千鶴子の歌謡日記

 あなたはいったい誰?わたしの花園、わたしの心の蕾の中の闖入者。何の予告もなしに、まるで、しとどな吉行淳之介の『驟雨』のように忽然と現れた人。これから聖なる糺すの森へ狩りに出かけるアポロのように颯爽と、眼差しを向けられないほどに露わな美しさを持った人。あなたほど美しい人をわたしは今日まで見たことがありません。たとえば皮膚一枚だけの美しさ、偶然の容姿の美しさだけが売り物の映画スターの中にすら、あなたほど美しい人はいない。あなたの美しさは、あなたの内から滲漉する陽炎のようなもの。表層的な、光線の加減で美しくなったり、平凡になったりするような、アイザック・ニュートンのプリズムのように移ろいやすい美ではない。わたしには、あれほどしどけない、遠慮や慎ましさや控えめということを知らない、厚かましい美が、この世にあるということが信じられない。あなたは、現世的なものとは、およそかけ離れている。あなたはきっと、サン-テグジュベリの『星の王子さま』のように、遠く遥かな星座の一つの恒星から来た宇宙の人なのね。
 あなたは、残暑の物憂い昼下がりに、目の回るような螺旋の階段を力強く昇ってきた。そして、わたしは、友達に貸したノートを返してもらって、第四校舎の69番教室から出て、狭隘な階段を降りかけていた。わたしが階段の途中まで来たとき、あなたはコンクリートの半円形の狭い踊り場に佇んで、校舎の下に拡がる街並みを眺めていた。その横顔を見て、わたしは思わず息を呑み、声を出しそうになった。わたしは、螺旋階段の下の段に足をかけたまま、立ち止まり、佇立した。その時、あなたは物憂げに、わたしの方に顔を向けた。あなたの瞳は、でも、わたしを見てはいなかった。ミケランジェロ・ブオナローティの『ダヴィデ像』の獲物を追い求める狩人のように、凛々しく、弓を射るような眼差しを、階段の上の方に向けていた。あなたの黒い艶やかな髪の後ろには、めくるめくような夏の強い日差しが、眩しいほどに射していた。あなたの髪は漆黒に輝き、あなたの耳の産毛は銀色に光っていた。