千鶴子の歌謡日記

 十四の歳から、目が醒めてねつかれない夜は、逞しい男の荒々しい暴行を宙に描いて、それに陶酔することを始めた。それをするときは、神経質なくらいに指先を洗い、布団の中で全裸になった。わたしは、それを罪だとも、悪いことだとも思ったことがなかった。そういう意味で、わたしには、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』のヘスター・プリンの気持ちがよくわかる。女である限り、ヘスター・プリンの取った態度は当然すぎるほど当たり前のこと。でも、わたしがヘスター・プリンと違うところは、わたしが自分で自分を燃焼させなくてはならないこと。でもそれは、わたしの置かれているシチュアシオンでは、仕方のないこと。ジャン・ポール・サルトルの評論集『シチュアシオン』を読むまでもない。外泊を決して許さない父と母のいる家庭にあって、男性と閨房を共にすることは不可能に近い。もし、父も母もいず、一人でアパートかなんかで生活していたのだとしたら、きっとわたしは男の人と同棲していただろう。男の人と褥を共にすることに、わたしは何の罪悪感も抱かない。マスコミの影響と時代の風潮のせいだろう。わたしの気質のせいかもしれない。どちらにしても、男にもよるが、わたしは男の人と同衾することに嫌悪を抱かない。わたしには、結婚していようが、結婚していまいが、相手に結婚する意志があろうとなかろうと、大して問題にはならない。なぜなら、わたしはモノなのだから。男の人に、ちょっと髪を触られただけで、膣や膀胱を収縮させるモノなのだから。わたしは、わたしの純粋意志によってではなくモノの本性に従って動く。イマヌエル・カントの『純粋理性批判』には申し訳ないが、わたしは『純粋モノ批判』にふさわしい。これまでのわたしがそうだったと思う。純粋意志としてのわたしは存在せず、モノとしての即自的なわたしだけが存在していた。だから、結果的には、死というものすら、苦痛さえ伴わなければ、わたしにとって生と同じ意味しか持たない。ウイリアム・シェイクスピアの『ハムレット』第三幕第一場でハムレットの言う、
「死とは眠ること」