後のことは、相変わらずちっとも思い出せないし、思い出すきっかけすら掴めない。それでもちっとも困っていないから放っておいたけれど。
レンくんは、わたしが思い出せないこととなにか関係しているんだろうか?
そうじんわりと胸に広がっていく疑問を打ち消すように、絵美ちゃんが「あーあーあーあー!!」と声を上げる。
「とりあえず! テスト頑張ろう!」
中途半端な声を上げたせいで、こちらにクラスメイトが怪訝な顔で振り返ったけれど、絵美ちゃんは気にすることもなく「とりあえず室町時代、金閣寺つくった人は!?」と無理矢理話を締めてしまったので、わたしたちはおずおずと口を開いていた。
「ええっと……足利義満……?」
****
今日は天気が悪く、来週からテストだっていうのに、台風が近付いてきているってニュースも流れてきていた。
わたしはじっとりと纏わりつく湿気にうんざりしながら、群青色の空の下を歩いていた。
今日は図書館で勉強する気にもなれず、そのせいかレンくんの声を聞くことはできなかった。
皆がなにかを隠しているような気がする。そうは思っても、わたしの事情を明かすこともできないし、どうしたものか。
そうひとりでもやもやを抱えていると、「あれえ、図書委員の子、だよね?」と間延びした声をかけられ、わたしは怪訝な顔で声のほうに振り返った。
身長はモデルさんみたいで、沙羅ちゃんよりも10cmは高い。同じ制服を着ているけれど、はっきりいってあちらのほうがスタイルがいいということは嫌でもわかる。
髪はすすけた茶色に染まっているし、前髪で見え隠れする耳にはピアス穴が開いているのが見える。派手な外見の子とは、はっきりいってあまり縁がないため、こうやって声をかけられてもどう返事をすればいいのかわからず、わたしは挙動不審になって視線をうろちょろとさまよわせる。
「ああ、ごめんごめん。別に脅したいとかたかりたいとかじゃないからさあ。あんまり怖がんないでよ」
「ええっと……はい」
「あー、タメなんだから敬語なんて使わなくっていいよ。あたし、塩田桃子《しおたももこ》。B組。おたくはA組の図書委員でしょ?」
「え? あ、はい……A組の間宮泉……です」
「だからあ、敬語なんていいって」
格好は派手だし、口調は結構癖があるけれど、そこまで悪い人じゃないらしいと、どこかほっとする。
でも、図書委員って知ってるのはなんでだろう。もし図書館を使ってるなら、わたしも週に二回は当番でカウンターにいるんだから、わかると思うんだけれど。貸出申請だってしてるから、名前を見たことだってあると思うけれど、塩田さんって苗字の同学年の女の子から貸出申請を受けた覚えはない。
わたしが思わず怪訝な顔をしてしまったのがわかったのか、塩田さんは「あはは」と笑う。
「警戒なんてしなくっていいってば。ねえ」
そう言って塩田さんは眉を下げる。そして彼女は「ええっと……」「うーんと……」とどもり出す。そしてええいままよとでも思ったのか、いきなり90度に背中を折り曲げて、こちらに頭を下げてきたのだ。
わたしはさすがにぎょっとして目を見開く。
「ごめん! いきなり謝られたら迷惑かもしれないけど! でも絶対に夏休み入る前には謝らないとって思ってたから!」
「ええ……?」
ますますもってわからない。
初対面のはずの塩田さんに、いきなり謝られてしまう理由が。派手な見た目に反して、意外と律儀な塩田さんの態度に、わたしは目を白黒とさせて、おろおろとする。
「あ、あの……顔を上げて! 本当に、わからないから……!」
あわあわと塩田さんに手を振る。いきなり謝られても困ってしまうし、こんな綺麗な人に謝られるようなことをされた覚えもない。
ただ、直感はしていた。
彼女は、明らかにわたしが失っている記憶に関わっている。
「あ、あの……塩田……さん?」
「ん?」
「えっとね、顔を上げて。それと、ちょっとだけ話、いいかな。ここだったら目立つかもしれないから、もうちょっと座れそうな場所で」
「うん……」
ようやく顔を上げてくれた塩田さんと、わたしはテクテクと歩いていく。
公園で座っているのも、今日みたいな中途半端な暑い日だと参ってしまうし、繁華街はちょっと遠いからハンバーガー屋でしゃべるっていうのもなしだ。
結局着いた先はコンビニで、コンビニのカフェメニューを適当にコーヒーを頼んでから、イートインコーナーに入ることとなった。
そこの先に入っていた男子中学生がちらちらとこちらを見てくるのが痛い。片やばっちり化粧をしていて綺麗な女子と、片や地味で日焼け止め以外なにもしていない平凡顔の女子だったら、顔面偏差値が違い過ぎる。
わたしはコーヒーにミルクを入れて混ぜながら、口を開いた。
「あの……塩田さん。変なこと聞くけれど、いいかな?」
「あたしでいいんだったら」
塩田さんは注文したココアをすすりながら、カウンターに頬杖をついた。それにギクシャクしつつ、近くでスマホゲームに夢中になっている中学生を尻目に、わたしは口を開いた。
「わたしが、五月の終わりくらいに事故に遭ったんだけれど」
「うん……」
それに塩田さんが顔を曇らせるのを見て、確信した。
やっぱり彼女は、あの事故のことを知ってる。というより、多分近くにいたんだ。
覚えていなくっても、本当に全然問題はないんだ。ただ不可思議なことが色々あって、それが何でとかどうしてって思うだけで、わたし自身なんにも問題がない。
でも……何故か変に気を遣われているような気がするから、それを煩わしく思うことがある。事故に遭ったのに、誰もかれもがそのことについては口を閉ざしているんだから。
お母さんは、事故の前後のことは知らないんだと思う。でも、なにかを知っているみたいな沙羅ちゃん。なにかを黙っている絵美ちゃん。そして……。
見えないはずのレンくん。何故か機械にだけは映っている、触れないし見えないし、黙られてしまったらどこにいるのかもわからない男の子。
これは全部、わたしが遭った事故に繋がっているような気がしたんだ。
……ただ謝りに来てくれた塩田さんに、それを蒸し返してしまうのは酷なことかもしれないけれど。それでもわたしは知りたかった。
