「大きくなったら、医者になって真理(まり)の病気を治して見せるから!」

 今となっては懐かしい。病院に訪れるたびにこの一言を思い出してしまう。
 俺がそう言った時、高篠真理(たかしのまり)は涙を流して喜んでくれたっけ。しかし、まさかその一年後に彼女が亡くなるとは思ってもみなかったな......。あのときは人生で初めて号泣というものを経験した。人間って、こんなに体から水分を失っても問題ない生き物なんだな、ということを身をもって体感するくらい一晩中泣き続けた。

 あれから五年、結構な月日が経った。にもかかわらず、ここに来たらそれを思い返して、泣きそうになる。きっとまだあの出来事を乗り越えられずに引きずっているんだろうなあ......。
 実際、あれから何回か告白されたこともあったけど、真理以上に愛してあげられる自信がなくて、全て断ったくらいだし。それに、真理を助けたい一心でなんとか入学できた医学部だって気付いたらどうでもよくなって、どこか投げやりになってきている。もしかしたら俺が考えている以上に深刻なのか?


「高岸さん。高岸洋介(たかぎしようすけ)さん!」
「あ、はい!」

 物思いにふけっていると、診察の順番がきたようで名前を呼ばれた。
 看護師に促されるまま、室内に入っていくと、そこにはまだ二十代くらいにしか見えない若そうな医者がいた。そこそこ大きいこの病院で診察を任せられているくらいだし、優秀な医者なのかもしれない。このような大病院の若い人は何年も雑用みたいなことをしながら経験を積んでいって、それに耐える。その後こういう立ち位置を築くか、ある程度経験を得られたところで辞めて、個人経営を始めるかの二択だと思っていた。
 しかし、この若さだとそういうことはやったようには見えない。もしかして、有名医大を首席で卒業したとかそんなんだったりするのかな。

「どうかされましたか?」

 診察用の椅子にも座らずに彼のことを見つめていたので、不思議に思われてしまったらしい。

「いえ、見たところ若そうなのに、こんな大病院の診察を任せられているなんて凄いなと思いまして」
「はは、そこまで大したことではないですよ。今回私は高岸さんの症状などを聞くだけですし、本格的な検査はもっと偉い方がやるので大丈夫ですよ」

 その医者は最後の大丈夫という一言を随分強調していた。俺の発言を大病院にまで来てそんな若い人に見てもらうなんて不安だと解釈されてしまったんだろうか。
 だとしたら申し訳ない。俺は素直に尊敬のつもりで言っただけで、不安があった訳じゃなかったんだけどな......。
 その後、彼にずっと体調が悪いから近所の病院に行ったけど異常が見つからず、紹介状を書いてもらってきたことを伝えた。


 診察が終わり、会計所で会計するように言われたので、そこに向かう。
 しかし、大病院でも異常は見つからず、「一ヵ月くらい経ってまだ続くようなら検査入院することになるからもう一度来てくれ」って言われてもな。どの病院に行っても同じこと言われるからここに来たんだろうがと怒鳴ってしまいそうになった。まあ、医者に八つ当たりするのは違うけど、原因がわからないのは結構怖い。知らない間に恐ろしい病気が進行してたりしないだろうな、と度々不安になる。

 それにしても会計所遠いな。診察した場所からもう五分くらい歩いたけど、まだつかない。案内表示があるから迷いはしないけど、ちょっと遠すぎないか?
 そんなことを考えながら歩いていると、一人の女性とすれ違った。

「えっ、真理?」

 俺は考えを起こす前に気付いたらそう叫んでいた。
 すれ違い際、一瞬だけしか見えなかったけど、あの整った顔だち、髪型、真理にそっくりだった。

「えっ?」

 彼女は驚いてこちらに振り向く。振り返ったときにしっかりと顔が見えた。よく似ていたが、やはり別人だ。そうだよな、真理はもうとっくに死んでるのにいつまで引きずっているんだよ俺は......。

「あ、すみません。元カノにそっくりだったので驚いてつい声をかけてしまいました」
「ああ、そうなんですね。そんなにその元カノさんと似ていたんですか?」

 彼女は怒ることもなく、優しい笑顔を見せながら答えてくれた。

「あ、はい。とくにその髪型が真理と瓜二つだったので、一瞬すれ違った程度では全く見分けがつきませんでした」

 そう言って僕は彼女の髪を一瞥(いちべつ)する。艶のある漆黒に、肩まで届くか届かないかくらいの長さの髪。パッと見たくらいなら真理と間違えても仕方がないくらいそっくりだ。背格好も似ている上に心なしか声までも似ている気さえする。

