千鶴子の歌謡日記

 ああ、あの瞳は何と醇乎たる深甚な輝きに満ちていたのだろう。背後から居丈高に降り注いでいた日輪の光輝より以上に、強い豊潤な煌めきを放っていた。あの瞳には、アポローンの幻想の衣も、ディオニュソスの陶酔の衣もよくにあう。そして、ウイリアム・シェイクスピアの『ハムレット』の愁眉と憂鬱の衣すらもよく似合うだろう。アレクサンドル・デュマ・ペールの『モンテ・クリスト伯』の強靭な意志の鎧も、スタンダールの『赤と黒』のジュリアン・ソレルの赤い歓喜の軍服も黒い聖なる僧服もよく着こなせるだろう。そして、あの唇。あれほど芳醇な甘美を感じ取らせる唇があるだろうか。ナイーブで、しかも、エリア・カザン監督の『エデンの東』のジェームズ・バイロン・ディーンが演じたキャルのように少し反抗的で、仄かに赤みのさした『太陽がいっぱい』でトム・リプレーを演じたアラン・ドロンのような唇。まるで、ヘレナ・ルビンスタインの高価な口紅でも、薄らと塗ったような色合い。でも、あれほど健康的で、あれほど豊饒な光沢を際立たせるルージュはない。凱旋門から睥睨するシャンゼリゼの街にもエンパイア・ステイト・ビルから見下ろす五番街にも売っていないだろう。あの上唇の反り具合、下唇と顎の滑らかな窪み加減、さらに上唇と小鼻の連なりの見事なスロープ。氷山よりも冷ややかに、そして、綿雲よりも柔らかそうな鼻翼。冷徹で怜悧な艶のある真っ黒な線形の太い眉、瞳の奥に憂愁と深慮の深い翳りを落とす長い睫毛、凛々しい流線型の頬、広く理知をたたえた額、高貴な真珠を象牙のように連ねたような鼻梁、それらがすべて、一分の平凡さの隙も、寸毫の凡庸さの誤謬もなく、端正に配置されている。神でなくして、いったい誰が、これほどの精緻な美を一つの誤りもなく創造し、配剤しえようか。
 今、わたしは深い感銘の中で陶酔と気だるさを覚えている。一瞬だが、わたしは出逢ったばかりの彼の微笑みの中に別れの翳りを見たような気がした。そこで、小椋佳の『めまい』のような歌が生まれる。

  身に余る気だるさを 
  閉じこめた賽子 ひとつ
   思い切り遠く投げても
 まろやかな退屈を
  映し出す姿見 ひとつ
   粉々に砕いて見ても
    すべて虚しい苛立ちと
    知らずに過ごしてた
    君が去って行ってしまったとき
    浮かんだ陽炎がとりとめもない絵空事