わたしが忘れてしまったことって、いったいなんだったのかを。
「わたし、あのときの前後のこと、全く覚えていないの」
「……ええ?」
それにさすがに、塩田さんは目を見開いて、口を付けていたストローをぽろっと唇から外した。
わたしはコーヒーボトルで両手をくっ付けながら、頷く。
「事故自体は、そこまでひどかったんじゃないと思う。わたしも丸一日寝てただけだし、病院には定期的に通っているけど、後遺症もないみたいだから。でもひと月経った今でも、あのときになにがあったのか思い出せないんだ。なにがあったのか。塩田さん、もし知っているんだったら教えて。わたし、あのときになにがあったの?」
隠さないで欲しい。ちゃんと教えて欲しい。塩田さんはわたしのことを知っていても、わたしにとっては初対面。我ながら初対面の人に残酷なことを言っていると思うけれど。
謝りに来たはずの塩田さんに、なんてこと言っているんだと思うけれど。
皆が隠していることがなんなのか、わたしは教えて欲しかった。
塩田さんはしばらく無表情でこちらを見ていた。
ときどきスマホゲームの電子音混じりなBGMが流れ、中学生がオーバーリアクションしているのが目に入る。
やがて、塩田さんはひとつ「ふう」と息を吐き出した。
「そうだよね。当事者がなんにも知らないんじゃ、あたしが謝っても、仕方ないもんね」
そう言って塩田さんが口を開いた。
ようやく、あのときになにがあったのかわかると思ったとき。塩田さんが目を丸くした。
え? わたしが思っている間に、ガッタンとわたしは立ち上がっていた。誰かに引っ張られている。そう気付いたときにはもう遅く、わたしは鞄ごとズルズルと引きずられていた。
「ちょっと……なに!?」
「間宮、やめとけ」
「レ、レンくん!?」
こちらのほうを、塩田さんだけでなく中学生たちまでびっくりして見ている。
今まで。レンくんがこんな態度を取ることなんてなかった。今までは、わたしが気付かなかったらそのままだったし、気付いたときにはいろいろしゃべってくれていた。でも。
人前でこんなに大事を起こしたことなんてなかった。
見えないのに。声が聞こえないといるのかどうかもわからないのに。なんでこんなことをするのかわからなかった。
わたしが力を抜いた途端に、そのままレンくんに鞄ごと引きずられていく。
そして、レンくんの信じられない言葉を耳にした。
「……悪い、塩田。ちょっとこいつ借りる」
塩田さんに対して、そう言ったのだ。
彼女は力なく顔を緩めると、こちらに対して緩く手を振った。
え、ちょっと待って。これってなに? なんなの?
わたしはツッコミを入れる暇もなく、店員さんの「ありがとうございますー」の声を背に、コンビニから出てしまった。
****
レンくんの触れない手がようやくわたしを離してくれたのは、前に散歩の待ち合わせをしていた矢下公園だった。
テスト期間中だから、当然ながら運動部はどこもここのグランドを借りてスポーツなんてしていない。遊具のほうに母子連れの集団が集まって一緒に遊んでいるのが目に入る程度だ。
わたしはようやく自由になったのに、どこにいるのかもわからないレンくんに向かってがなってしまう。
「なにするの!? せっかく……聞けるところだったのに!!」
対してレンくんの声は、いつもよりも硬く険しい。
「……間宮、あの事故のこと聞く気だったのか?」
「そうだよ! なんか皆が隠してるってわかるもの……気を遣ってくれるのは嬉しいけれど……臭いものに蓋をされているというか、腫れ物に触れられるというか……そういう扱いされると、こっちだって気になるもの」
わたしが吐き出した言葉を、いったいレンくんはどんな表情で、どんな態度で聞いていたのかはわからない。
ただ、黙られてしまったら、どこにいるのかがわたしにはわからなかった。
お願いだから、ちゃんと教えて。
どこにいるのか、教えて。
あなたは、ちゃんといるんだよね?
自分でも訳がわからなくなって、最後にはとうとう目尻に涙が溜まりはじめていた。
「おい、間宮。泣くところあったか?」
しばらくの沈黙のあと、ようやく、レンくんの言葉が耳に入ったことにほっとする。
胸はグジグジと痛んでいるのに、現金なものだ。
「わかんない……。どうして涙が出るのか……なんでこんなに訳がわかんないのか、もう全然わかんない……」
「泣くなよ」
「だってわたしは、あなたが黙っちゃったらどこにいるのか全然わからないんだもの。ねえ、レンくんはいるんだよね? 本当に、いるんだよね?」
レンくんのその言葉を聞いてほっとしているわたしは、きっとずるい。
彼の優しさに付け込んでいるんだから、本当にどうしようもない話だ。
でも。わたしは彼に黙られてしまったら、もうどこに彼がいるのかわからないんだ。だからわたしを慰める言葉でもいい、罵倒でもいい、ちゃんと「いる」って安心させてほしかった。
「どうして、誰も教えてくれないの? レンくんは、知ってるの?」
その言葉に、レンくんは答えてくれなかった。替わりに「ごめんな」のひと言が耳に入ってきた。
違うのに。わたしが聞きたいことは、それじゃないのに。
どうしてここまで胸が痛いのか、わたしは本当にわからなかった。
蝉の鳴き声がけたたましい。
テストがはじまって、教室の空気も冷房の冷気と一緒に集中の熱気が篭もって、混沌とした雰囲気になっている。
あの日以来、レンくんの声はピタリと聞こえなくなってしまった。図書館に行っても、人気のない廊下に出ても、彼の声を聞くことがとうとうできなくなってしまったんだ。
レンくんの声が聞こえなくなると、途端にきゅっと心臓が痛くなる。
唯一彼がいると証明してくれるのはプリントシールだったけれど、それを貼っている生徒手帳を毎日開けて眺めるわけにもいかず、ただ生徒手帳を制服のスカートのポケットに入れて、ときどきスカート越しに生徒手帳に触れて、安心するしかない。
彼はたしかにいると。
テスト期間のせいで、通院する回数も減り、わたしがひとりでネットや図書館で勉強した記憶喪失に対する疑問を打ち明ける機会もなく、次の通院までずるずると待つしかできなくなっている。