「へー、そうなんだ。その真理って言う人にちょっと会ってみたいかな」

 その言葉に胸がズキッとくる。当然悪気があるわけじゃないけど、やはり俺からあのことを口にするのは辛い。

「すみません......。三年ほど前にもう............」

 今の俺にはこれが限界だった。幸いそれだけで彼女は察してくれたようで、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と謝られる。
 それから気を遣ってくれたのか、「よければ私の病室にきてゆっくり話さない? 私、今入院しているんだけど、あまりお見舞いに来る人もいなくて、暇を持て余してるから。できれば話し相手になって欲しいの」と言われた。



「私、北平瀬菜(きたひらせな)。気軽に瀬菜って呼んでくれていいよ」

 病室に着くと同時に瀬菜さんは自己紹介を始めてくれた。

「あ、俺は大岸洋介です」
「洋介君ね。洋介君は今大学生?」
「はい。歳は二十二で今は大学四回生です」
「え、嘘。同い年じゃん。私の方がお姉さんだと思ってたのに」

 瀬菜さんは驚いた表情でそう言った。

「てことは来年就職?」
「いえ、就職はまだ先です」
「そうなの? 大学院とかに行く感じ?」
「まあ、そんな感じです」

 厳密に言うと、僕の学んでいる医学部は六年生なので大学院とはまた違う。けどまあ似たようなものだし、いちいち訂正して説明するのも面倒なのでそういうことにしておいた。

「あの、瀬菜さんは大学とか行かれているのですか?」
「私? 大学には行っていないよ、就職もしない。あと同い年なんだし敬語で話さなくて良いよ」

 瀬菜さんはさらりと、とんでもないことを口にした。就職しない? そんなに体が悪いのだろうか。
 少し気にはなったけど、初対面でそんなことをずかずかと聞くのは失礼かなと思って躊躇する。しかし意外にも彼女の方からあっさり説明してくれた。

「私ね、肺に大きな病を患っていて、あまり長く生きられないんだって。だから大学にも行っていないし、就職も出来ない」
「そうなんだ......」

 病とは残酷だ。真理といい、この瀬菜さんといい、何でこんなに若い人の命をこうも簡単に奪っていくのだろう。それも他に死ぬべき屑な人間はごまんといるのにもかかわらず、こんな優良な一般市民を。

「そんな顔しないでよ! そんな顔されたら私まで悲しくなっちゃうじゃない」

 僕が眉尻を下げて返答すると、それに気付いたのか、瀬菜さんは慰めるようにそう言った。

「ごめん......」

「けほけほ......」

 その時突然、瀬菜さんは咳き込み始めた。

「大丈夫? 看護師さん呼んでこようか?」

 僕がそう聞くと「大丈夫、よくあることなの」と辛そうにしながらも答えた。
 数分経つと、瀬菜さんが言った通り、何事もなかったかのように「ね? 大丈夫だったでしょ?」と元気に答えて、内心ほっとした。

「そういえば洋介君はなんでこの病院にいたの?」
「ああ、ここ最近ずっと体調が悪いんだけど、どこが悪いのかわからないから紹介状もらって診てもらったんだ。だけど、結局ここでも原因がわからないって言われたよ」
「そうなのね、何も問題なければ良いんだけどね」

 それからしばらくお互い自分たちの好きなものとかを話して盛り上がったりした。
 以外にも、俺と瀬菜さんの趣味は似ていて意気投合していた。

「あ、俺そろそろ帰らないと」

 あまり、長居もしていられない。大学から課題も出ている。今日は自身の検査があったから仕方なく休んだ。けれど、本来サボッて卒業できるほど楽な大学でないことは俺自身が一番よくわかっている。しかし本当は、真理がいなくなった時点で、医者になるという夢は消えているのだ。けど、苦労して入ったのに一時の気持ちのブレで辞めてしまっていいのかと思い、とりあえずは通っている。けれど、もう真理を救えなくなった時点で全てがどうでもよくなったというのが正直なところだ。
 でも瀬菜さんと話していると心が落ち着く。容姿が真理に似ているからかもしれないけど、近くにいて会話しているだけで、真理がいなくなって以来ずっとあった虚無感を和らげてくれる。
 だから俺は瀬菜さんに「また来ても良い?」と帰り際に訊ねてみた。

