その日は朝から胸騒ぎがした。何故だかは分からなかった。
 けれど、母と父が二人で病院に行くとき、私も行きたいと思った。それを口にしたけれど、病院への立ち入り人数は制限されている。私の案は却下され、私は胸騒ぎを覚えながら、部屋に籠っていた。

 高齢の知り合いが多く、過去の仕事で介護をやっていたが、私は自然と、身内の死など遠い存在だと思っていた。
 その考えが崩されたのは、私が短期大学で地元から離れていたころ、母方の祖父が亡くなった。祖父は、私を一等愛してくれていた。何かあれば、すぐに「もとちゃん」と気にかけてくれた。身内全員からも認められるほど、愛を私は貰っていた。
 電話越しで祖父の死を知った時、浮世離れしたような心地がした。
 どうせ冗談でしょ、本当はまだ元気なんでしょう?
 そう、中々現実を受け止める事は出来なかったが、自然と涙は零れた。脳は理解をしていたけれど、心は受け入れていなかったのだ。
 私がなぜ地元に戻ったのか。それは、また誰かの死に目に間に合わないかもしれない、という考えがあったからだ。他人には言えない。けれど、私からすれば大切な理由なのだ。
 好きな人や大切な人は漠然と、明日も明後日も生きている気がする。当たり前のように生きていると信じてしまう。それは、ただの願望でしかなくて、絶対だと約束されたものではないのに。

「もと、病院行こう」
「え? 何で」
「なんか、ばあちゃん体が痛むらしくて。だから麻酔入れるから、念のために」
 言いたいことは分かった。あれほど弱った祖母に麻酔を入れれば、そのまま眠りについてしまう可能性があるかもしれない。だから、顔を見せに行こう。そう言いたいのだ。
 分かった、と頷いて、慌ててマスクを持って、靴を履く。
 その一つ一つの動作にもたついて、自分で自分に腹が立つ。早く行きたいのに、という焦りが膨らむばかりだ。
 車の中でも、ずっと、胸騒ぎは収まらなかった。

 病院に辿り着いた時、どこかの部屋から電子音が大きく響いているなと思ったのだ。その時点で、胸騒ぎは嫌な予感へと変貌していた。
「ああ、来ていたんですね。先程電話をしたんです。早く早く!」
 電話をした。それはつまり、容体が変化した事なのだとすぐに察した。
 言葉に嫌な予感と同じ種の悪寒が背中をすごい勢いで走って、小走りで祖母の病室へと率先して突き進んだ。
 がらり、と勢いよく扉をスライドさせて、飛び込むようにして一人病室に入った。その時だ。

 ぴ―――、と、無機質な電子音が響いた。

 こんな音、私はドラマでしか聞いたことは無かったし、こんな光景もドラマや漫画でしか見たことは無かった。
 一つの機械からコードが伸びていて、それは祖母の身体に張り付けられていて。鼻には呼吸用のホースが入っていて。口はぽかりと開かれていた。最後に出会った時よりも頬はこけていて、髪の毛も少し少なくなっているようにも見えた。きっと、ずっと横になっていたから、髪の毛を盛ることが無かったからだろうとすぐに結論付けた。
 そんなこと、より、だ。
 依然、機械は無機質に音を鳴らし続ける。私が放心していたのは、ほんの一瞬だったのかもしれない。
 そろり、と祖母の顔元に近寄った。
「ばあちゃん?」
 いつも通り、少し甘えたような、ゆったりと、砂糖をどろどろに溶かした様な甘え声で名を呼ぶ。この声で呼ぶと、ばあちゃんはにこにこと笑みを浮かべて「どうした?」と聞いてくるのだ。
 だけど、いつもの甘え声を出しても、彼女の表情は全く動くことは無く、祖母のポカリと開いた口から空気が漏れる事も声が零れることも無かった。

 彼女は、二度と私の名を呼ばないのだ。二度と私に触れる事はないのだ。私を甘やかすことはないのだ。二度と、私の事を考える事はないのだ。二度と、その体を動かすことはないのだ。

 一瞬で全てを悟ってしまった。そして、一瞬で全身の血の気が引いて、床に全身の血が滝のように落ちた気分がした。
 きっと私の足元は血だまりが出来ているのだろう。
 足を一歩踏み出せば、ぴちゃり、と水音がした……なんてことはなく、こつり、と靴と病院の床板がぶつかる軽い音が響いた。
 自分の中ではぴちゃぴちゃと水音がしている中を歩き続けて、祖母の元まで歩みを進める。
 近づいても、彼女は一向に私を迎え入れてくれなかった。
「ばあちゃん」
 小さく、名を呼んだ。返事は当然のことながら、無かった。
 彼女に、無視をされた。生まれて初めての経験だった。
 声は、少し震えていた。周りの人には聞こえなかっただろうか。私の震えがばれなかっただろうか。
 人間、死んでも数分間、聴覚は生き続けると聞いた。本当かどうかは知らない。だって、私は死んだことはないから。立証は出来ない。だけれど、その言い伝えに賭けてみようと、思ったのだ。
「ばあちゃん来たよ。ありがとう」
 そ、と祖母の頬を撫でる。私の最後に見た祖母よりずっと骨張っていて、肉なんてどこにも無い様に見えた。小さく笑みを浮かべても、祖母は笑い返すことは無かった。

「とみさん、これからお孫さんが来ますよ~って声を掛けたら、もとちゃんが来るって言って喜んでたんですよ」
 看護師の言葉を聞いて、私の目はゆっくりと開かれた。
「そっか、アンタを待ってたんだね。アンタが来たから安心したんだ。アンタも間に合って良かったね、やっぱり運が良い」
 母がほんのりと笑みを浮かべていうものだから、私は彼女達の方に目を向けて、ゆっくりと目尻を下げた。
「そうかなあ。だと良いな」
 父と祖父を呼んでくる、と母と看護師が退室すると同時に、再度祖母の傍による。指の背で、ゆっくりと、目元から顎のラインに沿って撫でる。人間って、すぐにここまで冷たくなるのかと、脳ははっきりと受け入れた。
 今度は頬に添えるように手のひらを当てる。私の熱が、伝わらないかな。私の熱が伝わって、もう一度、祖母に体温が戻らないかな。そんな夢物語のようなことが脳裏に浮かんだ。

 吐き気がした。周りが良い話のようにまとめている。言葉の数々に、吐き気を感じた。

 運が良い、なんでそうなるのだろう。間に合っていないのに。

 なんで素直に、周りと同じ様に思えないんだろう。そうだね、良い話だねって終われなかったんだろう。
 あと数日前にでも、一人でも良いから面会に来ていれば。あと半日、両親を押し切って無理にでも一緒に会いに行っていたら。あの数分、家を出る前に手間を取らなければ。あの一瞬、踏み出す一歩が早かったら。
 知っている、意味の無い妄想だ。心に余裕がないだけだ。
 それでも、私が家に居る時、もっと一緒に居たら。

 ばきん、と何かが砕けるような音が心の中から響いたような気がして、びしゃびしゃと大量の血が零れ出て、私の足元を濡らし、どんどんと私を沈めていく。
 心臓が痛い。心が苦しい。息が苦しい。まともに酸素を取り入れられていないんじゃないかと思う程。

 どうして私はいつも、大切な人が死ぬとき、傍に居てあげられないのかなあ。
 逃げてしまいたい。もう、終わりたい。このまま、祖母と一緒に死んでしまいたい。消えてしまいたい。

 ふと、祖母の荷物の傍らに、私が貸した本が置いてあったのが目に入った。途中で、しおりが挟まれている。
 じわじわと、胸が熱くなってきて、目頭が熱くなってきて、色々な感情と共に涙が出そうになる。
「のろいだ。私を待っていた、というのろいだよ」
 ぽろり、と左目から一粒の涙がこぼれた。
「私は間に合わなかった。私は、間に合ってなんかいない。待たせて、会うことが出来なかったじゃん。最後に、『もとちゃん』の顔を見せる事が出来なかったじゃん。大好きだったって、直接言えなかった……!」
 ぽろり、ぽろりと右目も左目も、どんどんと涙が零れ出てきた。
 一番自分が後悔しないようにと選んで来たはずの道なのに。
「私は一生、死ぬまでこれを後悔する。あの言葉は、のろいだ」