塩田さんとはというと、話をしたくっても、タイミングが悪く、いつも邪魔が入る。
廊下で話をしようとしたら、沙羅ちゃんから「ちょっとごめん……掃除当番の子がひとり先に帰っちゃって……悪いんだけれど、手伝ってくれる?」と言われてしまったら、班の半分以上が勉強や面倒臭いと言い訳並べて帰っちゃっている状態なんだから、手伝わない訳にはいかない。
放課後に待ち合わせしようとしたら、絵美ちゃんから「泉ー! ちょっと部活の記事読んで欲しいんだけど!」と頼まれる。どうもコンクールで選考を通ったらしく、その発表のために新しい記事を書かないといけないという。
ふたりがあからさまに塩田さんへの接触を阻もうとするのに、さすがに塩田さんに悪いんじゃと思っていたけれど、そのたびに彼女は人のよさそうな顔で目尻を下げて笑っている。
「あぁあ、やっぱりあたし嫌われてるねえ」
そうしみじみと言うものだから、申し訳ない。
彼女はそこまで悪い人とは思えないんだけれど、あからさまにふたりが敵視しているのが気になった。
でも……レンくんが塩田さんのことを呼んでいたことも、まだ聞けていない。
こうしてまともに塩田さんとしゃべれないまま、テスト期間は終了してしまった。
あとは自習日のあと、学校の大掃除をやって、ようやく終業式だ。
わたしは今度こそ塩田さんに話をしたいと思いながら、塩田さんと廊下で出会ったときに、ひょいと彼女のスカートのポケットに突っ込んだ。それに塩田さんは「おっ?」と振り返ると、わたしは頭を下げる。
彼女のポケットに入れたのはメモ。わたしのスマホアプリのIDが書いてある。
本当だったら直接会って直接話を聞きたいけれど、こうも邪魔が入るんだったら、アプリで話を付けたほうがよさそうだ。
わたしは素知らぬ顔でIDを渡したあと、そのまま何事もなく学校の用事を済ませた。
テストの点は、やっぱり現国以外は可もなく不可もない点数で、赤点をギリギリ回避しているだけだった。これで来年の受験は大丈夫なのかとは思うけれど、できるだけわたしの偏差値で行けて、わたしのやりたいことがやれる大学を選ぶしかない。
アプリで話をすればいいやと思って、その日は塩田さんを探すこともなく、沙羅ちゃんと一緒に帰る。
沙羅ちゃんは蝉の鳴き声に目を細めながら、にっこりと笑った。
「今年もサッカー部、インターハイに出るんだってね」
「へえ……今年はどこでするの?」
「うん、M県。応援に行けるといいんだけど」
「結構遠いねえ」
去年もわたしは沙羅ちゃんと一緒にサッカー部の応援にインターハイまで行っていた。去年は親戚のつてがあったから、それで泊まることで旅費を浮かせて応援に行けたけれど、今年はつてがなさそうだ。
去年は学校からの応援団は他の部のほうに回ってしまっていたせいで、そこについていって応援に行くことができなかった。今年は結構強いから、サッカー部のほうにも応援を回してくれたら、一緒に応援に行けるのになあ。
わたしがそうしみじみと思っていたら、ふと沙羅ちゃんと目が合う。沙羅ちゃんがまじまじとわたしのほうを見て、遠慮がちに言う。
「……泉ちゃんは、今でもやっぱり思い出したい?」
「え?」
一瞬なんのことかと思ったけれど、トラックが道路でエンジンを噴かせている音に、わたしは肩を強張らせる。
トラックに跳ねられた前後のことは記憶が飛んでいるくせに、トラックを見た途端に体が強張るのは、未だに治らない。
そのわたしの態度を見て、沙羅ちゃんはそっとわたしを車道の反対側に押して、沙羅ちゃんが車道側に回って歩き直す。そして、ぽつんと言った。
「私は、思い出して泉ちゃんが辛くなっちゃうのなら、思い出さなくってもいいって、今でも思ってる」
「え……沙羅ちゃん?」
わたしが思わず沙羅ちゃんの顔をまじまじと眺めると、沙羅ちゃんはゆるりと笑う。目尻を下げて、今にも泣きだしそうな顔をされてしまったら、彼女は本気でわたしが傷付くのを嫌がっているんだって、わかってしまう。
思えば。沙羅ちゃんがなにかに対して怒っていたり、ちくりと棘を出していたときに話題に出していたのは、いつもわたしのことだ。
沙羅ちゃんはどちらかというとわたしと気性はよく似ていて、滅多に人に対して当たりが厳しくなったりしない。そんな穏やかな子に無理させてしまっていたんだと、我ながら情けなく思った。
わたしが俯きそうになったとき、沙羅ちゃんは口を開いた。
「泉ちゃんは思い出したそうで、いろいろなにかやってるのは知ってても、どうしても邪魔しちゃう……説明しなかったら、ただ意地悪しているようにしか見えないはずなのに、それでも言えなかった。ごめんね」
「……沙羅ちゃん。ごめん。心配してくれるのは嬉しいけど、でもね」
わたしはスカートの上から、ポケットを撫でる。今日もプリントシールを貼った生徒手帳はそこにある。
……レンくんは、たしかにいるはずなんだ。
彼が黙ってしまったら、もうわたしだとどこにいるのかもなにをしているのかもわからない。でも、わたしと遊びに行った彼は、たしかにいるはずなんだよ。
見えない、触れない、声だけしか聞こえない。
いるのかもどうなのかもわからない人を、ずっといるって思い続けるのは、結構疲れるんだ。
「……前にもちょっとだけ言ったけどね。好きな人が、いるんだ」
「泉ちゃん」
沙羅ちゃんは眉を潜ませる。……本当に、沙羅ちゃんはレンくんのことが嫌なんだなあ。塩田さんに向けていたのと同じような、棘のある顔をする沙羅ちゃんを安心させるように、わたしは笑顔で続ける。
「でもね、わたしには何故か見えないし、触れない……本当に、どうしてこうなったのかわたしにもわからない。病院で検査しても、わたし悪いところなんてどこにもないんだよ?」
「泉ちゃん……それ、本当?」
沙羅ちゃんがつらそうな顔をすると、わたしもつらい。できるだけ安心させるように、わたしは言葉を重ねた。
「嘘ついてもしょうがないよ。誰も信じられないだろうから、わたしもこれを口にしたことって、ないけどね……忘れる前のわたしは、なにかやってた。それがなんなのか、わたしは知りたいんだ」
「……泉ちゃん」
沙羅ちゃんは眉を潜ませて、唇を噛み、なにかを必死で考えているように視線を落とした。