「うん、嬉しい。私ずっと入院生活が続いていて、友達もほとんどいないから、たまに来てくれて、こうして話せたら凄く嬉しい」

 瀬菜さんは頬を緩めてあっさりとオッケーしてくれた。



 あれから一年くらい経った頃。俺は、暇さえあれば、瀬菜の病室に尋ねるようになっていた。最初は真理と似ていたから、重ねて見ていただけだった。でも今となってはもうそれだけの理由ではなく、一人の女性として北平瀬菜に恋をしている。
 あの日以来、俺の身に起こっていた謎の体調不良はなくなった。もしかしたら、真理が亡くなってから立ち直れずに、精神的なところから引き起ったものなのかもしれないと自己分析する。きっとそうだ、真理のことを忘れることは出来ないけど、代わりに生きていく希望を見つけられたんだ。
 今日も俺は瀬菜の病室に来ている。しかし彼女は辛そうにして眠っていた。
 瀬菜は初めて会った時と比べると確実に弱ってきている。初めて会ったあの日、『長く生きられない』と瀬菜は言っていた。具体的に余命何年とかは聞いていないけれど、もうすぐそこまで迫っていたりするのだろうか。


「......洋介?」

 椅子に座って考え事をしていると、瀬菜が目を覚ました。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「ううん。ごめん、せっかく会いに来てくれたのに、私寝ちゃってて......」

 瀬菜が無理に体を起こそうとするから、俺がそれを制止する。

「辛いなら、そのまま横になっていていいよ」
「ごめんね......」

 瀬菜は申し訳なさそうに言う。

「謝ることないって」

 俺は優しく微笑みかけてそう言った。

 
「ねえ、洋介?」

 少しの間沈黙が続いてから瀬菜はこんなことを言い出した。

「もし、私が健康だったら、私の告白、オーケーしてくれたかな?」

 俺は少し考える。もちろんその問いについてはYESに決まっている。けど、この質問をYESだけで終わらせるのはなんか違う気がした。

「もし瀬菜が健康だったなら、付き合うどころか、知り合いにすらなれなかったんじゃないかな。言葉は悪いけど、瀬菜が病気だったから俺たちは巡り合えたんだと思う」

 俺は瀬菜の方を見ながらそう言って、さらに言葉を重ねる。

「でも、そうだな......。もし、健康なまま瀬菜と出会っていたなら。いや、たとえ健康じゃなかったとしても、俺は迷わずオーケーしてたと思うよ」

 俺がそう言い終わると同時に、瀬名は目を赤くしてはらはらと泣き出してしまった。

「うん............。嬉しい............」
「だから、一日でも長生きしろよ。そうしたら、必ず俺がなんとかしてやるから」
「うん......」

 気休め程度にしかならないが、俺が瀬菜にしてあげられる精一杯の励ましだった。
 でも、別に嘘をついているわけではない。俺だって、腐っても医者の卵だ。その卵が孵化(ふか)するのはまだまだ先だけれど。でも、瀬菜が俺の想像以上に長生きすることが出来れば、治してあげられることだって、不可能とは言い切れない。
 医学は日々進歩しているんだ。今、治療法がなかったとしても、数年後には見つかっていることだってあるはず。ないなら、俺が見つけてやるさ。
 真理がいなくなって、夢が叶わなくなってしまいながらも、なんとなく辞められずにいた医者への道だったけれども、辞めなくて本当に良かった。真理は救えなかったけど、せめて瀬菜は救ってあげたい。俺は再び、本気で医者を目指す決心をした。



 あれから更に一年が経った。瀬菜は日に日に元気がなくなってきていることが俺にでもわかってしまう。そのことがわかっていたから、どれだけ大学が忙しくても必ず週に数回は彼女に顔を見せることにしている。
 真理の時みたいな悲しい思いは二度としたくない。しかし、それ以上に俺の知らない間に瀬菜が亡くなっていて、事後報告で知らされるのはもっと嫌だからだ。どんなに辛い現実が待っていようと、最後はお別れをちゃんと言いたい、俺はただそれだけを望んでいる。