 亡骸を外に運ぶには移動許可書が要る事を、生まれて初めて知った。
 自宅に帰ってきた祖母を迎え入れて、葬儀場の人と二日間にわたって色々と相談をして、式場の確保と式日などを決めた。火葬場の許可などは向こうがやってくれるらしくて、案外私達が混乱するほどの手続きを一気に行う事は無かった。
 私が決めたのは、祖母の遺影の写真を選ぶこと。遺影写真の合成用の着物と背景の色と額縁を選ぶこと。全部私のセンスに任された。
 事あるごとに、両親が「祖母が一番溺愛していた」と私を紹介していたからだ。私は、祖母が一番映えるであろう紫色の着物と、クリーム色の背景、ベージュ色の額縁を選んだ。家にある、曽祖父母の遺影とは比べ物にならない程、華やかに仕上がる予想である。
 両親たちは満足そうに頷いた。私のセンスに任せてよかったなと頷いた。
 私の成人式の着物は、紫色だった。祖母が選んだ色である。紫か青かで悩み、柄も沢山の種類が合って悩んでいた。いくつかの候補の中で、着物が大好きだった祖母が、これが一番可愛くなれるよと勧めてくれた。案の定、私にはピッタリと合っていたような気がして、メイクの効果もあって、ある程度はきれいなお姉さんになれただろう。
 だから、最後くらい、おそろいでいたかった。私たちは仲良しだったのだと、誰にも気づかれない程度で自慢してやりたかった。

「……目の前に居るのに、まだばあちゃんが亡くなったって気分がしない」
 仏間には、祖母が横になって眠っていた。肌触りの良い白い敷布団の上で横になり、白い布団を被り、白く薄い布で顔を隠されている。
 一日絶やすことの無い様にと用意された、まるでアロマキャンドルのようなサイズのろうそくに、蚊取り線香のように渦を巻いた線香。線香のにおいが漂う此処は、住み慣れた実家とは違う家のような気分にさせる。
 仏間の襖を全開にして、居間と一室にさせ、私は居間のこたつで一夜を明かすことにした。
 祖母と同じ空間で寝るだなんて、それこそ何年ぶりだろう。一人で寝始めたのは小学生だから、下手すれば二十年近いのかもしれない。
 小さい頃、私は両親と寝る事は滅多に無く、祖父母と共に寝ていた。両親と寝たこともあったのかもしれないが、記憶には無い。両親の間は弟のもの、という認識が強かったのだ。両親と一緒に寝る事を弾かれた私を、祖母が私を誘って、一緒に寝るようになった。
 この家はリフォームをしたのだけれど、建て直す前は、祖母と祖父の間に挟まって布団で寝ていた。建て直したら、二つのベッドをくっつけて、また祖母と祖父の間に挟まって寝ていた。
 私の寝相は、とんでもなく酷くて、じいちゃんの顔は蹴るし、ばあちゃんにも被害がいっていたらしい。
 少しだけ思い出し、ふふ、と小さく笑って、手を合わせて、小さく謝ってからばあちゃんの顔を隠していた白い布をとった。表情は変わっていなかった。あれだけ、表情豊かな人だったのに。
 ぱしゃり、とスマホで写真を撮った。
 もっと写真を撮っておけばよかった。遺影を選ぶときに、あまりの祖母の写真の少なさにビックリした。もっと元気だったころや、入院する前の祖母の写真も、全部、全部、撮りたかった。
 この空間に私と祖母しか居ないことをいいことに、ぼろぼろと涙をこぼし、乱暴に手の甲で拭った。祖母との過ごしてきたあの日の事やらこの日の事やらが浮かんできて、いくらでも涙が零れてきて仕方が無かった。
 東京から叔母一家がやってきた。
 いらっしゃい、と母と一緒に迎えて、居間に叔母含め従姉弟が入った瞬間に、叔母が土下座をした。
 突然の事に驚いて意を突かれたが、慌ててどうしたのかと問えば、何度も何度も、泣きながら「ありがとうございました、お世話を掛けました。ありがとうございます。ありがとうございます」と繰り返した。
 その姿を見て、母は顔をあげるようにと言ったが、私は内心『ようやく礼を述べたのか』と冷めた目で一瞬見降ろした。
 共に過ごしていないとはいえ、何も協力することは無かったくせに。強いて言えば、元気だったころの祖母と一緒にハワイに旅行に行ったくらいか? まあ、その為のパスポートも、海外保険も、旅行の為の準備も、全部私達が手続したんですけど。
 介護をすることになったと言って、表面だけでもいいから「何か手伝えるか」と問えば良いものを、問いもしなかったくせに。
 死んだ、と分かって、漸く実感でもしたのか。人間とは、所詮、そんなものか。
 叔母が顔をあげる時には、再び薄く笑みを浮かべて、私も「気にしないで」と声をかける。祖母が眠っている仏間に行けば、祖母の顔にかかっている布を取って、さめざめと声を零して、泣いていた。それがどうも、作り泣きの様に見えて、私はどこまで人間不信なんだろうと自分を嫌悪した。
 そしてすぐに葬儀屋さんが、祖母の黄泉への旅支度について準備の説明をする。
 その間、祖母のいる仏間の戸は閉められていた。きっと、祖母の化粧をしたりするのだろう。
「ばあちゃんは、最期どうだった?」
「もとが病室に入った時に息を引き取ったよ」
「ああ、そう……」
 叔母は今一度私の方を見て、頭を下げた。
「もとちゃんありがとう」
 また、だ。皆、そういうのだ。本当は間に合っていないはずなのに。私は生きている祖母に会って、その最期を見送ったわけではないのに。
 皆、私が、私が、と言葉を続ける。
 にこり、と笑みを浮かべて、気にしないで、と言葉を返すほかないと思った。他に返す言葉があると言うのなら、是非とも教えてもらいたいものである。

 暫くすれば、葬儀屋さんの準備が終わったようだ。襖をあければ、祖母の顔色は、ずっと良くなっていた。いつも目にしていた時のように、血が巡っているような肌色に見えて、薄く血色の良い唇に見えて。死人だと印象付けるような重く閉ざされた瞳も、少し軽い物の様に見えて。まるで、息を吹き返して、今はただ寝ているだけなんじゃないかと思わせた。
 ぼう、と見惚れていたら、葬儀屋さんが一人一人に旅支度(死装束)の指示を出していった。
 一般的に言われる死装束とは、西方浄土に旅立つ旅姿である経帷子。天冠……幽霊と言えばの三角形の白い頭に巻かれるあれだ。だけど、これは最近つけない人も多いみたいで、祖母も今回は付けないようだ。手甲、脚絆、白足袋、草鞋を身につける。私達は、それぞれに役割与えられ、経帷子の帯を締める係、手甲をつける係……と流れていき、私は白足袋を履かせた。
 やっぱり、祖母の足は驚くほど冷たくて、人間の身体とは思えないほど冷たくて固くて。やっぱり死んでしまったのだと、生き返るわけがないのだと再確認して、足袋を履かせた。
 それと、三途の川を渡るための六文銭を模した紙を頭陀袋に入れ、杖を持たせる。
 これで旅支度は万端。全員で祖母の寝ているシーツを持って持ち上げて移動させた。思った以上に軽くて、やっぱり祖母は小さく軽いなと、よく見おろして祖母の背中が頭に過る。
「では、何か棺に入れたいものは……」
「あ、の……」
 私は慌て座卓から一つの手紙を持ってくる。
「手紙は大丈夫ですか」
「良い子だねえ」
 私の隣にいた叔母は感心したように言い、少し涙ぐんだような声で言った。
 良い子、なんか、ではないよ。とは言えず、少しだけ口端が引き攣る。
「では、是非懐に入れてあげてください」
 そう言われて、私はゆっくりと、懐に手紙を忍ばせた。
 私の、懺悔に近い手紙だ。それでいて、愛を込めたラブレターと言ってもいいかもしれない。誰にも読まれることはないだろう。沢山の秘密を込めた、届くかも分からない、私の愛の形だ。
 ごめんね。小さく謝りながら忍ばせたのは、きっと祖母しか知らない。
 他にも、着物を数着入れ、踊りが好きだった為に踊り用の笠を入れた。
 そして、最後に全員で黙とうをしてから、蓋を閉じた。
 葬儀は明後日に行われる。