本当だったらわたしを説き伏せて、その考えを捨てさせたいんだと思う。
でも、彼女は一瞬だけかぶりを振ったあと、こちらに対して口角を持ち上げた。
「うん、泉ちゃんが決めたんだったら、それでいいよ」
「沙羅ちゃん……ありがとう」
「泣きたくなったら、私はいつでも待ってるからね?」
そういたずらっぽく笑う沙羅ちゃんに、わたしは心から感謝した。
親友に、もう向いてないことをさせたくないなあ。わたしは、沙羅ちゃんに無理ばっかりさせてるもの。
蝉時雨がけたたましい中、わたしたちはようやくそれぞれに家路に別れたのだ。
****
家に帰ったあと、スマホを確認したら、知らないIDからアプリチャットが入っていた。
確認したら、それは塩田さんだった。
桃子【間宮さん、大丈夫?】
メッセージを読んで、すぐに返信した。
泉【はい、大丈夫。ごめんね、いきなりID押し付けて】
桃子【いや、いいよ。聞きたかったのは、間宮さんが事故に遭った日のことだよねえ】
泉【うん】
桃子【でも、間宮さんの友達も結構トラウマってるみたいだからねえ……だから、多分言いたがらなかったんだとは思うよ。何度も邪魔してきてたのは、それが原因だと思うな。あの子たちもパニックになっていただけなんだから、そこは許してあげてね】
塩田さんは存外面倒見がいいらしい。
そういえば、派手な外見の子たちと集まって、よく遊んで帰っているみたいだけれど、グループの女の子たちの姉御分みたいで、よく甘えてきている子たちの面倒を見ているようだったな。あまり交流のないグループの様子を振り返りながらそう思う。
わたしは彼女の言葉にありがたく思いながら、言葉をタップした。
泉【大丈夫。友達ともちゃんと話をしたらわかってくれたから】
桃子【そっか。それなら大丈夫かな。あー、こっから先は、電話で大丈夫?】
泉【えっ? うん】
すぐ、アプリの電話機能がついて、スマホが鳴った。わたしはそれを取る。
「もしもし」
『ごめんね、無理に電話にしてもらって』
「ううん、わたしのほうこそ、何度も何度も押しかけたのに」
『そりゃ記憶が飛んでたら気になるから、それは気にしないで……じゃ、あのときのことだけど』
塩田さんが、あのときのことを口にした。
それを耳にした途端、わたしは目の前が真っ白になったような気がした。
視界がぐにゃりと魚眼レンズを覗き込んだときのように、曲がって見える。まるでくるくる回って、世界全体がぐるぐる回っているような錯覚に陥った。わたしが黙り込んだのを、慌てて塩田さんが声をかけてくる。
『ちょっと、間宮さん大丈夫!?』
「ごめん……ちょっとショックを受けただけだったから……でも、そのせいかな。思い出した、みたい」
ぐるぐると視界が回る。
もう座っていることも困難で、わたしはベッドに突っ伏して、目が回るのをやり過ごす。
行儀悪くベッドの下に置きっぱなしの鞄に手を伸ばすと、中身を漁って、つるつるした小さな紙袋をふたつ、引っ張り出してきた。
掌に納まったのは、神社で買ったお守りがふたつ。
ひとつは渡しそびれたもの、もうひとつは訳もわからないまま買ったもの。
馬鹿だなあ……わたし、本当に馬鹿だ。いろんな人に心配されて、守られていたのに。本当に、馬鹿だなあ。
「……蝉川《せみかわ》くん」
好きな人の顔も、名前も、忘れてしまっていたなんて、大馬鹿だ。
****
わたしは読書が趣味の文系女子だし、スポーツ大会で花形になり、朝礼のときに表彰状を授与されている人たちとは無縁だと思っていた。
身長が大きいし、声は大きいし、ひとりっこで男子に慣れていないわたしにはどうしてもガサツに思えて怖い。小学校の頃から持っていた苦手意識は、年を追うごとに隔たりになって、気付けば同じクラスにいる違う人種というくらいにまで、自分とは関わりのない人認定をしてしまっていた。
だから一学期早々、委員を決める投票を見たとき、ものすごく青い顔になったことを、ようやく思い出した。
黒板に書かれている正の字。
図書委員の候補者で、圧倒的に多いのはわたしの名前の下。わたしが去年も図書委員をしていたのを知っていた子たちがこぞって入れたんだろうと、納得できたけれど。
問題は男子。男子は押し付け合いをしたかったのか、候補に挙がった子は多かったけれど票がばらばら。でも明らかに組織票が働いている男子が、わずかに他の男子の票の数を上回っていたんだ。
「うわあ、誰だよ! 俺に票を入れた奴!!」
そう頭を抱えて声を上げる男子を見て、わたしは小さく震えていた。
髪は金髪だし、身長こそ沙羅ちゃんと同じくらいだけれど、それでもわたしよりは充分高い。声が大きいし、明るすぎる。別にわたしは根暗というわけではないけれど、テンションが違い過ぎる人は、どうしても怖いと思ってしまうんだ。
蝉川くんに票を集中投下したのは、案の定サッカー部の男子たちだった。
「やあ、だってお前だって俺らに票入れただろ。練習時間減るじゃん」
「そうだけどさ! でもよりによって図書委員って! 俺が本を読むように思う訳!?」
「そりゃ入れるだろ。お前やかましいんだから、もうちょっと静けさを覚えろ」
「どんな説得!?」
サッカー部の男子たちがギャーギャー言い合っているのを、わたしは縮こまって見守っていた。
沙羅ちゃんは困ったようにわたしのほうに寄ってきて、わたしが震えているのに絵美ちゃんが抱きついてくる。
「ごめん、泉ちゃん。去年も図書委員だったし、楽しそうだったから、今年も泉ちゃんに票入れたんだけれど……」
「せめて滝だったらよかったのにねえ、よりによって蝉川かあ。蝉のようにけたたましいじゃん」
「う、ううん。いいよ。きっと部活が忙しいから、委員の当番はわたしに押し付けるだろうし……」
「こら、そこは「サボるな!」と抗議すべきところでしょ!」
「だって……どう言えばいいのか、全然わからないんだもん……」
沙羅ちゃんと絵美ちゃんにさんざん慰められたものの、わたしはひとりで震えていた。