 しかし、俺の願いは叶わなかった。



 ある日、俺が瀬菜の病室に向かうと、珍しく元気そうで、機嫌もよさそうだった。
 なにか楽しいことがあったのかと聞いてみると、瀬菜は来週久しぶりに三時間だけだけど外出許可が出たらしい。そして、その三時間を俺との時間に使いたいと言ってくれた。
 瀬菜にそう言ってもらえて嬉しかったけど、最初は断った。彼女の気持ちは凄く嬉しい。できることなら俺も瀬菜との時間を過ごしたかったに決まっている。
 でも昔、真理が亡くなった時に両親の泣きじゃくる姿を見ていたから、俺は自分の気持ちを押し殺してこう言った。「その時間は家族と使うべきだ」と。
 もう、この機を逃したら二度と外出する機会は得られないかもしれない。それなら尚更、所詮赤の他人である俺なんかと過ごすより、ずっと瀬菜に寄り添って、励まし続けている両親にその時間を使って欲しかった。
 しかし、彼女はそのお願いに了承してくれはしなかった。

「最初で最後の機会かもしれないから、どうしても、洋介と外でデートがしたいの!」

 目を真っ赤に腫らしながらそう訴えられては、もう断ることはできなかった。両親には本当に申し訳ないと思うが、瀬菜の時間をいただくことにします。
 俺はそれから当日までの一週間の間、ひたすら三時間、何をするのかを考え続けた。
 病気の瀬菜を連れまわすことは避けたいし、激しい運動もさせられない。加えて、肺が悪いから、出来るだけ空気が綺麗なところに行った方が良いだろう。そのような条件を頭におきながら瀬菜が三時間という時間を俺に使ったことを後悔させないために、真剣に考え続けた。


「お待たせ! 待った?」
「いや、俺も今来たところだよ」
「ところでどこに行くの?」
「すぐにわかるさ」

 それから十分くらいかけて、近くの公園に到着する。
 公園と言っても、園内をぐるりと一周するのに三十分はかかる結構広いところだ。
 様々な場所を考えたが、三時間という短い時間で往復して、現地で楽しむことができ、あまり運動量もなくて、空気がキレくて、ゆっくりできるところ。そうなると、この公園しかないという結論に至った。
 ここなら、園内完全禁煙で空気もそこそこ綺麗だし、公園だけあっていろいろな場所にベンチがあるから疲れたらいつでも休憩できる。それ以外にも簡単なフラワー園があったり、人工池でボートに乗れたりと、ゆっくり楽しむことが出来る。


「着いたよ」

 普段なら、歩いて行ける距離にあるが、今回は瀬菜にあまり無理をさせられなかったので、バスに一駅分だけ乗車して移動した。

「......公園?」

 瀬菜が入口にある石碑を見てそう呟く。

「うん、ここならゆっくりしながら楽しめるんじゃないかと思って」
「その......嫌、だった?」

 不安になって聞いてしまった。

「ううん、嬉しいよ。私のことをしっかり考えながら選んでくれたんだなって、伝わってきた」
「よかった」

 俺はその一言を聞けて、ほっと胸をなでおろす。


 まずは、一番近くにあるフラワー園に来た。
 入り口には旬の花をメインに飾られた花時計がある。今は七月なので、ハイビスカス、サルスベリ、ひまわり、ハス、アサガオ、ラベンダーなどが使われていると、近くの看板に説明が書いてあった。
 もともと、花が好きな瀬菜は大きな花時計を見て、目を輝かせている。
 その後、写真を撮って欲しいと言われたので、花時計をバックに写してあげた。花時計と一緒に写っている瀬菜を見ながら、瀬菜もここにある花のように、きれいに咲き続けて欲しいと考える。
 そうしていると、「よければ二人の写真を撮りましょうか?」と親切なカップルが俺に話しかけてくれたので、ありがたくお願いする。また彼女との思い出が一つ増えた、と俺は満足気だった。

 それから、フラワー園を一通り見まわった俺たちは、一度ベンチに座って休憩する。瀬菜は明るく振舞ってはいるが、明らかに体調は良くなさそうだし、しんどそうだった。
 日陰になっているベンチに腰掛けて、軽食用のサンドイッチを食べた。普段は料理なんて全くしないから、全然上手く作れなかったが、瀬菜はそれでも「おいしい」と言って、少し食べてくれた。


 楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。気付けばあと三十分ほどで決められていた三時間が経過してしまう。瀬菜が最後に人工池でボートに乗りたいと言い出したので、俺はボートを借りて手漕ぎボートを漕いでいるところだ。
 池の中心に来たくらいのところで漕ぐのを止めて、瀬菜と周りの景色を見渡す。ちょうど、夕焼けの時刻と一致していたので、空が赤く染まっていた。

「綺麗だね」

 夕焼けを眺めながら瀬菜がそう呟く。

「うん、そうだね」

 もう、このまま時間が止まってしまえば良いのに、と何度思ったことか。でも、瀬菜に灯された命のロウソクは刻一刻と減り続けいている。初めて会った時と比べると、明らかに弱っている。それでも、一日でも長く生きようと必死に抗っている瀬菜の姿を見て、何もしてあげられないのがもどかしい。せめてあと十年あれば何とか出来たかもしれないのに.....。だけど、思い通りにならないのが現実だ。真理の時のように、また俺は見送ることしか出来ないのかな......。

「ねえ、洋介」
「ん?」

 瀬名はがさごそと鞄の中を探し始め、一通の手紙を取り出す。

「これ、ラブレター書いてみたの。受け取ってくれるかな?」

 そう言って、その手紙を俺に差し出す。

「うん、ありがとう。読んでもいい?」
「だめ! 恥ずかしいから、お家に帰ってから読んで」
 
 手紙を開こうとしたが、慌てて制止されてしまった。

「ねえ、洋介」
「何?」

 俺と瀬菜はしばらくの間見つめ合った後、瀬菜は目を伏せて「何でもない。そろそろ戻ろう」と言った。
 俺がその手紙の本当の意味を知ることになるのは、その日の面会時間終了ギリギリの時間だった。


 
 公園から出て、病院まで送っていくと、俺は言った。しかし瀬菜は「お母さんが車で迎えに来てくれているから大丈夫」とそれを断ったので、ここで解散することになった。
 瀬菜の母親の車があるところまでは送っていき、そのまま帰ろうとしたところで、瀬菜に一度呼び止められた。

「洋介......」
「ん?」

 またもや彼女は俺と見つめ合いながら何も話さず、最後に絞り出すように「また、ね」と言った。

「おう、また来週」

 そう言い終わると、瀬菜は車へと入っていった。「もういいの?」とそのとき彼女の母親だと思われる人が瀬菜にそう語りかけているのが微かに聞こえた気がした。



 家に帰ってから晩御飯を食べ終え、俺は瀬菜から貰ったラブレターを取り出す。
 その場で読ませてくれないような恥ずかしいことが書かれているのかな、と呑気にもそのようなことを考えながら、ハートで閉じられた封を開ける。
 しかし、それを開けて読んだ瞬間、一気に顔が青ざめた。

『洋介へ。

 急にこのような手紙で伝えることとなったことをどうかお許しください。
 私は、今日をもってこの街を出ることになりました。洋介も多分知っていると思うけど、私はここ最近、かなり体調が悪く、このままだともう長くないと言われてしまったのです。でもそんなとき、お父さんが知り合いの知り合いにかなり腕の良い医者がいる。その人なら治すことは出来なくても、もう少し延命出来るかもしれないから、その人がいる病院に転院して、手術を受けてみないかと言われました。
 最初は断ったの。洋介と少しでも長く一緒にいたかったから。でも、真理さんのことを思い出して、考えを変えたの。彼女はきっと生きたくても、生きられなかった。それなのに、私はまだ長く生きられる道があるのに、それを断るだなんて、そんなことを知ったらきっと洋介は怒るよね。私はそう思って、少しでも長く生きるために手術を受ける決心をしました。
 そして、転院する日がこの手紙を洋介に渡した日です。私の口から言えたら良かったんだけど、これを読んでいるってことは、別れが辛くて言い出せなかったということです。
 こんな形のお別れになってしまって、本当にごめんなさい。

 最後に一言だけ。私は洋介のことが初めて会った時からずっと大好きでした。洋介がお見舞いに来てくれるようになって、毎回励ましてくれたから、私はここまで生きることが出来ました。きっと洋介と出会ってなかったら、もっと早く死んでいたと思います。だから、ありがとうございました。洋介は私の分まで長く生きてください。