 叔母一家はいつも我が家で泊まるときは、いつも仏間で寝ていたのだが、今は祖母の入った棺がある。
 ということで、三人はホテルに泊まる様だった。五歳離れている従弟が運転する車に、従姉と叔母が乗り込む姿は、何だか違和感を感じた。
 そうだ、全員、大人になったのだった。私の中の従弟は、未だに小学生の姿だった。私も案外、もう若いとは言えないのかもしれない。
 あとは弟だ。弟も帰ってきたところで、そこで親族が大方合流するのだ。
 祖母が最後に人間の身体を纏って家で過ごす夜。私は再び、祖母の写真を撮った。昨日撮った写真より、少しだけ表情が良く見えたような、そんな錯覚がした。
 今日も、私は祖母の居る部屋で一緒に寝る。


 翌日、弟が東京から帰ってきた。久しぶりに見た弟の髪色は、黒く染まっていた。喪服と合わせると、今まで以上に大人っぽく見えた。以前見た写真では金髪だったので変貌に驚いたが、弟に聞いたら「そろそろ黒に戻していた方が良いと思った」と、棺の小さな小窓から祖母の顔を覗き込みながら言った。それは、ある意味弟の覚悟だったのかもしれない。
 そろそろ祖母が死んでしまう。だから、いざという時の為に黒にした。
 言葉にはしていないけれど、そう伝わってくるような気がした。
 よく見れば弟の目は少しだけ腫れぼったい。もしかしたら、一人で大泣きでもしたのだろうか。
 もし大泣きしたのなら、目元を冷やしておきなさいよ。とは言えず、私より大きくなった弟の頭を少しだけ雑に撫でた。弟は、姉の突拍子な動作に心底驚いたようだが。確かに、私は普段、弟にはこうしたスキンシップはとらなかったけれど。
 それでも、よくここまで一人でこれたね、という意味合いも込めて、少しだけ力を込め直して、そのまま頭を撫でた。撫でた、よりは擦った、の方が正しいか。
 叔母たち一行が家に来るのとほぼ同時に、祖母は式場に運ばれる。車に運び入れるのは、男性の仕事だった。

 行かないで。

 本当はそう泣き叫んで、棺にしがみつきたかった。

 止めて、連れて行かないで。私の神様を連れて行かないで。

 そう泣き叫んで縋ってやりたかった。それでも、私はそれを実行する勇気も度胸も無い。理性が上回った。この年代の人間としては正解のはずなのに、心の中にいる幼い自分は、私を指さして「弱虫! バカ! くたばれ!」と暴言を叫んでいるように感じた。
 知っているよ。幼い自分に向かって、背を向けながら言葉を返した。
 そのまま外に出て、遺影を手に取って、必要なものを持って、黒いパンプスを履き、外に出た。
 近所の人が数名話しかけてきたけれど、曖昧に薄く笑みを浮かべて、会話を受け流して。それを何度か繰り返していたら、出棺を告げるクラクションが響いた。
 出て行ってしまう。
 けれど、私は何もできないまま、静かに頭を少し下げ、祖母をそのまま見送った。

 式場で合流すれば、簡単な式の流れの説明と、私と弟に翌日の受付担当を任せる話をされた。
 そうだろうな、と思う。祖父は喪主、という名の役職だけど、実際は認知が進んでほとんど何もできないから父が行っているので、その二人は無理。母もその妻、義娘だから無理。叔母も娘だから無理。
 そうなると私達姉弟か従姉弟になるが、共に暮らしていたのは私だ。当然だと思う。
 挨拶のマニュアルなどのカンペはあるが、言葉は難しい。弟と顔を見合わせて、揃って小さく吹きだした。言える自信が無かった。私達は揃って頭が良いわけではなかったのだ。
 まあなんとかなるだろう。そんな軽いノリで過ごせたのは、周りに深く悲しんでいる人があまりにもいなかったからだろうか。



 何も問題事は無く、二日間に渡る葬儀は、滞りなく行われた。大きな問題も起きず、仲の悪い叔母と父の口論も流石に起きず、至って平和に時間は流れ、親族しか集まらない静かで落ち着きのある葬式だった。
 受付を担当している私と弟は一番後ろの席に腰かけていて、参列者全員の様子が見えていた。

 通夜。
 ああ、何であの人は背筋が伸びていないのだろう。背が丸まっているのだろう。歩く時に、姿勢が悪いのだろう。
 焼香の時に、全員の後姿はよく見えて、それが何だか、私の方が少し恥ずかしい気分がした。次をどうぞと促され、弟が先に立ち上がり、そのまま歩き出す。それに続いて、私も立ち上がり、歩く。
 背筋を伸ばせ。顔をあげろ。
 かわいそうな孫だなんて思われたくない。背筋を伸ばし、少しだけあるヒールの踵から地面に着けるように、真っ直ぐと、堂々としろ。弱みを見せるな。
 焼香台の少し手前で参列者の居る方へに一礼。皆が軽く頭を下げた。焼香台の前に進み、一礼。数珠を左手にかけ、右手で抹香をつまみ、額におしいただく。抹香を静かに香炉の炭の上にくべる。一つまみの抹香を三回に分けて行った。合掌時、一瞬の間だ。それでも頭をよぎるのは、祖母の顔で、浮かぶ言葉は『ごめんなさい』だったのだ。少し下がり、遺族に一礼して席に戻る。
 戻る時も、悲しい顔は見せてたまるか。そんな意地で、真っ直ぐと前を見て、自分の席に向かって歩く。
 参列者の方々も終わり、式が流れていく。

 告別式。
 父の別れの挨拶は、やっぱり祖母の最後のこと。私についてが述べられて、小さく拳を握る。隣にいた弟が、私の方へ顔を向けたのが分かった。
 気付かないふりをしたけれど、分かる。弟は、少し、憐みの目を向けていた。
 献花で、私と弟が自然と涙を零し、そのまま二人揃って静かに号泣した。
 祖母に花を添えた所で、ようやく死を実感する。よく聞いた言葉だったが、実際にそうだった。死化粧をして表情を整えられた冷たい祖母に次々と花を添える動作は、意識をしなくても別れを実感させて、涙が勝手に零れ出る。
 棺の蓋を閉じて、告別式は終了した。棺をバス型の寝台車へ乗せ、火葬場へと共に行く。丁度、私の腰かけた所は、棺が横にある席だったようだ。
 思わずもたれかかると、ゆっくりと涙がこぼれ落ちてきた。
 ああ、お別れが近づいている。それを嫌でも実感してしまった。