サッカー部は去年、滝くんが入部してから絶好調で、他校からも女の子のファンがやってきたり、ときどきサッカー雑誌が取材に来ているのは知っている。去年は沙羅ちゃんの付き添いでインターハイを見に行ったくらいだから、サッカー部は真面目に真面目にサッカーをやっているという事実はわかってはいる。いるんだけれど……。
滝くんは女の子にモテているにも関わらず、誰とも噂が流れないくらいに硬派だし、無口なほうだから、図書委員で一緒になっても大丈夫だろうなとは思っていたけれど。
蝉川くんはテンションがわたしと全然違うし、背が小さいけど金髪で典型的な体育会系だ。いったいどう接すればいいのかわからないと、ついつい気後れしてしまう。
同じ委員に決まった時点では、彼への印象が全然変わるとは想像だってしていなかった。
****
「これ全部本棚に片付ければいいんだな?」
「うん……でもこれ重いから、カート使ってもいいよ?」
「いいっていいって! それは間宮が使えよ」
意外だ。と思ったのは、あれだけ練習に行きたいを連呼していた蝉川くんは、当番をわたしだけに押し付けることがなかったことだ。たしかに練習試合で学校にいないときもあったけれど、そのときは事前に謝りに来てくれたし、当番のときだってしっかりと仕事をしてくれている。
今日も先生が返却した分厚い専門書を何冊も持って、本棚に片付けに行ってくれている。
重くないかなとハラハラしながら、わたしはカートに生徒から返却のあった小説を棚に片付ける。
だいたい返したけれど、最後の一冊は台に乘らないと片付けることができない。
わたしはきょろきょろしながら台を探していて「あちゃあ」と口の中でつぶやいた。
本を立ち読みしていた子が、そこに座り込んで読書に没頭してしまっている。でもあと一冊で終わりなのに。わたしは困ってうろうろしていたら、既に手ぶらになった蝉川くんがきょとんとした目でこちらを見てきた。
「あれ、間宮返却終わった?」
「えっと……最後の一冊片付けられなくって……」
「ええ、台なかったか?」
「あるけど……」
わたしはちらっちらっと奥を見る。すると蝉川くんは屈託なく、読書してしまっている子に「ごめんっ! ちょっと台使うからどいてくれない!?」と手を合わせて声をかけてしまった。わたしは思わず肩をビクンッと跳ねさせていたけれど、その子はびっくりしたように本を持って閲覧席のほうへと移動してくれた。
それを見送り、蝉川くんはこちらのほうへ笑う。
「ほら、空いたから使えって」
「う、うん……ありがとう」
わたしが台のほうに昇り、最後の一冊を片付け終えたら、カートを押してカウンターへと帰っていった。
蝉川くんはにこにこしている。
「うん、ひと仕事終えたし!」
「えっと、さっきはありがとう」
「え、なに?」
蝉川くんはあまりに屈託なく言うので、わたしはどもる。彼の中の普通は、わたしにはなかなかできないことだから。
「えっと……台を、出してくれたから……」
「別に、そんなの普通だろ?」
彼のことを最初はあんなに怖がっていたのに、気付いたら彼に頼ることも、目で追っていることも増えていった。
****
中学時代のときから、運動部の子たちは「練習があるから、任せた!」とすぐにそれ以外の子に掃除当番を押し付けてしまうし、わたしは何回も何回も押し付けられていたから、残念だけれどそんな子たちなんだと思っていた。
でも蝉川くんを目で追うようになってから、そんなことは人に寄るという事実を知った。
「ジャンケンポーン! 負けたぁ! ダッシュでゴミ捨ててくる!」
「おう、行ってこい行ってこい。終わったら練習場まで走りな」
「おーっす」
蝉川くんはサッカー部の皆と一緒に掃除をしたら、ジャンケンでゴミ当番を決めて、走って練習に向かっているのが目に入った。
わたしは不思議そうな顔で蝉川くんを見ていたら、絵美ちゃんが「サッカー部見過ぎぃー」と顎を肩に乗っけてきたので、わたしはビクンと背筋を伸ばす。
「い、いやぁ……掃除、普通にしてるなあと」
「あー。部活優先するために押し付ける奴多いもんねえ。サッカー部って遠征で授業抜けたりするの多いじゃない? だから普段からきっちりやることやってなかったら、抜けた部分のノートとか貸してもらえないから、普段から意外とやることやってるんだよねえ」
「そうだったんだ……」
そういえば、滝くんは女子が好き好んでノートを貸してあげたりしているけれど、他の男子も意外と赤点なかったりするのは、日頃の行いのたまものだったんだなと、当たり前なことに気が付いた。
蝉川くんは普段から女子とも男子とも壁なくしゃべっているし友達も多いけれど、身長が運動部にしては低いせいなのか、それとも近くに滝くんみたいな格好いい人がいるせいなのか、いまいち女子にはもてない。でも本人はそれをあまり気にしてないみたい。
怖くってあんまり関わってなかったタイプの人も、こうして見てみると、わたしたちとあまり変わらないんだなと、当たり前なことを知る。
これで声が大きくなかったらなあ……。わたしはそう思って見ていた。別に声が大きいからといって、なにもおかしなことはされたことないけれど、小心者には大きな声は必要以上に委縮してしまうものなんだ。
しゃべるたびに、わたしが勝手に肩を震わせているのに気付いたのか、ある日の図書委員の当番のとき、本当に唐突に蝉川くんに聞かれた。
「俺さあ、間宮になにかした?」
「え?」
「うーん……間宮と何故か全然目が合ったことないから。怖がらせるようなことってしたっけって」
そう聞かれて、口をへの字に曲げられてしまい、わたしはどっと顔に熱を持たせた。
変だと思われた。わたしが挙動不審だから。どうにかして蝉川くんが悪くないと、わたしはどうにか顔を真っ赤にしたまま、手をパタパタさせて言い繕う。
「いや、本当に、蝉川くんは悪くないよ? ただ……わたしが、変だから?」
「え? 別に間宮が変だとは思ってないけど」
「そ、そうじゃなくってね……わたしが勝手に怖がっているだけで……」
「いや。怖い理由がなにって聞いているんだけど」
「声……」
「え?」
蝉川くんはあまりに屈託なく返事をするからか、わたしはぽろっと言ってしまう。
「声、大きいと、小心者は、勝手に委縮するんです……」
「ああ、それか!!」
