もやもやしていても、季節が梅雨に突入して汗ばんでいても、わたしの日常が変わることはない。
 失くしたらしい記憶も戻ってくる気配がなく、もう忘れちゃったことも日常にすっかりと溶け込んでしまっている。
 わたしがレンくんに思わず話しかけてしまい、周りから生ぬるい目で、ときどき沙羅ちゃんから寂しそうな目で見られてしまうのにも、変だ変だと思いながらも、今ではすっかりと慣れてしまった。
 それがいいことなのか悪いことなのか、わたしにはわからない。
 レンくんは普段はどこにいるのかもわからないけれど、確実にいるってわかるときがあることにも気が付いた。
 図書委員の当番をしているときと、美術の授業をしているときだ。
 美術で皆で絵の鑑賞をしているとき、レンくんのサインが入っている絵を見つけることがあり、わたしはそれをいつも食い入るように見ていた。すごく上手い絵でも、すごく個性的な構図でもないけれど、ここにレンくんがいるのかと思うと、妙に安心してしまう。
 図書委員をしているときは、わたしが台がないときに高いところにある本が取れないでもたもたおろおろしていると、どうやってかわからないけれど取ってくれたり、逆に「この本ってどこに片付ければいい?」と聞かれたりする。そのことにほっとする。
 学校の制服も夏服に替わったけれど、梅雨の中途半端な肌寒さと、図書館の冷房のせいで、未だにカーディガンが欠かせない。
 今日も雨のせいだろう。家にさっさと帰ってしまったらしく、放課後の図書館は閑散としてしまっている。司書さんたちは新しい本にバーコードを付ける作業をしていてカウンターの中。わたしは返却処理を済ませた本をカートに載せて運んで、それぞれの本棚に片付けていた。
 図書館は雨の中でも、たくさん本が詰まっているせいか湿気が溜まらずにからっとしている。今日は誰にも使われることのなかった台に乘って本を片付けていると、「なあ、間宮」と声をかけられる。
 慣れって怖い。前は変人に見られてしまうと躊躇していたのに、見えないレンくんの声に、「はあい?」と返事できるようになってしまったのだから。

「間宮さあ、今度の土曜日って暇?」
「ええ? 暇だけれど」

 高校生だからといって、毎週予定が詰まっている訳じゃない。遊びに行きたくっても定期が使える場所じゃなかったら高くて出かけられないし、少ないお小遣いからスマホ代を差っ引いてやりくりしないといけないんだから、使えるお金は限られている。
 レンくんはいっつもわたしの近くにいる訳じゃなく、確実にいるってはっきりしているとき以外はどこかに行っているし、黙っていられるとわたしもどこにいるのかがわからないから、彼が普段なにをして過ごしているのかは慣れてしまった今でも知らない。
 レンくんの言葉の意図がわからないまま、わたしがきょとんとしていると、レンくんがあっさりと言う。

「ちょっと付き合って欲しいんだけど。散歩」
「……散歩?」
「そう」

 そう言われてしまうと、ついついまごついてしまう。
 だって、今までは学校のクラスメイトたちの前でしか、レンくんとしゃべってはいなかったんだから。記憶喪失のことまでは言っていなくても、入院していたことまでは知っているはずだから、わたしが退院してから挙動不審になっていても見て見ぬふりをしてくれていたけれど、学校の外で会うとなったら話は大きく変わってくる。
 病院では、わたしがひとりで挙動不審だとしても患者さん以外には見られないからいいけど、街中ではどうなんだろう。
 挙動不審のまま歩き回っていたら、本当に変人になってしまう。そもそもレンくんがいるって確実にわかっているのは声だけなのだ。人が多い場所で、彼の声をはっきりと聞き取れるかが、自信がなかった。
 わたしが押し黙ってしまったのをせかしたのか、レンくんが言葉を重ねてくる。