 瀬菜』

 俺はその手紙を読み終わった瞬間、家を飛び出し、病院へ全力疾走で向かった。
 くそ、なぜ気付かなかったんだ。思えば気付くチャンスはいくらでもあっただろ。人工池に二人でボートに乗っていたときだって、帰り際の時だって、瀬菜は明らかに何かを伝えたそうにしていたのに。それに、あれだけ体調が悪そうだったにもかかわらず、外出許可が出たことだってなぜそのとき不自然だと思わなかったのか。
 そして気付く最大のチャンスがあったのは帰り際だろう。母親が車で迎えに来ていた理由を考えるべきだった。集合したとき、瀬菜は歩いて来た。それもそのはず。瀬菜に負担をかけないように病院から徒歩五分くらいの場所を集合場所に指定したからだ。それなのに車で迎えに来ているのはどう考えてもおかしい。恐らく、あのまま車に乗って新しい病院に向かうつもりだったんだ。

 走る。それでも俺は全力で走り続ける。たとえ息が苦しくなろうがそんなことは関係ない。今のはただの俺の推測だ。間違っているに違いない。今走って面会時間内に着けば、きっと瀬菜はいる。最後に別れの挨拶が出来る。そのことだけが、とっくにスタミナが切れた俺を突き動かしていた。


「瀬菜!!」

 瀬菜の病室まで一度も休憩を挟むことなく、なんとか面会時間終了ギリギリで病室に辿り着いた。しかし、無情にもそこには誰もいなかった。瀬菜がいないのはもちろんのこと、まるで引っ越しした後のように、今まで置いてあった私物も全てなくなっている。

「はあ、はあ......」

 俺はその場に座り込み、乱れた呼吸を整えながら天井を見上げる。本当は分かっていた、もう瀬菜がここにいないということは。それでも僅かでも可能性があるならと、そう思ってここまで来ていたのだ。

「うぅ......瀬菜......」

 俺は泣いた、びっくりした看護師たちがいっぱい集まってくるくらいに。これだけ泣いたのは真理が亡くなって以来だというほど泣きじゃくる。
 けれど、同時に嬉しくもあった。瀬菜は少しでも長生きするという選択をしてくれた。別れはこんな形にはなってしまったけど、手術が無事成功して、瀬菜が長く生きられますように。俺はただそれだけを願った。



 家に帰ってから、スマートフォンを確認する。やはりと言うべきか瀬菜からメッセージは来ていなかった。多少冷静さを取り戻して、病院を後にしたとき、ふと電話とメールのことを思い出した。もしかしたらスマホで連絡が取れるかも。しかし慌てて家から飛び出してきたことにより、そのときスマホを持っていなかった。だから帰宅してから部屋に入るなりスマホを確認してみたが、電話は繋がらない。メールも送ってみたが、現在このメールアドレスは使用されていませんとエラーが出て戻ってきた。まあ、わかってはいたがやはりだめだったか......。

「瀬菜、俺頑張るよ。頑張って、いつか必ず立派な医者になって、治療法を見つけて会いに行くから」

 瀬菜は俺と別れることになることを承知の上で延命する選択をしたんだ。
 それなら、それに応えるためにも絶対に、瀬菜のことを救ってあげたい。

「それまで瀬菜、元気でな」

 俺は、昼に撮ってもらった瀬菜とのツーショットを眺めながら小さくそう呟いた。


  ※

「瀬菜大丈夫?」

 お母さんが憂いを含んだ顔で私を見つめる。

「うん......」

 本当のところ全然大丈夫ではない。洋介と別れてちょうど十四年くらい経った。あの後無事、手術は成功し、延命出来て、私は十四年も生きている。けれど流石にもう限界だった。私にはわかる、もうすぐその時が来る。もうじき死神が私を迎えに来る。一日でも長く生きるんだ、という気迫だけでここまで生きてきたけど、もう流石にいいよね? こんなに長く生きたんだから洋介は許してくれるかな?
 私は横になりながら、洋介のことを考えていた。あんな形で別れをきりだして、洋介怒っているかな......。でも、きっと洋介なら許してくれるよね。だって、洋介は優しいもん。洋介は忙しいにもかかわらず、出来るだけ多く私との時間を作ってくれていたくらい優しいんだし。
 洋介が無理をしていたのは薄々気付いていた。彼と会うたびに、目の下にある隈が濃くなっていた。多分、私と会うために睡眠時間を犠牲にして、帳尻を合わせてくれていたんだろう。でも、心配する一方、最後まで辞めてとは言えなかった。洋介が来なくなって、一人寂しい思いをする自分を想像したら、怖くて言えなかった。洋介と出会う前の、一人虚しく、時間だけが過ぎていく日々に戻るのが怖かったの。だから洋介と会うたびに『ごめんね、いつもありがとう』と心の中でお礼を言っていた。