それでわたしが勝手に肩を跳ねさせるのに、「ああ、ごめんごめん」と蝉川くんは声を抑えて謝ってくれる。
「そっかあ、悪い。なんか間宮が怖がってるの見てたら、こっちがいじめてるみたいに感じてさあ。じゃあ今度から気を付けるからさ」
「い、いじめられているとは、思ってない、よ? い、いっつも、助けてくれるのは、蝉川くんだから……」
わたしの言葉は、最後のほうになったらごにょごにょと小さくすぼまってしまって、みっともなくなってしまったけれど、蝉川くんは「そっかそっか」と繰り返す。
「お前うるさいとはずっと言われ続けてたけど、まさかそれが原因で女子を怖がらせてるとは思わなかったしなあ。理由もわかったし、ありがとうな」
そう屈託なく笑うのに、わたしはまたも頬がどっと熱を持つことに気付く。
どうにかして返事をしないとと思ったけれど、上手く言葉が出てこず、わたしは「どういたしまして……」と小さく小さく言うことしか、できなかった。
****
新聞部の部室は、いつもインクの匂いがしている。
コンクールに出品する記事以外に、学校で貼り出す新聞だったり、文化祭に貼り出す新聞だったりをつくっているせいだろう。
そこで手をインクまみれにして、絵美ちゃんは振り返った。校正作業を行っている新聞には、赤ペンでびっしりとなにやら書かれている。
「えっ、サッカー部の練習を見に行きたいの?」
「う、うん……サッカー部って、今どこで練習しているのか全然知らないし……わたしひとりで行っても、浮くから……」
前は放課後で練習していたけれど、外部からもファンが見に来たり、他の学校が偵察に来たりするから、一度部員と見学者でトラブルがあったらしい。それ以降は外のグラウンドで練習しているとは聞いていたけれど、そこがどこかはわたしは知らなかった。新聞部だったら取材に行ったりするから知らないかなと思ったんだけれど。
絵美ちゃんは「うーん」と声を伸ばす。
「なんか滝のファンがトラブル起こして以来、サッカー部も見学するの厳しくなったしねえ。でもわざわざ外の練習見に行くよりもさあ、朝練見に行ったほうがいいと思うよ? 朝だったら基礎練しかしてないから、偵察に来られてもファンがうるさくっても問題ないみたいだし、うちの学校のグラウンドで練習してるから」
「そうだったの?」
「あはは……普段学校にはギリギリで来るから、朝練してたことは知らないかあ」
絵美ちゃんはニヤニヤと笑ってわたしを見るのに、思わず「な、なに……?」と聞く。それに絵美ちゃんは「いやあ」と笑う。
「沙羅に続いて、泉までサッカー部に落とされたかあと思ってさあ」
「だ、誰に落とされたの……!?」
どっと顔を火照らせて、わたしは抗議するけれど、絵美ちゃんのニヤニヤ笑いは止まらない。
沙羅ちゃんが滝くんを気にしているけれど、滝くんは普段からサッカー部員かファンの女の子たちに取り囲まれているし、本人も不愛想が過ぎる。だから同じクラスになった今でも話しかけるタイミングもなく、遠巻きに見つめているので精一杯なのは知っている。
……と、そこで思いついた。
「じゃあ、朝練のとき、一緒に見に行ってもいいかな。沙羅ちゃんも誘って」
「まあ、それくらいだったらサッカー部も文句は言わないと思うよ。ファンも割とキャーキャー言って朝から見てるからねえ」
わたしが住んでいる場所は校区ギリギリなせいで、登校はどうしても予鈴が鳴る直前になってしまうけれど、早起きすれば見に行けるかな。
見に行ってなにがしたいわけでもないけれど、いつも蝉川くんが目をキラキラさせているものがなんなのか知りたかった。
サッカーのルールは体育の授業でやったものくらいしか知らないけれど、それで大丈夫かなあ。
わたしはそうぼんやりと思った。
****
それから、わたしはサッカー部の朝練の見学をするようになった。
普段早めに出ても予鈴ギリギリなんだから、早めに出るのはちょっと眠たかったけれど、グラウンドの周りを見たら、意外と女子が多い。
他校の偵察みたいな人も来るのかなと思っていたけれど、前にファンと揉めたせいなのか本格的な練習を朝練ではしてないから、そんな人はいなかった。
グラウンドでランニングをはじめた途端、滝くんのファンたちが「滝くーん!!」と歓声を上げる。
隣でちらっと沙羅ちゃんを見たら、沙羅ちゃんは頬に手を当てるだけで、声すらかけられないみたいだ。絵美ちゃんはというと、メモ帳を走らせている。
「これも記事にするの?」
「しないよー。でも、一応書いておいたら、あとでネタになるかもしれないしさ」
「ふうん」
新聞部の事情はわからないけれど、コンテスト用に新聞記事を作成するから、テーマによってはサッカー部に取材交渉に行ったりもするのかもしれない。
そう思いながらグラウンドのほうに目を戻したら、「あっ、間宮ー!!」と手をぶんぶんと振られて、わたしは思わず肩を跳ねさせる。
身長が高い順で走っているサッカー部で、後ろのほうで走っていた蝉川くんが、意外とあるバネでピョーンピョーンと跳んでこちらに手を振るものだから、自然とサッカー部員からも見学に来ていた女子からも視線が集まって、わたしは縮こまって絵美ちゃんの後ろに隠れてしまう。
練習が終わるまで、まじまじと見ていたところで、沙羅ちゃんはくすくすと笑う。
「でも意外だね。まさか泉ちゃんがサッカー部の朝練見学に行きたいって言うなんて」
「そうかな? わたしも、なんで早起きして朝練見てるんだろうって思ったけど」
「サッカー部人気だしねえ、蝉川は、競争率相当低いけどね」
「え、そうなの?」
わたしが絵美ちゃんの言葉に、思わず声を裏返らせると、沙羅ちゃんと絵美ちゃんから、気のせいか温かい眼差しを向けられてしまい、思わずわたしは肩を縮こまらせる。
どうも見ている限り、本当に蝉川くんはモテないみたいだとは思っていたけれど。他の人からもそう思われているとは思わなかった。
モテてしまうのもなんかやだけど、モテないって断定されてしまうのも、なんか違う気がすると、わたしはごにょごにょと口を動かす。
「いや、蝉川くん。いい人だし……優しいし、意外とちゃんといろんなこと見てる人だし……」