 火葬場につけば、僧侶や葬儀社の案内に従って最後のお別れをした。
 お骨拾いは、私の地元では数人だけで全ての骨を拾う。今回は、私と弟、叔母と従姉弟だった。
 火葬に必要な時間は1時間程度。その間も、私と弟が従弟一家に声をかけ続けた。
「そういえば、ばあちゃんは桜は見れたのかな」
 叔母の言葉に、思わず外に視線が行く。
「病院の窓から見れたと思うよ」
「そっか、それなら良かった。好きだもんね」
 確かに桜も好きだっただろう。だけど、祖母は百日草やコスモスなど、地に咲く花の方が好きだったのだけれど。
 それでも笑みを絶やさない様に。絶対に、笑みを浮かべる事だけを意識して。弟の視線は、何度か感じていた。
 火葬が終了したのは、予定よりも早かった。祖母は小柄だから、早く済んでしまったのだろうな。
 骨上げの為の部屋まで案内され、シャッターが開けられて運ばれてきたものは、祖母の跡形などどこにも無かった。ただの、白い人骨だった。お骨箱に入れやすい様に、砕かれた骨は、二度と祖母の形を作らないのだと、箸で骨を取る度に思い知らされた。
 祖母の面影も無ければ、悲しみも浮かんでこないだろう。全員で話をしながら、箸で取る。笑みを浮かべているつもりでも、段々と顔が下がる。手が震える。
 上手く骨が取れないでいると、取り損ねた骨を、弟が取った。
「大丈夫?」
 私にしか聞こえないような小声だっただろう。私は横目で弟を見てから、笑みを見せてやる。
「大丈夫よ」



 全てを終え、叔母一家も弟も東京に戻った。
 部屋でぼうと過ごしていたタイミングで、スマホにメッセージが届いたことが通知された。
 誰からだろうかと確認すれば、車に乗っている最中であろう、叔母からのメッセージであった。
『もとちゃんありがとう。ばあちゃんはもとちゃんを待っていたんだと思います』

 ――カッ、と血が沸騰した。

 私は無言で、無心でスマホを持つ右手を振り上げて、ベッドの上に勢いよくスマホを叩きつけた。
 ボスン、と音を立ててベッドの上を大きく一回跳ねて、その後何度か小刻みに跳ねて、大人しくなった。
 唇を噛みしめて、ひぃと空気が隙間から零れた。
 もう嫌になった。皆して同じことを言う。
「死者の気持ちを、勝手に私に押し付けるな」
 低くて、怒りを滲ませて、どろどろのヘドロのような重みを感じさせる、他人に聞かせられるような声ではなかった。
 私は間に合っていない。最後の最後に言葉を交わすことが出来なかった、祖母不幸者だ。
「死ね、死ね……」
 そのまま床の上に崩れ落ちて、ぼろぼろと涙が勝手にこぼれ落ちてきた。暴言を口にするたびに、涙が一緒に出てきてしまう。目元を乱暴に拭い、暴言を吐く。
 勝手に押し付けてくる周りの奴等も、私も、死んでしまえ。
 それだけの気持ちで、静かに自分の部屋で泣きじゃくった。

 存在するのが許されない気分がした。自分の存在を否定されている気分がして、自分の言葉が更に追い込んでいったのを覚えている。
 祖母の葬儀の夢を見る。
 沢山の人に愛されていた祖母。その場を共有している全員が悼んでいる、惜しんでいる、心から悲しみ、冥福を祈っている。
 品のいい花輪、心のこもったお供え物。荘厳な読経。ひとりひとりがこの場にいることを本当に大切にして一丸となっている。

 私は他人でも、家族でも、誰に対しても接するときは、心がどんなに苦しくても、身体がどんなに苦しくても、ほとんど必須事項のように笑みを浮かべるようにしている。
 ばあちゃんが私の笑い方が好きだって言っていたから。そうして一人になった時、疲労によろめいて、いろんなことを考えたり、お風呂で温まってくるとぼろぼろ泣いている。自らの死を考える。

 毎日、自分だけが生きている。最愛の拠り所を失って、それだけで私の中で悲しみが膨らんでいく。身体の奥底で、どうしようもない自分への嫌悪感がある。
 大切なものを無くした世界で生きなくてはいけない? そんな馬鹿な話は無い。
 けれど、私は怖がりだから。独りぼっちは怖いから。だから、皆が好きだと言ってくれた笑みを見せるようにして、皆から嫌われない様に。祖母はもういないから、味方を失わない様に。どんな時も笑って愛嬌を振りまくようにして。
「だけど、もう、疲れたよ」
 祖母の遺骨を前にして、ぽつりと私は呟いた。遺骨を少しだけ手に取って、粉々にして。
 人の力ではどうしてもできないことが、この世には沢山あるのだと。絶望という名の壁という形として目の前に現れて、初めて知った。いくら頑張っても砕けない壁なのだ。
 私には何が出来た。何もできなかった。ただ、全てを見送って過ごす毎日だ。
 何度も死のうと思った。死という存在が近くに存在するのだ。何かの選択肢を選ぶとき、必ず死という存在がある。今までは、その死を選択せず生きてきた。ただ、それだけだった。

 人間、生きるのが自由なら死ぬことも自由だと思う。生きていたいと思う人が、生きればいいと思う。
 死は眠りに過ぎない。それだけの事ではないだろうか。眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる。胸を痛める憂いも、肉体に付きまとう数々の苦しみも。

「皆に愛されて大切にされていたばあちゃんが死んだのに、お前なんかが生き残るなんて許さないから」

 もう一人の、まるで幼子のような自分が背後に立ち、私を指さして泣きながら怒号を浴びせる。
 返せよ、私のばあちゃんを返してよ。そう何度も罵っているようだった。
 分かっているよ。何度、そう返事をしただろう。

 燃え落ちた笑顔、真珠の骨。繰り返し、繰り返し、私は何度も飽きることなく祖母の葬儀の夢を繰り返し見て、骨となった祖母を私のモノにしようとする。一つまみの欠片を摘まんで、そのまま飲み込む。
 ごくん、と喉を鳴らして飲み干せば、自然と私は笑顔になった。
 祖母の四十九日がやってきた。祖母の遺骨箱を叔母が抱えて、お坊さんを先頭に、父、祖父、叔母、母、弟、私の順番に並んで歩いた。昨晩の雨の影響で、山の中でまともに整備されていない道は泥だらけで、黒いパンプスの踵は沈むし、黒色が泥色に汚れていくのが不快だ。
 伸びっぱなしの雑草。枝を切らないから、通路にまで邪魔してくる木々の葉。全てが邪魔くさくて、手で払いながら、我が家の墓を目指して歩いた。
 山の中にある墓といっても、お寺の敷地内にあるので、時間は大してかからない。すぐに、目的の佐藤家の墓に辿り着いた。

 ついにお別れの時がやって来てしまったのだと思うと、お坊さんのありがたいお言葉も、お経も耳にも頭にも入って来ない。お寺に足げなく通っていた祖母からすれば、罰当たりだと怒られてしまいそうだが、当人は骨となって叔母に抱えられているので、叱られないで済んだ。
 お坊さんのお経が読み終われば、私達にお墓の前を譲った。
 骨納めをしてください、ということらしい。
 私はその時、生まれて初めて、お墓のどこに骨が入っているのかを知った。
 線香などを添える石を引けば、そこには深い穴が存在している。そこに骨を収めるのだ。
 お坊さんを除く六人で、丁寧とは言えない動作で、順番も無く、其々が祖母を手に取って、小さな穴に押し込んでいく。それが些か衝撃的で、それでいて悲しみがよぎる。
 乱雑な行為で行われて、人間の最後は終わるのだと、そう思ってしまう。
 この穴の先からは、別の世界がある。この世とあの世の境目のように思えた。あの世への入り口に、ばあちゃんを入れていけば、一緒に、少し遠くに連れていかれるような感覚がした。
「骨は軽いね」
 隣に居た弟がポツリと言った。
「そうだね」
 と、淡々と答えた。
 実は、ばあちゃんの一部は私が持っているんだ。骨は簡単に指で押しつぶせて、粉々になるんだよ。なんてことは、言う勇気などなかった。
 死んで先祖の誰のだか分からない骨に混ぜられて、土に還って、狭い墓の中に押し込められる。これが、人間の最後なのだろうか。そう思うと、なんだか寂しいという感情が湧き上がってしまって。
 粉々になってしまったものも、墓の中に入れていく。最後まで、手で掬って、サラサラの骨を穴に入れていたのは私だけだった。

