千鶴子の歌謡日記

 わたしはその時、絶対の美を見たのかもしれない。多くの美術家達がその生涯を捧げても悔いのないと思うような、その美を。そして、ダンテ・アリギエーリやジョージ・ゴードン・バイロンやシャルル・ボードレールなどの多くの詩人たちが、かつて、完膚なきまでに表現しようとしてやまず、一生の間追い求めてきた完全の美を。
 完璧な美は有無を言わせない。絶対の美の前では、言葉は虚しい。ステファーヌ・マラルメが詩作によって美を表現しようとしたき、美という言葉を使わずにひたすら美と云う具象を言葉にして観念としての美と、現実に存在する原体験を通しての美の間隙を埋めようとした時、彼が感じたのは、多くの言葉を弄すれば弄するほど真実の美から遠ざかっていく言葉の虚しさではなかったか。美しい詩を書く詩人が、美しい女人の前では寡言であるように、美は沈黙を請求する。多くの美の信奉者たちは、その生涯の終わりに、その美に対して寡言でなかった科の勘定書をつきつけられて、夭折する。譬え、生き永らえたとしてもアルチュール・ランボーのように、二十歳で筆を折り、アフリカの商人として人生を終える。
 そう、レイモン・ラディゲのように、美を夥しい美辞麗句で表現しようとすることは、おのれの力の限界を知らず一生苦しみの中に棲息しなくてはならないアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』のシーシュポスのように愚かなことだ。アルチュール・ランボーのように、所詮、言葉は美の形骸をしか伝えることができないことを知るべきだ。
 「美と云うモノは恐ろしいもの」。フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中に、そんな一節がある。それを三島由紀夫が『仮面の告白』の冒頭で引用している。ミーチャにとってのグルーシェニカの美、溝口にとっての金閣寺の美、その美のために、わたしは、いまだに桃源郷の界隈を彷徨しているようだ。今こうして、机に向かい、日記を書いているわたしは、本当にわたしなのだろうか。価値の転換はあらゆるものの意味を変える。今のわたしは、昨日まで営まれてきたわたしでないような気がする。わたしは、これまでのわたしを創ることができない。例えば昨日のわたしに、わたしはなることができない。激烈なサンサシオンの陶酔の余韻に浸っているのだろうか?それとも、あの美に操られているのだろうか?