「まあ、悪い奴ではないんだと思うよ。ただデリカシーのかけらもないっていうか、女子と男子と区別なく接するせいか、いちいち余計なひと言言って女子を怒らせるせいか、蝉川モテないからねえ。隣に滝がいるっていうのも大きいかもしれないけれど。寡黙なイケメンとうるさいチビだったら、どっちがモテるかって話だわね」
「べ、別に蝉川くん、デリカシーないとか思ってないんだけれど……」
「おやおや?」
絵美ちゃんに顔を覗き込まれ、わたしは必死で両手で顔を隠した。それに沙羅ちゃんはにこにこと笑っている。
わたしは妙に安心してしまったんだ。蝉川くんはモテない。だから、格好よくっても彼女ができない。
そのことにわたしは安心していた。
わたしは別に、蝉川くんと彼氏彼女になりたいとか、大それたことは考えていない。ただ隣にいても誰にも文句言われないことに、安心したんだ。
まともにしゃべれるのは図書室での当番のときだけ。運動部の人たちに囲まれている中で声をかけるなんて、怖くってとてもじゃないけれどできない。二学期に入ったらまた委員投票がはじまるから、どうなるのかなんてわからないけれど。
告白する勇気はなくて、ただ片思いを満喫していよう。ふたりでしゃべれる時間を大切にしよう。
わたしはそこにあぐらをかいているという自覚が全くなかった。
****
その日も図書室で当番だった。今日は返却の本もなく、司書さんに「本の修理をしてね」とテープを渡されたので、読まれ過ぎて背表紙から取れそうなページをもう一度背表紙にくっ付ける修繕作業をしていた。
テープでぺったんとくっつけてから、めくれにくくなっていないかとパラパラとページをめくっていたところで、同じ作業に没頭していた蝉川くんに声をかけられる。
「あっ、今度の日曜ってさ、間宮は暇?」
日曜日に、暇かどうかを聞かれる。
わたしは一瞬顔を真っ赤にして、上擦った声で「ど、どうして?」と聞く。変だと思われていないといいなと、心臓をバクバクさせながら。
それに蝉川くんは「どうした?」と聞かれるので、わたしはブンブンブンと首を振る。
蝉川くんは一冊ボロボロになってしまっているハードカバーの表紙に当て紙を足して補強しながら、口を開く。
「今度さ、サッカー部の試合があるんだ。決勝戦」
「あれ? まだ大会に、出てないよね……」
もし練習試合や試合があるんだったら、公休扱いになるはずだけれど、サッカー部が公休になったのは、今月に入ってからまだだったはずだ。
わたしが首を傾げていたら、蝉川くんは続ける。
「いや、今年のチームだったら多分決勝戦まで残れるからさ。もし暇だったら、間宮見に来ないか?」
「え……」
「用事入ってたか?」
蝉川くんが小首を傾げる様に、わたしは顔に溜まった熱をどうにか冷まそうと、ブンブンブンと再び首を振る。
「なんにも入ってない。暇。……あの、見に行って大丈夫? 邪魔にならない?」
「え、なんで? 女子が声援上げてくれたら、気合入るじゃん」
なんだ、女子の声援が欲しいだけか。
思わずガクッとしたけれど、蝉川くんはのんびりと「滝ばっかり声かけられるのもつまんねえしなあ」と続けるので、わたしは思わずギクリとした。
そりゃわたしは滝くんのことをなんとも思ってないけれど。
わたしは少し考えてから、ふと思いついた。
「うん、行くよ。勝ったら教えてね」
「おうっ! 絶対に勝つ!」
わたしはそう蝉川くんと約束したものの、アプリのIDもスマホの番号も教えていなかったことに気付くのは、それからあとだ。
ただわたしは、蝉川くんに誘われたことに浮かれて、勝って欲しいなと思って近所の神社で宮司さんが帰ってくるのを見計らって、お守りを買った。
最後に、神社の賽銭箱にぽいぽいと小銭を入れて、手を合わせた。
うちの学校のサッカー部が勝ちますように。
蝉川くんとの約束が守れますように。
今思っても、浮かれ過ぎだったんだ。あのときの自分にビンタをしたい。
だって、蝉川くんがフレンドリーなのはわたしだけじゃないもの。誰にだってだもの。
****
その日、わたしは沙羅ちゃんと一緒に学校に向かっていた。
「ふうん、それで蝉川くんにお守り買ったんだ」
「はじめてなんだ、試合を見に来て欲しいって言われたのは」
「すごいじゃない、ちゃんと言えばなんとかなるんじゃないかな?」
沙羅ちゃんはにこにこ笑いながらそう言ってくれるけれど、わたしは首を振る。
「言えないよ……気まずくなるの、嫌だし」
「ええ? でも同じ委員の当番のときは、ちゃんとしゃべれてるんでしょう?」
「うん……でも、それは蝉川くんが同じ委員のよしみでしゃべってくれるんであって、それ以外にわたしと蝉川くん、接点がないし……」
「同じクラスじゃない」
「お、同じクラスでも、グループが全然違って、近付くこともままならないので……っ!!」
わたしがあわわと手を振りながら訴えると、沙羅ちゃんはくすくす笑いながら「気持ちはわかるよ」と答えてくれた。
「うん。私は蝉川くんとちゃんとしゃべれる泉ちゃんが羨ましいけどなあ。私は近付くこともできないから……」
そういう沙羅ちゃんに、わたしは言葉を詰まらせる。沙羅ちゃんの気になる人は、あまりにも競争率が高過ぎるんだ。
「あ……で、でも。サッカー部の応援だったら、女子の声が欲しいらしいし、沙羅ちゃんも一緒に行こうよ! 新聞部も取材に行くんだから、絵美ちゃんだって言ったらきっと一緒に行ってくれるしさ!」
「うん……迷惑にならないといいよね」
「ならないって」
お互い、本当に難儀な部の人を気になりだしたものだなと思っていた、そのときだった。
沙羅ちゃんが一瞬顔を上げたあと、くいっとわたしの手を掴んで道の端に寄せた。そこの信号を待って渡れば学校まですぐなのに。
「あれ、沙羅ちゃん。信号を待たないの?」
「ちょっとコンビニに行きたいんだ……コンビニに寄って行っちゃ駄目?」
「え? いいけど、朝練間に合うかな」
「大丈夫、多分間に合うから」
そう言って沙羅ちゃんが手を引いてコンビニのある路地に移動しようとしているとき、向かいの信号が青に変わった。
信号がぽんと変わったと同時に、トラックが走り去り、今まで車で隠れていた姿が見えた。