「以上で骨納めは終了となります」
 お坊さんに一礼をして、そのまま私達は山を下りた。行きと変わらず、地面はぬかるんで歩きにくいったらありゃしなかった。
 だが、祖母を抱えていた叔母は、行きよりも帰りの方が身軽に、足取りを少し軽くして歩いている様子を見て、少し気分は悪くなった。決して、口にすることも、顔に出すこともないけれど。
 そこからはあっという間だ。東京からわざわざやってきた叔母は、靴を少しきれいに磨いてから、そのまま我々が車で駅まで送って、電車で帰っていった。
 私達も家に帰る。祖母がずっと陣取っていた仏間は、以前のようにこざっぱりとしていた。
 数十日だ。祖母が床の間にいて、こちらに笑みを見せて、窮屈な箱の中にいたのは、数十日の景色だったはずだったのに、酷く寂しい景色に見えて。全てが片付けられたこれが、今までの普通だったのだと、自分に言い聞かせた。
 そんな寂しい景色を見るのも嫌で、自分の部屋へと戻った。

「姉ちゃん、良い?」
 喪服から部屋着に着替え終えて、ベッドに腰かけてスマホをいじっていた時、扉の外から声をかけられた。
 どうぞ、と許可を出せば、同じ様に服を着替えた弟がいる。弟はもう一泊してから、東京に戻る予定だ。
 丁度本棚で隠れる位置にあるベッドに座っていたから、彼は私がどこにいるか一瞬分からなかったのだろう。こっちだよ、と声をかけて、座椅子にどうぞと促せば、弟は座椅子の上で胡坐をかいて座った。
「大丈夫?」
 弟にこう問われたのは、お骨上げの時と同じだ。
「どういう意味で?」
「なんか、姉ちゃんが、ずっと笑ってるから」
 あらら、と声を零して、口元に手を添えた。
 案外バレるものである。ずっと共に暮らしていた母たちは、実家で暮らしている私の笑顔くらいしかあまり見ていないだろう。あとは寝起きの機嫌の悪い顔か、それくらいで。泣き顔など、もう数年も日常生活では見せていない。だから、ここ数日が笑顔でも、きっと違和感はなかったのだろう。
 叔母たちは、会う頻度が少なすぎる。だから、私が笑顔で接していても、何も気に止める事はないだろう。
 だが、弟は、きっと、私の表情の変化をよく知っている。今までの私だったら、笑ってるはずがないと。
 幼いころから共に居て、遊んで、共に生活をして。何度も喧嘩もしたし、共に泣きじゃくったし、馬鹿みたいに笑い合いながらゲームをしたり、互いの学校生活なども知っていた。
 それになにより、この子は優しい。
 弟は、いつも優しい人だった。確かに、私と似て興味ないことにはとことん無関心だけれど、優しい人だ。私が精神的にまいっている時、弟は私を見捨てなかった。普通だったら、縁を切るかもしれない無様な私を、それでも変わらず姉と呼んでいた。普通に接してくれた。それにどれだけ、私が救われたか知らないだろう。
 それが、少し眩しい。私はきっと、貴方の様にはなれない。ずっと、過去が背中に張り付いている。
 自身の幸福が許し難い。この世が地獄と知った時から。
「大丈夫。それより、お供え物、持って帰るの決めた? どうせメロンだと思うけど」
「そんな話してなくね? まあ、メロンなんだけど」
「はは、昔から変わらないなあ……ねえ、黄泉戸喫って知ってる?」
「よもつへぐい……聞いたことはあるけど」
 急になんで? と問いかけてきて、軽く説明をする。昔から変わらない。私が「知ってる?」と問えば「知らない」と応えられて、私が説明する。
 簡単に説明すれば日本神話の話で、『あの世のものを食べると、この世に戻れなくなる』というもの。例え生きたままあの世に行けても、黄泉のものを食べればそのまま黄泉の国の住人にされること。
「お供え物って、それに入ると思う?」
「急に怖いこと言うなよ。だったら、ほとんどの人間死んでんじゃん。だから違うでしょ」
「確かにそうだ」
 はは、と笑みを浮かべる。弟は少しだけ私の方を真っ直ぐと見てから、そっと口を開いた。

「姉ちゃんは、死者のモノを食べたの?」

 ちゃり、と首元で音がする。私の胸元で主張する物を、こっそりと服の中に隠している。
 ゆるり、と笑みを零した。
「そうだよ。喰べたの」
 忘れてはいけないから。そんな私は許せないから。自分の後悔を忘れない様に。一緒に居られるように。
 あの日、大好きだった祖母の骨の前で、骨を砕いた時に誓った。
 粉にならなかった、骨を一つつまんで、そっと、口元へ運び。

 骨を呑んだの。



 前職を辞めてから約半年後。梅雨が明けるのを発表された真夏への一歩手前で、私は本屋に就職した。ブランクのあった数ヶ月間、私は毎日死ぬことばかりを考えていた。
 けれど、どうしてもそれを実行に移すことが出来なかった。私が思っているよりも、人間は死というものを恐れる生き物らしい。いくら死に方を調べても、怖くて実行できなかった。それに、これ以上親不孝をするわけにもいかないと、最後の良心が訴えてきた。
 それじゃあどうしようかと思っていた矢先に、ハローワークの人に、本屋の求人はどうかと勧められたのだ。
 最初は、また派遣に戻ろうかと思っていたが、派遣元からの電話は来ないしで根詰まっていたのだ。それに、そろそろ退職金配布期間も終了してしまう。
 祖母の介護目的に仕事を辞める、という言い訳で仕事を辞めてから、もう半年が過ぎようとしているのだと、ようやくそこで気が付いた。

 家ではもう、私の手を貸す必要のある相手はいない。それぞれ、元の生活へ戻ろうとしていた。それなら、私も元の生活に戻ろうと動かないといけない。そう、思い込ませた。必死に自分を鼓舞して、震える脚を叩いて、頬を叩いて気合を入れていた。

 それに、本屋は良い。元々本は好きだ。小説も漫画も、雑誌も。本に囲まれて働けたら、少しは気でも紛らわせられるかもしれない。本屋は肉体労働でもあると聞いたが、身体を動かせば、余計なことも考えないでいいだろう。もし合わなかったら辞めてしまえば良い。
 それで私が救われたかと言えば、まあ、救われたと周りは言うかもしれない。
 「所属する場所」「自分を認めてもらえる場所」が無くなったことが無性に不安だった私は、がむしゃらに働いた。
 思った以上に肉体労働だし、ずっと忙しいし覚える事も多い。身体は少しきつかったけれど、精神的には良かった。怖い先輩や、たまに気の立ったお客さんはいるけれど。目に見える努力は認められやすい。仲間と他愛ない会話をしながらも、私は日々働いた。

 私は祖母に未練などありません。私は仕事に専念します。

 誰に誓っているのかは分からない。神かもしれないし仏かもしれない。はたまた、別の誰かに向かって、片腕を挙げて宣誓して、大丈夫だと思いこませたかったのかもしれない。
 真っ黒な髪はいつでも一つに引っ詰め、背筋を伸ばして、平均よりも高い背を曲げない様に歩いた。新刊を乗せた重い荷台も一人で運んだ。レジでは率先して対応した。雑用も何でもやった。そう上手くやっていた筈だ。暇さえあれば話題の本や漫画をチェックして、本の配置場所も必死に頭の中に叩きこんだ。
 それでも、昔からずっと私の心を占めていて、私の存在する場所だったあの人の存在はあって。
 家庭の医学、家庭内介護、エンディングノートの作り方。生死に関するスピリチュアルな本。それらが陳列している棚に目を向けるのは、少し勇気が必要だった。私の意思に反して涙がこぼれたが、誰も居ない事が幸いだった。
 何もかもを放りだして、道路に飛び出してしまいたいほど、つらかった。

