千鶴子の歌謡日記

  深い吐息が口に漏れ   己が非力に苛立たん
  幾たびとなく涙落ち 頬を伝わりうたかたに
  生れ変りて波の背に 揺られて沖に消えて逝く

  手にある白砂握りしめ 恨みを込めて波の襞
  虚ろな響きその水面 微かに這って融けて行く
  蒼く果てなき海空の  面を夕陽に朱く染め
  緋に馴染み行く黄昏の 迫り来る中跪く

  淡い甘美と哀愁を   尚ひたすらに求めても
  この世の影の縁取りに 紆余曲折の時を経て
  全ては蒼き熱情の   空回りする風車
  掻消され舞う砂文字の 憂愁の襞に融けて逝く


八月二十二日

 テニスのコーチとアルネ・マットソン脚本・監督の『慕情のひと』を銀座みゆき座へ観に行く。廣田さんも、もう嫌になった。今度、誘いの電話をしてきたら、
「頭が痛い」
と言って断わろう。それでもまたかかってきたら、
「親戚の家にいく」
とでも言おう。
 彼は、わたしが、
「いい」
と言うのに、三色旗の交詢社の前から、ハード・トップ・マークⅡで家まで送ってくれた。
「何か下心があるのだろう」
と思っていたら、家につくなり、
「おやすみのキス」
と言ってむさくるしいガルーダのような顔を近づけてきた。鳥肌が立つ。わたしは、
「せめて握手ぐらいだろう」
と思っていたので、ちょっと周章狼狽した。彼の乾ききったカサカサの唇が、わたしの唇に少し触れた。背筋に悪寒が走った。吐き気がするかと、思ったが、そんなこともなかった。どうせなら、強く抱きしめれば、叫ぶか、平手打ちを食らわせたのに、そうもせず、漫才師の蛸のように唇だけを突き出して迫ってきた。わたしは、
「できない」
と言って顔を背けた。彼は、ばつの悪そうな渋面を作って、
「それじゃ、おやすみ」
と言って、飛ぶように去って行った。遠ざかって行く車をチラ見しながら、くすりと笑った。
 この頃のわたしは、少しおかしい。満員電車に揺られながら、髪のながい、白いワイシャツに、地味なトリコロールのネクタイをした、背広を着たサラリーマン風のひとが、傍らに立っていると、無性に、そういう人に体を押されると、わたしのからだは敏感に反応する。わたしは異常なのか?それとも性感帯があまりに感度が良すぎるのだろうか?
 
 電車に乗る
 傀儡の様に駆ける電車
 泥濘のような景色が車窓にへばりつく
 乗車びとは淡い睡郷にいざなわれる