「駄目? やっぱり予定入ってた?」
「予定は、ないけど……」
「んー……やっぱ俺と散歩は駄目、かあ……じゃああれだ。デートと言えばいいのか」
「で、えと?」

 その言葉に、わたしは固まる。
 ……はっきり言って、レンくんとは見えない男の子だからしゃべれているようなものだ。普段のわたしは、世間話ですらまごついて男の子とそんなに長いことしゃべれない。滝くんは要件しかしゃべらないから会話が成立するようなもので、レンくんほど話が弾むようなことはまずない。
 そんなわけだから、わたしは男の子と付き合ったことなんてないし、ましてや、デートなんてしたことは、人生で一度もない。
 それなのにレンくんに「デート」と言われてしまい、みるみる顔に熱が溜まっていくのを、わたしは必死で抑え込もうと顔を手で必死で仰いだ。

「間宮? なんだ、そんな怒るほど嫌か?」
「そ、うじゃなくって……! で、デートとかいう言葉を使うのは、やめたほうがいいんじゃないかな。誤解する子も、いると思うよ」
「んー……そうかあ……」

 レンくんは一瞬間延びした声を上げたあと「なら」と言葉を付け加える。

「ウィンドウショッピングだったらどうだ? 散歩だし、これだったらデートじゃないし」

 それって、ただの言葉遊びで、意味は変わってないような気がするけれど……。
 わたしはどうにか火照った顔を鎮めると、ぽつんと言う。

「それだったら、別に……」
「いいんだな? じゃあどこで待ち合わせしよう!」
「ええっと……声の聞こえるところがいい」
「ん?」
「……レンくんの声が聞こえる場所。そうじゃなかったら、わたしはレンくんがどこにいるのか、わからないから」

 ごにょごにょとする縮こまった声を誤魔化すように作業をしていたいけれど、人気の少ない図書館で、誰にも邪魔されない返却作業はスピーディーだ。もうカートの積んだ返却本は一冊になってしまっていた。
 その一冊をわたしは掴んで、どうにか視線で指定の場所を探していると、レンくんが「声かあ」と唸っているのが耳に入った。
 ……やっぱり変人って思われたのかもしれない。他の人にすっかり変人扱いされてしまうのは仕方ないのかもしれないけれど、レンくんにまで変人扱いされてしまったら辛いなあとぼんやりと思う。
 そう思っていたら、レンくんは「あ、そうだ」と声を上げる。

「ええっと?」
「なら矢下公園で待ち合わせだったらよくないか? 紫陽花咲いてるから、結構人通りも多いけれど静かだし」

 矢下公園は、近所だと結構人通りの多い繁華街からちょっと住宅街に差し掛かった場所にあるから、比較的静かな場所だ。
 ときどき学校で校外マラソンを行う際には、そこのグラウンドを使って走ることもあるけれど、たしかに植わっている紫陽花は綺麗だったと思う。最近は赤っぽい紫陽花ばかりが目立つけれど、あのあたりで咲いている紫陽花は皆白かったと思う。

「うん、それだったらいいよ」
「そっかあ。あー、よかったぁ」

 そこで心底嬉しそうな声を上げるレンくんに、わたしも思わず釣られてにこにこと笑ってしまう。
 ひとりで散歩していても、季節の花が咲いているんだったら、「花を見ている」と言い訳ができるかもしれない。
 レンくんの言う通り「散歩」かも「デート」かもわからないけれど、ウィンドウショッピングだと誤魔化してしまえば、ひとりで歩いていても大丈夫だろう。
 なによりも、病院以外でレンくんと出かけるなんていうのははじめてだ。
 ……思えば入院中、わたしの入院着を見られていたんだよなあと思えば気恥ずかしい思いもするけれど、したくてした訳じゃないと開き直ってしまえばいい。

「何時に待ち合わせしようか」
「ええっと、十時は早過ぎるか?」
「これくらいだったら大したことないよ」

 その日は曇りだけれど、服はどうしよう。靴は綺麗なやつがあったっけと、わたしはぼんやりと持っているものを頭に思い浮かべていた。