 洋介のことを考えているとふと、とあることを思い出した。

『一日でも長生きしろよ。そうしたら、必ず俺がなんとかしてやるから』

 あれは、どういう意味だったんだろう。ただ、励ましていただけのようにも思えるけど、あの時洋介は、何か勝算があるような顔をしていた。今となってはこの意味を知る術はないし、いつか洋介もおじいちゃんになって天国に来たら聞いてみよう。あ、でも歳をとりすぎてそのことを忘れられていたら嫌だなあ。
 

 しばらくするとお医者さんが私の病室に入ってきた。私の容態を確認しにきたようだ。
 一通り、診察を終え、お医者さんは口を開く。

「残念ですが、もう......」

 彼は言いにくそうにそう言ったが、私は既にわかっていた。

「なんとかならないんですか?」

 お母さんが必死にお医者さんにお願いする。

「方法は、ゼロとはいいません。最近、この病気を完治させた、腕利きの医者が現れました」

 じゃあ、とお母さんが言おうとしたところで、手でそれを止める。

「しかし、リスクが高すぎます。もちろん手術になりますが、極めて難しいもので、成功率は十パーセントほどでしょうか。それに、たとえ手術が上手く進んでいても、今の北平さんの体力だと、長時間の手術には耐えきれず、そのまま亡くなってしまうことも十分にあり得ます」

 お医者さんは私たちの反応を見て、更に続ける。

「あと、その手術はつい最近初めて成功例が出たばかりなので、それが出来る医者は現在、日本に一人しかいません。その人と都合が合わなければ手術することすら叶わないのが現状です」

 それだけ聞かされると、それらの条件を全て掻い潜って生還するのは数パーセントにも満たない気しかしない。

「しかし、このままでも間違いなく近いうちに力尽きるでしょう。ですので、止めはしません。もし、北平さんがそれを承知で手術を受けるのであれば、私は全力でサポートいたします」

 いくら治る可能性があるといっても、かなりハイリスクだし、あまり気乗りがしない。『もうここまで生きてきたんだからいいじゃないか、そろそろ楽になろうぜ』と私の体が言っている気がした。でもそれと同時に『ここまで頑張ってきたんだから最後まで抗おうぜ』とも言っている気がした。

「私は......」

 もう、私には時間がない、悩めば悩むほど成功率がどんどん落ちていくだろう。だからここですぐに決断するしかない。手術を受けるのか、それとも受けないのか。

「とりあえず、その医者と連絡を取ってみます。近々、都合がつく日があるか聞いておきますので、それまであまり長くありませんが考えておいてください」

 私がすぐに決断できなかったので、少しだけ猶予をくれた。



 次の日、再びお医者さんが病室に来る。

「連絡がとれました。北平さんの容態がかなり危ういことを伝えたら、二つ返事で来てくださると仰ってくれました。あとは北平さん次第です。答えは出ましたか?」

「私は......」

 あれからゆっくり考えた。諦めるか抗うかの二択しかないのに、かなり迷った。

「私は手術を......」

 正直私の気持ちとしては、フィフティフィフティだった。諦めて早く楽になりたいという想いもあったし、最後まで可能な限り頑張りたいという想いもあったし。散々迷ったけど、私は自分なりに納得できる答えを導きだした。

「手術を受けます」

 私は決意に満ちた表情を見せた。
 決め手は『この病気を完治させた医者が現れた』というお医者さんの一言だった。多分、また延命できる程度なら、私は諦める方に傾いていたかもしれない。でも、治る可能性があるなら、最後に私の命を賭けてみるのも悪くないと思った。どちらにせよ、もう長くない。それなら失敗した時のリスクはないに等しい。

「わかりました。そのように伝えておきます」

 お医者さんは他にはなにも言わず、それだけを言い残して去っていった。



 手術は三日後だ。なぜなのかはわからないけど、その日にあった予定を全てキャンセルして私の手術をする時間を作ってくれたらしい。
 しかし、私の体調が急変するのはその三日があれば十分な期間だった。三日後、私は容態が更に悪化して、もう今は体を起こすことも出来ず、呼吸器を装着したので声も出せない状態になっている。あれから体調が急変したから成功率は更に下がる可能性が高いけど、それでも手術を受けるのかと再確認されたので首を縦に振った。