綺麗な女の子と、蝉川くんだ。彼女はにこにこ笑いながら、蝉川くんとしゃべっている。蝉川くんはそれに対して笑顔で応じている。派手なグループの子は、口こそ利かないものの、一緒にサッカー部の朝練にも来ていた子だったと思う。
蝉川くんと親し気に話している中、彼女がなにかを彼に渡しているのが見えた。
あ……。わたしは言葉を詰まらせた。その小さな袋は、見覚えがあった。
神社のお守りだ。多分、必勝祈願。
「……泉ちゃん、行こう」
「で、でも」
「……蝉川くん、デリカシーないから。多分、好かれてるって自覚もないんだよ。あの子、どう見たって蝉川くんに気があるじゃない。いいの?」
沙羅ちゃんは必死にわたしをこの場から動かそうと腕を引っ張るけれど、それでもわたしは石像になったみたいに動けないでいた。
……当たり前のことだ。
蝉川くんは、本当にいい人なんだもの。わたし以外にも好きになる人だって現れる。あんな可愛い子に好かれてたんじゃ、勝ち目なんてないや。
……馬鹿だなあ。わたしは途端に暗くなる。
図書室で一緒に当番するだけで満足してたら、傷付かずに済んだのに。ふたりがしゃべっているだけなのか、付き合っているのかはわからないけれど、見ているだけで、酸素が薄くなったように息苦しい。
わたしは沙羅ちゃんの手を解いて、ふらふらと信号を渡る。
渡ったところで、一緒にしゃべっていた蝉川くんと女の子が振り返った。蝉川くんは元気に手を振る。
「よっ、間宮! また見に来てくれるのか?」
「……う、うん」
「あ、いつも見に来てる子だよね。おはよー」
綺麗な子はにこにこ笑いながら手を振る。朝から化粧をばっちりしていて、浮かべている表情は晴れやかだ。
地味で目立たないわたしのことも覚えているなんて……いい子なんだ、きっと。なんとなくそう思ってしまうと、ますますこちらがいたたまれなくなる。
勝手に自己嫌悪に陥って、勝手に被害妄想に陥る自分が馬鹿みたいだと。
慌てて沙羅ちゃんが追いかけて信号を渡ってきた。
「ちょっと、泉ちゃん!」
「うん……またグラウンド、見に行くからね」
「おう」
そのままよろよろと歩きはじめて、沙羅ちゃんが「ちょっと、泉ちゃん……!!」とさっきよりも声が大きくなることに気付いた。
わたしが思わず顔を上げて、気付いた。
信号のない路地から、トラックが出てきたことに気付かず、そのままふらふらと歩いていたんだ。
耳をつんざくようなブレーキの音。しまったと思う暇もなく、体がぶわり、と浮かぶ。
全てがスローモーションに見えた。
歩道を渡ろうとしていた人の驚いた顔や、慌ててスマホを取り出してどこかに電話をかける人たちの声。トラックに乗っている運転手さんの顔は、わたしからだと見えない。
死ぬ間際には走馬燈が見えるって言うけれど、わたしはなんにも見えなかった。死ぬ前に思い出したいほど、強い思い出はわたしにはまだなかったみたいだ。
「間宮……!!」
あのとき、わたしのことを呼んだのは、蝉川くんだったんだ。
馬鹿だなあ、わたし。
勝手に自爆した挙句に跳ねられて、勝手に忘れて。皆に心配かけて……挙句に、綺麗な女の子……塩田さんだって全然悪くもないのに謝らせて。
わたし、本当に馬鹿じゃない。
****
あのとき、蝉川くんは多分救急車に乗ったんだと思う。救急隊員の人と警察に事情を説明するために。
ひどいものを見せちゃったんだなと、丸一日起きなかったせいで、そのときのことは想像することしかできなかったけれど。
多分うちに連絡をしてくれたのは沙羅ちゃんだ。だからお母さんが来てくれたんだろう。
わたしの蝉川くんに関する記憶が抜け落ちてしまったとき、どうして見えることも触ることもできなくなっていたのかは、わたしが車いすでぼんやりしている間に、先生がお母さんに説明してくれていた。ただ、あのとき、わたしはそれを上手く認識することができなかった。
「緑内障は、片方ずつじゃないと診断が難しいというのはご存知ですか?」
「ええっと……どういうことでしょうか?」
「はい、両目でものを見ても、物がふたつに見えることがないのは、利き目のほうの見えない視力を、もう片方の目で情報を補っているせいです。欠けているものをもう片方で補われてしまったら、診察が困難ですから、片方ずつ診断しなければならないんです。泉さんの記憶も同じで、忘れてしまった彼のことを思い出せないせいで、無意識のうちにいないものと判断してしまったようです」
「それって……」
「脳というものは、簡単に本人を騙してしまうんです。昔、脳の実験でこんなものがありました。ある監視カメラに映った犯人の姿を皆で再現しようというものです。見せた実験対象たちの中にさくら《、、、》を混ぜ、さくら《、、、》が嘘の犯人像を口にしてしまったところ、実験対象たちの記憶は混同し、間違った犯人像が完成してしまったんです。人間は自分にとって都合の悪いもの、気持ち悪いものは無意識のうちに遠ざけようとします。泉さんの場合も、忘れてしまった蝉川くんのことを「見えない」と認識することでなかったことにしてしまったんだと推測できます」
「それは……元に戻るものなんでしょうか?」
「わかりません。記憶が戻ることもあれば、戻らないこともあります。ひと月。ひと月経っても戻らない場合は、そのほとんどは戻ることがありません……ただ、無理に思い出させようとすることだけは、どうかやめてください」
「と、言いますのは?」
「記憶喪失になった場合、思い出すのに脳に負荷やストレスがかかります。自主的に思い出すならともかく、周りからせっつかれた場合、泉さんの脳にどう作用するかわかりませんから。彼女が自主的に思い出したいと行動するまでは、どうか待ってあげてください」
わたしが忘れてしまっても、彼のことを認識できなくなってしまっても、どうして蝉川くんはわたしにちょっかいをかけてきたのかはわからない。
目の前でトラックに跳ねられたのを見て、責任を感じてしまったのかもしれない。だって、あれは本当にわたしが悪かったんであって、蝉川くんはなにも悪くなかったの。
むしろ、「見えない」わたしは、無自覚とはいえど、なんであんなに彼を振り回したのか、本当に意味がわからない。