 それでも、次の日はやって来る。
 本日はきっと厄日だったに違いない。
 世の中はすっかり夏模様になり、世間ではお盆休みと言われる週に入った日のことだ。
 何より人の出入りが多いし、子供の宿題の為に文房具エリアに置いてある大量の絵の具や画用紙を一気に持ってきたり、ケチをつけるお客様も多かったし、レジを打ち間違えて計算をミスしちゃったり、本の陳列作業で一番上の棚に置いてあった本が頭に落ちてきたり。先輩には無慈悲に怒られるし。
 顔に作り笑顔を張りつけながら、泣く泣く一人で仕事をした今日を、厄日と呼ばずしてなんと呼ぶ。いいことなんて一個もなかった。
 はあ、と溜息を吐きながら台車を押して、何とか覚え始めた店内を歩き回っていた。
 すると、遠くから、誰かが誰かを呼ぶ声がした。気になって目を向けてみると、一人の老人がこちらの方へ駆けてくる。
「はるちゃん、はるちゃぁん……」
 どう考えても私に向けて駆け寄ってきている。
「え? 私?」
 そう問う前に、老婆が床に爪先を引っかけて、倒れそうになる。慌てて受け止めてみれば、軽くて小さい身体の全体重が私に寄り掛かる。
 軽い、とは言ったが、駆け寄ってきた時の勢いも相まって、ずしりとした重さを感じた。背丈は、私の祖母と同じくらいだった。
「だ、大丈夫ですか?」
「駄目じゃないの……はるちゃん……」
 私にしがみついて、涙を流す老婆。見知らぬ名前を呼びながら、私の服を握りしめ、泣きついてくる。
 老婆の涙が、シミとなって作業着であるエプロンに模様を作った。
「勝手に出かけちゃだめって言ったでしょぉ……良い子で待ってたら、アイス買ってあげるって言ったでしょぉ……」
 まるで幼子を宥めるような、優しくしかるような言葉遣い。
 そんな言葉を向けられて、自然と思考がぐるぐるとしはじめた。
 必死に『はるちゃん』と呼んで、私に泣きついてくる老婆。自然と、私のばあちゃんと重なって見える様な気がした。
 それとも、重なって見えたのは、気の迷いだったのか。
 しがみついてくる老婆の背中に、そっと手を添えて、優しく背中を撫でた。
 ぶかぶかの服の下には、老人特有のほっそりとした、体の固さを感じた。
「すみません、ご迷惑を……!」
 新たに謝りながら人が駆け寄ってきた。しわしわの顔面に、薄くなってしまった頭皮の男性。老婆の旦那さんだろうか。
 何度も私に向かって頭を下げてから、老婆の手を取って、ほら帰ろうと促す。男性に手を引かれて、老婆は名残惜しそうに私から離れ、何度も、何度も『はるちゃん』と呼んでいた。その手は、空を切って何も掴めずに、けれど縋りつきたいと必死に訴えてきているようだった。
「ごめんねえ、はるちゃんごめんねえ」
 何度も謝る老婆を見送っていると、店内にいた先輩達がこそこそと声を零す。
 どうやら状況をずっと眺めていたらしい。何をするわけでもなく、私を助けることもせず、ただ眺めていたのだろう。こういうところが、この職場を好きになれない要因だ。
「鈴木さんとこの……」
「ああ……」
「この前、お子さんを事故で亡くしてから、若い子に対してああらしいよ」
「相当ショックだったんでしょうね。かわいそうに」
 先輩達の言葉の内容を聞いて、あの老婆の謝罪と必死さと寂しさからくる行動に、納得がいくような気がした。
 大切な子だったのだろう。大人という枠に入る私にですら縋って、泣いて、謝って。

 かわいそうに。

 その言葉が、身体をうねらせながら入り込む蛇のように、胸の中に住み着いた。
「そう、か……かわいそう、なんだ」
 大切な人を失った人は、かわいそうになるんだ。
 プツリ、と蛇に何かを噛み千切られたような、そんな感覚がした。
 死ぬか。

 祖母が気に入っていた、地元製造の辛口の日本酒、一升瓶を空けたところだった。心の中に住み着いた蛇に囁かれて、私は甘い毒を欲した。
 ポキリと、まるで祖母の骨の様に脆く折れた心。
 度数の高い辛口で、さらさらとした喉越し。一升瓶は一、八リットル。全てを飲み終えたのは、成人してから生まれて初めての事で、酒酔い独特のふわふわと宙に浮かんでいるような感覚に溺れていた。
 こんな世界なんて生きている意味がない。もう私、生きる意味がないんだもん。
 大切な人を亡くした人はかわいそうなんでしょう? それじゃあ、私が死んでも理由にはなるよね。だってかわいそうな子なんだもん。
 唯一、生きていられる世界がなくなっちゃったってことは、私にはもう居場所がないってことだ。そうだ。そうだよ。

 空の瓶を床に置いて、ごろりと天井を見上げるように寝転がった。御猪口でちまちまと飲むのが嫌で、至って普通のコップで、水のように飲んだから悪酔いしたのだ。
 天井に見える蛍光灯がゆらゆらと揺れて、歪んで見える。少し首を傾げれば、本棚が目に入るけれど、一冊一冊のタイトルも碌に読めやしない。
 あまりの自分の酔っ払い具合が可笑しく愉快になってきて、あははと笑い声を飛ばせば、天井から跳ね返ってきた。

 せっかく自分で死の瞬間を選べるんだ。そうと決まったら準備をしなくちゃならない。心底、つまらない人生だったし、沢山、沢山頑張っていたでしょう? だから、死に方くらいは選びたい。
 リストカット、首吊り、転落死、一酸化ガス中毒死、今どきネットで調べてみれば幾らでも手段はある。いくつかの手段は必要な道具を揃えないといけないものがある。さて、どうするか。
 服薬自殺。運が良いことに、私は医者に通っているから、睡眠薬は勿論の事、眠気を促してしまう他の薬も大量に残っている。
 だが、睡眠薬を一気に摂取すれば眠る様に死ねるというのは幻想だ。今どきの睡眠薬は安易に死なせてはくれない。ただ気持ち悪くなって吐くだけ。上手く死ねなくって、後遺症を残す可能性の方が大きいだけ。それは勘弁願いたい。後遺症を残して生き残るなんて、一番望まないことだ。体に優しい薬を開発してくれる研究員さんが居る世界、一方で余計な事をしてくれると感じ、愚痴ている自分も居た。
 そうだ、と思いついた。道具も特に必要ない、簡単にできる方法だ。決行は、いつ? 今すぐ、やってやろう。
 体を起き上がらせる。酒が全身に回って、ふらりふらりと身体が思う様に言う事を聞かない。
 祖母が入っているメモリアルペンダントを首にかけて、残っていた睡眠薬と他の薬と酔い止めを、コップに残っていたお酒で飲み干した。さっき調べた時に、酔い止めも中々の睡眠効果があるらしいと知った。だから、運転する人達にこの薬の投与が禁止されているのか。私はゆっくりと、寝静まった家の中を、足音を立てない様にと歩いた。見事なまでの千鳥足だった。
 胸元に、手を添える。ペンダントに入っている祖母と、呑み込んだ祖母へ声をかける。
 いま、そっちへいくからね。