 しばらくして、執刀医の先生が病室に入ってくる。

「こんにちは、意識はありますか?」

 ん? 聞き覚えのある声だ。なんだか凄く懐かしい気がする。私はなんとか頑張って目を開き、執刀医の先生を見る。
 そこには驚くことに、白衣を着た洋介が立っていた。
 ああ、これはきっと夢だ。洋介に会いたい一心でこんな夢を見ているんだろう。でも、夢でも最後に洋介に会えてよかった。これでもう悔いはない。私はそのまま目を閉じて眠った。



 次に目が覚めた時、私はまだ天国ではなく病室にいた。

「目が覚めたかい? 一時はかなり危ない状態だったけど、今はなんとか持ち直したよ」

 そこには、さっきと変わらず洋介がいる。これはひょっとして夢じゃない?

「久しぶりだね、瀬菜。来るのが遅くなってごめん。瀬菜には言ったことなかったけど、俺はもともと医大生だったんだ。あれから必死に瀬菜の病気の研究をして、それと同時に医者としての経験も積んで。つい最近ようやく瀬菜と同じ病気の人を治す手術に成功したんだ」
「つもる話もあるけど、あまり長話もしていられない。次またいつ危険な状態になるかわからないからね。すぐに手術を始めるよ」

 洋介だ。洋介が私のためにまた会いに来てくれたんだ。しかも『治療』という私にとってこれ以上ないものを用意して。
 話したい。洋介といっぱい会話がしたい。でも、呼吸器をつけてるから上手く声が出ないや。
 私は代わりに涙を流してそれに応えた。

「よしよし、いままで良く頑張ったね。あとは任せて、必ず成功させて見せるから」

「今すぐ手術の用意を!」

「またあとでね」

 そう言って洋介は病室の外へと出て行った。
 その時の洋介は物凄く頼もしく感じた。彼ならきっと大丈夫、手術を必ず成功させてくれる。私はそう信じている。

  ※

 あれから十年の月日が流れた。
 俺もすっかり歳をとって、今となっては妻子を持つ身となり、幸せな家庭を築いている。

「あ、パパ行ってらっしゃい!」
「おう行ってくる。帰りは千佳(ちか)の大好きなケーキを買って帰って来るからな」
「やったー! 楽しみ!」

 俺の娘の千佳はニコニコしながら見送ってくれた。

「あなた行ってらっしゃい」

 それに続いて妻も見送りをしてくれる。

「うん、行ってくるよ、瀬菜」



 俺は今、医者の仕事はしていない。あの時、瀬菜が患っていた病気の治療法を見つけたことで医療界では一時期、英雄と言われるようになっていた。まだ若かったこともあり、かなり将来を期待されたが、残念ながら体に限界がきた。
 今まで、ずっと無理をしていたこともあって、疲労から視力を失ってしまった。日常生活を送るには支障がないくらいの視力は残ったが、もう医者を続けられる体ではなくなってしまった。

 それでも後悔はない。
 真理を失ったことで、医者になって真理を救うという夢は永遠に叶わなくなってしまった。それと同時に医者になること自体、興味を持たなくなっていった。
 あと一年、瀬菜と出会うのが遅かったら、俺は恐らく大学を中退していただろう。それくらい瀬菜と出会う直前、大学を辞めるか否かで葛藤していた。
 でも、瀬菜と出会って、もう一度医者を目指すきっかけをくれた。投げやりになりかけていた人生を正しい方向へ導いてくれた。瀬菜のことを好きになり、真理は救えなかったけど、今度こそ医者になってせめて瀬菜は救いたい。俺の目の前で二度と好きな人を死なせてたまるかと心に決めたんだ。
 それから必死に努力して、瀬菜を救うことが出来た。
 真理から瀬菜には変わったけど『大きくなったら、医者になって真理の病気を治して見せるから!』という俺の夢は、少し形は変われど、『好きな人の病気を治して助ける』という形で二十年越しに叶ったんだ。
 だから後悔はない。むしろ、あの頃の夢を思い出させてくれて、また再び頑張らせてくれた瀬菜に感謝すらしている。