あの人は、本当に生身の人間なのだろうか。絵画でも彫刻でもない生身の人間が、ドミニク・アングルの絵筆や、ミケランジェロ・ブオナローティの鑿に触れない物的存在としての人間が、どうしてあれほどの完全無欠な無垢の美しさを持ち合わせることができ得よう。わたしは、本当に見たのだろうか。本当に掛け値のないものを見たのだろうか。ひょっとして、わたしの目が何かの幻覚にとらえられ、ほんの五六秒の間、白昼夢を見ていたのではないだろうか。例えば、あの燦然と光燿に溢れた陽の美しさに囚われて、わたしの視角が錯覚を起こしたのではないだろうか。
否。そうではない。わたしは確かに見た。わたしは確かに神仏に誓ってあの人を見た。あの人がわたしの傍らを通り過ぎた時、わたしの目の前にあった太陽は、ひどく矮小なものに見えた。わたしは、そのことを鮮明に記憶している。恰も、あの人が陽光の溢れんばかりの光の泉を飲み干して、涸らしてしまったように、太陽は、あの人に嫉妬していた。その時の、太陽を背にした逆光の中のあの人の美しさは、絵画にも、映像にも移し替えることはできない。すべての人工の手立てを拒み、写実と固定を否むもの、それが真の美しさ。何故なら、美はあくまでも具象の世界のものであり、それに対して、この世のありとあらゆる芸術はどれもが抽象に過ぎないから。印象派の絵画は、光の勝利と批評された。しかし、何時間クロード・モネの『睡蓮』の絵画を見ていようとも、人の目は『ギリシャ神話』のイーカロスの翼のように溶けて、焼けただれはしない。絵画に描かれた光は、所詮まやかしでしかない。白い絵の具では、決して人の目を焼きつくすことはできない。
否。そうではない。わたしは確かに見た。わたしは確かに神仏に誓ってあの人を見た。あの人がわたしの傍らを通り過ぎた時、わたしの目の前にあった太陽は、ひどく矮小なものに見えた。わたしは、そのことを鮮明に記憶している。恰も、あの人が陽光の溢れんばかりの光の泉を飲み干して、涸らしてしまったように、太陽は、あの人に嫉妬していた。その時の、太陽を背にした逆光の中のあの人の美しさは、絵画にも、映像にも移し替えることはできない。すべての人工の手立てを拒み、写実と固定を否むもの、それが真の美しさ。何故なら、美はあくまでも具象の世界のものであり、それに対して、この世のありとあらゆる芸術はどれもが抽象に過ぎないから。印象派の絵画は、光の勝利と批評された。しかし、何時間クロード・モネの『睡蓮』の絵画を見ていようとも、人の目は『ギリシャ神話』のイーカロスの翼のように溶けて、焼けただれはしない。絵画に描かれた光は、所詮まやかしでしかない。白い絵の具では、決して人の目を焼きつくすことはできない。