 仏前に供えられていた大きくて存在感のある、においも見た目も完璧な白い百合が目に入る。持ち出した鋏で、パチン、パチン、と音を立てて二つ切り落とした。
 土から離れても、栄養を断たれても、首だけのような存在となってしまっても、己の存在を主張してくる。なんてかっこいい花なんだろう。
 思わず百合を顔に近付けて、深く呼吸をした。この香りに包まれれば、私は幸せに眠れるような気がした。
 花を手に家のお風呂場に向かって歩く。数ある選択肢の中から、私は溺死を選んだ。
 これから大好きな祖母に会えることに期待をしながら、周りを気にすることも無く、再び百合の香りを楽しむ。なんという、ユートピア。私は世界一の幸せ者。
 服を着たまま、湯船に浸かるのだ。酒に酔ってこんなことをしたんだろう、と思われるかもしれない。馬鹿な奴だったなと思われるかもしれない。
 それでも良い。誰も悪くない。私が自分で選んだ逃げ道だから。誰も悪くない。気付けなかったとかそんなのは関係ない。だから、大丈夫。
 今まで感じたことのない高揚と開放感を全身に受けていた。


「おや、もとちゃんこんな時間にどうしたんだい」
 突然、誰も居ないはずの居間で聞き覚えのある声が響いた。ばくん、と心臓が飛び跳ねた。身体を大きく揺らしてしまったから、手で抱えていた百合がぽとりと一つ落ちていく。ゆっくりと、声のした方へ顔を向けた。
 そこには、生前と何ら変わらない姿で、居間に置いてある座卓に腕を乗せて、此方に顔を向けて笑みを見せる祖母の姿があった。
「……お風呂」
 度肝を抜かれて、私はようやく返事をする。
 いつも通りの返事だった。真夜中に自室のある二階から一階に降りてくると、祖母はどうしたのかと寝室から顔を覗かせて、心配そうに私に問う。その問いかけに、私は至って普通に、イヤホンとか充電器を置いてきたなどの、返事をする。そうすれば、祖母は安心して寝室へと戻っていく、ということがあったりした。
 だから、祖母が最初から居間にいたことが不思議だった。
 祖母は、空いている座布団を指し示した。
 祖母の隣は、私の定位置。座りなさい、と言われている。
 落としてしまった百合を拾って、言われた通りに座布団に腰かけてみれば、祖母は私を優しい目で見つめていた。
「お風呂に入るの?」
「……うん、そう」
「百合を浮かべるの?」
「うん、そう……お洒落でしょう?」
 私は、祖母が死んだとちゃんと理解している。
 だから、これは夢か、それとも酒をたらふく飲んでしまった末の幻覚か。
 そうでなきゃ、死んだ祖母がこの家に居るわけがないのだから。
「そうかな。百合に囲まれると悲しくなるわ。私はコスモスとか百日草が良いなあ」
「ああ、やっぱり。好きだったもんね」
 久しぶりに、私の知っているばあちゃんと話をしているような気がした。
 私が最後に目にした祖母は、身体が硬直し、息もしていなかった。声も発しなければ心臓も動いていないし、表情も変えない。そんな祖母の姿で記憶が止まってしまったから。だけどこうして、生前と変わらない姿の祖母を目の当たりにして、彼女はちゃんと意思や感情を持った一人の人間だったことを思いだした。
「どうしてお風呂に入るの?」
 確信を突いたような言葉に、思わず言葉が詰まってしまった。まるで、私の全てを見透かれてしまったかのような気がした。
「……眠ろうと思って」
「そっか。そうだよなあ、もとちゃんは小さい頃から、眠れなくなると下に来て、一緒に寝ようって言ってきた。それはもう可愛かった」
 懐かしむように、綺麗な思い出の様に、きらきらとした宝物を扱うように彼女は言うから、まるで小さい頃の自分が暴れ出して表に出てきてしまいそうで、ぎゅう、と心臓が締め付けられるような気がして。
 少し下を見て、そうだよと声を零す。
「ばあちゃんと一緒に寝たいんだ。だから、だから……!」
 気が付けば、ぼろぼろと涙が零れ出てしまっていた。
「ばあちゃん、嫌だよ。ばあちゃんの居ない世界は苦しい。怖い、生きるのが怖いんだ」
 いつだって祖母は一番の味方だった。何があっても、祖母は絶対に私の敵になることが無かった。祖母は、私の安心できる拠り所のような存在だったのだ。
 何にしても、私は随分と甘やかされていた。えらいね。頑張っているね。良い子だね。頭を撫でてくれる、細い指の、しわしわな手。
 祖母に褒められることが嬉しくて、褒めてほしくて、その日の出来事を、つらつらと述べて。えらいね、がんばったね、良い子だね、頭を撫でられて。
 その支えが消えてしまったから、私の心は粉々になってしまっている。
 良くない事だ。これは、依存というやつだ。分かっていた、分かっていたはずだった。自立をしなければいけない年齢だったのだから、祖母に支えてもらうなんて、酷いことをさせるわけにはいかなかったのだ。
 祖母が家をあけがちになってしまったあの日から、私は、だいぶ駄目になっている。そのまま情けなく、私は生き続けてしまった。
 それなのに、私はまだ縋りついてしまう。
「お願い! 私を一緒に連れて行ってよ! もう疲れたから! 逃げたくて、楽になりたいの! 私なんか死んだほうが良いの! その方が周りの為なんだよ!」
「だめだよ」
 ぴしゃり、と祖母に否定をされて、そこでようやく口の動きが止まる。目から涙が溢れだして止まらない。
 もしかしたら、初めての事だったかもしれない。祖母に、ダメだと、ハッキリと言われたのは。
 幼稚園が嫌だと私が泣き叫んだら、一緒に畑いじりをしようと言ってくれた。小学校でいじめられたと言えば、私の頭を優しく撫でながら、私は宝物だと言葉をかけた。様々な大会でいい成績が出せなくて悔しがっても、素敵だったと褒めてくれた。大学から帰省したら、誰よりも喜んでくれた。就職して、辛い思いをして、仕事を辞めたいと言ったら、良いよと許しをくれた。その言葉を貰えて、私は生きていても良いのだと、全てが許される気分がする。私の命は、祖母に握られていたのかもしれない。
 そんな祖母が、ハッキリと、ダメだと口にしたのだ。
「……それじゃあ、なんで私がこうなったのか分かる?」
 私がぽつりと呟いても、祖母は私を見続けている。
「全部、私がやりたくてやったの。怖くて怖くてしょうがないの。一人でいたくても一人は怖いの。まともに生きたかった。いつも勝手に誰かに嫉妬して、置いてかれたって思い込んで、誰かの事を傷つけた」
 いつも私はそうだ。小さい頃から、きっと私は誰かに傷つけられ、誰かを傷つけて生きていたのだろう。
「私ね、本当は他人の事が好きなの。でも、こんな私に好かれても嫌だろうなって。皆と居ると苦しくてさあ。皆が居ると私が本当に小さく見えて、今までの苦しくて悔しいことも全部思い出しちゃって」
「うん」
「ごめんなさい。どうすれば良いのか分からなくて。だから、誰かに許してもらえるんだったら、どんな罰も受けるし、我慢もするし。もう自分でもぐちゃぐちゃなんだ。いやだ」
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 ぼろぼろと涙を零しながら謝れば、祖母が優しく私の頭を撫でた。
 ごめんね。彼女の謝罪の言葉も聞こえた。
「こんな私が生きててごめんなさい。弱い私でごめんなさい」
 沢山の謝罪の言葉を唇をかみしめて堪えて、それでも涙は止めどなく出てきて、ただ、泣くことしか今の私にはできなかった。
「もとちゃん。もとちゃん……ごめんね」
 祖母も私につられるように、一緒に泣きながら私に謝った。
「もとちゃんは……死にたいの?」
 ばあちゃんのポツリとした問い掛けに目を開く。
「……助かりたいから」
 ぽつりとつぶやいた言葉は多分聞こえていない。そう思ったのに、祖母はハッキリと私の顔を見た。
「うそだね」
 小さく彼女を呼ぶけれど、彼女の表情は険しく、怒りを隠そうともしない。
「死にたくないんでしょう」
 その言葉に、目が開かれた。
 引き攣る様に上がった口角とは正反対と言わんばかりに、瞳から涙がぼろりと零れた。
「そんなこと……」
「本当は、私の最後を見て、死ぬのがうんと怖くなったんでしょう?」
 図星だ。
 人間と言うのは、あんなに周りに手を掛けられてまで生きないといけなくて、そして最後まで面倒を見られて、痛い思いをしつつ死ぬのだと。
 骨だけになったら、乱雑に扱われてしまう。いくつかの光景がよみがえってしまった。
 そんなのは絶対に嫌だと思った。死ぬのが、本当は怖いんだ。
 だからこそ、私は一人で死ぬと決めたのだ。それなのに、祖母はそれすら見抜いてくる。
「恐いんだよ。迷惑かけるの。皆の目が。笑顔の自分だけを見てほしい。弱い自分なんて見ないでほしい。嫌われたくない。なんでそこまでして生きなきゃいけないの」
「……知っているでしょう。人って、死なれた方が案外困る」
 私は、死んでしまったばあちゃんに、なんてことを言わせてしまったんだろう。
「なにより溺死は見た目が酷い。それに病院の手続きでしょ。家で死ぬから警察も呼ぶなあ。お寺さんの予定と葬儀屋さんの予定と火葬場の予定合せないとでしょ。葬儀代ってすごい高いよね。返しのお金もかかるし。葬儀に来た一人一人に挨拶されて、現実を見て。式が終わっても、家にはいっぱい人は来るし、対応するし。そうだ、役所での手続きもあるよね。風呂の特別な掃除も行わないといけない」
「……ごめんなさい」
 祖母の言葉の羅列を聞いて、思わず謝罪の言葉が零れた。
 全部、分かってる。人って、死ぬと色々と大変なんだなあ、って、慌ただしく動く両親を遠目で見て思った。大して動いていないくせに、私だって疲労感に襲われた。残された側は、確かに困る。
「もとちゃん優しい子だから。ごめんね。だけどこんなこと言われたら、踏みとどまってくれると思った」
「本当、だよ。ズルいよ、ばあちゃん」
 私は死んで楽になるだろう。けれど、周りは? こんな私でも、いや、私だからこそ、死んだら困るんじゃないか?
「確かに生きることは大変だよね。簡単なことじゃない」
 老衰によって身体の言う事が効かなくなってきて、更にガンと言う悪玉細胞が身体を破壊する。手術をしても、身体や体力はなかなか戻らなくて、今まで出来たことが出来なくなったりもして。体中に管を通されて、何とか生かされている。
 そんな祖母の姿が、ありありと、脳裏に過った。
「もとちゃんは、人を笑顔にさせる力を持っているよ。自分に自信を持つために、必死に必死に、努力をして頑張って。可愛い笑顔で周りを幸せに出来ているよ」
 手をぎゅっと握られてそちらの方を向けば、真剣な表情をしてこちらを見ているばあちゃんが居た。
 孫に対して可愛がることは、おかしいことではないだろう。可愛いという言葉を掛けるのも、おかしいことではないだろう。目に入れても痛くない、という言葉もあるくらいだ。
 祖母だけだった。可愛いと私の見た目を含め、全てを褒めてくれたのだ。褒めてもらえるのはいつだって嬉しかった。生きているのを許される気分がするから。生きていていいのだと、心が軽くなる。
「もとちゃんの友達も、ママもパパも、周りの色々な人だって、貴方の良い所だけを見たいわけじゃないよ。『私でごめんなさい』なんて絶対に思わないこと。私はね、そんなもとちゃんが大好きだったんだよ」
 優しく微笑む祖母を見て、涙で顔はぐちゃぐちゃだろうし汚いだろうけれど、今度は本心からへらりとした笑みがこぼれた。
「安心して。もっと素直になって。もとちゃんの気持ちを伝えて。よく見てごらん。世界って思っているよりもとちゃんの味方なんだよ」
 ばあちゃんの言葉を聞いて、再び涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう。大好きなもとちゃんを置いていく酷い奴だったけれど、これからもよろしくね」


