であり、眠りの次に死があるとすれば、死に苦痛はない。毎晩眠り、最後に目覚めない時が死であれば望むところであり、不可抗力である。死について考えることは徒労以外の何物でもない。わたしの死に対する恐懼は苦痛だけ。だから、ベロナールやジアールの睡眠薬自殺は好き。でも、『歯車』の芥川龍之介のように「ぼんやりとした不安」もないので、それを飲む理由がない。その結果、わたしは生きているにすぎない。そう、わたしは確かに生きている。でも、わたしは「生」を生きているのではなく、「生」を結果としてわたしの意思とは関係なく生きさせられているのに過ぎない。結果的に、偶然に生きているという状態にあるのに他ならない。今日だって、多くの人が交通事故で死んでいる。最年少ノーベル文学賞受賞者のアルベール・カミュが交通事故で死んだように、生も死も不条理だ。
わたしは、誕生するにあたって、誰の相談も受けていない。気がついたら、生まれていた。
だから、もし、わたしにも、世間並みに、やがて死が訪れるとしたら、それは全く生と並列の関係にある。わたしの意思が働いていないという点で、生にも死にも大差はない。わたしにとって、生が偶然の結果であるのなら、死も偶然の結果になるはず。わたしが明日にでも、自動車に轢かれて死ぬとすれば、それはわたしが死のうとして死んだのではなく、偶然がわたしに死をもたらしたのであり、その死も、わたしが積極的に生きる意味を持って、不運な交通事故に遭遇した結果ではなく、偶然の結果としての「生」の延長に過ぎない。死は常に生の延長線上にしか存在しない。だからわたしが、明日にでも死んだとしても、それは不幸でも不運でも、何でもない。元々わたしは生きたくて、生きている訳でもないし、生まれたくて生まれた訳でもないのだから、単なる偶然でしかない。その死が、幸、不幸の尺度で測られる必然性は全くない。なぜなら、わたしはモノとして、偶然の結果として生きているのであり、わたしが純粋精神として、生きたくて、生きねばならないと自己自身に呼びかけながら、生きようとして生きているのではないのだから。かりに、わたしが白血病に罹患して死ぬとしても、わたしが自分の意思で白血病になろうとしたのではない。
わたしは、誕生するにあたって、誰の相談も受けていない。気がついたら、生まれていた。
だから、もし、わたしにも、世間並みに、やがて死が訪れるとしたら、それは全く生と並列の関係にある。わたしの意思が働いていないという点で、生にも死にも大差はない。わたしにとって、生が偶然の結果であるのなら、死も偶然の結果になるはず。わたしが明日にでも、自動車に轢かれて死ぬとすれば、それはわたしが死のうとして死んだのではなく、偶然がわたしに死をもたらしたのであり、その死も、わたしが積極的に生きる意味を持って、不運な交通事故に遭遇した結果ではなく、偶然の結果としての「生」の延長に過ぎない。死は常に生の延長線上にしか存在しない。だからわたしが、明日にでも死んだとしても、それは不幸でも不運でも、何でもない。元々わたしは生きたくて、生きている訳でもないし、生まれたくて生まれた訳でもないのだから、単なる偶然でしかない。その死が、幸、不幸の尺度で測られる必然性は全くない。なぜなら、わたしはモノとして、偶然の結果として生きているのであり、わたしが純粋精神として、生きたくて、生きねばならないと自己自身に呼びかけながら、生きようとして生きているのではないのだから。かりに、わたしが白血病に罹患して死ぬとしても、わたしが自分の意思で白血病になろうとしたのではない。