 ごぼり、と水の音がした。

 周りの音が、何も聞こえなくなった。その時、ザバリ、と大きな水音がして、身体がぐわんっと揺れた。誰かが手を掴んで、そのままゆっくりと私を引き上げたのが分かった。
「おい! しっかりしろ!」
 耳に入った水の所為でよく聞こえない。肺にも水が入って、とても苦しい。視界も歪む。何度も何度も揺さぶられて、ようやく、水が口から零れ出た。
「ガハッゴフッ、ぐっ、ゲホッゴホッ!!」
 ビシャ、ビシャと私の口から零れ出る水が床に滴り落ちる。
 苦しい、息がまともに出来ない、肺が痛い、水が入ったから。視界もまだ歪んでいる。頭が痛い。空気が足りないからだ。
 周りから多くの声が響いているのがようやく聞こえ始めた所で、私は丸まっていた身体を、腕をゆっくりと伸ばしながら起き上がろうとする。息はまだぜえひゅう言っているし、肺も痛いけれど。
「は、は……!」
 心臓もバクバクとうるさい。飛び出してくるかのようだ。
 視界のぼやけが薄れてきて、ようやく見えてきた先には、人影があった。父と、母だった。
「夜中に一階に降りて、どうしたのかと思えば、何を、やって……!」
 母の涙ぐんだ声を聞いて、思わず周囲に目をやる。
 私を湯船から引っ張り上げた際について来たのだろう、百合の白い花びらが数枚、風呂場のタイルに散っていた。ちゃり、と音を立てて、首元にぶら下がっていたメモリアルペンダントが目に入る。祖母は、ちゃんとここに居た。
 呼吸が整って来て、思わず自身の両手を見やった。

 さっきまでの出来事は、夢だったのだろうか。
 祖母が、最後まで、私に、愛を注いできた。
 私はその愛に、同じ分だけの愛を返すことは、二度と出来ないというのに。

 ボロボロと涙がこみあげてきて、私は真夜中だという事を気にせず、よく反響する風呂場の中で、拳を握りしめ、俯いて丸まった体勢で、大きな声でばあちゃんの名前を呼びながら泣き叫んだ。
 線香の香りが、八畳の仏間にただよった。
 両手を鼻の先に合わせたまま、閉じていた瞼を開く。
 私の立てた線香から煙はうねりながら立ち上って、陽の光の中に溶けるように彷徨った。
 ただ時間が過ぎていく。
 祖母の名前が記されている位牌を眺めた。外で車が走り去っていく音がする。線香のにおいに包まれる。冷房の風がひんやりと肌を撫でる。乾燥の所為か唇が切れて、鉄の味が口の中に染み込んできた。
 全ての感覚が誤作動も無しに私に伝わってきた。
「おはよう」
 声が届いているのかは分からないけれど、写真の祖母は優しい目で私を見てくれている。
 おはよう。そう、言葉が返された気がする。するだけ、だろうが。
 けれど、そうして、新しい一日が、また始まる。
 立ち上がってから、彼女に背を向けて、そのまま足を踏み出す。
 部屋の中に、障子の向こうから明るい陽の光が、道の様に真っ直ぐと差し込んできている。
 その道に従う様に歩き、ゆるゆると仏間から出ていく。

 メモリアルペンダントがまだ首にかかっていた。第二関節分の大きさの直方体は、どうしてだか、いや、やはりと言うべきか、重みがあって、ずっとつけていると肩がこる。
 だが、これは、今の自分を支えてくれている物なので、肌身から外すのはまだ難しい。
 この中に、今日も祖母が入っている。
 ぎゅう、とネックレスを握りしめた。じわじわと、私の熱が伝わっていき、温まっていった。
 温かい。私の体が温かくてよかった。彼女に、熱を分けてあげられた。
「ありがとう」
 優しい彼女はそういうだろう。そう考えて、そうして私は、ようやく、こんな自分を今一度大切にしてやろうと思えたのだ。

 脳裏で優しい表情を浮かべながら、ばあちゃんはまたそうやって、今日も私を生かす。
 私は今日も神様に生きるのを許された。

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